「定期検診も完了。思考拡張はしっかりと馴染んでいるらしい」
ヴィルヘルムの診察を受けてから、シャルティアは肩口に疼く思考拡張の色彩を一瞥する。
「……ヴィルヘルム先生、さっきの……リクレンツィアさんの話ですけれど……」
「ああ、聞いていたのか」
ヴィルヘルムは煙草に火を点け、何度か煙い息を吐き出してから、項垂れる。
「……何も……思わないんですか?」
「ある意味では、当然の帰結だとも思った。ピアーナほどの全身ライドマトリクサーが、どうして生き延びて来たのか。そして、あの技術はどうして成り立ったのか。ハイデガーなる人物の存在は……未だに掴もうとしては消える蜃気楼のようであるが。それに……カトリナ君の持つ鍵にも秘密があるとなれば少しばかりややこしい。一体何を思って――」
「じゃなくって……! ヴィルヘルム先生、あの話の中に登場するのは……!」
「ああ、恐らく前任者たる父親だろうな」
前任者、と言う言葉にシャルティアは茫然とする。
「前任者って……」
「わたしの前の“ヴィルヘルム”だ。言ってなかったか? この名前もクラードと同じくコードネームのようなものだと」
「……でも、もうその名前って……」
「馴染んでしまったのが幸か不幸か、わたしは本来ならば次世代の“ヴィルヘルム”の育成をしなければいけない身分なのだが、エンデュランス・フラクタルに背を向けた今となっては、少しばかり持て余す役割になっている」
シャルティアは分け入る術を持たず、その話を黙って聞く事しか出来ない。
「……どうした? シャルティア・ブルーム委任担当官。聞きたい事はたくさんあるのだろう?」
「……です、けれど……聞いていいのかどうか……」
「分からない、かね? わたしは……ピアーナのこれまでの経緯と、そしてハイデガー……いいや、エーリッヒの結論には納得であった。月軌道決戦におけるわたしの不透明な言動は少しは頭に入っているだろう? 月のテスタメントベースで、わたしはエーリッヒ・シュヴァインシュタイガーを、少しばかりは知っていたんだ」
「……でも、エーリッヒなる人物はどれだけ文献資料を漁ってもそれらしい足跡はない」
「よく調べ上げたじゃないか。そうだとも。エーリッヒ・シュヴァインシュタイガーは偽書の偉人だ。彼の者を覗く時、彼の者もこちらを覗き込んでいる。わたしは父親である先代ヴィルヘルムより知識の全てを叩き込まれた。わたしにとってはね、あのような美しい思い出の父親ではなかった」
それは触れてはならない事のようでシャルティアは戸惑う。
しかし今、彼の傷口に触れられるのは自分だけだった。
「……ピアーナさんとシンジョウ先輩のお婆様の恩人でも、ですか」
「正直、ね。わたしにしてみれば父親の言っている事の半分くらいはもうろくした老人の言葉繰りなのだろうな、というのがあった。諦めていたんだ。父親を父親として認識する事に。だがピアーナの証言で、父親は間違っていなかった事が証明された……まったく嫌になる。嫌い切れない記憶の中の父親を、また思い出させられるようで」
灰皿に乱暴に煙草を揉み消したヴィルヘルムには平時の穏やかさは宿っていなかった。
彼もまた、痛みの末に今があるのだと、シャルティアは理解させられてしまった。
「……それは、ヴィルヘルム先生にとって、嫌な思い出ですか」
「……いや、気を遣わせてしまったな。すまない、わたしのような身分はもっと理知的に振る舞うべきだった。いくら父親の記憶だろうとね。客観的な物言いが欲しいんだろう。分かっているさ。だがね……わたしにとっての前任者は、もう終わっているものだったんだ」
「終わっている……って……」
「役割も、そして父親としても。先代ヴィルヘルムに畏敬の念を抱いた事は、きっと物心ついてからはなかったな」
押し付けられてきたのかもしれない。
それこそ理想を。
高尚なる意志を。
ヴィルヘルムはしかし、その立ち振る舞いも、そして自分の言動そのものが先代に似てしまっているそれそのものへの嫌悪がある。
「……ヴィルヘルム先生はでも、先代の……いいえ、お父さんの事が、信じたかったんじゃないですか?」
「……何故、そう思う?」
これまでになかった、本物の圧。
ヴィルヘルムはこの記憶に触れられる事を本質的に嫌っている、否、この感情はきっと――。
「……だってお父さんの事を信じていなかったら、月のテスタメントベースで率先してエーリッヒ・シュヴァインシュタイガーの事を信じたりはしなかったんでしょう? ヴィルヘルム先生はきっと……どこかでお父さんの事を……その意味があったんだと救われたかったんじゃないですか……」
ヴィルヘルムは震える指先で掴み取った煙草をくわえ、それから火を点ける。
分かっている。
誰しも触れられたくない思い出くらいはある。
自分だって、姉の事をとやかく比較にされたくはない。
それでも、ここでヴィルヘルム相手に向かい合って、彼の想いを吐き出させられるのは自分だけなのだ。
ならば、逃げてはいけない――楽なほうに転がっては駄目なのだ。
「……君の眼は期待の新人によく似ているように、なったな」
「……私が……?」
「恐れ知らずとも言う。ここは密室で、そしてわたしは大の大人だ。君をどうこうするくらいは出来た。それでも、君はわたしを真正面から覗いた。何故だ? どうしてそこまで他人に対して思い切れる?」
「……それはだって……とても辛そうに、語るから……。きっと嫌なんだと、痛いのだって分かるんです。でも、それは……触れて欲しくない理由にしちゃ……駄目じゃないですか」
