第152話「重量圏へ」
――昔からそうであった。
この世を救う女神なんてものを信じていた。
女神はすべからく人を導き、そして混沌に沈んだ世界を立て直す。そのために必要な犠牲ならば何だって払う。
そういう存在に憧れを抱いていた。
いつかそうなってみたいと、そうなって誰かの標に成れればと。
だがそんな夢想はいつからかしなくなった。否、しなくなったのではない。
出来なくなったのだ。
「お嬢様。あなたはフロイト家の家督を継ぐ者として、相応の身なりを整えてもらいます」
いつも、教育係のシンディはリアリストで、それでいてつまらない俗世に染まるべきではないと言うのが常であった。
彼女の言いたい事は分かる。
姉が出て行ったあの日――何も出来なかった。
姉とは十二歳も離れているために、彼女がフロイト家を後にした時にはまだ、弱々しい子供の身分であった。
だから、姉に何と言えばよかったのか、今でも分からない。
行かないでだとか、傍に居てだとか言えればよかったのだろうか。
あるいは子供の特権で喚き散らして、それで姉を困らせればよかったのかもしれない。
いずれにせよ、自分は愚者を演じるのには少しばかり賢しく、賢者を講じるのには少しばかり愚かで。
そうしているうちに手遅れな領域にまで踏み込んでしまう。
自分に出来る事は、数少ない。
そうなのだと、十三の時には分かってしまった。
「おめでとうございます、お嬢様。フロイト家はあなたのお陰で安泰でございます」
安泰。安寧。惰弱。
どれもこれも、聞き飽きた代物。
自分はお飾りなのだと理解出来たのが十三の頃。そして、何の力もなく、特別な女神のようになんて成れないのが身に沁みて分かったのが、その二年後の辺り。
十五歳の誕生日を迎えた時分には、この世界はなんと狭苦しく、なんと想定内の出来事だけで回っていくのだろうと悲観した。
だって仕方がなかった。
共に笑い合えるような真実の友人は居らず、虚飾ばかりの付き合いの同世代。
彼女らはいずれ貴族に見初められて子を宿し、そして後の人生は最早、余生に等しい。
貴族の纏う装飾品のようなもので、女はこうして、彼らの価値観に基づいて生きていくしかない。
それが、この来英歴においても代わり映えのしない真実であり、同時に自分達を籠の鳥として制約し続ける。
どこに行ったとしても、どこに向かったとしても。
そこにあるのは価値観なんてものは薄れた自分自身。
キルシー・フロイトとしての人生には非ず。
フロイト家の令嬢として、ただ大人しく、つつましく、そして謙虚に生きろと言う地獄だ。
殿方を立てろ――分かっている。
貴族の振る舞いを心得ろ――分かっている。
他者に同調し、自分の意見を封殺しろ――だから、分かっている。
もう自分に、人間としての価値なんてものはない。
あるのはフロイト家の令嬢としての価値であり、そこに何を見出すのかなんて決まっている。
誰かに抱かれ、子供を産み、その後は静かに、波風も立てずに生きて行けと言う、教訓。
分かっていた。
女神になんてなれない。
誰かの希望になんてなれない。
ましてや痛みを背負って立つなんて――出来るはずもない。
何故ならば、自分はただの貴族の一員で、女で、令嬢で、そして、思ったよりも出来る事なんて数少ない、ただの凡人なのだから。
「……キルシー?」
こちらを窺ってくる隣の少女にキルシーは慌てて取り繕っていた。
「あ、何? ファム。何かあった……?」
「ううん……でもキルシー、とってもこわいかおをしていたよ?」
「ちょっと考え事よ。何だかんだで、地球にこうして、シャトルで降りるのは久しぶりだし。あなたは? ファム」
「ミュイぃぃ……なんだかムズムズする……」
「そうね、ムズムズするわね。大気圏への突入シークエンスなんて、もう技術としては成立して随分と経つって言うのに……それでも人間は、こうして母なる星に帰る時にはムズムズと落ち着かないものなのよ」
舷窓より大気圏につつがなく入ったのを視認しながら、キルシーは子供の頃を思う。
何にでも興味があったのは、せいぜい十歳までで、そこから先は嫌な子供であったな、と我ながら自嘲していた。
