11月の下旬。トレセン学園の並木道は、日中こそ黄金色の輝きを放っているが、日が落ちれば急激に冷え込み、冬の訪れを肌に突きつけてくる。
ウィンタードリームトロフィーの準決勝が幕を閉じた翌日のこと。
グラスワンダーの結果は三着。あと一歩、届かなかった。
普通のウマ娘であれば、数日は自室に引きこもってもおかしくない結果だ。しかし、グラスは違った。彼女は今日も、いつものように柔らかな微笑みを湛えて学園に現れ、誰よりも丁寧な所作でトレーニングメニューをこなしたのである。
「……やっぱり、グラスは強いな」
柵の側から、夕暮れのグラウンドを走る彼女の背中を見つめ、山場武は独りごちた。
彼女の敗北は、決して力負けではない。展開の綾、そして相手の執念がわずかに勝った。それだけのことだ。しかし、その「わずか」を埋めるための努力を、彼女はもう始めている。
◇
「さあて、定時まであと少し。今日は寄り道せずに帰って、録画してた番組でも見るか……」
トレーニングも無事に終わり、山場武がトレーナー室で帰り支度を始めた、その時だった。
バタンと景気のいい音を立ててトレーナー室のドアが開く。
「トレーナーさーん! 本日の予定は中断デース!」
「今日はね、みんなで決めたんだよ。定時上がりは『阻止』です!」
エルとウンスを先頭に、チーム『モンスターズ』の面々が雪崩れ込んで来た。
「なんだなんだ、暴動か?」
「失礼ね、慰労会よ。グラスさんが準決勝を終えたんだから、チーム全員で英気を養うのが『一流』の流儀でしょ?」
キングが、まるで自分が勝ったかのようなドヤ顔で言い放つ。その後ろには、大きな保冷バッグを担いだスペとツヨシ、そして最後尾に、穏やかに微笑むグラスの姿があった。
「トレーナーさん。皆さんが、どうしても今日は私を労いたいと仰ってくださって……ご迷惑ですか?」
「……いや、お前にそう言われちゃ断れねえよ。分かった、今日は俺の『定時上がり』を返上してやる。その代わり、準備は手伝えよ?」
『はーい!』
こうして一行は、いつものスーパーへと繰り出した。11月の夜風は冷たいが、六人のウマ娘に囲まれて歩く山場武の周りだけは、妙な熱気に包まれている。
「今日のメインは『すき焼き』デース! エルが厳選した国産黒毛和牛……と言いたいところデスけど、予算の関係で『ちょっといい豪州産』を狙うデース!」
「エルちゃん、見て! あっちに半額のシールを貼ろうとしてる店員さんが!」
スペとエルが肉コーナーへと突撃する。二人の「食」に対する執念は、レース本番の末脚をも凌駕する勢いだ。
「ちょっと、二人とも! 質より量なんて、一流が聞いて呆れるわ! せめてこの『霜降り風』って書いてある方になさい!」
「キングちゃん、それは脂身を注入した加工肉ですよ……こちらの、赤身がしっかりしたモモ肉の方が、スペちゃんたちの胃袋には優しいかもしれませんね」
グラスが冷静に、かつ的確に食材を選別していく。
一方で、ウンスとツヨシは野菜コーナーでマイペースに品定めをしていた。
「ねえねえトレーナーさん、春菊多めに入れてもいい? あと、お麩。すき焼きの汁を吸ったお麩って、最高だよねぇ」
「おう、好きなだけ入れろ。それでツヨシ、お前は……何を持ってるんだ、それは」
「え? これですか? 『超大玉の里芋』ですよ! すき焼きに入れると美味しいかなって!」
「それは入れないだろ、普通」
山場武がツッコミを入れるが、ツヨシのキラキラした瞳に負け、結局カゴに追加される。
こうして、カゴ三つ分をパンパンにした『モンスターズ』一行は、特別許可を貰った学園の調理室へと向かった。
◇
トレセン学園の調理室。
普段は授業や部活動で使われる調理室だが、ちゃんと許可を得て保護者(トレーナーまたは教員)がいれば貸し出してくれる。普段寮では各々で節制した料理を作ったりしているが、今日はここで特別な『宴』である。
「よし、俺は割り下を作る。お前らは野菜を切れ。いいか、キング。包丁は引いて切るんだぞ」
「分かってるわよ! 一流の私にかかれば、白菜のカットなんて造作もないこと……あっ!? ちょっと、この白菜、層が厚すぎて包丁が……!」
キングが格闘している横で、エルは「エル必殺高速ネギ切りデース!」と威勢よく包丁を動かしているが、大きさはバラバラだ。スペは糸こんにゃくの袋を開ける際に盛大に水をぶちまけ、「わわわ!」と慌てて布巾を探している。
「……はぁ。やっぱり俺がやらないとダメか」
山場武が溜息をつきながら包丁を握ろうとした、その時。
「トレーナーさん。ここは私にお任せを。トレーナーさんは引き続き割り下の準備をお願いします」
グラスが、いつの間にか割烹着を締め、髪を後ろで一つにまとめて立っていた。
彼女が包丁を握ると、空気が変わった。
トントントン、と軽快なリズムを刻み、白菜、ネギ、豆腐が、まるで見本のように美しく切り分けられていく。
「エル、お肉を焼く準備をお願いしますね。スペちゃん、糸こんにゃくはお肉のタンパク質を硬くしてしまいますから、少し離して配置してください。キングちゃん、白菜の芯に近い方は少し削ぎ切りにすると、火が通りやすくなりますよ」
