第263話「夢うつつの彼ら」
――駆け抜けていた。
逃れようのない宿命から。
逃れようのない因果の果てから。
右足と左足を交互に動かせば、少しは前に進めるのだと信じて。
だが、それも幻想。
醒めてしまえば、消える幻でしかない。
どうあっても逃れようのない運命は存在し、どうあっても避けようのない運命は屹立する。
だから――駆け抜けていたのだ。
草原を。
空を。
宇宙を。
地の果てまで。
手を伸ばす。
そして、伸ばした先が虚空であったとしても、それを掴み取ろうとする。
運命への片道切符。
宿命への連鎖。
握りかけて、掴みかけて、それは霧散する。
果ての空に、星が打ち上がっていた。
全ての終わりなのだと悟るまでに、数拍。
心の臓が、この矮小な肉体に諦めを刻むまでの一拍。
眺めていた、圧倒されていたのだ。
――世界が終わる瞬間を。
蒼く染まった月が、虚空の彼方で衝突し、無音の世界で地表へと無数の隕石が降り注ぐ。
終わりの流星。
そして、始まりの覚醒。
魅せられていたのは自分のほう。
漆黒の躯体を誇る脱出艇が空の果てを目指して飛び立っていた。
蛹のような形をしたそれらは一斉に、月の向こう側に開いた間違いのような大虚ろへと飛び込んでいく。
涸れた喉がようやく声を発する。
「……ダレト」
それは空を支配する漆黒の扉。
それは世界を牛耳る漆黒の答え。
自らにかけられた呪縛をこの時、痛いほどに理解していた。
両腕と両足に、紋様が刻み込まれ枷のように浮かび上がる。
世界から旅立つのに、この身一つでさえも自由ではない。
打ちひしがれていた視界の中で、ダレトに飛び込んだ蛹の群れが一つ一つ、弾き返されそして爆発の光輪を拡張させる。
彼らはダレトの向こうへと赴くのに選ばれなかったのだ。
そう反射的に理解した自分は、小高い丘へと向かっていた。
丘の上には研究所が佇んでおり、そこでこの終末の光景を眺める老爺の名前を自分は呼ぶ。
「……ヴィルヘルム先生……」
白衣を纏った老人は何でもない事のように自分へと目線を振り向け、それから煙草を足で踏みつけていた。
「ああ、何だ、まだ居たのか。――クラード。もう終わりだ、この世界も、この星も」
「何か……何か手はないのでしょうか? だって……みんな……死んで行ってしまったなんて……」
「手なんてないとも。彼らは自らを保護する最大の護りを得てダレトに突入したと言うのに……これはちゃんちゃら笑える結果だ。ダレトが彼らを“拒んだ”とは」
世界は終わりの淵に至ろうとしている。
だと言うのにヴィルヘルムの論調には余裕でさえも窺えた。
「……私が言う事ではないのかもしれませんが……彼らに技術提供し、そしてダレトを突破する術を与えたのはあなたのはずです……ヴィルヘルム先生」
「ああ、そうだとも。しかし、皆“理性の箍(ライドシンセサイザー)”に囚われ、そしてわたしの提供した技術を疑いもせず享受し、ダレトの向こうに至れると豪語した愚か者達だ。彼らには似合いの結末だっただろうさ。何せ、最期の瞬間にダレトが自分達を拒んだと言う結果だけを思い知り、そして命を散らして行ったのだから」
「……先生は……彼らを分かっていて、見殺しにしたんですか」
「まさか。そこまで万能ではないよ。だが……思いのほかつまらない結果に集約されたな、という感想はある」
「つまらない結果……」
「だってそうだろう? この世界の叡智の粋を凝らした現代科学の忌み子に自ら志願した六十億はこうして滅んだ。知るがいい、クラード。純正殺戮人類(ナチュラルキラーエイプ)など所詮、この程度のものだ。彼らは数億年前に動物の骨で狩りを覚えた時から何も進歩していない。だから甘受出来る、だから疑いもしない。わたしが世界を救うのだとのたまわなければ、彼らはどうしていたと思う? 同族同士で殺し合いを尽くしていただろうな。この星が滅びゆくその日まで、ずっと。それを見るか、ダレトに飛び込み自殺を行うのを見るかだけの違いだ。わたしとしてみれば、後者のほうに興味があった。……が、つまらんな、ヒトが死ぬのを見るのも、もう充分に飽きた」
