炎天下。名古屋市内で三週間連続の猛暑日を更新。
紗理奈は
紗理奈は少し心配になるが、うだるような暑さが正常な思考を阻む。紗理奈の口から出たのはボヤキだった。
「ご先祖様を恨みたい気分だわ」
アリスは「そうね」と夢現に応えた。
「ご先祖様たちが環境破壊なんてしてくれたらおかげで、こうやってあたしたちが暑い思いをしなくちゃならないなんて」
「そうね」
「でも、環境保護とかいう名目で、ITSが急速に進んだのよね」
「そうね」
ITS。インテリジェンス・トランスポート・システム。カーナビに代表される自動車の高度情報機器を、車-車間、車-路間、車-人間で結び、クルマの運動情報や外部環境情報、交通情報などを交換、処理し、交通の高効率、環境負荷低減を目指したシステムだった。最終的にはドライバーなしでも自動車が運行されることが目的とされた。現代のAIカーの先祖に当たる。
そんな遠の昔、第三段階の座学でやった内容が、暑さで湯だった脳みその処理結果として、紗理奈の頭に浮かんできた。話題を変えようと思った。
「ねえ、そのクマちゃん、なんて言うの?」
流石に、アリスはちゃんとした答えを返す。しかしその声にはやはり元気はなかった。
「ダイアナ」
「ダイアナって言うの」
「そうね」
会話はそこで途切れた。
ふと視線を上げると、目の前に止まっている二台の車が目に付いた。
紗理奈から近いほうにはMINIが止まっている。BMWの方ではない。ブリティッシュ・モーター・コーポレーションの方のMINIだ。輸入仕様、左ハンドル。赤い基調のボディに、
しかし、その見た目と違い、内部は凶暴な仕上がりになっている。
きのう、アリスと一緒に地下車庫に行った時、整備士の矢野から聞いた話を、紗理奈は思い出した。
FF方式。エンジンルームに詰められる最大限の、総排気量一二〇〇CCのDOHC六気筒V型エンジンを搭載し、スーパーチャージャーで圧縮空気をそのシリンダ内に送り出す。その結果二八〇ps近い馬力を保持するに至った。元の純朴な大衆車の面影はなく、走るじゃじゃ馬だ。まるで、時に親も思いつかないようなイタズラをしでかす無垢な
そしてMINIを挟んだ反対側には、ブルーのスバル・BRZが日射をまともに浴びていた。こちらは富士重工が発売した、ほぼ当時のままだった。水平対向四気筒エンジン。二五〇馬力。しいて言えば、アリスと同じ、スーパーチャージャーがついているぐらい。
「暑いだろうな……」
車内の想像をして、とたんに紗理奈の汗が強まった。
そもそも、どうしてこんな炎天下にいなければならないのか。
ここで待ち合わせる約束のエクスドライバーが遅刻しているからである。
* * *
小早川総一朗は盛大に寝坊した。正確に言えば、寝坊している。
仲の良い整備士の松本にたたき起こされるまで、彼は男子寮の自室で惰眠を貪っていた。
一応目覚ましはかけた。六つも。ただし、どれ一つとして小早川の睡魔を打ち敗れなかった。
「どうしてお前は毎回毎回!」
小早川を引っ張って、松本はシャワーに連れて行った。引きずられる小早川は、ボクサーパンツにランニングシャツ一枚、ボサボサの髪に無精ひげがうっすらと生え、ダンディズムに溢れているが、ふと間違うと諜報員か詐欺師に見えなくもなかった。あるいはお払いに失敗した陰陽師。
小早川は廊下を引きずられながら、まだ半分寝ていた。
「俺の眠りを妨げられるものは、存在しないんだよ……」
「じゃあ、いまお前を牽引してる俺は何なんだ?」
「……。はて?」
「はて、じゃねーよ! 顔洗って来い! 嬢ちゃんたちを待たせる気か!」
「……嬢ちゃん?」
「オメー、きょう仮免の嬢ちゃんたちを迎えに行くんだろ! なんでだよ! なんで俺がお前のスケジュールに詳しんだよ! クソ!」
松本はその場で地団駄を踏んだ。牽引される力が無くなった途端、小早川は床に寝そべってしまう。「お休み……」
「お休みじゃないの! お仕事なの! たっく……。奥の手はとっておきたかったが、しかたない……」
松本は、
むくりと小早川は立ち上がった。
