誰かの呼ぶ声が、聞こえたような気がした。
顔を上げるが、骸で構築された砂浜は凪いだまま。
赤い血潮の波は変わらない時間を刻んでいる。
「……私は、ここで朽ちていくしかない。そうなのでしょうね」
最早諦めもついた。
ワンピース一枚だけの自分へと、骸骨が覆い被さる。
『キルシー……君を、護る……よ……』
「もう必要ない。全部……壊れてしまえばいい」
蹲ったままキルシーは破滅への願望を語る。
世界なんて焼け落ちてしまえばそれで全てが終わる。
そんな絶望の淵に佇むのがお似合いなのだ。
だから不意に世界に亀裂を生じさせた「聲」を――にわかには信じられなかった。
『キルシー……っ!』
「……ファム……?」
そのようなはずがない。そう思いながらも絶望の白い砂浜で、キルシーはゆっくりと顔を上げる。
赤い波間の向こう側から声が、自分を呼ぶたどたどしい声が聞こえてくる。
思わず腰を浮かしかけて、骨ばった騎士が足首を掴む。
『行っては駄目だよ、キルシー……私が……護るから……』
誰を信じればいいのだろうか。
嘘としか思えない幻聴だろうか。
それとも、自分を護るとのたまうこの骸骨の騎士であろうか。
『キルシー……っ!』
「ファムが……ファムが呼んでいるの……? でも……あなたはだって、私を裏切った……!」
思念が波風を立たせ、世界が敵意の色相に染まる。
自分を中心軸として風圧が巻き起こり、拒絶の旋風が幻聴を遠ざけていた。
『そう、だ……それでいい、キルシー……もう、傷つく事なんて……ない』
『キルシー……っ!』
「やめて……うるさいうるさいうるさいうるさい……! あなたなんて嫌いよ、ファム! あなたはだって、私を救ってくれる女神じゃなかった! 私を裏切って……それで今は幸せなんでしょう? なら……私なんて、最初から要らなかったんじゃない……」
『……キルシー……でもファム……キルシーのこと、すき……だよ……』
「やめて。ファム、あなたには人の心なんて分からないんでしょうね。一度裏切られてしまえば……どれほどの事を諦めてしまうのか……。一度見限られてしまえば……どれだけ……願ったって祈ったって……無駄なんだって分かってしまうのよ……!」
脳裏に浮かび上がるのはあの日、自分を見捨てて出奔してしまった姉の背中があった。
どうして連れて行ってくれなかったのだろう。
子供だったから?
弱かったから?
それとも――邪魔だったから?
「……お姉様は……私なんて要らなかった……だから、置いて行った。私を……あんな籠の鳥のような場所に……!」
『ちがう……ちがうよ、キルシー……。レミアは、そんなひとじゃないよ……』
幻聴はやはり都合のいい言葉を吐くものだ。
ファムがレミアを知っているはずがない。
「……あなたに何が分かるの? お姉様は……私なんて生まれないほうがいいって思っていたんだわ。だから……! 平気で置いて行けた! 平気で見捨てられた! ……もう、思い出しさえもしないでしょうね……私の事なんて、とっくの昔に見限られたのよ……! だからもう……優しい世界なんて、要らない」
世界が色相を失う。
白と赤ばかりの暗色の世界で、波風が吹き荒れ、骸の砂浜が風圧で乱れる。
「私は……最初から一人ぼっち! 一人ぼっちの……ただの道化! ファム、あなただって笑っていたんでしょう? 無駄な事をしている、馬鹿な女だって! どうせ、私なんて誰も必要として……ない」
『それは違う……違うはずです……っ!』
「……誰の声……?」
ファムの声が生じた場所より、抵抗のような声が発せられる。
『レミア艦長は……あなたを助けて欲しいって……殺したくないはずなんです……っ! でも、あなたを止めないといけない。だから、私達に託してくれた……!』
「意味の分からない事を……じゃああなたは私に何をしてくれるの? 何も出来ないでしょう? だって言うのに、無責任な事を言わないで!」
拒絶の風が吹き荒び、声を吹き飛ばさんとする。
その刹那に、ファムの声が響いていた。
