機動戦士ガンダムダレト   作:オンドゥル大使

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第十九章「想い、未来の果てへと〈ソング・オブ・フューチャーゲート〉」
第225話「邂逅少女」


 

 消滅したかと、そう思った直後にはハイデガーは街並みに没していた。

 

 周囲を見渡し、自身の掌へと視線を落とす。

 

「……ここは……いや、僕は確かに……エージェント、クラードとの戦いの果てに……」

 

 瞼の裏に浮かんだのは、七色の虹をこちらへと放出する《ダーレッドガンダム》の悪鬼の如き形相――。

 

 しかし、平穏な日々を謳歌する街頭にはまるで相当し得ない記憶であった。

 

「……僕は……死んだのか……?」

 

 死後の世界だというのならば、なるほど、雑多な街並みもある意味では頷ける。

 

 それにしても、天国にせよ地獄にせよ、思ったよりも俗っぽいものだ。

 

 歩む足がある事にまず驚き、それからライドマトリクサーの機能を確かめる。

 

「……驚きだな。死後の世界にも全身ライドマトリクサーが引き継げるなんて……」

 

 それとも、誰も死した後の世界なんて知る由もないためかもしれない。

 

 案外、飲み込めている胸中にハイデガーはふと、視界に留まった書店へと入る。

 

「天国の本屋か。こんなものまであるんだな」

 

 今どき珍しいハードカバーも、ある意味では納得だ。

 

 ここが死後の世界であるのなら、ともすればハイテク機器は持ち込めないのかもしれない。

 

「それにしてもアナクロなものだ。紙製の本ばかりだなんて」

 

 手に取ったハードカバーのページを指先でなぞり、奥付を捲ってみる。

 

「……“認識し得る世界の設計理論に関して”、著者、エーリッヒ・シュヴァインシュタイガー……」

 

 耳馴染みのない著者と本にハイデガーは本を元の位置に戻そうとして、書店員の主人の怒声が耳朶を打っていた。

 

「駄目だ、駄目だ! 忌まわしい! 連邦の生み出した機械人形が!」

 

 書店の主人が少女を突き飛ばす。

 

 病人服に厚手のコートを着込んだ少女はコインを取り落としていた。

 

「お願い……します。本を売ってください……」

 

「分からんのかな。連邦の兵器に売ってやる本なんて一冊だってないんだよ。それとも、その機械の肉体でデジタルデータにアクセスすればいいだろう。わたしらを嗤っているくせに……!」

 

「おいおい……天国の本屋にしては随分と横柄だな……。いや、天国にまでライドマトリクサー施術を持ち込んだのならば当然の報い、か。それにしたって、どこかで聞いた事のある声のような……」

 

「お願いします……。本を売ってください……。何も出来ませんけれど、お金なら……!」

 

「金の問題じゃないんだ。それとも、地球連邦政府からお前のような機械人形に恵んでやれとでも言われたのか? わたしは死んでも御免だね」

 

 少女は長い黒髪を抱えて、顔を伏せている。

 

 それほど肌寒い気候でもないのに、凍えたような吐息を発していた。

 

「本を……本を売ってください……。あたしの出来る事なら……何でもしますから、本を……」

 

「兵器が何を言う。人殺しの道具だってのは知っているんだ。地球連邦もヤキが回ったもんだな。落ちぶれた服飾職人の娘を売りに出したんだ。それなりの電子金銭は持ち合わせているだろうに。何でわざわざ下々の街まで降りて来るんだ、この疫病神め!」

 

 書店の主人ははたきで煩わしそうに少女を殴りつける。

 

 さすがに無視は出来ず、ハイデガーは割って入っていた。

 

「おいおい……いくらなんでも寝覚めが悪いって言うのはこの事だろうに……!」

 

 振るい上げられたはたきを掴み上げ、習い性の軍人の所作で主人の腕をひねり上げる。

 

「な、何なんだ、あんたは……。この娘が何をしたのか……知らないわけじゃあるまい……!」

 

「悪いけれど、僕は何も知らないんだ。それに、死後の世界でまで、婦女子をいたぶろうって言うのは趣味が悪いとも思う。その娘は本を買いたがっているだけに映ったが?」

 

「馬鹿を言え! 地球連邦の生み出した最新鋭のマシーン兵器だぞ! この娘が何者なのか、街の人間達は皆知っているさ! 親に売られた被験体だってな!」

 

