機動戦士ガンダムダレト   作:オンドゥル大使

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第232話「超越者達の座へと」

 

《レヴォルテストタイプ》が気取られた様子はない――とハイデガーは数か月を迎えた邸宅の窓より偽装迷彩を施された機体を垣間見る。

 

 全身ライドマトリクサーの網膜情報の中に辛うじて映る《レヴォルテストタイプ》の威容は、この時間軸においては恐らく畏怖すべき存在であろう。

 

「あの……エーリッヒ様。この間翻訳されていた文学作品を本当に……学会に発表するのが、あたしでよかったのでしょうか?」

 

「ん……ああ、それは構わないだろう。僕にとっては意味のない称号だし。それに、君の存在意義が増えたほうが、全身RMのモデルケースとしても都合がいいはずだ。これから先、ライドマトリクサー施術を受ける者達の背中を押す」

 

「そう……でしょうか……。あたし、確かに色んな人の賛辞を受けました……。全身RMは古代の文学ですら瞬間的に翻訳し、その精度は計り知れない……そう思ってもらうの自体は……嫌な気持ちはしないんですけれど……」

 

 ピアーナの言いたい事は分かる。

 

 外部翻訳ソフトがまだ安定していないこの時期のライドマトリクサーへ向けられる称賛にしては、過ぎたるものであるはずだからだろう。

 

 だが、ピアーナが現状、ライドマトリクサーのテストベッドなのだとすれば、彼女を嚆矢としてライドマトリクサー施術のハードルが下がればそれに越した事はない。

 

「君だって頑張っている。僕だけの栄光じゃない。ここに君のお爺様が遺した本がなければ、翻訳事業なんて立ち上げられなかっただろうからね」

 

 自分という存在の隠れ蓑にもなる。

 

「……ですが、それでも……エーリッヒ様がずっと書き上げようとしていらっしゃるそれは……あたしには何の事なんだか分からないんですけれど……」

 

「ああ、これか。これは……まだ起こり得ていない事象の話だから、しかも仮説論文だ。読まなくって正解だろう」

 

 築こうとしていたのは《レヴォルテストタイプ》のシステムログから探り得たダレトの基礎設計理論であった。

 

 アステロイドジェネレーターとひいてはミラーヘッドシステムの安定化はダレト出現後に全人類へともたらされた叡智。

 

 しかしこの時点では月のダレトが開く事も、ましてやその技術がオープンソースとなり、人界を一変させてしまう事を誰一人として知らない。

 

 知らない理論を築き上げる事は出来ないはずだ。

 

 少なくとも自分以外は。

 

「……創作物だよ。物語と一緒さ」

 

「でも……エーリッヒ様の翻訳された物語の言の葉は……あたし、優しくって好きです。言葉にも人の心って滲み出るんですね……」

 

 ピアーナは長い前髪で隠れた下ではにかんだのが伝わる。

 

 どうにもてらいのない感情をぶつけられるのはハイデガーも慣れていなくって、頬を掻いていた。

 

「そうかな……。自分でも意外な才能だったのかなと思う。僕は……戦う事くらいしか能がないのだと思っていたものだから……」

 

 語り部に成れるなど誰が想像したであろうか。

 

 クラードを憎み、カトリナを恨み、そしてベアトリーチェに居た全ての人間へと怨嗟をぶつけていた頃の自分は少し薄らいでいるようであった。

 

 それもこれも、五十三年前のこの時間軸での過ごし方に慣れて来たのか、あるいは未来の恨みつらみなど考えても仕方ないのだと、そう思わせてくれたのだろうか。

 

「きっと、エーリッヒ様には他人を慮る……そういう心があったのだと思います。だから、優しい物語を紡げるんです……きっと」

 

「……君に言われると照れるな。ピアーナ、僕は何もいい先生でもなければ師範でもない。だから……僕が教えられるのはせいぜい、全身RMとしての最善の生き方くらいなものだ。……今日もいい時間になって来たな」

