※裏ボス編です。
郊外にある小さな喫茶店。何の広告も打たないその小さな店は、口コミだけで毎日盛況であった。トレセン学園からは2本のバスを乗り継がなければならないのだが、それでも毎週のように通っている生徒もいるとか。
この日、営業を終えた午後5時過ぎに訪れたのは、トレセン学園の制服に身を包んだふたりのウマ娘だった。
「ここがあの女のハウスデスね!」
意気揚々と裏口を睨みつけるのは、世界三冠という偉業を成し遂げたウマ娘、エルコンドルパサー。
「なにを今さら……何度か来たことはあるでしょう?」
隣でため息を零しているのは、彼女の親友であるグラスワンダーである。
「気分デスよ、気分。何せ相手はレイと二足の草鞋でこの店を守ってきた
「それを言うなら二人三脚ですよ。はぁ……まったく。あの店長さんは北川さんに懸想しているわけではないのでしょう?」
「でもでも、身内でもないのに大事な店を譲るなんて普通ないでショウ?」
譲ったといっても、
(たんに執着がなかっただけの気がしますけどね)
本当に大事なら何年もほったらかしにして海外になど行かないだろう。グラスワンダーはそう思った。
「三冠を獲ったときに、勢い任せで伝えていればよかったんですよ」
「うぐっ、それは言わない約束デスよ、グラス~」
優勝した直後はテンションMAXで伝える気マンマンであったが、トロフィーの授与式やらウイニングライブやら記者対応やら、それらすべてが終わった後は疲れ果てて泥のように眠ってしまった。
そして一晩明ければ、急に気恥ずかしくなってしまったのだ。
帰国してからにしようと弱気になり、帰ってきてからも機会に恵まれず、なんとなくあの人に話を通すのが筋だろうと思い立ち、今に至る。
「なんにせよ、けじめはつけなければなりまセン。お邪魔するデ~ス!」
勢いよく裏口の戸を開ける。中では閉店作業を行っているウマ娘たちがいた。
「どちら様? ってエルコンドルパサーさん? えっと、北川さんはもういませんよ?」
「知ってマス。お話があるのは店長さんデス」
「店長ですか? 店長は今ホールの……」
「私がなにか?」
厨房とホールを繋ぐ通路から現れたのは、この店の店長である葦毛のウマ娘だった。
(やはりこの
相手はただの喫茶店の店長だというのに、彼女を見ていると時折毛先がチリチリとするような、レース前の昂ぶりにも似たものを感じるのだ。
グラスワンダーはそれが不可解だった。
「あら、お久しぶりですね。グラスワンダーさん、エルコンドルパサーさん。遅ればせながら、世界三冠おめでとうございます」
「ありがとうデス。今日はお話があって伺いまシタ」
「そう。ではこちらへどうぞ」
ふたりは厨房の奥にある応接室へと案内された。そしてエルは前置きもなく、いきなり切り込んだ。
「レイにプロポーズをしようと思っています」
「そう。がんばってね」
「え?」
「え?」
ふたりが顔を見合わせる。
「レイのこと、なんとも思ってないデスか?」
「そうね……」
雇ってもらったことや店を任されたこと、そして店を譲ってもらったことに感謝はしているし恩義も感じている。だがそういう対象として彼を見たことはなかった。
そもそも彼女は、令がタイミングを計っているだけの段階だと察していた。一応彼も良識人であり、エルが未成年のうちは気持ちを伝えないとでも決めているのだろうと。
だが、少しだけいたずら心が生まれ、彼女は言った。
「じゃあ勝負をしましょう。レースで」
「え? 勝負デスか? レースで?」
キョトンとした顔でエルは同じ言葉を繰り返した。
「負けた方は彼を諦める。それでどう?」
「……アタシは世界三冠ウマ娘デスよ?」
「そうね。自信がないなら断っても構わないわよ」
それはあからさまな挑発であった。エルもそれは分かっていたが、なめられたままでは沽券に関わる。
「いいでショウ。レースの条件、日程、すべてそちらが決めて構いまセン」
「では一ヵ月後。芝1800m。トレセン学園のコースでいいでしょう。使用許可を取っておいてください」
「了解デス。グラス、行きマスよ」