「被験体……? しかし、だからと言って目に余る悪行だ。僕は人でなしの悪人のつもりだが、心根まで腐ったつもりはない」

 

 とは言っても、つい先刻までクラードとカトリナに対し、終わりのない怨嗟を抱いていたのは事実。

 

 言えた義理ではないな、と自嘲しつつも、書店の主人を突き放す。

 

「……あんた、後悔するぞ。その娘を救おうなんて……」

 

「別に、人助けのつもりなんてないさ。本を売るつもりがないんなら、僕が買う。この本でいい」

 

 先ほどまで手に取っていた本を少女の手持ちのコインで買い付ける。

 

 主人はふんと鼻を鳴らしていた。

 

「正義漢のつもりかい? 言っておくが、わたしはあんたに売ったんだからな。その娘に売ったわけじゃない。ほら! 商売の邪魔だ! とっとと消え失せろ!」

 

 年季の入った扉が荒々しく閉められ、自分達を拒絶する。

 

 ハイデガーは買い付けた本一冊を少女に差し出していた。

 

「欲しかった本かどうかは分からないが……」

 

「……いいん……ですか? あたしによくすると、他の人達の眼が……」

 

 その言葉通り、街並みを行き交う人々の関心は自分と少女に向けられているようであった。

 

 あれだけ無関心であったのに、よくもまぁ、とその厚顔無恥さに呆れ返る。

 

「……僕は大丈夫だ。それに君も、何だってそこまで忌み嫌われているんだ? 見たところ……通常よりも色濃いライドマトリクサー施術には映るが、別段特別とも思わない。僕よりかはだいぶ軽い」

 

 少女の剥き出しの白磁の腕にはライドマトリクサー施術の亀裂が走ってはいたが、自分のような最新鋭の技術の粋を詰め込まれたようには見えない。

 

 せいぜい、三世代ほど前の代物だろう。

 

 少女は長い前髪で隠れた相貌で、こちらの言葉に驚嘆したようであった。

 

「その……あまりライドマトリクサーって言う言葉を、使わないほうが……いいです。それは機密事項なんだって、お父様に教わりました」

 

「ライドマトリクサーが機密事項? ……何十年前の話をしているんだ? 今どき、ファッションの一環みたいなものだろう。もっとも、僕くらいな全身RMは今でも少しは珍しいかもしれないが……」

 

「……お兄さんも……全身を……弄られたんですか」

 

「……まぁ、僕の場合は自ら志願してのものだけれど……君はそうには映らない。しかし、身体改造施術を忌避として持っているのは一部の地域と特権層くらいなものだろう? 君の家はそれほど裕福なのか?」

 

 こちらの問いかけに少女はふるふると首を横に振る。

 

「……あたしは、あたしの家はとても貧しくって……。服飾職人だけでは食っていけないからって、連邦の政策を受け入れたんです……。だから、この街じゃあたしは爪弾き者みたいなもので……」

 

 少女はハードカバーの本を胸元に抱え、ぎゅっと握り締める。

 

 彼女にしか分からぬ地獄があるのだろう。

 

 思えば、ここが天国だと考えるのは早計かもしれない。

 

 ここは形こそ違えど、地獄である可能性もある。

 

「それにしたって分からないな……。地獄じゃライドマトリクサーって言うのは駄目なのか?」

 

 ハイデガーの純粋な疑問に少女は首を傾げる。

 

「その……お兄さんはどこから来たんですか……? 連邦の政策から逃れての完全な義肢技術はまだ発展途上のはずですけれど……お兄さんの義肢はとても優秀な技術者が造ったように見えます。あたしを改造した人達はこの星で一番の頭脳だって言っていたはずなんですが……」

 

「それはまた……随分と驕った発言だな。身体改造技術が禁忌の死後の世界、か……。それも僕には似合いの場所だな」

 

 独りごちてから、ハイデガーはこちらを避ける人波の中で、誰かが石を投げたのを視界の隅に捉えていた。

 

 この時、身体拡張技術の粋を凝らした腕は彼女に命中する前にその石を掴み取る。

 

「……忌むべき技術の申し子め……」

 

 誰ともなく、この街では少女を恐れているのが窺えた。

 

「石を投げる理由はそれだけか? 僕も身体拡張技術の上に成り立っている。石を投げるのならば、僕にも投げるといい。その勇気もないのか?」

 

 声を張った自分に人々はめいめいに顔を見合わせ、それから忌避を宿らせた眼差しで呪う。

 

