ラナンはぼんやりと目を開けた。
真っ先に見えたのは細やかな装飾が施されたクリーム色の天井。
見たことのない場所に困惑しながら、ラナンはゆっくりと身体を起こした。
(…は?)
はっきりとしていなかった頭が、一瞬で氷水にかかったように冷やされた。
自分の身体を見て、頭の中は鐘が木霊したような衝撃に襲われる。
ラナンの身体は、明らかに小さくなっていたのだ。
重い頭、滑らかな肌、ぷにぷにとした小さな手足。
幼子…否、これはもはや赤子だ。
(これはまさか…転生!?)
ラナンは慌てて自分が寝ていたベッドらしきものから出ようとするが、形状を見るにこれは恐らく揺り籠。
赤子が揺り籠から落ちて、無傷でいられる気はしない。
ラナンは諦めたように嘆息し、ぼんやりと思考した。
金の刺繍が施されたいかにも高そうなソファーに広いテーブル、沢山の玩具に角を丸めてあるお洒落な棚。
上を見渡せば壮大なシャンデリアがラナンの目に映った。
(ここは何処なんだ?赤子すらこの広さと豪華さを持つ部屋に居れるということから、かなりの地位を持つ家…伯爵、侯爵、もしかしたら公爵…くらいか。
平民ではないことは確実だな。というより、そもそも今の西暦は?“あの後”すぐ転生したのか、もしくはそれから数年経ってか…。)
しかし、いくら考えても導き出せるのは所詮仮説に過ぎない。
─それにしても。
ラナンは揺り籠の中からおぼつかない足で立ち、周りを覗いた。
金縁の大きい窓からは、眩しい光が差す。
(…久しぶりだな。)
鮮やかな庭園には、ミモザ、スミレ、サンザシ、キンポウゲ、クロッカス。
どの花も春を告げる花だ。
(もう、春を迎えたんだな。)
“今”が前世からどのくらい経っているのかは定かではないが、少なくとも冷淡な程に極寒だったあの冬は終わっているようだ。
緑が生い茂る木々は和やかそうな春風に吹かれ、心地良さそうにしている。
麗らかな春。
ラナンにとって、陽の光を浴びながら春の温かさを感じたのは本当に久しぶりのことだった。
閉じ込められていた塔の中は薄暗く、扉は固く閉ざされて、窓は付いてすらいなかった。
穏やかな感情を覚えたラナンだったが、赤子はすぐに眠くなる体質のようで。
数十分前に目が覚めたばかりにも関わらず、ラナンには眠気が襲ってきた。
(慣れない身体に慣れない状況だが…塔の中よりかはずっと良い。)
そんなことを思い安穏を抱いて、ラナンは温かな日差しの中ゆっくりと睡魔に侵されていった。
◇◇◇
「─っちゃま。お坊っちゃま。」
まともに思考していないラナンの脳内に、遠くから声が届いた。
(温かいトーンだな…)
そっと目を開けると、顔を覗かせていたのは二十代前半だと窺える、ぱっちりとした澄んだ茶色の瞳を持った可愛らしい女性。
白いフリルの頭飾りを付け、黒のワンピースに白いエプロン。
どう見てもメイドだ。
ラナンは、ひょっとしたら俺の侍女なのかもしれない、なんて思いながらじっくりと見た。
見られていることに気が付いたのか、ラナンが寝ていたシーツの交換を行っていたそのメイドは微笑んで「どうかなさいましたか?」と言った。
その優しそうな笑顔を見受けるに、中々良い待遇を受けられそうだ。
その時、小さなノック音が聞こえた。
「アーシャ、いるかしら?」
女性と思われる上品な声色だった。
メイドは「はい!奥様。」と元気良く返事をして後ろ向きだった身体をくるりと回転させ、扉の近くへと歩いた。
このメイドの名前は“アーシャ”らしい。
静かに扉が開き、距離があるためよく見えないが、二十代後半とおぼしき美しい女性が現れた。
この人が奥様。すなわち─
(俺の“お母様”か。)
新しい母親は前世と同じく大層穏やかな雰囲気を醸し出していた。
緩く巻かれた日の光のような茶髪に、サファイアのような澄んだ青い瞳。
彼女はラナンを見て、ほっとしたように形の良い唇を弧の形にした。
段々と俺のいる揺り籠に近付き、
「ラナン、元気にしていたかしら?」
幼い息子をただ純粋に愛していると分かるその声色と表情でそう言った。
─(え…?)
(似ている…?似てるっ!!そっくりだっ!)