 

 部屋の時計が正午を差す。

 

 ピアーナは一呼吸で電脳世界へと自身を浸し、自分と同じ記憶領域のストレージにログインしていた。

 

 ――うん。かなりレスポンスも早くなってきた。この調子なら、電子戦闘に打って出るのもそうそう遠い話でもない。

 

 ――あの、疑問なのですが……あたしに電子戦闘を教えて、どうするって言うのですか……? これまでこういうの、教わった事なくって……。

 

 ――戸惑う事はないよ。これから必要になってくる備えだ。それに、ライドマトリクサーとしての強みを知っておくのも悪い事じゃないだろう。僕が教えられるのはこの程度だが、今日は防壁迷路を潜ってみようか。テスタメントベースの機密隔壁の八層まで行こう。

 

 意識圏でそう伝えると、ピアーナは自分でも驚くほどの素養で防壁迷路を通過し、そして機密隔壁へと到達していた。

 

 その鮮やかさに教えている立場なのも一拍忘れてしまうほど。

 

 ――あの、エーリッヒ様……機密隔壁の五層までは簡単なのですが……やはり六層からは……。

 

 ――ああ、そうだね。ここに来てライドマトリクサーとしての歴が生きて来ると言うものだろう。抗生防壁が勘付いてくる前にダミー情報を三層まで維持、やれるかい?

 

 ――が、がんばりましゅ……っ、ふぇ……っ、噛んじゃった……。

 

 意識の網を手繰り寄せるのはピアーナのほうが上手だが、それでもまだこの時代の抗生防壁とは言え、少し鈍さを感じざるを得ない。

 

 だが、ライドマトリクサーとして戦えるようにならなければこの先、彼女は勝ち残っていけないだろう。

 

 一人前になるのを見届けるのに、自分は立ち会えない可能性のほうが高いが今は彼女の経験値を一つでも増やす事だ。

 

 ――僕は別の防壁へと潜り込む。リミットは三十分だ。それを超えればさしもの君とはいえ勘付かれかねない。

 

 ――は、はいっ!

 

 ハイデガーは自分の肉体へと意識を戻し、ピアーナの時間を補強するために敵性システムの関知範囲を遅らせていた。

 

「これで三十分は稼げるな……。さて、僕には僕の仕事が……ある」

 

 意識圏を別の方向へと向けて、ハイデガーが潜入を果たしたのは月面へとアクセスする権限を持つ天文台であった。

 

 直通の経路を持つのはこの星でも一つきりで、その一筋の道をハイデガーは辿り、そしてデータの集積体の扉の前に佇んでいた。

 

 ――これが、月にその拠点を構える存在の集積回路か。この時間軸にしては、恐ろしく精度の高い防壁を誇っている……が……。

 

 関知されずに潜り抜ける事も出来るが、ハイデガーはわざと相手に気取らせていた。

 

 瞬間、肉体へと防壁迷路を逆流して相手の情報が跳ね返ってくる。

 

 ハイデガーは全身RMの躯体を震わせ、その場に蹲っていた。

 

『……何者だ。我々に関知するなど……』

 

 声帯を震わせるのは子供の声であった。

 

 ハイデガーは喉元を押さえようとするが相手の情報をわざと飲み込んだのだ。そのため、脳髄が敵対存在の情報の瀑布に鈍る。

 

『我々の事を知っていなければこの最短ルートは取れないはず。貴様は何だ?』

 

「……ぼく……ぼぼく……僕……僕……は……あなた方を知っている。これ、は……デモンストレーションだ」

 

『有用に買い叩けと言うのかね? 悪いが、どこの木っ端ハッカーかは知らないが、過ぎたる行為は毒となる。脳幹を焼かれて死ぬがいい』

 

「……いい、のか……? ここに居るのは……僕だけじゃないぞ……」

 

 内部ストレージにピアーナの存在を匂わせる。

 