「そうかな」
ヴィルヘルムの両腕が不意に首筋へと伸びる。
まるで構える事も出来なかった所作、そして混じり気のない――殺意。
首筋の傍で硬直した指先に、ヴィルヘルムが問う。
「どうした? 助けを呼べばいい。わたしが乱暴しようとしたのだと、言い触らせばいい」
「……しません」
「何故だ。何故なんだ、君もカトリナ君も……。何で……他人の痛みで、泣きそうになっているんだ……」
項垂れたヴィルヘルムへと、シャルティアは声を搾り出す。
「……だってそれが……人間である事の、証明じゃないんですか……。他人の痛みで泣ける唯一の生き物が……きっと人間なんですよ」
ハッと、ヴィルヘルムは身を引く。
その仕草に滲んだ畏怖に、シャルティアはその身へと抱擁していた。
――分からない。
腕の中のヴィルヘルムが静かに泣きじゃくる。
――分からない。
どうしてこうも、皆が弱々しく涙出来るのだろう。彼らは何故、こうも弱さを抱えて強さを誇ろうとするのだろう。
――分からない。
自分のような小娘が何故、ヴィルヘルムの痛みに触れられたのかも。
――分からない。
でも。
「……分かりたいのが……人間のはずなんです」
「……分かりたいだって……? そんな理由であの父親を許せるって言うのか……? “ぼく”は一度だって……分からなかったって言うのに……!」
涙声のヴィルヘルムはただのか弱い一個人であった。
自分へと説法を説く大人でもなければ、だらしがない大人でもない。
ここに居るのは剥き出しの自分を晒し合うのみの。
「大丈夫ですから。ヴィルヘルム先生……大丈夫です」
背筋をそっと叩く。泣きじゃくるヴィルヘルムは数拍の呼吸の後に、少しばかり平時の落ち着きを取り戻そうとしていた。
「……すまない。君に甘えるつもりはなかったんだ」
「いえ、誰だって……そういう風な場所って必要なんだと思います。それに、ヴィルヘルム先生だって辛いでしょう」
「……君も分かった風な大人の言葉繰りをするようになったな」
「……そう、でしょうか」
佇まいを正したヴィルヘルムはようやく語る気になったようであった。
「……先代ヴィルヘルムよりわたしは、エーリッヒ・シュヴァインシュタイガーの情報を得ていた。しかし、それはピアーナの口から語られたものとは少し異なる。わたしが知っていたのは話にあった“惑星のエーリッヒ”の側面ではなく、いずれ人類に福音をもたらすとされている月面のテスタメントベース……即ち、惑星の反対となる“月のエーリッヒ”に関してであった」
「それって……月軌道決戦の記録にあったものですよね? テスタメントベースの内側には、特定の周波数に反応する集積回路があったって言う……」
しかし半信半疑であった。
今の今までその情報を信じるに足る要素はまるでない。
だが、鼻をすすり上げたヴィルヘルムの面持ちと、そしてピアーナよりもたらされた真実が物語っている。
――この来英歴は“二人のエーリッヒ”によって成り立ったのだと。
「……わたしが危惧されていたのは“月のエーリッヒ”の動向のほうだ。その時が来るまで、“ヴィルヘルム”の名を継ぐのならば、テスタメントベース……約束の場所で“クラード”の名を継ぐ者の補佐をしろ、と」
「でも……何でわざわざ月面に? それも話の中じゃ分からないって言うか……」
「恐らくは……であるが、“月のエーリッヒ”も“惑星のエーリッヒ”も懸念事項はほとんど同じであったと推測される。わたしが接触した際、エーリッヒ・シュヴァインシュタイガーは明らかに観測する第三者を意識していた」
「その後に……クラードさんと、一体化したって、レポートには……」
「要領を得ない報告であっただろうが、しかしそうとしか言いようがない。クラードは“月のエーリッヒ”の意識の連続体と呼べるものと融合し、そして進化した。恐るべき存在、“波長生命体”へと……」
震える指先で煙草の箱の底を叩き、ヴィルヘルムは紫煙をたゆたわせる。
「……私にしてみれば、クラードさんが“波長生命体”とやらになったって言うのも実感がないって言うか……。だって、それだって架空の存在でしょう?」
「架空であった……いいや、架空であればよかったのだが。そろそろ聡い者達は気付き始める頃合いだろう。波長生命体が聖獣を駆ると言う意味も」
「どういう……」
「詳らかにするのには、少し憶測が過ぎるな。一度、会わなければいけないだろう」
「それって……」
「……君も来るか、シャルティア委任担当官」
腰を上げたヴィルヘルムの相貌にシャルティアも覚悟の意志を通わせていた。
「……はい。何があったとしても、私は自分に出来る事を全うしていきたいですから」
「……その真っ直ぐさが時に君を傷つける……いや、これは要らぬ警句だな」
ヴィルヘルムは灰皿に煙草を押し付けて消してから、医務室を立ち去っていた。
シャルティアは服飾を整えてからその後ろについている。
ヴィルヘルムが向かったのは格納デッキの中でも外郭に位置する部分であった。
昇降用のエレベーターに飛び乗り、何と彼は今もオフィーリアの守りについている《サードアルタイル》に接触しようとする。
「ま、待って……ヴィルヘルム先生……! 聖獣は危険です!」
「それでも、聞かねばならないはずだ。わたしの功罪でもある。グゥエル君、居てくれているか?」
『ヴィルヘルム先生……? どうしたんです、物々しい……』
周辺を取り囲む凱空龍の元の面々は重武装だ。
グゥエルからしてみれば、それでさえも困惑の種なのだろう。
「……分かって欲しい。敵は、IMFだけでもなさそうなんだ」