「しかし、艦長。あたし達だって余裕ないのに、よくカトリナちゃんに激飛ばしましたね」
バーミットの論調にレミアは額に手をやって頭を振る。
「……こんな時に、弱気になるだけの女なら、まだよかったのにね」
「それ、艦長には似合わないでしょ。いつだって鉄の女なのが、あたしの知るレミア・フロイト艦長なんだと思っていましたけれど」
「クラードが生きているのか、それとももう……なのかも分からないのよ。私だって弱音を吐きたいけれど、この身分が許してはくれないわね。ピアーナ、概算予測をお願い。月面のエンデュランス・フラクタルの本社に辿り着くまでに、私達が生き残れる、確率を」
『……よろしいですが、お世辞にも高いとは言えません。今、ここで言う事で余計に絶望を深くさせてしまうのならば……』
「なに、あなたもライドマトリクサーなのにヒトの湿っぽさなんて感じるものでもないのよ。クラードのように、冷徹に、事実だけをちょうだい」
こちらの言葉振りがあまりにも迷いがなかったためだろう。
ピアーナは僅かに言葉を濁す。
『……あなたはクラードが生きていると信じているのですか』
「それは彼の領分よ。私達が生き残れるか、今知りたいのはそれだけ」
線を引いた言葉にピアーナは概算予測をメインモニターに投射させる。
『……現状では、《オルディヌス》を振り切れたとは言え、戦力はジリ貧……。このまま月面まで辿り着けても、ベアトリーチェが持つかどうかの保証はありません。現在の陣営を表示いたします』
映し出されたのはトライアウトジェネシスと、そして同組織であるはずのトライアウトネメシスの喰らい合いであった。
両者、一歩も譲らず応戦しつつ、月軌道艦隊は不意に自分達への砲撃が止んだ事で漁夫の利を得ようと艦隊を動かそうとしている。
「……連邦艦隊も損耗率は高いって言うのに、今はトライアウトを押さえたい……。トライアウトは同陣営で争い合っている。ベアトリーチェに向かっていた戦力は?」
『恐らくはネメシスのほうだと思われます。ジェネシスは後からこの戦線に突入。……泥沼ですね。連邦艦隊も馬鹿ではありません。何よりも、彼らにはMF04らしき敵影と、そして最強のミラーヘッド使いの機体照合があります』
「……万華鏡、ジオ・クランスコール……」
その名に聞き覚えがなかったわけではない。
だがこの情勢でまさか月軌道艦隊の側に付いているとはまるで思わなかっただけだ。
「どういう事なの? だって、ジオ・クランスコールって言えば、それは確か、王族親衛隊の所属のはずじゃ……?」
バーミットの問いかけにピアーナはモニター越しに頭を振る。
『……分かりません。しかし彼が前線に出て……そしてクラードの操る《レヴォル》と戦闘行動を行ったのが、つい先ほど。ようやくもたらされた情報ですのでロスがあるとは思いますが……』
「クラードと万華鏡が戦った……? 勝敗は……」
「バーミット。余計な事は聞かないほうがいいわ。私達は生き残る事だけを念頭に置いて戦いましょう」
「……でも……」
「聞こえなかったの? このままベアトリーチェは連邦艦を背にしながら月面へと無理のない速度でランデブーを行います。エンデュランス・フラクタルの最新鋭艦よ。本社組だって壊したくはないはず」
『統合機構軍の援護を期待するのですか。……ですがこの戦場で……』
「それも織り込み済みよ。本社組に少しでも温情があると思うしかないわね」
「でも、こっちにはテスタメントベースのデータがある。……最悪、トライアウトに捕らえられてもそれを交渉材料にすれば……」
「バーミット。弱気はいいの。今は、勝算が欲しいだけ」
負けてからの事は考えるべきではない。
今は、勝利かあるいは名誉ある敗走を描くしか方法が見えなかった。
その時、ベアトリーチェを激震したのはトライアウトネメシスの一翼であった。
「勘付かれた? いいえ、《オルディヌス》を撃墜したから矛先がこっちに向いたと思うべきね……」