「……流石はグラスちゃん。奥様力がカンストしてるぅ……」
グラスの指揮の下、混沌としていた炊事場は急速に秩序を取り戻していく。山場武も、彼女の補助に回りながら、鉄鍋に牛脂を引き、割り下を準備した。
ジュワッ、という音と共に、醤油と砂糖の香ばしい匂いが立ち上る。
◇
「よし。じゃあ、始めるか」
鍋の蓋を開けると、そこには宝石箱のような光景が広がっていた。
琥珀色の汁の中で、肉が踊り、野菜がしなだれ、豆腐がじっくりと味を染み込ませている。
『いただきまーす!!』
グラスたちの声が重なり、一斉に箸が伸びる。
スペが一番に肉を頬張り、「はふはふ」と悶絶しながらも満面の笑みを浮かべた。
「おいひいぃ……! トレーナーさんの割り下、最高です! 卵と絡めて食べると、もう、幸せすぎて明日も全力で走れそうです!」
「ブエノーーー! このお肉、噛むほどに旨味が溢れ出します! 豪州産もデサフィオ(挑戦)の味デース!」
エルとスペが競い合うように食べる姿を見て、キングが呆れたように笑う。
「ちょっと、そんなに焦らなくても逃げないわよ。ほら、グラスさん。あなたも食べなさい。今日はあなたが主役なんだから」
「ありがとうございます、キングちゃん……うん。本当に、美味しいですね」
グラスが一口、肉を噛みしめる。
その顔には、昨日のレース直後のような鋭さはなかった。ただ、仲間の温かさに触れ、心から食事を楽しんでいる一人の少女の顔があった。
「グラスちゃん、これ食べて! 私が選んだ里芋、ホクホクしてて当たりだよ!」
「……本当ですね、ツルちゃん。すき焼きの汁を吸った里芋というのは、こんなに深い味わいになるのですね」
「にゃはは。明日からまた、グラスちゃんの厳しいトレーニングに付き合わされるんだから、今のうちに栄養つけとかないとねー」
ウンスが糸こんにゃくを啜りながら、さらりと言った。
その言葉には、グラスの敗北に対する過剰な同情も、腫れ物に触るような気遣いもなかった。あるのは「明日からも、私たちは一緒に走る」という、当たり前で、けれど絶対の信頼だった。
山場武は、箸を置いて彼女たちを眺めた。
11月の夜。外は思わず肩を震わす寒さだが、この場だけは春のような暖かさだ。
グラスワンダーというウマ娘は、個人でも強くなれる子だ。しかし、このチーム『モンスターズ』に加わってからの彼女は、その強さに「深み」が増したように思う。自分一人で背負うのではなく、仲間と笑い合い、時に呆れ、時に競い合う。その日常が、彼女を真の意味での「怪物」へと育て上げているのだ。
「トレーナーさん、何をボーッとしてるんですか? ほら、このお肉、ちょうどいい具合ですよ」
グラスが、山場武の皿に一番いいお肉を乗せる。
「……おう、サンキュ。お前ら、食うのもいいけど、片付けまでが仕事だからな」
「分かってるデース! 皿洗いならエルとスペちゃんで秒速で終わらせます!」
賑やかな声が響く。
定時で帰る喜びも確かに大きいが、こうして教え子たちの「日常」の中に自分が混ざっていることの幸福感を、山場武は否定できなかった。
宴が終わり、すっかり片付いた調理室を後にした一行は、夜の学園内を歩いていた。
11月の星空は澄み渡り、吐く息は僅かに白い。
「ふぅ……お腹いっぱいで眠くなってきちゃったなー」
ウンスがツヨシの肩に頭を乗せ、半分寝ながら歩く。キングは寒さに身を震わせながらも、「一流の姿勢」を崩さない。
「グラス」
山場武が隣を歩く彼女に声をかけた。
「はい、トレーナーさん」
「今日のは、慰労会じゃなくて『決起集会』だったみたいだな」
グラスは一瞬足を止め、それから夜の闇に紛れるような柔らかな声で答えた。
「……ええ。負けた悔しさは、走って晴らすしかありません。でも、こうして温かいものを食べて、みんなで笑っていると、『また明日から頑張ろう』と、素直に思えます」
彼女は山場武の方を向き、瞳を真っ直ぐに見つめた。
「トレーナーさん。私、次は勝ちます。皆さんが私を支えてくださった分、今度は私が勝利を届ける番です」
「ああ。期待してるぞ、グラス……あ、それと」
「はい?」
「里芋、意外と美味かったな。次もツヨシに選ばせるか」
「ふふ、そうですね。ツルちゃんの目利き、侮れません」
二人は顔を見合わせて笑った。
前方では、スペとエルが「どっちが明日一番にグラウンドに来るか」で競走を始めている。
夜風が、彼女たちの背中を優しく押し、次なる季節へと導いていく。
チーム『モンスターズ』……彼女たちの日常は、これからも賑やかに、そして強く続いていく。
山場武は、冷え切った手をパーカーのポケットに突っ込み、彼女たちの背中を追った。
定時上がりは叶わなかった。だが、胸の奥にある温かな満足感は、何物にも代えがたい「最高の残業代」だった。
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