ラナンが今世を知るべく最初に行いたいことは、情報収集だ。
とは言っても、この部屋は新聞もなければ訪問者もいない。
ラナンは本当に生まれたてのようで、外部の人間からの刺激は与えないようにしているのだろう。
なるべくストレスを軽減させようとしているのは分かるが、今のラナンには外部の人間が必要だった。
今が
前世とどのくらい違うかで随分話が変わってくるが、少なくとも言語は通じることは分かっている。
(前世と同じ国なのか…?ただこの言語は他国の公用語にもなっていから何とも…そもそも、頭でいくら考えても確証はどこにもない…)
「はぁ…」
駄目だ、分からない。
せめて西暦だけでも分かれば、状況を知る手掛かりにはなるのだが。
その時。
「お坊っちゃま。」
ふと横を見ると、アーシャがにこやかに笑いながら絵本を取り「読み聞かせは如何ですか?」と言っていた。
拒否しようと思えば出来るのだが、赤子の意思表示と言ったら泣くか暴れるか。
そんなことをする気力も無ければ、別にそこまで嫌という訳でもないが…まさかこの歳で読み聞かせを聞くとは。
─(ん?)
刹那、ラナンは閃いた。
(本の発行日に、西暦は載っている!これだ!)
ラナンは読み聞かせに乗り気だと言うように強く頷き、短い腕を動かして催促をした。
それに応えるようにアーシャは笑い、本を差し出した。
今話題の人気作家の最新作ですよという、正確な西暦が分かる保証が付け足されてから読み進める。
内容はよくある転生ファンタジー。
家族も居場所も失った美しき少女が別世界に転生し、“王子様”と出会う。
最初はあまり心を開かない少女だったが、王子様の優しさに触れ心が溶け出していく。
一方で王子様は無垢な少女に惹かれていき、だんだんと互いの気持ちを理解し始め、最後には幸せに暮らす物語。
その少女は純粋かつ麗しかったから“王子様”とやらに愛された。
幸せになれた。
胸焼けがするほど希望や夢に溢れた話だ。
(俺は…純粋無垢じゃない。でも、だから何だ。この際どんなに汚い手段を使っても、必ず─)
─復讐をしよう。
ラナンがそう再度誓ったところで、アーシャは丁度本を閉ざそうとした。
(閉じるな…!そのまま最後まで読め…!おい…!)
必死にばたばたと手足を動かした。
どうして自分がこんなことをしなければいけないのかとも思ったけれど、考えてる暇はない。
「あら、どうかなさいました?お坊っちゃま。」
やっと気が付いたようだ。
急いで短い腕を伸ばして本の裏表紙を叩く。
「…ああ、本を最後まで読みたいのですね。お坊っちゃまは変わってらっしゃいますねぇ。あっ、勿論良い意味ですよ?ふふっ。」
このアーシャというメイドはどうも、おどけてからかうのが上手いようだ。
「はい、どうぞ。何も面白くないと思いますけど…まあ人それぞれですよね。」
まだアーシャは何か言っていたが、ラナンの耳にはもうなにも入っていない。
何故なら─
(俺が死んでから…10年、か…)
世界は今、どうなっているのだろうか。
10年─否、幽閉されていた5年も含め15年間、ラナンは全く外気に触れなかった。
文明や技術、各家門や国の情勢、経済や自然環境、そして─魔法。
そう、“皇太子に裏切りが証拠付けられた”魔法も。
昔と変わっているだろうことが次々と思い浮かぶ。
何より、皇太子カルアのことが。
(皇太子は今生きていたら28歳…か。どうなっているのだろう。)
「お坊っちゃま、ミルクの時間でございますよ。」
アーシャが持ってきたミルク瓶を咥えながら、ラナンはじっくりと思考を巡らした。
(幼いうちから情報収集をして、ある程度力を付けたらカルアに会いに行こう。偵察しておかなければ。復讐とは言っても、俺がこの先殺人犯として生きるのは違う。あいつと同じレベルになってはいけない。法で裁かねば。…ただ、その前に─)
「お坊っちゃま?ちゃんとミルクを召し上がらないと、成長なさいませんよ。」
(この味の薄いミルクを飲むことに慣れなければ…ま、不味い…)
◇◇◇
この世界に来て、1ヶ月は経っただろうか。
正確な日数は分からないが、何となくここでの暮らしも慣れてきた。
朝起きて、眩しい朝日を浴びて、幼児用の離乳食であるため美味しいとは言えない─でも温かいご飯を食べて。
母親はよく訪ねてきてその穏やかな笑みを見せ、アーシャもよく沢山の話(と言っても愚痴も含まれる)を聞かせてくれる。
愛に満ちた、幸せな日々。
5年前から始まった地獄のような日々とは、見事なまでに対照的だ。
「お坊っちゃま。聞いて下さいよ~」
何かと思ったら、一通り雑務が終わったのであろうアーシャがふて腐れたように頬をぷくっと膨らませ、いつもの如くラナンに話し掛けていた。
(何だ…?男爵家のイケメンの騎士にフラれたって話をまたするのか…?)