「どうするんですか、艦長! 取り付かれでもすれば……!」
「今は! 余計な事は考えないで! ミラーヘッド減殺ガスを噴射! MSによる白兵戦を想定して、《マギア》を出撃させます」
「でも……一機だって順当な《マギア》なんて……!」
「……時間を稼げればいいのよ。月面に降り立つまでの時間を、少しでもね……」
分かっている。我ながら非情なる決断だという事を。
これは恐らく、ベアトリーチェのクルー全員に軽蔑されただろう。
何せ、死んでもいい駒を出せと自ら言ったようなものなのだから。
これは後ろから撃たれても文句は言えないな、と肘掛けを握り締めたレミアへと、通信が繋がれる。
『艦長。我々が出ます。我々……凱空龍が……』
そう伝えたのは凱空龍唯一の女性構成員で、彼女はまだトキサダやアルベルトとは違い、艦内待機を命じられていたのだ。
「あなた達……。分かって言っているの? 私はあなた達に、死ねと言っているのと同じなのよ」
『……それでも……。守りたいんです。ここを任せてくれたヘッドに報いるために……。副長のトキサダさんや、クラードさん達に、私達は恥じ入りたくはない。この艦は、もう第二の故郷なんです。私達はデザイアを追われた……罪人に過ぎません。でも、こんな罪人でも、生きていていいと、居てもいいと言ってくださったのは、このベアトリーチェだけなんです。なら、私達の命はまた、あなた方のために……』
この女性構成員は覚悟の相貌を向けている。
そんな面持ちの相手に、逃げろだの力不足だの言う権利はない。
「……分かったわ。《マギア》の出撃許可を。ただし……月面より援護が来ない限りはカタパルトは二度と開きません」
「艦長! それはあまりにも……!」
バーミットの言わんとしている事は分かる。
要は片道切符。
投げられた爆弾は手元に帰ってくるものではないのだと。
しかし、女性構成員は挙手敬礼を寄越していた。
軍属ではない、彼女はただの一般人なのに。
『……了解しました。職務を全うします』
「……ねぇ、あなたの名前は……? いいえ、あなただけじゃない。残っている凱空龍メンバーの名前を、一人ずつ教えてもらえるかしら……」
震える声で、唇を噛み締めながら紡いだ言葉。
それは彼らをより傷つける結果になるかもしれない。だが、名前も聞かずに送り出すのは人道にもとるのだと、今はただ思えただけに過ぎないのだ。
女性構成員はフッと微笑み、名乗っていく。
『ユキノ・ヒビヤ。こっちのはグウェル・レーシング』
『艦長! どでかいのを喰らわせてやりますよ!』
刈り上げた快活な声を上げた彼は恐らく凱空龍の中では最年少であろう。
まだ小柄であった。
そんな彼の後ろで腕を組んでいる男性メンバーが名乗っていく。
『……俺はイワハダ。ツワダ・イワハダです』
『こいつ照れてるんですよ! のっぽなだけですから、気にしないでください、艦長!』
『グウェル……! ……とまぁ、我々たった三人ですが、それなりには動けます』
『他のメンバーはこの戦場じゃ少し心許ないので彼らはメカニックとして戦ってもらいます。……大丈夫。そんな顔をしないでください。私達も凱空龍では二軍でしたが、それなりに使い手であるのは自負しています。副長やヘッドほどじゃ、ありませんけれどね……!』
そうして華のように笑ってみせたユキノに、レミアは悔恨の言葉を噛み締めていた。
ここで彼らに詫びてしまえば、そこまでに済んでしまう代物。送り出すのだ。
ならば、傲岸不遜でもそれなりであれ。
「……了解……。行ってらっしゃい」
『……艦長。行ってきます』
『よっしゃ! 凱空龍、第二部隊の戦いを見せてやろうぜ!』
『……気を抜くなよ。相手は軍警察だ』
『分かってるって! 俺達の《マギア》はまだまだ綺麗なんだ。ヘッドや副長みたいなギリギリの急造品じゃない。メカニックのみんなが揃えてくれたお蔭さ!』