 しかし完全に察知させるわけにはいかない。

 

 あくまでももう一人観測者が居る事を相手に理解させるためだ。

 

『……賢しい手を使ってくるではないか。一人で向かってくるわけではないと言うのは』

 

「……あなた方相手に一人で対峙するのは少しばかり迂闊だろう……。僕は……先にも言った通り、自分の力を示すためにあなた方に接触を試みた」

 

『その行き着く先が破滅なのだとしても、か? あまりに迂遠だな』

 

「分かっているのならば……突きつけた抗生防壁を解除して欲しい。いつ脳が焼かれるのは分からないままでは交渉も出来ないだろう」

 

『……交渉、か。よかろう。抗生防壁を解除する』

 

 その段になってようやく、脳内への負荷が一段階減ったようだ。

 

 信じさせる事は出来ないが、疑いを逸らす事ならば出来る。

 

「……僕はあなた方の事を少しだけだが知っている。それは僕が……エーリッヒ・シュヴァインシュタイガーの名前を使ってからの事だ」

 

『我々も放置していた名前だな。偽書に用いるための封じられた偉人の名称だ』

 

 やはり、そうか、とハイデガーは察知する。

 

 ――エーリッヒ・シュヴァインシュタイガーと言う名の偉人は過去未来、ライブラリに存在しない。

 

 それは意図的に消された以外では考えにくい。

 

 では誰がその存在を消したのか――その命題に、ハイデガーはテスタメントベースを建造している大元を突きとめる事にした。

 

 謎の銀盤の地平、それを造り上げて何を成そうと言うのか。

 

 しかし難航した先に待っていたのは、天文台からの月への直通ルートであった。

 

 戻る術のない片道切符。

 

 もし相手が自分の想定以上の存在だとすれば、交渉権を持たないまま飛び込むのは自滅以外の何物でもない。

 

 ゆえにこそ――半年間、待った。

 

 この半年で収集出来た情報の網、そしてピアーナと言う存在。

 

 ピアーナに電子戦闘を教え込んだのは、こうして自分が彼らと対等に渡り合うためでもある。

 

 もしもの時にピアーナに全てを任せられれば、自分はここで朽ちたところで、彼女が行く末を理解して辿るであろう。

 

『貴様は……エーリッヒ・シュヴァインシュタイガーの名義で翻訳本を出しているのか』

 

「物語の翻訳だ。忘れ去られた古来の物語を、僕は再構築している」

 

『エーリッヒ・シュヴァインシュタイガーに許された領分を超えているな』

 

「しかし、あなた方が管理さえも忘れたこの名前に再び意味を持たせられたのは強いはずだ。……僕は予言を残すために、あなた方に接触した」

 

『予言、とは。酔狂なる事よ』

 

「どうとでも言ってくれ。……三十年後……異次元への超空間が開く。それは月のダレトと呼ばれるだろう」

 

『突飛な話し振りは相手への好感触とならないはずだが』

 

「突飛でもないはずだ。十年後……最初の使者がこの次元宇宙……来英歴を訪れる。その人物はこの世界に叡智をもたらし、人類は次なるフェイズへと移る」

 

 この札は《レヴォルテストタイプ》に内蔵されていた秘匿情報の一つであった。

 

 恐らくベアトリーチェが自分の離れた後、月軌道で手に入れた情報の一端が全てのレヴォルタイプへと同期されたのだろう。

 

 自分は訪れるべき未来の一つを知っている。

 

 そしてそれは、この局面において有用な切り札になるはずであった。

 

『興味深いな。だが、荒唐無稽な物語を紡ぐのがそちらの得意分野と見える』

 

「荒唐無稽でもないはずだ。星にテスタメントベースなる場所を造っているのは、そういったものへの備え……。既に月面付近において未知の粒子が観測されているはず。その粒子の名前は……フェルミノイド粒子……」

 

