機動戦士ガンダムダレト   作:オンドゥル大使

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第236話「バッドパラドックス」

 

 だが、今の今まで否定する論拠があるのか。

 

 彼女はこの時刻になれば、決められたように部屋を出る。

 

 向かう先は――。

 

「……やめろ。やめたほうがいい……」

 

 そうなのだと、分かっているはずなのに、足は自然と部屋を出て最奥に位置する場所へと向かっていた。

 

 宵闇の降り立った邸宅は静まり返っている。

 

 遠くで鳥の鳴く声が聞こえてきた。

 

「……やめろ……」

 

 そうなのだと、“分かっていたはず”だろう?

 

 何故、今の今まで“目を逸らし続けて”きた?

 

 ピアーナの父親の部屋は豪奢な真鍮製の扉であったが、それが少し開いている。

 

 差し込むのは月明かり。

 

「……やめろ……やめておけば……」

 

 見ないでおけば。

 

 見ない振りを続けておければ。

 

 ――だって自分は――幸せだったじゃないか。

 

 この二年余り。

 

 ピアーナの傍で、彼女のすぐ近くで。

 

 満たされない自分に嫌気が差す事もなく、誰かを恨んで、憎んで、殺したいほど憎悪に沈んで自らを煉獄の炎に投げる事もなく。

 

 平穏で、なだらかで、安寧で、停滞で、静寂で。

 

 暗礁で、怠惰で、貧弱で、優越で、そして何よりも――必要とされていたはずだろう?

 

 それは「彼ら」からでもあるし、翻訳作家と言う身分でもあるし、誰よりも傍に居て笑っていてくれる――彼女のために。彼女の笑顔のために。彼女の心の平和を願って――。

 

 だから、開けてはならない。

 

 知ってはならない。

 

 進んではならない。

 

 真実を――もう嫌ほど見たじゃないか。

 

 人間は愚かで、醜悪で、おぞましく、何よりも利己的なのだと。

 

 三年分の憎悪を膨らませて、自分の脳髄を悪魔の発想で満たして。

 

 その結果がこれだろう?

 

 その結果が、負けたのだろう?

 

 その結果が――ああ、こうも耐え難い。

 

 指先は滑るように、扉に手をかけていた。

 

 ――等間隔に軋む寝台。

 

 ――鳴り止まない嬌声。

 

 ――脈打つ肉と肉のぶつかる音。

 

 ――男が少女へと覆い被さり、その悪意に満ちた肉塊を。

 

 ――迸る闇の快楽を。

 

 ――滾る悪魔の悦楽を。

 

 ――何度も、何度も。

 

 ――少女の未発達な白磁の肌へと放つ。

 

 ――彼女のようやく膨らみかけた胸元は白い憎悪に塗れ。

 

 ――ようやく女性らしさを誇りかけた躯体は喜悦と愉悦のはけ口とされる。

 

 だから――分かっていただろう。

 

 とうに。二年も前に。

 

「そうなのだ」と言う事くらいは。

 

「……エーリッヒ様……?」

 

 少女は――何度も何度も無理やりな絶頂に喉を枯らしたピアーナは――まるで意想外な自分の存在に目を見開いていた。

 

「……君は……ああ、使用人か? この時間には来るなと言っておるのに。まぁ、いい。どうかね? 君も一緒に楽しんでいかないか? なに、悪くは言うまいよ。使用人も給仕も皆知っての事だろう? 我が娘ながら、なかなかの逸物であると――」

 

 近寄ろうとした男を、ハイデガーは獣の瞳で拒絶していた。

 

「――それ以上、僕に近づくな、穢れた豚が」

 

 吐き出した言葉が想定外であったのか、あるいは本当に自分の事を使用人の誰かだと勘違いしているのか――男はいきり立ったままの下半身を隠しもせずに歩み寄る。

 

「何を、分かった風な事を言っているつもりなんだ? 穢れた豚と言ったか? わたしはこのリクレンツィア家の当主だぞ」

 

「だからそれ以上……彼女を……ピアーナを傷つける事は許さないと、言っているだろうが!」

 