そうしてサムズアップを寄越すグウェルからカメラが振られ、メカニックに残る事を決めた者達の面持ちを映し出す。
彼らの表情に浮かんでいたのは、困惑、離別、悲壮……それらの感情をない交ぜにした塊を呑んで、それでいて慣れない挙手敬礼を送っている。
「……私は、何で……」
「艦長。もう、冷たい女から戻ろうなんて、思わないでくださいよ。彼らだって覚悟して赴いているんですから」
「……冷たいのね、バーミット」
「モテる女には冷たいんですよ、あたし。知っているでしょう?」
「……ええ、よく知っているわ。知っているのにね……」
それなのに、何故――こんな感情を持て余すのだろう。
直後、回線を震わせたのは歌声であった。
「……歌? 誰が歌っているの……?」
『これは……恐らくファム様でしょうね。彼女は……確か重傷者のための医療カプセルに居るはず……。その中で、うなされながら歌っているのでしょうか……』
「……誰かのための歌なのね、これは」
人でなしになったとしても、それだけは理解出来た。
理解出来るだけに、これは……。
「重く……沈殿するのね……」
歌声は物悲しい。どこの国の言語なのか、どのような音階なのかはまるで自在でまるで自由。
それでいて、鎮魂歌である事だけは分かる。
魂の根幹を、振動させて――。
『……歌が聞こえる。俺達のための凱歌だ! ファムが、俺達の天使が、歌ってくれているんだよ!』
グウェルの通信回線にユキノが諌める声を返す。
『グウェル、下手を打たない。今は一機でも近づけさせないよ』
『……砲撃戦は得意だ。こちらの領分には近づかせない……』
『ツワダ、お前は砲撃に徹してくれ。どっちにしたってこの距離じゃ、俺らも相手もミラーヘッドに持ち込めないんだ。砲戦特化で行く!』
『……頼むから、近づかないでよ……』
三名の声がめいめいに聞こえてくるのだけが、今はどこか現実離れしている。
彼らは恐らく、今の今までトキサダの指揮下であったはず。そんな彼らが自ら戦うべきだとして、前に立っている。佇んでいる。
その背中に、どんな言葉を吐けよう。
どんな論調で、死に行けと命じられようか。
ユキノの《マギア》がビームライフルを速射し、トライアウトネメシスの《エクエス》と打ち合う。
そのまま接近戦に雪崩れ込んだ彼女は先ほどまでの声音とはまるで一線を画す雄叫びを上げ、果敢にビームサーベルを振り下ろす。
しかし、その太刀筋は無情にも読まれ、返す刀が彼女の《マギア》の胴体を割っていた。
――分かっている。彼らは本来、前に出て戦うような者達ではない。
トキサダか、あるいはアルベルトの命令がなければ下手に前に出れば撃墜されるだけだろう。
だが、彼らは前に出ると誓った。誓って出撃した。
『野郎……! ユキノを――やりやがったな――ッ!』
グウェルが連装ビームライフルを速射しその機体を押し退ける。
だが押し退けただけだ。撃墜まで行っていない。
『ユキノ!』
『……あ……いき、てる……。あ、でも……片腕……どっか行っちゃった……』
そうしてどこか寂しげに笑うのだが、グウェルはそんな彼女の機体を抱いたまま、火線を交錯させる暗礁の宇宙を仰ぐ。
そこに懸けられているのは命を交錯させるだけの戦場。
ただ無為に生命を散らせるだけの、崩壊の宇宙――。
グウェルは直後には甲板部より離れ、命じられていなかった宙域戦闘へと打って出る。
『クソッ! クソッ! クソッ! 俺達が何をやった! ただデザイアで……生きていけりゃ、面白おかしく過ごしていけりゃ、それだけでよかったのに……!』
その言葉がレミアの身体へと刃のように切り込んでいく。
聞いていられなくなって通信端末を投げかけて、それを制したのはヴィルヘルムであった。
「フロイト艦長。君には聞き続ける義務がある」
「……ヴィルヘルム……。あなたは相変わらずなのね。こんな状況でも、裁かれるものは裁かれるべきだと……」