「ええ。コーヒーご馳走さまでした。とても美味しかったです」
「どういたしまして。今度はお客さんとして来てくださいね」
大股で帰るエルと、それをてとてとと追うグラスワンダーを眺めながら、彼女はクスッと笑った。
(若いわね。まあガッカリさせるわけにもいかないし、一ヵ月、本気で鍛えてみましょうか)
翌日から、喫茶店《珈琲館》は臨時休業に入った。
◇
そして一ヶ月後、決戦の日がやってきた。
トレセン学園、芝コースのゴール地点で「ゴール」の看板を首から提げたヒシアマゾンは、明らかにやる気がなさそうだった。
「たわけ。真面目にやれ」
「だってよ~。相手は
「……だとしてもだ。レースに絶対はない」
「今回に限りは絶対だよ。まったく、面倒な仕事だぜ」
やれやれと両の手のひらを空に向ける。エアグルーヴはそれ以上なにも言わず、スタート地点へと足を運んだ。
そこではふたりのウマ娘が、それぞれストレッチをしながらスタートの時間を待っていた。
(会長の記憶が確かなら、彼女はどのトレセン学園にも所属したことはないはずだ)
シンボリルドルフには一度見た人間、ウマ娘は絶対に忘れないという特技がある。それは写真、映像にまでおよぶ。事実彼女は、この中央トレセン学園に限らず、地方のトレセン学園も含めて所属するウマ娘の顔はすべて記憶している。それは過去にまでさかのぼる。
(会長の記憶違いなどありえない。アマゾンではないが、ないだろうな。何しろ相手が相手だ。世界でもトップクラスのウマ娘。1800はベスト距離ではないが、関係ないだろう)
エアグルーヴは表情を変えないまま、ふたりへと向き直った。
「時間だ。模擬レースを開始する。両者スタート位置へ」
エアグルーヴに促され、ふたりはスタート位置へつく。
「用意……始め!」
フラッグが振り上げられ、スタートが切られた。
「エルは後ろについたようね」
レースを観戦していた東条ハナがぼそりとつぶやく。
「王道的戦略と言えなくもないが、エルコンドルパサーは調子が悪いのか?」
「いえ、そんなことは……ただ
シンボリルドルフの疑問にグラスワンダーが答える。
「獅子搏兎というわけにはいかんか」
「そもそもなんであのふたりが模擬レースをしているんです?」
そんな疑問を口にしたのは、この問題の渦中の人物であった。それを隣で聞いていた東条ハナはギョっとしてその人物に目を向けた。
「あなた……聞いてないの?」
「ええ、ただ招待されただけですので。何かご存知で?」
「……私の口から言うのはフェアじゃないでしょうね。勝った方に訊きなさい」
「はぁ。ではそうします」
奇妙な違和感を覚えつつも、令は曖昧に返答した。レースはたいした変化もなく半分を過ぎ、1000m地点を通過した。
「1000mのタイムは……56秒8!?」
「速いですね」
「というか速すぎでは? いくら1800mのマッチレースとはいえ、これは……」
東条ハナと令の会話に割って入ったのはグラスワンダーだった。その言葉には多少の驚きが含まれている。このペースで最後までもつはずがない。最後の直線でエルがかわして終わり。東条ハナもグラスワンダーも、同じ最終絵図を描いていた。
だがシンボリルドルフだけは、厳しい目つきで眼下のレースを眺めている。
(56秒8。手動ゆえに決して正確とは言えんが、
続いて、その後ろを走るエルへと視線を移す。スリップストリームを活かすわけでもなく、斜め後ろを走るエルはニンマリとした笑みを浮かべていた。
隣で見ていた東条ハナは何も気づかない。もちろんグラスワンダーも。
しかし、シンボリルドルフに電流走る。
(精神状態の違いは、時として
慢心は天才を凡夫に変える。シンボリルドルフは大物喰いの可能性を、静かに感じ取っていた。
レースはついに佳境を迎える。最終コーナーを回り、最後の直線へ。
(残りあと400。ここでかわして終わり、デス!)
前を走る相手は終始無理なペースで走ってきた。後はもうたれて下がってくるだけだ。それをかわして終わり。そのはずだった。
(差が……縮まらない? これは、まさか、伸びてる!?)