「……ファム、地球に降りるのは、何でもない、ちょっとした出来事なんだけれど、それでも特別性を感じずにはいられない。それは私達が所詮は人だからなのよ」
「ひとだから? ミュイ、わかんない」
「そっか。まぁファムはクランスコール家の令嬢だから、分かり辛かったのかもね」
「ミュイ……でもキルシー、ちょっとつらそうだよ?」
「辛そう? ……そう、かな。私は辛いのかな……」
自分でもよく分かっていない。
平時ならばポートホームで一瞬で辿り着ける距離を、わざわざファムと特別便に乗り合わせての旅なんて思いも寄らなかったからだろう。
だが一度見ておきたかったのだ。
青き星、母なる大地。
生命を育む、原初の記憶。
きっと地球をこうして、シャトルから見れば、少しはセンチメンタリズムな感傷にも浸れて、これから先に実行する現実からもちょっとだけ現実逃避出来るとでも。
「……でも甘かったのかもね。いくら地球圏が平定されて久しいからって、もうどこにも安全な場所なんてない。私達はこんな世界で、生きていくしかないのよ」
ファムは機内食のサンドイッチに齧り付き、ケチャップを頬に付けている。
「おいしいね! キルシー!」
「……ほら、ファム。ほっぺに付いてるから、じっとしていて」
「ミュイぃぃ……ちからつよいよ……」
「ほら、これで取れた。……降りたらシンディとまた顔合わせか。嫌になるわね」
「シンディ、ちきゅうでまってるの?」
「ええ、私がシャトルの第一便で帰るって言うだけで、もう大激怒よ。それでも何とか説得して、こうしてあなたとだけのシャトルを満喫しているわけなんだけれど」
貸し切りのシャトルには自分とファム以外の乗客は居ない。
添乗員も一流であり、無重力でありながら一級の料理とサービスを楽しめる。
グラスが空いていたので添乗員が替えのグラスを持って来て、笑顔でサービスを施す。
「これ、なに? ぱちぱちしてるよ?」
「白ワインね。飲んだ事ないの?」
「わいん……? ない」
「じゃあ飲んでみるといいわ。ノンアルコールのはずだから酔っぱらう事もないし」
そう言うなりファムは白ワインを一気飲みする。
その行動があまりにも突飛で、キルシーは気圧されてしまっていた。
ファムは、けっぷ、と一呼吸ついてから、頬を綻ばせる。
「おいしいね! これ!」
「ええ、そう……美味しいのだけれど……やっぱりあなたは読めないわ。あなたが友達で、本当によかったのかもしれない」
「ファムも! キルシーがともだちでよかった!」
真正面から好意を向けられてしまうと照れてしまうもので、キルシーは窓辺へと視線を逃しつつ、頬を掻いていた。
「……よしてよ。私にそこまでの好意を受け止める価値なんて……」
そこで視界に入ったのは月のダレトであった。
やはり、異様だ。
宇宙空間の深淵より深い、暗礁の大虚ろ。
「ダレト……あれが開いてから、全部おかしくなったのよね……」
戦争の技術が発展しただけではない。
世界の技術体系は切り替わり、そして何もかもが変容した。
ダレトの恩恵なくしてこの来英歴は成り立っていない。
それもこれも、全てが技術を独占する者達と、そしてそのおこぼれに預かる者達とで分かたれてしまったのが大きいのだろう。
自分は幸運にも前者であったからよかったものの、今もダレトの技術恩恵を得られていない国家や地区も多いと聞く。
「……ファム、あなたはダレトに関して、どういう見解を持っているのかしら。あれがどう言った意味を持つのか、やはり少しは考えて?」
「ダレト? ……ううん、ちょっとこわい、ね」
「ちょっと怖い? その程度しか考えていないの?」
こちらの声音が詰問の色を伴っていたせいだろう。
ファムは目に見えてしゅんとして、肩を落とす。
「ミュイ……ファム、ダレトのこと、よくわかんない……」
「ああ、ごめんなさいね、ファム。別にあなたを咎めようとかそういうんじゃないの。ただ……この世界はダレトありきで回っている。そのような事実と現実に対して、私達は無自覚では居られないはずなのよ。だって、あれだって世界の一部なのだもの。どこかで私達は、ダレトに関して、一家言は持っておくべき。そうでなければあまりにも無知蒙昧が過ぎるでしょうし」