「彼らに行けと言ったのは君だ。なら最期まで……見守ってあげよう。それが彼らへの手向けとなる。何よりも、彼らを裏切らないのならば、最後の最後まで聞くべきだ。彼らの命の声を……」
「私には怨嗟のように聞こえてしまうのよ……。純粋な命だとしても……」
「それならばなおさらだ。彼らは必死に、手を伸ばしている。きっと、明るいほうへと……」
明るいほうへ。
そんな前向きな彼らを、凱空龍の面々を死なせに行くしか出来ないのが自分と言う名の身分。
グウェルは向かってきたトライアウトネメシスの《エクエス》と真正面から組み合い、《マギア》の加速度で背後を取ろうとして、その時には肘打ちを受けて細いフレーム躯体が揺さぶられる。
鳴動と悲鳴、そして命の声だけが響き渡る。
『……死にたくない……』
その言葉を熱放射が遮る。
ビームサーベルの灼熱地獄が彼を焼いているのだ。
思わずバーミットも顔を覆ったのが窺えた。
彼女だけではない。
沈痛に面を伏せ、囚われた罪人のように自分達は管制室からその声の赴く先を聞き続けるしか出来ない。
「……謝る事はきっと、でもあなた達の命を侮辱するのでしょうね……」
グウェルを焼き払った《エクエス》がベアトリーチェへと取り付こうとするのを、ツワダは砲撃装備の《マギア》で応戦するも、その火線はどれもこれも当てずっぽうでまるで命中する様子もない。
彼は特別優れているわけではないのだろう。
刃が軋り、格納カタパルト上で押し合うのを、管制室のモニターより、レミア達は眺めていた。
『……この!』
押し退けた勢いでつんのめったツワダの《マギア》は転倒間際に砲打を浴びせ込み、《エクエス》を退けようとする。
《エクエス》は別に恐れを抱いたわけでも、ましてや彼の戦いに感服したようでもない。
ただ、これ以上の追撃は旨味がないのだと悟り、急後退してバーニアを吹かせていく。
『ああ……グウェル……ユキノ……そんな……。こんなところで……こんな……』
泣きじゃくるツワダの声は恐らく、自分達が聞いているなどまるで考えてもいないのだろう。
彼の涙声を聞いていられないのは誰も同じ。
だが、希望も同時に見えていた。
「……月面よりようやく本社のお出迎えか……」
統合機構軍の港より、ベアトリーチェと同等のヘカテ級戦艦が飛び立ち、この戦域を留めようと艦砲射撃を始める。
しかし、あまりに遅い。遅過ぎたのだ。
散らなくていい命が散り、死ななくていい人間まで死んだ。
こんなどん詰まりの世界で、誰が生きて行こうと言うのか。
誰が――胸を張って明日を生きる事なんて出来るのか。
涙ぐんだ自分をぐっと堪えて、レミアは艦長としての声を振っていた。
「……これより、月面統合機構軍へと合流軌道に入ります。生存が確認出来たパイロットだけを収容後、本社の命令に従い……我々は月面に帰還。ええ、そう……作戦は達成された……」
しかしレミアは顔を上げられなかった。
震える拳で肘掛けを骨が浮くほどに握り締め、ここまで払った犠牲を噛み締めるしかない。
ヴィルヘルムはそんな自分の代わりに本社組との通信を担当する。
「こちらヴィルヘルム。ベアトリーチェの損耗は甚大だ。エンデュランス・フラクタル本社への帰投と、修繕を頼みたい。……たくさん、死んでいった者達が居る」
それだけが自分達に許された唯一の抗弁のようであった。
『了解した。ベアトリーチェはこれより、月面本社へと収容後、別命あるまで待機。現状の月軌道は連邦とMF、それにトライアウトの軍隊が交差する混迷状態にある。いち早く救援を送ろう』
『……よくもぬけぬけと……。今の今まで静観していたくせに……』
ピアーナの堪えた怒りの声音も、本社組からしてみれば痛くもかゆくもないのだろう。
『そうか。少し援護が遅れたようだ。謝罪する』
謝罪。
そんな言葉で、死んでいった者達を慰められると思っているのか。
本気で、彼らの死に報いようと?