 自分の剥き出しの殺意に、男は――ピアーナの父親はようやく、理性を取り戻した様子であった。

 

「……貴様、使用人ではないな? 何者だ?」

 

「エーリッヒ様……!」

 

「……娘をたぶらかす悪漢か。何も心配は要らないよ、ピアーナ。父さんがこらしめてやろう。……それと別に、お前にはもう少し今日の“仕置き”が必要なようだがね」

 

 仕置き――と言う言葉を聞いた途端、ハイデガーの脳内は白熱化していた。

 

 身を焼く憤怒がライドマトリクサーの躯体を跳ね上げさせ、ピアーナの父親を組み伏せる。

 

 軍隊式の挙動ですぐさま手刀を振るい上げ、その醜く肥え太った首筋を掻っ切らんとした、瞬間――。

 

「やめてください! ……お願い、やめて……エーリッヒ様……」

 

 寝台の上で、ピアーナが小さな身体一つを震わせて声を搾り出す。

 

 その一声がなければ自分は迷いなく、組み伏せた相手の首を刎ねていただろう。

 

 ぐぇっ、と醜い声を上げて締め上げた喉笛をハイデガーはようやく感覚する。

 

「……僕は……」

 

 身を離す。

 

 それから――自分が実行しようとした殺気の残滓に自ら中てられたように後ずさっていた。

 

「……ピアーナ……こんな事を……」

 

「お願い……こんな事だなんて……言わないで……。あたしにとっては……」

 

 泣きじゃくるピアーナの懇願にハイデガーの意識は出会った時の時間へと巻き戻っていた。

 

 ――街の盟主であろう、邸宅の娘でありながら街行く全ての人々から唾を吐き捨てられる乙女、ピアーナ・リクレンツィア。

 

 そんな彼女が、父親に真っ当に愛されていると思ったのか?

 

 そんな彼女が、歪まない愛を知って、自分の前で華のように笑ってくれると、そう錯覚していたのか?

 

 見ない振りをしていただけだ。

 

 知らない振りをしていただけだ。

 

 無知を気取り、蒙昧で騙し、その末にピアーナを――彼女を、救ったつもりでいた。

 

 自分の力で、ピアーナをこの牢獄のような時代から救い出したなんて驕り昂ぶって。

 

「……違う……」

 

 違わない。

 

 ピアーナを少しでも、生きやすいようにするために。

 

「……違う……」

 

 違わない。

 

 自分のような人間でも、生きていていいのだと誤魔化すために。

 

「……だから、違う……」

 

 違わない。

 

 ピアーナの姿に――ショートボブの黒髪を揺らすいたいけな少女の相貌に――恋い焦がれた女性を、重ねていたくせに。

 

 ハイデガーは満身から叫んでいた。

 

 身を引き裂く絶叫は、崩壊寸前の自我の糸を、ぷつんと切っていた。

 

 ここにあったのは、ただの無力な男。

 

 ここに居たのは、ただの無意味な自我。

 

 ここにあってはならなかったのは、誰かを助けるだなんて大義名分を振り翳して――その果てに誰も助けられないだけの、偽りの存在。

 

「……僕は……」

 

 殺さなくては。

 

 殺し尽くして、そして否定しなくては。

 

 直後に自分の意識が判定していたのは、「間違ったものは排除すべき」だという、シンプルな答えであった。

 

 ああ、だって――シアワセなユメはもう浸り尽くしただろう?