「……後悔する事になる。その娘は呪われた存在だと言うのに」

 

「呪い結構、僕は死んだ後でまで外道に落ちるつもりもない。……とは言っても、怖がらせてしまった。大丈夫かい?」

 

 肩に手を置くと少女は目に見えて恐怖して後ずさる。

 

 まるで世界の悪意を満身に引き受けたかのように、歯の根すら合わないようであった。

 

「……何で、あたしに優しくするんですか……。この街に……いいえ、この世界で生きている限り、もうあたしなんて……居なくなっちゃえばいいってずっと言われているのに……」

 

「それは違う。君は何もしていないじゃないか。ただの度の過ぎた迫害だ、こんなもの。……今どき、ライドマトリクサーであるだけで、ここまで村八分にするって言うのも、逆に珍しくもあるけれど……」

 

 ハイデガーは思案する。

 

 この街に留まっていても彼女にとっては好転し得ないだろう。

 

 かと言って、自分も死後の国の歩き方までは存じていない。

 

 探り探りでも、少女に歩き方を聞くしかあるまい。

 

「……つかぬ事を聞くけれど、君の家は? ライドマトリクサーだって家くらいはあるはずだ」

 

 少女はおずおずと街の外を示す。

 

 郊外に追いやられているなど、典型的な迫害の歴史そのものであった。

 

「……よし、僕も同行しよう」

 

「……何で、お兄さんはそこまであたしに優しいんですか……。あたしは地球連邦の生み出した……怪物だって、言われているのに……」

 

「ライドマトリクサー施術が怪物だの何だの言われていたのは数十年ほど前の話じゃないか。それだって、ダレトの形成と共に軟化したのだと聞いている。身体改造、思考拡張の部分はこの数十年で飛躍的に理解が早まったのだと……」

 

「……ダレトって……何ですか?」

 

「ダレトは……ああ、そうか。ここはさすがに死後の国だから、ダレトは見えないのか。えっと……空に開いた大虚ろ、ってところかな」

 

 仰ぎ見た空は暮れかけており、夕映えには白き月が浮かび上がる。

 

「……お兄さんは、とても遠いところから来たような……そんな感じがします。あたしなんかじゃ及びもつかないほどの……」

 

 生きていた頃の事を遠い事だと評するのならば、間違ってはいないだろう。

 

 ハイデガーは何でもないように遠巻きにこちらを眺める人々の視線を観察していた。

 

「別段、遠いって言うわけでもないと思うけれどね。死はいつだって近いものさ」

 

 それにしたところで、街路樹を超えた先にあったのは時代錯誤もいいところの豪邸であった。木目造りで広大な庭を整えている。

 

「これが君の?」

 

 こくりと頷いた少女に、なるほど、さもありなんとハイデガーは理解する。

 

 街の人々からは度の過ぎた成金は嫌われているのだろう。

 

 加えて自分の娘をライドマトリクサーに仕立て上げれば、嫌味の一つも出てくる。

 

「……あ、こっちから入ってください。表から入ると、お父様が……」

 

「君は親にも嫌われているのか?」

 

 裏庭に繋がる折れ曲がった通路を赴きつつ、少女が首肯したのを目の当たりにしていた。

 

「……どうしたものかな。死んだ身で言うのも何だが、悲観が過ぎるような気もするな。君はRM身体改造施術がそれほど浸透していない土地で過ごしたにしては、連邦の名を騙る連中と繋がりがあるようにも聞こえるし……。まぁ、地球連邦の権威なんて“夏への扉事変”を最後に失墜したようなものだけれど」

 

「……お兄さんは、分からない事を言うんですね。地球連邦は……健在ですよ」

 

「……まぁ、確かに。地球重力圏では未だに発言力は高いと聞く。……うん? そう考えるとここは地球圏か」

 

 月が見える位置ならば当然とも言えたが、そもそも自分は《ダーレッドガンダム》と戦闘した時点ではコロニーの制空権であったはずだ。

 

「……あの虹の光……あの後何かが起こって、僕は地球にでも跳ばされたか?」

 

「その……五分だけしか誤魔化せませんので……」

 

 開錠した少女に引き続き、ハイデガーは豪邸の中に入る。

 

 裏口から足を踏み入れた豪邸の内部は思ったよりも簡素で、巨大なシャンデリアの輝くロビーを抜けてしまえば、表の豪華絢爛さは嘘のように静まり返っている。

 

