遅れてしまい、申し訳ありません。
明日、土曜日か……
ステアを握りしめながら、紗理奈は舌打ちをする。
悪態を吐きたい気持ちをぐっと飲みこみ、ひたすらにBRZを操る。フロントガラスを幾多と打つ滴が、風圧に負けて一条二条と流れていく。額を伝う汗が気持ち悪かった。
激しい雨に負けないよう、レシプロエンジンは雄たけびを上げる。
「天気予報に裏切られたな……」
隣で三栗谷が言う。
確かに、と紗理奈は思う。今朝の天気予報では、きょう一日は絶好の洗濯日和だと、優しい笑みを浮かべる天気予報士が確約していた。こんな、嵐のようなにわか雨が降るなんて聞いていない。
フロントガラス越しの空は、相変わらず青いままだった。その青さは、トンネルの出口から見る青空のように、輝いて見えなくもない。ちょうど頭上に雲があるのだ。いま走っているハイウェイの上空には、きっとアイスクリームみたいな入道雲がいるに違いない、と妙な確信があった。生憎と、BRZのステアを握る紗理奈としては確認する余裕はないが。
雨は、まるでスコールのようだった。テレビの画面越しに見た、南国の人々が豪雨の中を雨宿りしている姿が脳裏をよぎる。雨という雨は、木々の葉を残さずそぎ取ってやろうと決めているかのように、地面を目指して一目散に落ちていく。いま見える雨は、それによく似ていた。
「これも温暖化の影響かな」
三栗谷が悠長なことを言う。彼の手元では、情報端末が暴走するAIカーの情報を次々と流していた。
曰く――Commuter00。ゴーグルモーター製。九九年型。車両重量:九一六kg。出力約五八・八キロワット。馬力換算:八〇馬力。速度:九〇キロで走行中。
「ごめん、ちょっと黙ってて。気が散る」
三栗谷が肩をすくめる気配がしたが、紗理奈には、いま彼にかまっているだけの余裕はなかった。
まるで氷の上を走っているようだった。
路面を水が覆っている。膜を張っているといったほうがいいかもしれない。ハイウェイが本来持つ水はけの能力を上回る降雨だった。そしてBRZのスピードメータは一○〇を示している。先ほどから、ステアから伝わるBRZの挙動は、敏感そのものだった。
きょうは晴れ。天気予報士はたぶんそう思ってただろうし、紗理奈もアリスも小早川も、そして基地の整備員たちも、みんなきょうは晴れだって信じていた。だから、紗理奈が操るBRZも、スリックタイヤに近いドライ用のタイヤを履いていた。グリップ力を上げるために、サイピング(排水用の溝)が異様に少ない。路面状況がドライなら、ねっとりと、まるで路面に吸着するようなタイヤだった。しかし、雨の中ではそうではない。サイピングがないため、水はけが悪い。ハイドロプレーニング現象を起こしやすい、つまり雨にものすごく弱いタイヤだった。
長い直線コースだった。それでも、ステアは紗理奈のちょっとした機微を正確に読み取り、いかんなく駆動系がそれを再現する。水の膜の上を走っているようなものである。ちょっとしたミスが命取りになりやすい。
先ほどから、アリスの声を聞いていなかった。アリスも必死なのかもしれない。
「アリスちゃん、大丈夫?」
紗理奈のそれは、半ば自身に向けた言葉でもあった。
『ええ。これぐらい、どうってことありません、わ!』
アリスのMINIが、横に触れる。すぐさま態勢を立て直し、直進。
『ええ、どうってことありませんわ』
『お前ら、気をつけろよ。いくら第五段階に受かったとはいえ、こんなスコールみたいな中を走るのは初めてだろう?』
「意外です」紗理奈は思わず口にする。「小早川さんがそんなこと言うなんて」
『あー。君が俺のことをどう思ってるのか知らないけどね、一応これでも、俺、この場の監督者だから』
「それもそうですね」
紗理奈は、そんな会話の中で、固まった気持ちが、すっと溶けていくのを感じた。肩に入る余計な力が抜け、心地よい緊張感が身体を包んだ。
全身を包むBRZの振動に、高揚していく気分を覚えた。
『それにしても、晴れているのに雨なんて、なんだか不思議な気持ちですわ』
『狐の嫁入りってやつか』
『なんですの、それ?』
『あー、えーと。なんだ、その』
「サン・シャワー。あるいはモンキーズ・バースデーかな」
助手席の三栗谷が応える。
『なるほど。日本(ジャパン)では、晴れの時に降る雨をキツネノヨメイリというのですね』
そんな会話をしていると。
見えた。
先行する暴走AIカーが、煙る雨の向こう側にぼんやりと見て取ることができた。
最近の流行りを反映した流線形のボディは、滑らかに豪雨の中を切り込んでいくようだった。ほとんど水の中、と言ってもいい路面状況にあって、暴走AIカーは蛇行することなくまっすぐにハイウェイを走っている。
『目標確認。フォーメーションBで行こう』
小早川の声がした。
「ちょっと待ってください」とは三栗谷。「なるべく、生の情報がほしい。スモークマインやセンサーを無力化する前に、データがほしいんだ」
『無茶を言う。この天候だぞ』
「大丈夫ですよ」
あっけらかんとして三栗谷は言う。エクスドライバーなら大丈夫ですよ、と。
先ほど乗り気だった小早川のことだ。エクスドライバーを信頼してます、みたいなおだてられ方をすれば、しかたねーなーやってやるかー、とまんざらでもない応えがかってくるものと、紗理奈は思った。
雨音と排気音が、やたら大きく聞こえる。
『しかし、この天候だ。無理はできない』
小早川の返答に、紗理奈は意外な気がした。
『スモークマインなんかで、そのデータはダメになってしまうのか?』
「いえ、そういうわけではないんですが……」
三栗谷も、小早川がこんな返しをするとは思ってもみなかったのだろう。何とも歯切れの悪い応え方だ。
「しかしノイズクリーニングのことを考えると、ですね」
『現場の判断は俺がする。万全を期して、フォーメーションはBだ』
「いいじゃないですか」
紗理奈のそんな言葉に、三栗谷は怪訝そうな顔を向けた。それに何より、言った本人が一番びっくりしていた。けれども、考えている暇はなく、紗理奈は次々に言葉を紡ぐ。
「あたしならできますよ。きっと」
沈黙があった。
その間にも、どんどん暴走AIカーとの距離が縮まる。
『わかった。無理はするな。ダメだと思ったら、すぐに俺たちがフォローに入る』
できますって。
軽口を返す。紗理奈は思い切りペダルをべた踏みする。二三、BRZの頭が降られ、獲物を前にした猛禽類のように、加速した。
額の汗が気持ち悪い。
嘘をつかれた天気予報に、何を知っているのか知らないが勝手に話を進める三栗谷に、いつもの剽軽はどこ吹く風とまさにリーダーのようなことを言う小早川に、なんだかよくわからない苛立ちを感じた。
紗理奈の気分を代弁するかのように、排気音が雨の中を木霊した。