「おはよう、松本! いやぁ、いい朝だね。フェラーリ・F355の
「朝じゃないの! もうすぐ昼だって―の! 早いとこシャワー浴びてこい。嬢ちゃんたち、きょうのお日様みたいにかんかんに怒ってるぞ」
小早川は腕時計を見た。
ちなみに短パン、シャツ一丁に腕時計(※靴下はしている。紺色)という出で立ちは、少し変態チックだ。
「まずい?」
「まずい!」
小早川はシャワー室へ駆けた。
* * *
「ねえサリナ」アリスは俯いたまま言った。「相手を待っているのではなく、こちらから出向いた方がいいのではないかしら」
四時限目の本鈴が教習所内に響き渡る。日曜日だというのに、電子鐘の音色は休まずに働いていた。
「どういうこと?」
「つまり、わたくしたちがわたくしたちのクルマを運転して、
すでに沙理奈の脳内では、茹で上がったタコが上機嫌に盆踊りを踊っている。まともな思考能力は皆無だった。
腕時計を見た。約束の時間を九十分も過ぎていた。
「いいかも。そうすればエアコンも使えるし」
なぜエアコンの効いた校内で待つという選択肢が出てこなかったのか。いまのところその選択肢は沙理奈の脳内には湧いてこなかった。その選択肢はきっと小脳で涼んでいて、茹だるような大脳新皮質まで登ってこれなかったのだろう。後に、沙理奈はそう判断する。
「きまり、ですわね」
アリスは、元気のないクマのぬいぐるみ――ダイアナを抱き上げて、ふらふらとBMC・MINIへと歩んでいった。その後を、沙理奈もついていく。
スバル・BRZの運転席ドアを開くと、予想以上の熱気が沙理奈襲った。
「うわぁッ……」
よろけ、彼女は尻もちをつく。
「どうなさいました……?」
MINIの助手席から、けだるそうなアリスの声がかけられた。沙理奈は立ち上がって見ると、アリスはダイアナを助手席に座らせ、シートベルトを締めていた。
「なんでもない。大丈夫よ」
アリスと沙理奈は運転席についた。
キーを差し込み、
力強い
沙理奈はエアコンの温度を下げ、風量を最大にする。アイドリング中のエンジンの回転数が、気持ち上がった。
この世のものとは思えない涼しさが、汗で濡れそぼつ肌に気持ちいい。
熱が奪われ、徐々に覚めていく身体と頭。沙理奈はだんだんと現状を認識し始めた。
――どうして早く、
ふと、隣のMINIで、アリスが耳もとで人差し指を振っているのが見えた。よく見ると、アリスはインカムをしていた。
沙理奈もインカムをつける。
『生き返りましたわね』
アリスの声が、電波に乗って沙理奈の耳朶をうった。
「そうね。どうしてもっと早く気が付かなかったのかな? 不思議」
『ええ、そうですわね』
二人とも、校内で涼む、という選択肢が思いつかないぐらいには、まだ頭に熱が残っていた。
「それにしても、人をこんな殺人的な日射の中で待たせるなんて、どういう神経してるのかしら?」
沙理奈はまだ見ぬ
『そうですわ。レディをこんなに待たせるなんて。恥を知らしめて差し上げたいですわ』
「シミとかそばかすが増えたらどうしよう……」
『サリナ。今度わたくしの美白化粧品、貸して差し上げるわ』
どうして子どもがそんなものを、という疑問は紗理奈は思い浮かばなかった。
「ありがとう~! アリスちゃん! 大好き!」
『だいぶ涼しくなりましたわ。そろそろ、行きましょうか、サリナ』
「そうね、アリスちゃん」
二人は教習所の場内コースから、公道へと出た。
ちなみに、同時刻、小早川も名古屋基地を後にしていた。
主要参考資料
〇面白いほどよくわかる自動車の仕組み(小俣雅史/学校で教えない教科書/日本文芸社/2010)
〇進化する自動車(原邦彦/岩波科学ライブラリー107/岩波書店/2005)
〇スバル・BRZ(wikipedia/2014:Jun:1stアクセス)
〇MINI(BMW)(wikiedia/2014:May:31stアクセス)
(※なお、作中のBRZのスーパーチャージャーやMINIの内装は完全なフィクションです。MINIみたいな軽自動車で80馬力以上って今の技術じゃ難しいと思うの。そこは未来の技術が可能にした、ということでお願いします)