その時、エルの脳内に嫌な記憶がよみがえった。届かない背中。縮まらない差。永遠の1バ身。
起こるはずのないことが起こっている。逃げて差すなんてバカげた戦法が、あんな化け物が、ふたりもいていいはずがない。
とあるウマ娘の顔が頭をよぎる。天使のような笑顔で、悪魔のような強さを持ったウマ娘。エルはようやく理解した。これは窮地だ。現状を打破する一手を打たなければ、このまま押し負ける。
そう悟った瞬間、慢心は消えた。代わりに生まれたのは羞恥だった。レースが速いペースで進んでいるのは気づいていた。間違いなく、かかっていると思った。
だが違った。すべては掌の上。計算されたペースだったのだ。
残りあと200メートルしかない。
いや、まだ200メートルもある。
意識の刃を
体勢を傾ける。さらに低く、さらに速く。
雑念が消え、思考がクリアになっていく。
――
(そうだ! アタシは! エルコンドルパサー!)
蒼き瞳に炎が宿る。
脚に感じた熱さが全身に伝播していく。
怪鳥が翼を広げて羽ばたいた。
「アマゾン! 見極めろ!」
東条ハナの切羽詰まった声が飛ぶ。ゴール地点で寝転がっていたヒシアマゾンはその声に慌てた様子もなく、のっそりと起き上がった。
「ん? おハナさん? どうせエルが勝つんだから……うぇ!? ゴ、ゴーーール!!」
「どっちが前だ!?」
「え? えーっと、もちろんエルが勝った、よ?」
ヒシアマゾンの曖昧な答えに、東条ハナは頭を抱えた。
「ルドルフ、あなたは見えた?」
「ええ、わずかですがエルコンドルパサーが先にゴールしました」
「そう。大番狂わせは起きなかったということね」
「エルコンドルパサーと
「そうね。タイムも……GⅠ並みだわ」
東条ハナは唸るように言葉をもらした。
「アタシの……勝ちデスね」
肩で息をしながらエルが告げる。まさか本気を出すことになるとは思っていなかった。いや、本気を出させられたのだ。改めて思う――
(何者デスか? この
エルは心中で低く唸った。
「あ~、それで、約束なんデスが……」
言い難そうに言葉を紡ぐ。負けるつもりはなかったが、もし自分が負けていたら、素直に諦められるだろうか。今さらながら、こういうのはフェアじゃないような気がしてきたのだ。
「別に気にしなくてもいいわ。私はあの人に好意は
「……本当デスか?」
「本当よ。だから、行ってきなさい」
そう言ってエルの背中を押す。彼女は満面の笑みを浮かべて走っていった。入れ替わるように現れたのは栗毛のウマ娘、グラスワンダーだった。
「やはりあなたは、競走ウマ娘だったのですね」
「さあ、どうかしらね」
誤魔化すように答えをはぐらかす。自分の
トゥインクルシリーズに出走するには、当然URAに届け出を出さなければならないが、その際には厳格な決まり事があり、そのひとつに「登録名は9文字以内でなければならない」というものがある。
彼女の
ただひとつ言えることは、トゥインクルシリーズで走ることができないということだった。
いや、手段を選ばなければ方法はある。偽名で登録すればいい。
だが彼女はそれをしなかった。魂に嘘をつきたくなかった。そして、不思議と海外でデビューしようとも思わなかった。
(日頃から体は動かしていたけれど、やっぱり一ヵ月追い込んだ程度じゃあ無理か。これが世界を獲ったウマ娘の強さ……いえ、違うわね)
そんな単純なことではない。
「これが、積み上げてきた者の強さなのね」
才に溢れ、それに驕らず、ただひとつの道に邁進し、研鑽を積んできた者の強さだ。積み上げていない者に勝てる道理など、最初からなかったのだ。
無造作にある方向へと視線を向ける。その先では、ダークスーツ姿の男性の胸に飛び込んでいく少女の姿が見えた。
それを見て彼女は小さく笑みを浮かべた。
どこかから、リンゴーンという鐘の音が聞こえてきたような気がした。
一応店長さんにはモデル馬がいます。
ヒントとしては、
母親がアメリカウマ娘。
葦毛。
名前が9文字を超える。
エルと張り合えるくらいの実力。
サブタイトル。