 アステロイドジェネレーターを扱う兵器を駆使するのならば、誰しもが聞いた事のある名前だが、この時間軸においてはまだその名称は「存在さえもしていない」。

 

 これは賭けに等しい。

 

 相手がその名称に準ずるものを想定しているかどうかの。

 

 だが、そうでなければ説明がつかない。

 

 そして相手が落ち着き払って自分の暴論めいた仮説を聞いている理由にもならない。

 

 この時間軸で全身ライドマトリクサーのピアーナが存在する事、そしてテスタメントベースが構築されつつある事から逆算した結果だ。

 

 恐らくは十年以内に、フェルミノイド粒子は発見されるのだと――否、発見されるのではない。

 

 人類が見出した事に「設定」されるのだ。

 

 他ならぬ「彼ら」によって。

 

『……我々の動きを察知している国家機関は存在しないはずだ』

 

『左様。フェルミノイド粒子と我々が命名したのはほんの半年前。それを盗み出すほどの諜報機関はまだ地球上に発生すらしていない。貴様は……本当に何者だ?』

 

 首の皮一枚で繋がった仮説に、ハイデガーは落ち着き払った様子を「取り繕って」、相手へと伝える。

 

「つい先ほど述べた通り。僕の名前はエーリッヒ・シュヴァインシュタイガー。あなた達が忘却の彼方に喪失した、偉人説である」

 

 こちらの言葉繰りに相手はこちらの喉を震わせて哄笑する。

 

『よくも吼えられたものよ。だがその胆力、そして豪胆さ、気に入ったと言わせてもらおう』

 

『我々も地球上に端末をいくつか配置しているがね、間に合わぬのだよ、どれほど急いだとしても』

 

 ――端末。

 

 恐らくその一つが、ピアーナ・リクレンツィアと言う少女。

 

 ハイデガーは奥歯を噛み締める。思考回路が怒りで白熱化していくのを感じ取っていた。

 

「彼ら」の思惑一つで人生を狂わされた乙女。

 

 そんな彼女に同情しないわけでもない。

 

 だが今は封殺すべき感情だ。

 

 ピアーナを利用している者達を、さらに大きな意思で利用し返すほどでなければ食い破られるのはこちらのほうとなる。

 

「……僕はあなた方の運用方針に従おう。端末とやらの有用な活用法も提案したい。どうだろうか? 毎日、この時間帯。僕の脳内ネットワークへとアクセスしてもらうと言うのは」

 

『そちらの脳内ストレージはこちらの用意した端末よりも随分と手広なようだ』

 

『加えて慣れもある。どういう術かは分からないが、我々の思考拡張を無視して自らの内部へと飼えると言うのは希少だ。よかろう。第256番目の個体のネットワークをそちらへと常時アクセスに切り替える』

 

 まさか、常時アクセスの権限をいきなり渡されるとは思いも寄らない。

 

 ハイデガーが戸惑うよりも先に、「彼ら」のうちの一員のネットワークが脳内へと急速に構築されていく。

 

 通常のライドマトリクサーならば人格の書き換えに相応する複雑な接続方式であったが、ハイデガーが耐えられたのは来英歴294年時点でも最新鋭のものに準じていたからでもある。

 

 記憶と記録を激しく揺さぶられ、ハイデガーは脈打つ心拍の上昇に胸元を掻き毟っていた。

 

「……人間が耐えられるそれじゃない……」

 

 しかし、幾度かの身を破られる激痛と更新の後に、ようやく「彼ら」のネットワークの一部が自分の人格データに間借りされる。

 

『これで統一は果たされた。そちらの都合のいい時間帯に繋げて来るといい』

 

 だがこれは翻ってみれば、「彼ら」相手に筒抜けの思考回路という事になる。

 

 しかしそれくらいのリスクを負わなければいけない相手であった。

 

 半年間で培った情報網と、そして五十三年後の技術力がなければ自分は食い潰され、「彼ら」の言う端末の一つに成り下がっていた事だろう。

 