「……キルシーはむずかしいこと、しってるね」
運ばれてきたのはローストビーフでファムはすぐに頬張ってしまう。
どうやら議論よりも楽しい食卓のほうが重要らしい。
「……そう、ね。今は、ファム、ようやくあなたと二人っきりなんだから、ちょっとは楽しみましょう。小うるさいシンディと顔を合わせるまでまだ三時間以上あるわ。少しは羽目でも外して――いえ、待って……。あれは……何?」
キルシーは視界の中にデブリ帯を認めていた。
地球の大気圏にほど近い場所での艦隊の骸である。
だが、そのような戦闘行為は全面的に禁止されているはずだ。
「失礼。あなた、あれはどうなっているの?」
添乗員を呼びつけて尋ねてみると、相手は、ああと応じていた。
「つい数時間前に戦闘行為があったようです。通常便は全便欠航なのですが、このシャトルのルートには干渉しないので、ご安心を」
「戦闘行為? ……あれは、見たところ連邦のアルチーナ級よね? そんな大艦隊が、何にやられたって言うの?」
「……これはまだ正式には降りていない情報なのですが、どうやらMFとの戦闘があったそうです」
想定外の単語にキルシーは目を瞠る。
「待って……MF? MFってあれよね、月軌道に居るって言う……ダレトよりの使者……そんなものが何故?」
「不明です。これ以上はさすがに情報権限が降りていませんので」
キルシーは窓の外のアルチーナ艦の横っ腹に開いた弾痕らしき部位を注視していた。
「……アルチーナ級はそう易々と沈まないはず……。本当にMFだって言うの?」
端末を取り出し、ニュースサイトにアクセスするが、やはりと言うべきか、MFが大気圏防衛線を突破したなどと言う報告はない。
「……まさか、MFが……地球に降りた……?」
だがそのような事、と自らの中で一笑に伏す。
MFは四聖獣と呼ばれ、それらの均衡はこの世界のパワーバランスを示しているはずだ。
だと言うのに、アルチーナを轟沈させて地球に降りたとなれば大パニックは免れないはず。
三年前にMF02が空間転移を行った際だって、それだけで充分なスキャンダルとなった。
MFは少し位置情報がずれるだけでも、世界の人々の関心を集めるに足るのだ。
「……でも、もしそうだとして……MFが……本当に地球に降りたとして……」
窓を撫でていた指先を降ろす。
だから、どうしたと言うのだ。
自分には何も出来ないではないか。
ただの貴族階級身分だ。
軍警察や旧地球連邦のように軍事力を持っているわけでもない。
何も出来やしない。
こうして時代の転換期に居たとしても、何も。
「キルシー?」
こちらの面持ちを窺ってきたファムに、キルシーは咳払いで応じていた。
「……ごめんなさい、ファム。余計な事ばっかり考えちゃっているわね、私……」
「ううん。キルシーは、だってファムのおともだち。だから、なんでもいってほしい」
「……隠し事なんて……私達の間じゃ意味なんてない、か」
「ミュイっ!」
微笑んだファムに少しだけ胸の中の重石がマシになったのを感じ取る。
「……でもね、私達は何て無力なんだろうって、思うのよ。だって、誰かの何かにも成れない。この世界を変える一撃なんて、持っていないんだし……。やっぱり過ぎたる考えだったのかな、なんて、そう思っちゃうの」
「キルシー! ぜったいすごいっ! だからファム、おうえんするっ!」
何だか空回りな応援だが、それでも自分にとっては替え難い言葉であった。
「ありがとう、ファム。地球に降りたら、まずは重力に慣れないとね。私達は1Gで生活しているけれど、地球はもっと重いらしいから」
「ミュイぃぃ……ムズムズするね」
「そうね、ムズムズするわね」
『これより、クロックワークス社航空第一便は地球圏へと降下シークエンスに入ります。皆様シートベルトを装着の上、安全を確保出来るまで添乗員の指示に従ってください』
ファムの分のシートベルトも留めてやって、キルシーは大気圏を超えていくシャトルの外を眺めようとしたが、減殺フィルターが下りて窓を覆い隠す。
「……狭いわね、重力の井戸の底は」