「……まるでハリボテだな」

 

「この部屋です。あたしの……部屋……」

 

 少女は自室の鍵を開け、自分を招く。

 

 死後の世界とは言え、少女の姿を取った死神に率いられるとは想定してもいない。ハイデガーは襟元を正して、ゆっくりと足を進めていた。

 

「……思ったよりも何もないんだな……」

 

「はい……。でも本だけは……」

 

 四方を本棚で埋め尽くされているが、生活雑貨のようなものは存在しない。

 

 せいぜい、質素な机の上にある地球儀の模型くらいなものだ。

 

 本棚も見た事も聞いた事もないような著者の本ばかりで埋められていて、ハイデガーにしてみれば少しばかり居心地も悪い。

 

「……ハードカバーの本ばかりなんだな」

 

「お爺様が遺して行った部屋なのだと、お父様からは聞かされています。祖父も随分と前に他界したので、ここだけがあたしの専用部屋のようなもので」

 

 一冊のハードカバーを手に取り、パラパラと捲る。

 

 少女は先ほど自分の買い付けた本を机の上に置いてから、そっと向き直っていた。

 

「……その、ありがとうございました……。あのままじゃあたし……どうなっていたか……」

 

「別にいいんだ、そんな事は。些細なものだろう? それに……僕からしてみれば地獄の歩き方を知っている人間に……いいや、天使か何かに会えたようなものだからありがたい」

 

「……あたしが……天使……?」

 

「違うのか? じゃあ死神か何かかな」

 

 もう死した以上、恐れるものでもないと少し軽口になった自分へと、少女は拳をぎゅっと握り締める。

 

「……お兄さんは……その、不思議な事を言うんですね……」

 

「そうかな……。僕は自分を平凡なのだと規定しているけれど」

 

 巻末には本の著者の名前が記されている。

 

 どのような本でも、終わりは来るものなのだ。

 

 それは人生の辿るべき結末そのもののようで、ハイデガーは僅かに感傷に浸る。

 

「……お兄さんは、あたしの事、怖がらないんですね……」

 

「言ったろ? 僕も全身RMだ。君よりも随分と先進技術で固めただけの……ああ、そうだな。臆病者さ」

 

「お兄さんが……臆病者……ですか……?」

 

「きっと、そうだったんだろうな。僕は一体、何を恐れていたのだろう。……ベアトリーチェに居られなくなる事だったんだろうか。それとも、エージェント、クラードの実力でも、恐れていたのか……。生きていた頃は随分と色んなしがらみに縛られて、臆病であったと感じるよ」

 

 それも、死んだ今となっては存外に凪いだ胸中であった。

 

 クラードへの怨念も、カトリナへの歪んだ恋心も消滅している。

 

 死はある一面では救済なのだと、こういった時に実感するものなのか、とハイデガーは別の本へと手を伸ばしていた。

 

「……哲学書か。今の僕には必読本かな」

 

「……あたしには、ここにある本の一部分も分かりません。でも……本を読んでいる間だけは、この世の全てを忘れられるから……。だからあたしは……本の世界に逃げているのかも……」

 

「逃避も充分な人間活動の一つだよ。僕はそうなのだと思っている」

 

「……でも、迷惑をかけて……しまいましたね……」

 

「そんな事はないさ。今度、本を買いに行くのならば付いていくよ。僕みたいな軍属くずれでもボディガードくらいにはなる」

 

 少女があれほど罵倒される理由が思い至らないのもあったが、死んだ場所でまで人間同士の醜い争いを見たくなかったのもある。

 

 少女は口元だけで微笑み、面を伏せていた。

 

「……優しいんですね、お兄さんは……」

 

「僕は優しくなんてないよ。当たり前の事をしているだけだ」

 

 文字情報を拡大された視覚野で処理する。

 

 最新鋭のRM施術は、文字情報をリアルタイムで翻訳し、どれほどの哲学の礎であろうとも解読してみせる。

 

 これもある意味では脳に地獄を飼っているようなものだ。

 

 彼の哲学者達が一生をかけても至らなかった真理めいたものに、自分は一瞬でアクセスする事が出来る。

 

 膨大なメタデータと情報処理能力を有した全身は、それだけで呪われるべき代物だ。

 

「……そういえば、情報処理の外部ストレージデータが正常作用すると言う事は、地獄にも量子コンピュータ並みの処理能力を実現する演算機器があると言う事か」

 

 どこか不思議な心地で呟くと、少女は窓の外へと手招く。

 