可愛らしい外見のアーシャだが、話を聞いている限り中々に自由奔放な性格らしい。
一目惚れしたそのイケメン騎士とやらには何とかデートの約束をこじつけたものの、その最中に気に入ったお店をあれこれ見つけてしまったらしく、結局は買い物に付き合って貰う形になったらしい。
自由人と言うか、マイペースと言うか。
それでも仕事でミスをしたことは無さそうだから凄い。
ラナンは子供部屋の広さから見ても“かなり良いところの子息”でありそうなのに、恐らく侍女としてお世話をしている。
仕事時間内には時折、普段とは比べ物にもならないほどの真剣な表情も垣間見れる。
(それに…何だかんだ愛嬌がある。“どこか憎めない性格”ってやつか。)
「実は、皇室がまた税金を引き上げたんです。もう信じられないほど物価が値上がりしてますよ~。私は子爵家の身ですし、そこまで豊かでもないんです。平民なんかはもっと酷い生活を送っているようですし…」
意外にも、アーシャが話し始めたのは本当に困っていることのようだ。
アーシャが子爵家の者だったのかと思う一方で、“税金の引き上げ”がラナンの胸に引っ掛かった。
(税金の引き上げは前世では全く起こらなかったし、そんな気配もしなかった。あの時の─カルアの父親である皇帝は、貿易に力を注いで何とか国の経済を回そうとしていたな…)
まともな生活を送っていた10歳までの記憶には、当時の皇帝の行動なんか気に留めもしなかったが、貧乏な男爵家でも幸せに暮らせていたことから、今思えばかなり平民に優しい政策だったのかもしれない。
─しかし、今は?
10年経った今、皇帝の気が変わったのか?
否─
「全く、カルア皇帝はそこまでして何をしたいんでしょうねぇ…」
(なったのか…あいつが…皇帝に…!)
全身から溢れ出る怒気を、これほどまでに感じたことはあっただろうか。
「おっと、不敬罪に値してしまいますね…今言ったことはどうかご内密に。」
そんなアーシャの声など、もはやラナンには届いていなかった。
(人を騙して、裏切って、殺して…そんな奴が何でこの国の頂点なんだよ…!くそ…)
何が皇帝だ。何がトップだ。
ラナンはふと両親が処刑された時のカルアの笑みを思い浮かべた。
人間性が皆無の、まるでサイコパスのようなほくそ笑み。
(何なんだよ…!!もう俺の手で殺した方が─)
心地の良い陽の光も、鳥のさえずりも、アーシャの声も、何もかも届いていなかったラナンの脳内にドアのノック音が響いた。
「入って良いか?ラナンは寝てるか?」
今世ではまだ聞いたことがなかった、男性の声。
その知らない男性の声は─否。
(聞き覚えが、ある…)
「あら、お帰りなさいませ。ラナン様は起きていらっしゃいますよ。」
アーシャに“ラナン様”と呼ばれることに何だかむず痒さを感じながら、ドアの方へと視線を向ける。
艶のある美しい黒髪に、透き通った紫の瞳。まるで人工物のように整い過ぎた顔に、抜群のスタイル。
赤子は視力が良いとは言えない。
だから見えるのはその特徴を見るのがやっとで、容姿の細部までは分からない。
─が、直感的にラナンは理解した。
(お父様だ…)
あまりにもそっくりだった。
相違点は多少あるにせよ、母親よりももっと前世と似ている。
威厳溢れる雰囲気も、冷淡で無機質な性格に見えるが実は─
「ラナン!元気にしてたか?!父さん出張だったんだ…会いに来れなくてごめんなっ!」
と言うような犬っぽいところも、そっくりだ。
登場人物メモ《今世》
・アーシャ…自由奔放だが切り替えは出来る、子爵家の娘。
・ラナンの父親…黒髪と紫の瞳を持ち、冷淡な雰囲気を漂わす麗しい男性。外見からは想像できない犬っぽさを持つ。