 

 目の前にあるのは現実だ。

 

 たとえ五十年前だとしても。

 

 ピアーナがベアトリーチェの日々を知る由もないとしても。

 

 あるいは、宇宙の深淵で救助される未来が来る事を理解さえも出来なくても。

 

「……笑っていた。笑っていたはずなんだ……ッ! ピアーナは……少なくとも僕の前に居る時は……だって何で……カトリナさんそっくりに……笑うんだよぉ……」

 

 分かっている。

 

 殺せもしない。

 

 否定も出来ない。

 

 自分に突きつけられたのは、無邪気に描かれた日々を啄んだ、骸の記憶。

 

 分かっていたじゃないか――カトリナ・シンジョウと、もう出会う事なんてない。

 

 分かっていたはずだろう――カトリナ・シンジョウは、自分を愛してはくれない。

 

 だから、どうしても重ねてしまった。

 

 求めてしまった。

 

 ピアーナに――彼女に似た微笑みを持つ、カトリナの代用品に愛を注げばこの想いは報われるのだと。

 

 ハイデガーにはもう、殺意も何もない。

 

 何もない虚無だけの、己の心を持て余す。

 

「何だと言うのだ! 使用人風情が、わたしに盾突きおって……!」

 

 ピアーナの父親が壁に立てかけられていた銀の矛を握り締め、それを真っ直ぐに自分の肉体へと打ち下ろす。

 

「ハイデガー様っ!」

 

「……え、何で……」

 

 こんな土壇場で露見したのは――こちらをじっと見据えるピアーナの黄金の瞳より零れ落ちた一筋の涙と――捨てたはずの名前であった。

 

「死ねぃ!」

 

 矛が自分の肩口へと叩き込まれる。

 

 だが、機械仕掛けの身には――傷一つつかない。

 

 その手応えにピアーナの父親が眉を跳ねさせる。

 

「……貴様……っ!」

 

「……僕はこれじゃ、死ねない……」

 

 矛の刃を掌で握り締め、そのまま握力で粉砕する。

 

 気圧された様子の相手に肉薄し、首根っこを片手で締め上げていた。

 

 喉の奥から発せられるくぐもった声。

 

 豚の悲鳴だ、とハイデガーはそのまま破滅の衝動のままに頸椎を打ち砕こうとした。

 

 だがそれを、体温が遮る。

 

 何だ、と視線を投じた先には白磁の肌を月明かりに照らしたピアーナが、涙顔のままに頭を振っていた。

 

「……やめてください……やめて……お父様は、関係ないの……」

 

「かんけいないわけ……ないだろう……。こいつ……は、きみを……」

 

「お願いだから……っ! お父様を殺さないで……っ! ハイデガー様……!」

 

「ハイデガー……って……だれだ……」

 

 もう遅い。

 

 壊れてしまったものは、もう取り戻せない。

 

 壊れてしまったものは、二度と元には戻らない。

 

 それでも、ピアーナの体温がぎゅっと、自分の暴力の衝動を押し留めていく。

 

 その段階になってようやく、ハイデガーは目の前で苦しげに呻くピアーナの父親の姿を認めていた。

 

 金と利権で、肥えるだけ肥えた手足。

 

 肉に埋もれた欲望ばかりの末端。

 

 それを――赦せと言うのか。

 

 ピアーナは、どれだけこの男に身を捧げて来たのか分からない。

 

 どれだけ苦しくても、目の前で「取り繕って」笑ってきたのか、分からないのに。

 

 だと言うのに、赦せと。

 

 殺すなと言うのか。

 

「……ハイデガー様……っ!」

 

「……だからそれは……僕の……名前……だ」

 

 指先から不意に力が失せる。

 

 何度も咳き込んで痛みと吐き気に俯くピアーナの父親へと、ハイデガーはよろめいていた。

 

「……お願いです……っ、殺さないで……」

 

「でも、君は僕の前で……どれだけ無理をしていたんだ……。どれだけ……苦しかった……はずなのに……」

 

 気付かないでいた。

 

 否、気付いていたのだ。

 

 とっくの昔に、ピアーナは彼女の最愛の父親から凌辱されているのだと。

 

 分かっていたのに目を逸らし、理解者を気取って来た。

 

 その罰なのか、これが。

 

 これが罰だと言うのだろうか。

 

 クラードを憎み、カトリナへと満たされぬ愛欲を覚え、《レヴォルテストタイプ》を操ってまで恩讐の徒に成り下がろうとした挙句が、このザマなのか。

 

「……ああ……」

 

 何ていう報いだと言うのだろう。

 

 ハイデガーは自分の顔を覆って膝を折っていた。

 

