衣替え。普段からスーツを着用する社会人や制服着用の学生にとってはもうすぐ夏が来ると思える時期。
トレセン学園でも衣替えを6月に行い、吉部もそれに合わせて普段から着用しているスーツを夏用に通気性の良い物へ替えた。
中にはYシャツ姿になるトレーナーもいるが、吉部は夏でもキッチリとスーツを着る。勿論ネクタイもキッチリとだ。
これが標準装備なので吉部も涼しい顔をしているが、暑ければ流石に上着を脱ぎ、Yシャツの袖を捲くり、ネクタイを緩める。
「ふぅ。今日は妙に蒸し暑いな」
しかし今日は湿度と気温がいつもの平均より高く、吉部は思わずそうぼやいた。
トレーナー室にエアコンは完備されているが、吉部としてはまだお世話になりたくない。
「なら上着脱いじゃえば?」
そこへ座学が自習なのもあってトレーナー室にやってきたシービーが悪魔の囁きをする。勿論、この状況はチームのみんなに報告済み。
何故ルドルフがこれを許しているのかと言えば、
「そうするか。変に我慢して熱中症になったらみんなに迷惑掛けてしまうからな」
「そーそー。脱いじゃえ脱いじゃえ♪」
Yシャツ姿の吉部をシービーが(隠し)撮影してそのデータをみんなに渡すからだ。
吉部は脱いだ上着をハンガーラックに掛けてから、ネクタイを緩める。
それを瞬きせず食い入るように見つめるシービー。彼女は吉部がネクタイを緩める仕草を見るのが好き。なのでさりげなく脱ぐよう勧めていたのだ。
「うん、これで涼しくなった」
「良かったねー、トレーナー♪」
「ああ。そういえば、シービー」
「んー?」
「教室に戻れ」
「えー!? 今更過ぎなーい!? アタシがここに来たの結構前だよー!?」
「だからだ。別にシービーの学力とか授業態度とかの話で戻るように言ってる訳じゃない。時計を見ろ」
若干呆れが混じった吉部からの言葉に、シービーが自身のウマホで時間を確認する。
するともう自習時間が終わる頃になっていた。
「ありゃ。もうこんな時間」
「自由気ままに過ごしていれば時間なんていつの間にか過ぎているものだ」
「あはっ。だよねー♪」
シービーはどこか嬉しそうに言葉を返す。
彼女としては愛する吉部と過ごす時間はレースをしているよりも早く過ぎてしまうため、その度に『ああ、自分は今幸せなんだな』と実感出来るのだ。
もう戻らなくてはいけないが、何も特別なことをしていなくても、一緒の空間にいられたことがシービーはただただ嬉しい。
「じゃあまたね、トレーナー♪」
「ああ、またな」
こうしてシービーは吉部と別れ、早速先程手に入った約束のブツ(吉部のYシャツ腕捲くり姿)をルドルフたちに送るのだった。
―――――――――
ジューンブライド。または『6月の花嫁』や『6月の結婚』とも呼ぶ。
多くの女性たちが憧れ、その月に結婚すると生涯幸せな結婚生活が送れると言われているからだ。
「……ふむ……」
そんな6月のある日、吉部は自分のデスクに座ったまま何やら考えるように顎を撫でる。
書類やファイルが綺麗に整頓されたデスクの上には、白を基調とした冊子が置いてあった。
これは所謂「釣書」であり、お見合い相手からの物。
吉部はこうした話をこれまでにいくつか頂いているが、本人が乗り気ではない上に祖父母もあまり積極的ではない。
昔馴染みや長い付き合いの家から勧められ、断るのも失礼だろうと見合いまでは応じることはあるが、それだけだ。
(結婚か……。俺はまだするつもりないし、そもそも家庭を持っても今の仕事じゃとても家庭のことなんて手につかないな……)
いつ結婚してもおかしくない年齢ではあるものの、今の仕事に理解ある人でないとする意味がない。
というより、シービーたちが許さないだろう。
吉部はそう思いながらも、祖父母と相手方の顔を立ててお見合いにだけは出席しようと思っている。
そもそも祖父母はシービーたちの誰かか全員と結婚すると思っているし、今回は相手方としてもそう思っていて、ただ娘にお見合いの経験をさせてもらいたいだけなのだ。