「……礼を言う。これであなた方と少しは話し合える」

 

『話し合いと言うのは互いに対等なレートから言える原理だ。まだ貴様に信を置いたわけではない』

 

「……それでも、少しずつであっても知らなければいけないはずですよ。あなた方はね……」

 

『確かに。こちらが用意するまでに地上にこれほどの技術力が発達していたとなれば穏やかではない。ゆっくりとその脳髄を解明させてもらおう』

 

 どうやら現状、すぐには自分の事を看破するだけの技術はないらしい。

 

 それだけは都合のよかった結果だろう。

 

『また接触する。貴様の名前を、今一度聞こうか』

 

 ハイデガーは呼吸を整え、そして「彼ら」へと宣告めいた名前を告げる。

 

「先にも述べた。僕は……いいや――私はエーリッヒ・シュヴァインシュタイガー。忘却の彼方よりこの来英歴を照らす者なり」

 

『その名前、しかと覚えたぞ』

 

 途端、接触が一方的に断絶され、ハイデガーは呼吸を荒立たせていた。

 

「……何て情報量だ、まったく……! 少しでも集中を切らせば、呑まれかねないなんて……」

 

 だが月面に陣取る理由も、そしてこの時代の人類を観測する理由もこれから聞き出せばいい。

 

 そう断じて安楽椅子に深く腰掛けた途端、毛布が背後から掛けられる。

 

 ハイデガーは習い性の動きで手刀を作り、背後に迫った影を押し倒していた。

 

「……え、エーリッヒ様……?」

 

「ピアーナ……。ああ、すまない。僕は……」

 

「あの……どこに接続されているのか分からなかったんですけれど……三十分を過ぎたので……」

 

 ピアーナは首筋に添えられた自分の手刀に悲鳴一つ上げなかった。

 

 全身RMの手刀はナイフにも匹敵すると言うのに。

 

「……何で、叫んで助けを呼ばなかったんだ」

 

「何でって……。あたしにとって……エーリッヒ様は信じられるお人ですから……。その……少しお疲れの様子でしたので、毛布を、と……今の時期は冷えます」

 

 そう言えば、とハイデガーは外の景色に意識を飛ばしていた。

 

「もう冬……か」

 

 雪化粧の街並みが広がり、木々を鳥達が揺さぶって羽ばたいていく。

 

「はい……。風邪を引いてはいけませんので……」

 

「僕は風邪なんて引かないよ」

 

「それでも……です。あたし、エーリッヒ様には体調を崩して欲しくないんです……」

 

 ピアーナの厚意を無碍にする気にも成れず、ハイデガーは毛布を受け取っていた。

 

 彼女は部屋に備え付けられているコーヒーメーカーを抽出する。

 

 芳しい香りがハードカバーのにおいと混じり合い、鼻孔をくすぐった。

 

「……あたしは……まだミルクとお砂糖がないと飲めないんですけれど……エーリッヒ様はよくご愛飲されているようでしたので……」

 

「ああ。これも……ある意味では生身の時の習慣が抜けないんだな……」

 

 マグカップから伝わるぬくもり。

 

 挽き立てのコーヒーの芳香は自ずと気持ちをリセットさせてくれる。

 

 ハイデガーは黒々とした液体に視線を落としつつ、先ほどまでの相手を思い返していた。

 

「……ピアーナ。抗生防壁はどれくらい持つようになった?」

 

「全然です。エーリッヒ様の抗生防壁の作り方に比べれば……。持って二十分と言ったところでしょう」

 

 対面に座り込んだピアーナが息をふぅふぅと吹いて冷まそうとする。

 

 口に含んでから、その熱さに舌を出して苦味を堪えているようであった。

 

 彼女もある意味では我慢する立場にある。

 

 自分が「彼ら」に肉薄するために、毎日のように電子戦闘の鍛錬だ。

 