「この街は圏内ですから……。きっと、あの処理場へとアクセスしているのでしょう」

 

 少女が指示したのは工場地帯であった。

 

 銀盤の無骨な前線基地は、今も忙しい音が鳴り響く。

 

「……あれが地球連邦の?」

 

 少女は頷き、その先を声にする。

 

「……ええ、実験施設です。あたしが聞いた限りでは、テスタメントベースと呼ばれているそうです」

 

「……テスタメントベース、か。奇縁だな。死後の世界にも同じ名前の施設が存在するなんて」

 

 かつてベアトリーチェの目指した最終目的地点であり、月のテスタメントベースには文字通り「全て」があるのだと認識されていた。

 

 それも三年前の事象だ。

 

 今さらどうこう言う領域でもない。

 

「……お兄さんは、何でテスタメントベースにアクセスを? あの場所は、あたし以外の介入を拒むと聞いています……」

 

「……それは……技術的な問題だろうね。僕のほうが君のRM施術よりも上らしい。これも奇妙と言えば奇妙か。死んでまでRM施術の呪いじみたものに左右されるなんて」

 

 ハイデガーは試しにテスタメントベース中枢へと思惟を飛ばしていた。

 

 電子の意識は容易く第三十六層までの隔壁を突破し、テスタメントベースの擁する機密情報へと触れる。

 

 ――ここまで容易いセキュリティも珍しいな。まるで何十年も前のログデータだけで構成された防壁だ。

 

 無論、抗生防壁が作用しすぐにでもハイデガーの意識の撤退を求めたが、手を薙ぎ払うだけでそれらのセキュリティ障壁は意味をなくしていた。

 

 ――あまりにもセキュリティが甘過ぎる。何だって言うんだ、ここは。……いや、死後の世界か。

 

 最重要機密までの距離は一歩歩むよりも近い距離にあったが、ハイデガーはあえて表層のデータのみを拾い集め、現実の肉体へと帰還する。

 

「……っと。これは……第七機密情報……。あれだけ大仰な外見でこんな情報隔壁、盗ってくれと言っているようなものじゃないか」

 

 少女は今しがた自分のやってのけた芸当に息を呑んでいるようであった。

 

「……何を……したんですか……?」

 

「何って、電子戦闘……ああ、そうか。死後の世界にそんな概念はないのか」

 

 ハイデガーは脳内ネットワークに貯蔵したデータ照合を行おうとして、エラーの反証に塗り潰される。

 

「……時期情報のエラー? 最新の情報にアップデートもされていないってのか、まったく……」

 

 その部分を黒塗りで誤魔化し、ハイデガーが認証したデータネットワークは――あまりにも稚拙なものであった。

 

「……何だ、これは……。連邦政府の汚職や非人道的な実験の数々の情報が、こうも簡単に……? どうにも、死後の世界と言うのはセキュリティから成っていないようだな。とは言っても、もう死んでいるのだから意味なんてないけれど」

 

「……お兄さんは……神様か何かなんですか」

 

 見ず知らずの少女に神だと信奉されるほどに、この場所の情報機密レベルは低いのだろうか。

 

 それとも、地域情報の問題か、とハイデガーはマッピングを行おうとして、先ほどと同じく日時の情報の齟齬に突き当たる。

 

「……またか。どうしてこうも……更新情報の食い違いが……」

 

 情報を最新のものにしようとして反証されたのは「無効な日時」という結果であった。

 

「……そんなはずがないだろう。無効なんて事は……」

 

 しかし何度書き換えようとしても、その部分だけが該当し得ない。

 

「時刻情報をグリニッジ標準時に設定。これで最新のものになるはず……」

 

 だが、無効化されたエラーは戻る事はない。

 

 ハイデガーは苛立たしげに後頭部を掻いて、日時情報を照合していた。

 

 ――と、そこである事実に気付く。

 

「……来英歴241年……? あまりにも前の情報で止まっているんだな。これじゃ、日時の書き換えだけでも膨大な……」

 

 はた、と更新の手を止める。

 

 どれもこれも、甘いばかりの機密情報管理。

 

 そして、識別される日時は示し合せたかのように来英歴241年を示している。

 

 ハイデガーは少女へと問いかけていた。

 

「……今日は、何年の何月何日だ?」

 

 少女もまさかそのような基本的な事を尋ねられるとは想定していなかったのだろう。

 