だが、自分が今言える事は、ベアトリーチェの艦長としての言葉のみ。
「……了解。救援感謝します」
何と情けない事か。
何と――示しのつかない言葉か。
死んだのは何も凱空龍の面々だけではない。
自分の半身同然であった、クラードでさえも、もう帰ってこないのだ。
いや、帰ってくるとしても、それはもう全てが終わってからに過ぎない。
だから、もう自分は保留にし続けたトリガーを、二度と引く事もないのだろう。
「……クラード……あなたはこんな時、何て言ってくれるの……」
弱々しい女の慕情なんて、きっとクラードはお呼びじゃないとでも言い捨てるのだろうが、それでも今は。
弱い女で、許して欲しかった。
「エンデュランス・フラクタルの増援? ……今さらになっておっとり刀の統合機構軍が。我々トライアウトジェネシスの権限に割り入ってくるなど」
ヘカテ級戦艦の砲撃はしかし、どれもこれも腰が引けている。
どうにも本気ではないと言う感覚に、ダビデは舌打ちを滲ませていた。
「そうか……もう戦いは、終わったのだな。……大尉、どこへ、行かれたのですか。いつもなら……ころっと戻ってくるでしょうに」
だが今は、女々しさに頼っている場合でもない。
戦場を駆けるのは男でも女でもない「なり損ない」の「DD」。
ならば自分は冷酷な指揮官としての声を振り向けるべきだ。
「牽制銃撃を浴びせながら後退。ネメシスの連中に目に物を見せてやれ。奴らも本隊が討たれればさすがに痛いはずだ。これ以上の継続戦闘は旨味がない。それは……統合機構軍が証明している」
『だが……DD! ガンダムが……!』
「戦場で軽々しく呼ぶんじゃないぞ! シェイムレス!」
思わず怒声で返したのは、自分でも感情の制御が上手くいっていない証だろう。
グラッゼは帰ってこなかった。
それ自体が自分の胸に、空白となって浮かんでいる。
ぽっかりと穴が開いたように、そこから無数の感情が抜け出していく。
その中にはきっと「女としてのDD」も居たのだろう。
しかし、もうそんなものは必要ない。
否、必要はなくなった。
これ以上続けても、ただの損耗戦。ただの消耗だと言うならば、自分は鬼になろう。
「……全軍、撤退機動。ガンダムを討ち損ねたのは確かに痛手だが、それを今は言及しない。ローゼンシュタイン准尉」
今さら言い直したところで断絶は仕方ないのかもしれないが、それでも言わなければ機会を見失うだろう。
相手も失言だと感じていたのか、その声音に翳りが窺える。
『……いや、私も……申し訳なかった……』
謙虚になったところで命は帰ってこない。
だとしても――部下一人に心を砕く事なんてもう出来るものか。
自分は自分の思った以上に――夢見る乙女であっただけの話。
「……帰投する。今ならば相手も及び腰だ。こちらが撃墜される可能性は低い」
だと言うのに何故か。
涙が止まらなかった。
ゆっくりと、バイタルが沈んでいく。
ゆったりと、闇に呑まれていく。
視界の中で陽光を照り受ける月面の傍で、大虚ろの穴が空いている。
それは彼方への扉、それは向こう側への岸。
「……ダレト……」
最早、意識も薄らいでいる。
皮膜のように弱々しい感情の波、弱々しい呼吸が切れ切れになる。
――分かっている。
このままではそう長くはない。
しかし、クラードは黎明の光を受けて青く輝く始まりの星を眺めていた。
その星へと皆が還るように、推進剤の尾を引いた機体群が蒼い瞬きを伴わせつつ、軌跡を描いていく。
真っ黒のインクの上に、蒼いクレヨンで描くデタラメな絵画。
それぞれの命の軌道を掴むように手を伸ばして、その手がライドマトリクサーの手である事を今さら意識する。
「……俺の手は……誰かと繋ぐためにあるって言うのか……《レヴォル》。でもその誰かなんて……どこに居るんだ……どこの……誰だって……」
分からない。
分からないのにどうしてなのだか、こんな時に浮かんだのは頬をむくれさせるカトリナで、クラードはフッと笑ってしまう。
「……馬鹿だろ、あんた」
そんな失笑でさえも、宇宙の深淵は飲み込んでいく。
彼方の声は、この時、喪失の色だけを居残して。
歌の残滓は、もう聴こえなくなっていた。
明日(23日)18時よりエピローグ及びなかがきを投稿して一旦の決着を見ます。
ここまで読んでくださりありがとうございました