 その上、いくら古代の物語を翻訳して少しばかりの称賛を得ているとは言え、彼女を排斥する街の人々の態度は変わらない。

 

 全身ライドマトリクサーなだけで、この時代では異端。

 

 しかし、「彼ら」は端末と評した全身ライドマトリクサーを数名以上は用意している口ぶりであった。

 

 それはこの地球上に、ピアーナ以外の同朋が居る証明ではないだろうか。

 

「……いや、よそう。居るか居ないかも分からない戦力を当てにするのは」

 

 それよりも目の前のピアーナの面倒をきっちりと看るほうが大事だ。

 

「……どうしたんですか……エーリッヒ様……」

 

「何でもない。僕にとっては君が大事なのだと、理解したまでの話さ」

 

 ピアーナは茫然とその言葉を聞いた後に白磁の頬を紅潮させていた。

 

「……あ、熱いですね……、その、コーヒー……」

 

「ああ、目を覚ますのにはちょうどいい」

 

 ハイデガーは思索を巡らせる。

 

「彼ら」に接触する次の機会は慎重に練らなければいけないが、既に自分のネットワークの中に枝を付けられている。

 

 この状態ではそうそうこちらの優位にだけ転がるわけでもないだろう。

 

 如何にこの時代において全身RMが解析されない技術だと言っても、「彼ら」相手に何度も同じ立ち回りは不可能だ。

 

「……少しばかり、準備を要するかもしれないな」

 

「彼ら」の攻防をかわすのは難しいかもしれない。

 

 しかし、自分は五十三年の月日の隔たり分、技術面では上に立っている。

 

 ならば、この全身RMの禁術、今使わずしていつ使い潰すと言うのか。

 

「……エーリッヒ様。何か……危ない事をされているのでしたら……その……あたしが言える事じゃないでしょうけれど、お手伝いさせてください。あたし……エーリッヒ様のお手伝いなら、喜んでします」

 

「気持ちは嬉しいが、今は翻訳に時間を費やしたほうがいいだろうね。全身ライドマトリクサーへの理解をもっと深めないと。……僕だって下手に街を歩けもしないし」

 

「ごめんなさい、あたし……。気の付かないぐずで……。エーリッヒ様の気持ちが……分からないなんて……」

 

 しゅんとしたピアーナへと、ハイデガーは歩み寄ってそっと頭を撫でてやる。

 

「ピアーナはよくやっているよ。君は僕の誇りだ」

 

「……エーリッヒ様……」

 

「だから今は、無茶をする時じゃないんだろう。僕達がいずれ、何の憂いもなく街を歩けるようになるのには、ピアーナ、君の手助けが必要なんだ」

 

 窓際へと歩み寄り、凍て付いた空気を感じ取る。

 

 もう半年――否、まだ半年だ。

 

 自分達には出来る事の一つや二つ、もっとあるはずなのだから。

 

「……あたし、翻訳……エーリッヒ様に頼ってばっかりじゃなくって、自分でもやりたい……です。あたしに出来る事……何でも言ってください……」

 

「その心構えだけで充分だよ、ピアーナ。それにしても……そうか、雪景色はこんな風に……綺麗だっただろうか」

 

 自分の中で時間は止まっているのかもしれない。

 

 憎み、恨み、そして自らの席がないのだと認識したあの日から、ずっと。

 

 景色は廻ったはずなのに、その実感がまるでない。

 

 きっと自分は生きながらにして、修羅に堕ちていたのだろう。

 

 それを救ってくれたのは、ピアーナだ。

 

 五十三年前に堕とされた理由が分からなくとも、ピアーナに出会えた事はきっと、運命であったのだろう。

 

「……あの……何か……」

 

「いや、これも奇縁だな、と……そう思ってね」

 

 ハイデガーはコーヒーに口をつける。

 

 バサッ、とカラスが庭先で羽ばたいた音が響き渡っていた。

 

 

 

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