『ミュイ……でも、ファム、キルシーといて、たのしかったよ……? なのに、キルシーはファムといて、たのしくなかった……の?』
「楽しかった? そんなのまやかしよ! ファム、私はあなたの事なんて大嫌い! あの時……見捨てればよかった! 手を差し伸べた事も後悔しているわ! そのままどこかの貴族の物になってしまえば、それでよかったのよ! あなたなんて……最初から居なければ……!」
その時、世界が鳴動する。
鋼鉄がぶつかり合う音が残響し、キルシーは声を途切れさせていた。
「……何の音……?」
『そんな事……そんな事……言わないでください……っ! ファムちゃんはあなたの事を……ずっと、ずっとずっと……! 助けたかったはずなんですっ! そんなファムちゃんの気持ちを踏みにじるのが……友達なんですか! 本当の友達なら……痛みだって背負い合える……!』
「何を……そんな正論、今さら説かれるまでもないわ。友達? そんなもの、感じた事もない。私は昔から、ずっと一人……キルシー・フロイトに友達なんて居なかった……!」
かつての記憶が足を取ろうとする。
泣きじゃくっていた過去が、不意に思い出されてキルシーは敵意の嵐を躊躇ってしまう。
――友達なんて居なかった。ずっと一人の世界だった。
『ミュイ……でも、ファムとキルシーは……ともだち……だよ……?』
「やめて。そんな言葉で……私の中に入って来ないで! 何を無遠慮に……あなた達が私に何が出来るって言うのよ!」
そう、もう手遅れなのだ。
全ての世界は白と赤に分かたれ。
自分は永劫、この罪人の砂浜で囚われる。
その運命はとうの昔に、受け入れたはずなのに。
またしても、鋼鉄を破砕する音が響き渡る。
「……何を、やっているの……? もう無駄なのよ! ファム、あなたなんて大嫌い!」
『じゃああなたは……打算だけでファムちゃんと付き合っていたって言うんですか……っ! そんな歪んだ気持ちだけで……ファムちゃんと……っ!』
「そうよ、悪い? ……クランスコール令嬢の身分は色々と使えるはずだって、そんな計算だけで!」
吹き荒れる嵐。
砂浜が崩れて行く。
その内側で脈打つのは無数の骸骨の群れであった。
自分を許しはしない。
自分を、この場から離しはしない。
もう、永遠に裁かれる時なんて来ない。
地獄の片隅で、こうして囚われる事でしか。
だがまたしても――鋼鉄が衝突するような鈍い音が響く。
「……だから何をしているんだって……今さら意味なんてないのよ! もう放っておいて!」
『出来ません……っ! 出来るわけ……ないじゃないですか……っ! だって、あなたはレミア艦長にとって大切な人で……ファムちゃんにとっても大事な人で……なら私にとってもそう! 幸せに――成るんだぁ……っ!』
キルシーはその言葉の芯の強さに僅かに後ずさる。
「幸せ……? そんなもの、最初からなかった! なかったはずなのよ! ……私はどうせ、貴族に抱かれて……それで子供を産むような道筋しかなかった! 利用されるだけされて……最期の最期にそれを幸福だったって自分に言い聞かせるの……それが……せいぜい許された幸せで――」
『そんなの……っ、本当の幸せって言いませんよ……っ! 誰だってそう! 幸せに……成れるんですっ!』
どこまでも耳障りな声だ。
それでいて、この絶望の極致にあると言うのに、何故なのだか声が自分の中で響き渡る。
もう諦めを踏み越えたと言うのに、今さら幸せなんて事をのたまう。
「……やめて……そんなもの……ない」
『ミュイ……! キルシー……!』
耳を塞ぐ。
世界を拒絶する。
それで全て事足りたはずだ。
全て終わりでよかったはずだ。
だと言うのに、まだ――諦め切れない己の弱さが。
どこかに希望があるのだと思いたい弱い己が。
「……本当に……あなたは……私の事を……憶えていて、くれるの? だって、思い出さないほうがいいに……決まっているのに……」
『ミュイ! キルシーのこと、わすれるわけ……ない……! だって……ファムたちは、ひとりじゃない、よ……!』
その言葉と共に天上が割れていた。