 少しまごついてから、カレンダーを照合したようであった。

 

「えっと……来英歴241年、4月7日ですけれど……」

 

「241……? 294年ではなく……?」

 

「は、はい……。五十年も後の話を……どうして?」

 

 まさか、とハイデガーは先ほどの機密情報と共に基本設計骨子へとアクセスを試みていた。

 

 自動的に日時を刻むはずの時計は「来英歴241年」の春を示している。

 

「……嘘、だろう……。僕がじゃあ、ここに居るのは……」

 

 ここが天国でもましてや地獄でもないとすれば。

 

《ダーレッドガンダム》によって跳躍した、この時空は――。

 

「あの……大丈夫ですか……? すごい、汗……」

 

「君は……? 君は何だ……? もし……僕の想定している最悪なのだと考えて……じゃあ君は? ……五十三年も前の昔に……君ほどのライドマトリクサーなんて存在し得ないはずじゃ……」

 

「何を仰っているのかは……あたしには分かりませんけれど……名前を、そういえば名乗っていませんでしたね。……助けられたのに……」

 

 少女は顔を覆い隠す髪を両側に払い、頬に至ったRM施術痕と、隠されていた黄金の瞳でこちらを見返す。

 

 その幼いかんばせに――戸惑いを浮かべて。

 

 唇が紡ぎ出した名前は、たった一つの呪縛とでも言うように。

 

「……あたしの名前は……ピアーナ。――ピアーナ・リクレンツィア……です。地球連邦の生み出した、初の……全身ライドマトリクサー……と、されています……」

 

 所在なさげにそう名乗った少女――ピアーナにハイデガーは這い上る恐れを感じ取っていた。

 

 ――これは何だ?

 

 否、これがもし、現実だとするのならば――自分のほうが何者だと言うのだ。

 

「……《ダーレッドガンダム》……エージェント、クラードに……僕は殺されたわけじゃなかったって言うのか……? この地点まで……僕は“跳ばされた”?」

 

「あの……顔色悪いです……よ? あたしが言うのも……何ですけれど……」

 

「そうなのだとすれば……僕がここに居る事そのものが……この時代においての……」

 

 信じたくはなかった。

 

 しかし認めてしまわなければ、この現実の整合性は取れない。

 

 あまりにも脆弱なシステムに、時代錯誤なRM施術者差別。そして、この時代でも適応出来る、ピアーナを名乗る少女の存在。

 

 全ての照合結果が、ある一点を指し示す。

 

「……ここは来英歴241年の……地球。ピアーナ・リクレンツィアが人類初の全身RMとなった……その年……」

 

 もしそうなのだとすれば、自分はまだライドマトリクサーの自覚に慣れていないピアーナと出会っているのか。

 

 そして彼女の記憶に――否、記録に干渉しているとすれば。

 

「……何て事だ。僕は……死んだわけでもなければ、ましてや天国でも地獄に堕ちたわけでもなく……ここは現実の延長線上だって言うのか……?」

 

 しかしそう理解すれば、これほどまでに飲み込める事象もない。

 

《ダーレッドガンダム》によって自分は五十三年前の地球に降り立ち、そしてピアーナを助け出した。

 

 その理由が分からずとも、理解は出来てしまう。

 

 理屈の部分ではない。これは、そうなのだと、認証すれば全てが楽に転がる。

 

「あの……大丈夫……ですか。やっぱり……あたしなんかを……助けなきゃよかったって……」

 

 こちらを慮るピアーナの黄金の瞳に、ハイデガーは何度か呼吸を落ち着けた後に、そっと応じていた。

 

「……いや、何でもない。……そう、みたいだな。僕は……五十三年の時を……超えたらしい……」

 

「その……よくは分かりませんけれど、お兄さんの……お名前は何と言うんですか? それが分かれば……あたしみたいなのでも……どうにか出来るかも……」

 

 ハイデガーは名乗りかけて、はたと口ごもる。

 

 ここでミハエル・ハイデガーの生存は、何かの影響を及ぼしかねない。そうでなくとも、恐らく人類未踏のタイムトラベルに等しい。

 

 片道切符であろうとも、何が起こってもおかしくないのだ。

 

 慎重に、ハイデガーは言葉を選ぼうとして、ピアーナの机に置いた書籍の著者へと視線を投じていた。

 

「……そうだな……僕の名前は……エーリッヒ。――エーリッヒ・シュヴァインシュタイガーと言うのが……名前……」

 

 

 

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