なので双方同意の上での付き合いであり、だからこそ吉部は軽い気持ちで臨める。
そうこうしている内に、シービーたちが座学を終えてトレーナー室にやって来た。
みんないつも通りであるが、すぐにいつもと違う物が吉部のデスクにあることが分かり、それが何なのか察してしまう。
するとどうだ。いつも穏やかな笑顔を絶やさないシービーですら、スンッと笑みが消えているではないか。
吉部はこれまでの経験から『あ、やば』と思った。
「これは確かにみんなが思っている通りのものだ。でもこれはそういうものとは少し違くて……」
先手必勝とばかりに訳を話す吉部だったが、
「それをこちらに渡すんだ、トレーナー君。今ならまだ間に合う」
掛かったルドルフが冷静な風を装いつつも、鋭い眼光で釣書を渡すよう要求する。
「おい、俺は何かの犯人か? これはそういうのとは違くて―――」
「―――まずは落ち着いて、それをゆっくりと床に下ろすんだ」
吉部の言葉を遮ってルドルフは声色だけは穏やかに要求を続けた。
まるで彼が手にする釣書が時限爆弾みたいな扱いになっているが、それだけあのルドルフが掛かってしまっていることが分かるだろう。
しかも吉部には下ろせと言っておきながら、ルドルフは握り拳をチラつかせているのだから吉部としては背筋に嫌な汗が流れる。
「下ろすのはそっちだ。なんだその握り拳は。血管浮き出てるぞ」
「私は至って冷静だよ、トレーナー君。さあ、まずはそれを床に置いて。そしてゆっくりとこちらに来るんだ。もう時間がない」
「だから―――」
「―――早くするんだ! 私の理性が働いている間に!」
「だからこれは釣書だが、お見合い結婚するとかではないんだ!」
吉部がやっと理由を叫べばルドルフは勿論、他の面々からもどす黒いオーラがスッと消えたのが分かり、吉部は大きく息を吐いてデスクの椅子に座り込んだ。
(軽く五年くらいは寿命が縮んだぞ……)
◇
細かな説明を親切丁寧に出来るだけ噛み砕いてした吉部。
もともと今日はミーティングのみなのでトレーニングに支障が出ることはなかったが、吉部は仕事よりも精神を擦り減らした。
何しろちょっとでも言葉が足りなかったり、配慮が足りなかったりすれば相手方に迷惑が掛かるのは分かりきっている。
なので説明を終えた吉部は秋の大運動会後のウイニングライブを終えたような疲労感に包まれた。しかも悪い意味で。
「トレーナー、釣書を見せてみろよ。私のトレーナーに練習でもお見合いを申し込むイカれたヒトメスを拝んでおきたい」
「釣書はその人のプライバシーの塊だ。悪用しないと分かっていても見せられない」
シリウスの要求に吉部が毅然とした態度で拒否すると、
「じゃあなんでわざわざ仕事場に持ってきた?」
ブライアンがそう問い掛けてくる。
「お祖父ちゃんがトレセンの住所しか覚えてないからだ」
吉部がそう返せば、ブライアンも他の面々も変に納得してしまった。
「ま、そんな練習ちゃんの話はもうお終いにしよ♪ トレーナーがアタシたちを裏切ったっていう誤解も解けたしさ♪」
シービーがそう言うとやっとトレーナー室の空気がいつもの平和なものへと戻る。
ただそれでも心配なのか、ルドルフとブライアンは吉部を長ソファーに連行して両サイドを固め、ブルボンなんかは既に釣書をその強靭なパワーでぐしゃぐしゃにしてゴミ箱へ放り込んでしまった。
こうなることを読んで釣書の中身は既にコピー済み。いくらそういう目的ではないお見合いでも、相手方に失礼があっては大人として良くないから。
「にしてもビビッたぁ。相棒が奪われちまうって」
ウオッカが安堵の溜め息混じりにそう零せば、他の面々もうんうんと頷いて同意する。
吉部はそんなみんなに「すまなかった」ともう一度謝り、今度こそミーティングを開始したが、誰もが話を聞きながらナデナデを求めてくるため両手を千手観音様張りに動かすこととなった。
―――――――――