 醜いのは自分だ。

 

 おぞましいのは、自分自身だ。

 

 膨れ上がった承認欲求と、そしてハリボテの偽善で塗り固められた己。

 

 ミハエル・ハイデガー――裁かれるのは、お前自身だろうに。

 

 嗚咽しても、涙しても、情けなく喚いても、それでもピアーナは離れなかった。

 

 こんなにも醜悪な自分は、彼女の前には居られないと言うのに。

 

「……大丈夫です、大丈夫です、ハイデガー様……。あなたはあたしにとって、世界を見せてくれた人……大切な人なんです。だから……あたしのために無理をしないで。あなたは……あなたのままで……」

 

「ピアーナ……僕は……何度も君を偽った。分かった振りをして、分かった風になっていたんだ。君を救い出したかったんじゃない……。僕は……君に救われたかった……」

 

 求めている場所が違っていたとでも言うのだろうか。

 

 あるいは、求めている相手が違ったとでも言うのだろうか。

 

 ピアーナの父親が吼え立てる。

 

「……だ、誰か! この者を捕らえろ! 殺そうとしたんだぞ! わたしをだ!」

 

「お父様……このお方はあたしにとって大事な人なんです……。どうか、お気を鎮めて……」

 

「ならん! ならんぞぉ……ッ! わたしはリクレンツィア家の、当主なのだからなァ……ッ!」

 

 ああ、ピアーナの父親もまた、囚われている。

 

 身分か、それとも栄華か。

 

 自らを装飾するものに。

 

 自らを固める虚栄に。

 

「……ピアーナ……僕はもう、ここには居られない」

 

 ピアーナ相手に、もう二度と虚勢は張れないだろう。

 

 そう感じて身を翻そうとした自分の腕へと、ピアーナの体温がかかる。

 

「……置いて、行かないでください……。あたしにとっては……ハイデガー様が居る場所が……」

 

「ピアーナァッ! 賊を擁護するのか! わたしの娘だろうに!」

 

 その怒声にピアーナは縮こまって耐え忍ぶ。

 

 きっとこれまでずっと耐えてきた。

 

 苦しくても、辛くても、どれだけの厄災でもずっと。

 

 だからもう――耐えなくっていいはずなのだ。

 

「……君は僕が守る。守らせてくれ」

 

 上着をピアーナに被せ、その肩に手を置く。

 

 ピアーナも何度か躊躇うように父親のほうを窺ったが、その足は傷つき続けてきた部屋を後にしようとしていた。

 

「ピアーナァッ! お前が他の場所で生きていけると思うのかァッ!」

 

「いえ、きっと、彼女はこれから先、生きていける」

 

 ハイデガーは震え始めたピアーナの肩をしっかりと抱く。

 

「リクレンツィア家は五十年後には影も形もない。それだけは……言っておく。あなたは実の娘を辱めただけだ」

 

「何が分かると言うのだ、青二才め!」

 

 そう、何が分かると言うのだろう。

 

 自分にはきっと何も分かるまい。

 

 それでも、ピアーナが進むだけの道を作りたいと願うのは強欲であろうか。

 

 外に出るなり、使用人達が包囲していた。

 

 彼ら彼女らは猟銃用の得物を握り締めている。

 

「逃げ場なし、か。ならば――来い! 《レヴォルテストタイプ》!」

 

 風圧が舞い上がり、偽装迷彩を施されていた《レヴォルテストタイプ》が起動する。

 

 眼窩に攻撃色の光を湛え、《レヴォルテストタイプ》のマニピュレーターが邸宅を半壊せしめていた。

 

「鋼鉄の、巨人……」

 

 茫然自失の者達を置いて、ハイデガーはピアーナをコックピットへと導く。

 

 その最中で、眼差しはこちらを仰ぎ見るテトラへと注がれていた。

 

 彼女はどこか、祈るように自分達を目にしている。

 

 他の者達に浮かんだ明瞭な恐れとも違う、その瞳に浮かんでいたのは情景にも似た色であった。

 

「……来るのなら、来い」

 

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