灰色に染まった世界が砕け落ち、明るい光の生じた空から、無数の弾痕を付けられた兵器が手を伸ばす。
コックピットから顔を覗かせた相手にキルシーは戸惑う。
「……ファム……本当に、ここまで来てくれたの……?」
「ミュイ……っ! キルシー……!」
白銀の髪を舞い上がらせ、ファムの身体が骸の砂浜に降り立つ。
それは決して、女神のように荘厳な姿ではなく――。
ファムは不格好に転がり落ち、何度も足を取られてから、顔を上げる。
「キルシー……みぃつけた!」
まるで今まで拒絶していた事なんて忘れるような柔らかな笑顔で。
思えば彼女はずっとそうだった。
自分がフロイト家の令嬢である事など関係なく。
かと言って己がクランスコール家の令嬢である事も感じさせず。
たった一人の「ファム・クランスコール」として――自分に向き合ってくれた。
キルシーは思わず駆け出す。
骸骨の騎士が足を取り、押さえ込んで何度も阻もうとするが、それでも構いやしない。
足首に巻かれた鎖を断ち切り、砂浜を這って、不格好にファムの下へと向かう。
「……ファム……ファム……ファム……!」
「ミュイっ! キルシーっ!」
ようやく辿り着いた頃にはボロボロで。
お互いに決して無事とは言えないような様相で。
それでもキルシーは目の前のファムに向けて、抱擁していた。
「……ようやく会えた……。私の……本当の友達……」
「ミュイっ! キルシー、よかった! だってキルシー、なにもかわってない!」
「変わってない……? 私、が? ……こんな風になってしまったのに?」
世界は歪んだ。
世界は終わりを告げた。
灰色の骸の大地に、赤い臓腑の海に、どこまでも広がる曇天。
もう世界に希望なんてないと、そう何度も思った事か。
だと言うのに、ファムの笑顔だけが翳りがない。
彼女だけがこの世界で――自由だ。
「ミュイっ! いこっ、キルシー! こんなとこ、くらくってこわいから……ファムがつれていってあげるっ! レミアも、カトリナも、クラードもいるところに!」
きっとそれは救済であったのだろう。
だが、キルシーはその手を離していた。
「ミュイ……?」
「……ファム。駄目。そこまであなたに頼ってしまえば……私はきっと、永遠に後悔する。だって、あなたはもう、私の女神じゃないもの。私の……たった一人だけの、本物の友達。だから、決着は……自分でつけるわ」
振り返る。
視線の先にはおびただしい骸の数。
骸骨の騎士がたどたどしく言葉を紡ぐ。
『キルシー……君を……護る、よ……』
「ガヴィリア……あなたもまた、私が捕らえてしまった。だから、こんな運命を背負わせた……。終わりにしましょう。私達は、もう……」
途端、粉砕された天蓋が急速に閉じていく。
『ファムちゃん! こっちに!』
鋼鉄の兵士の手が伸びる。
ファムはしかし何度も振り返っていた。
「……でも、でもでも……キルシーが……!」
「もういいのよ、ファム。私は、ようやく救われた。あなたの手に、ずっと縋っていると、だって大人に成れないもの。――だから、これでバイバイ。また会いましょう」
それはほんの数刻の別れのように。
精一杯の偽らざる笑顔で。
手を振る。
彼女との永劫の別れのために。
そして、自分自身への決着のために。
天上が閉じ、世界は再び闇に呑まれるかに思われたが、キルシーの胸に宿った灯火だけは本物であった。
魍魎達の叫び。
亡者達の怨嗟。
それを引き受け、キルシーは両腕を広げる。
「さようなら、ファム。あなたは……もう一度、世界に戻って。それで私以外の、誰かを救ってあげて。だから私の罪は、私で背負う」
怨霊の骸が一斉に降り注ぐ。
その罪の刃が表皮を断ち切る。
手足を斬り裂く。
それでも――逃げない。逃げてなるものか。
「……もう、逃げないって決めた……。ファム……あなたのためだもの」
やがて骸の群れに抱かれて意識を消し去ろうとした、その時であった。
『キルシー……キルシー――っ!』
その声の主にハッとして振り返る。
赤い臓腑の海の向こうから、聞こえてきたのは。
「……お姉、様……?」