梅雨に入り、天気が不安定な日々が続く。
雨の日は多くの生徒たちが室内練習をするため、体育館やトレーニングジムは勿論、地下体育館までいっぱいになる。
吉部はそんな中、雨合羽を着込み、悪天候でのレースを想定して愛バたちに細心の注意を払いながら走り込ませていた。
泥が跳ね、彼女たちの着ている体操服は汚れ、顔や髪にもついてしまっている。
しかしそれを吉部が汚いと思うことはない。
泥まみれだろうと汗まみれだろうと、それは全て彼女たちが一生懸命トレーニングをした証であるから。
「あと一周! この一周はレースだと思って全力で走っていいぞ! 足元の感覚を確かめながらな!」
メガホンを使って吉部が指示を出すと、メンバーは揃って返事をして加速していく。
吉部はそれを見守りながら、愛バたちの仕上がりに小さく頷くのだった。
◇
部室に引き上げて来たナイトスカイ。
メンバーは先に部室棟のシャワールームへ向かい、汗と泥を流してきた。
そして、
「お願いします、マスター」
髪と尻尾の乾燥とケアは吉部が行う。因みに順番は毎回じゃんけんで決まる。
最初はシービーがあまりにも適当に髪や尻尾を半乾きのまま放置していたので、吉部が甲斐甲斐しくブラッシングとダメージケアを兼ねて乾かすようになり、それをあとから加入したメンバーもお願いするようになったのだ。
ウマ娘の髪は敏感な部分である耳があるため、他人に触られるのを嫌がる子もいる。尻尾も同様。
しかし気を許した相手には触らせるし、このように委ねるのだ。
「では始めるぞ」
「はい」
姿勢を正して返事をするブルボンに吉部はドライヤーの風を当てつつ、ウマ娘用のヘアブラシで丁寧に梳いていく。
ブラシもその子の髪質に合わせて買い揃えたほどの徹底振りで、その甲斐もあってみんなにはすこぶる好評。ブラシの掛け方も個々で好みがあり、強めを好むのはシービー、ルドルフ、ブライアン。弱めを好むのはシリウス、ブルボン、ウオッカ。因みにブライアンは手櫛じゃないと不機嫌になる。何故なら頭をワシャワシャされたいし、尻尾も直に触って欲しいから。
またヘアオイルやテールオイルもその子の好みや毛の質に合わせて買い揃えるほどの徹底振り。ここまでされて嬉しくない乙女は少数派だろう。こういう何に対しても真面目に取り組んでくれる人間だからこそ、みんな吉部のことが好きなのだ。
「マスター、最高です」
「それは良かった。次は尻尾な」
「はい」
吉部が今度は尻尾用ブラシに持ち替え、丁寧に優しく梳いていくとブルボンの顔は蕩けていく。
「よし」
「ありがとうございました。マスター♡」
「ああ」
こうして次々と丁寧に愛バたちの髪と尻尾を乾かし、梳き、彼女らはすこぶるご機嫌になった。
◇
「じゃあ最後にトレーニング後のおやつとして、さくらんぼをあげよう。お祖母ちゃんから送られてきたんだ」
『いただきまーす!』
そしておやつタイム。
さくらんぼは祖父母がご近所の農家さんから毎年訳あり物を譲ってもらうので、可愛い孫へ送る。小さい頃から食べているので、馴染み深い懐かしい食べ物。
それを知っているので祖母が離れて暮らす可愛い孫に毎年送るのだ。
「トレーナー♪」
「分かった分かった。ほら」
「あ〜……ん。ん〜、あま〜い♪」
シービーが早速いつものように食べさせてもらえば、
「トレーナー君……」
「トレーナーなら分かってるよな?」
「早く食わせろ」
「マスター、私も『あーん』を所望します」
「お、俺も……」
当然他のみんなも自分にもと甘えてくる。
こうなるともうウマ娘ではなく、ただ餌を待つ雛鳥状態。
吉部はそれに苦笑いしつつも、結局甲斐甲斐しくみんなにさくらんぼを与えていく。
そして、
「じゃあ次はトレーナーの番ねー♪」
今度は吉部がみんなから順番に食べさせてもらい、愛バたちと和やかな時間を過ごすのだ。
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