近付いてきたその女性は、前世の母親とそっくりだった。
そして、“ラナン”は前世の名前。今世では別の名前が付けられていると思っていたラナンだったが。
(前世と今世で同じ名前…)
そこで、ラナンはふと思った。
何故自分“だけ”なのかと。
ラナンが“転生”という事実を簡単に受け入れられたのは、復讐を希っていたからだ。
その復讐のチャンスを、神様が与えてくださったのかと思っていた。
しかし、冤罪で殺された両親も憎む対象はいる。勿論それは皇太子。
仮説に過ぎない。全てはラナンの仮説。
でも─
(ひょっとしたら、この家の家族は…俺の前世の両親、だったり?)
新しい母親を見て、ラナンは前世の母親と重ねた。
そのそっくりな容姿と雰囲気に、安堵感を抱いた。
しかし、それはあくまで“そっくり”。
正確には、頬にあった筈のほくろが消えていたり、前世ではストレートだった髪は緩く巻かれていた。
そう、“瓜二つ”ではないのだ。そして、その大層穏やかな顔。
(もし本当に転生したという自覚があるのなら、ラナンにも前世の記憶があるかもしれないと考えるのではないか?もしくは、前世の俺にしか分からないことを言ってみる、とか。)
ただ、ラナンはまだ赤子だ。
いくら前世の記憶を持っていたとしてもそれを脳で思考し、言語化することは出来ないだろうと思っている可能性もある。
だから、断定は出来ないが─
(もしかすると、前世の記憶を持っているのは俺だけ?)
ラナンは安穏な母親を見た。
彼女は愛しそうに我が子を抱いていて、目線が合うと微笑んだ。
─前世でラナンを抱いた時のように。
最後に抱擁をされたのは五年前。
“あの”結果が出た裁判の直前だった。
『大丈夫。私は何にもしていないもの。何事もなく終わってくれる筈。
…でも、もし万が一ね。本当に万が一…悪い判決が下ってしまったら。
貴方は、貴方だけは、生きなさい。出来る限り生きて、それでももし死んでしまったら…ふふっ、もう転生でも何でもして、もう一度生きなさい。ね?何でも良いから…どうか、生きて。』
涙声で、微笑みながら。
ラナンの母親はそれを最後にラナンと口を利けなくなった。
火に包まれる中、彼女は何を感じ、思ったのだろうか。
(もしかしたら…俺の転生を祈ってくれてたのかもしれないな。)
温かい“母親”の温もりに包まれながら、そんな想像に過ぎない話を考えたラナンだった。
◇◇◇
「ラナン・ド・アルデンヌ、入れ。」
氷の如く冷たく言い放った騎士は、ラナンを乱暴に塔の中へと足を踏み入れさせた。
その塔は二階立てだったが、一階から二階に続く階段は壊され、外へと繋がるテラスがある二階には立ち入り出来ないようになっていた。
10歳の幼き少年にはその意味は“逃亡防止”くらいしか思い付かなかったが、死ぬ寸前のラナンには分かっていた。
─自殺防止の為。
そう、罪人が飛び降りないように。
まあ、それを悟った時のラナンは既に“復讐”以外のことは全く考えられない屍のような状態だったが。
そこで過ごした五年間は、自死をしたいと思う程苦痛そのものだった。
雨漏りもするような古びた塔で、一日一食のみずほらしい食事。
大雨の際には水が部屋の中に溜まり、後日風邪を引いたこともあった。
一切れのカビが付いたパンで、お腹を壊したこともあった。
でも、生きていた。
母親との約束を果たすべく、必死に生きた。
そのうちラナンは、薄汚れた灰色のボロボロの服を着て、ただただ息をしながら皇太子について考え始めた。
自分を裏切り、両親を殺した皇太子。
どうにか復讐したいと希うが、この塔にいる限り無理、そしてこの塔を出られる時はきっと一生来ない。
何度も何度も両親を思い出し、何度も何度も恋しくなって、何度も何度も皇太子を憎み、何度も何度も復讐を考えるが、行き着く先はいつも同じ。
“不可能”
ラナンが最期に過ごした冬は未曾有の大雪が続いた。
厳しい寒さと飢餓が重なって、ラナンはついに意識を失い─僅か15歳でひっそりと息絶えた。
『神様。どうか、俺に復讐をさせて下さい。』
そう
この“終わり”が、二度目の人生の“始まり”だったのだ。
登場人物メモ《今世》
アーシャ…二十代前半ので茶髪で茶色の瞳の、愛嬌があるメイド。ラナンの侍女だと思われる。
ラナンの母親…二十代後半の緩く巻いた茶髪と青い瞳を持つ美しい女性。前世のラナンの母親と似ている。