彷徨う視界の中で、ホルスターに留めていた拳銃を握り締める。
ヴィルヘルムへと突きつけた途端、彼は頬を緩めていた。
「何だ、クラード。わたしを殺すかね? それとも糾弾するか! 霊長を滅ぼした簒奪者とでも! だがそれは、お前とて何が違う?」
「……私は……私は、あなたとは、違う……! 違う結末を信じたい……!」
「……クラード、最も初期のライドシンセサイザーよ。お前は美しい。お前は麗しい。お前は、この世に生まれ落ちた時点で、他の凡百とは違う道を辿れる。そういう真実めいたものを、わたしに感じさせた」
「……だから六十億を見殺しにしたって言うんですか……!」
「いけないかね? 六十億と一を、天秤にかけるのは」
「……あまりにも傲慢だ、それは」
ヴィルヘルムは後頭部を掻いてから、研究所の最奥へと顎をしゃくっていた。
「……ついて来い。いいものを見せてやろう」
「……いいもの……」
ここで撃ってしまえば、まだ楽かもしれない。
だが――クラードの中には疑問とそして興味があった。
人類を殺した罪の一端を背負いながら、ヴィルヘルムには気負うところが一つもない。
彼は、滅ぼした人類になど到底意義を見出しているつもりもないようであった。
むしろ、滅んだのだからそれは身勝手な権利なのだとでも言うように。
隔壁の扉がヴィルヘルムの生体認証を得て開いていく。
何重にも隔離された暗闇に安置されていたのは、今しがたダレトに突入したのと同系統に映る漆黒の巨神であった。
「……これは……」
「名を《レヴォル》。《ガンダムレヴォル》だ。お前の授かった名前を認証し、そして意味を成す剣となろう」
「……《レヴォル》……」
「クラード。最後の一人になったお前に命じる。――扉の向こうへと赴け。そして純正殺戮人類を殺し尽くすのだ」
「……何故……何故そんな事を、私に言うのですか……」
「何故も何もない。それが扉の向こうを開くに足る素質を持った者――機動戦士の宿命であるのは分かり切っているだろう。お前は往け。運命の赴く先、交差する螺旋の向こうに佇む世界の答えを知るために」
「……私は、ヴィルヘルム先生……あなたを殺す事も出来る……!」
「やるのか? その震える銃口で、わたしを殺せるのか?」
問い質されればその覚悟は霧散する。
何故なのかと問い返す愚も犯すまい。
この終末の星で、真に一人になるかどうかの問答だ。
だからこれは、最後の最後に引くトリガーへの問い。
「……ヴィルヘルム……先生……っ」
「撃ちたければ撃て。わたしの心臓はここだ、クラード。外すなよ」
左胸を指し示したヴィルヘルムに、クラードは頬を熱が伝っているのを感じていた。
――相手は六十億の人類を滅ぼした大罪人。
撃つに足る理由は充分なはずだ。
だと言うのに、手が痺れ足が竦む。
相手が罪人な以前に――自分にとってはこれ以上とない、恩人であったからだろう。
「……あなたは私に生きていいのだと言ってくれた……」
「ライドシンセサイザーにしたのは延命するためではない。結論を下すためだ。そのために、クラード。生きて指し示すか、それともわたしと共に死して終わるかの二者択一、選べ。お前ならば難しくもない問答のはずだ」
分かっている。
ここで撃って、自分は《レヴォル》と共にダレトを突破する。
滅びゆく世界を捨てて、ダレトの向こうへと約束された平穏のために。
手打ちにするのならば今しかない。
ヴィルヘルムを撃って、ここに約束は完遂される。
だから、撃てばいいだけのはずだ。だと言うのに。
「……撃て……ません」
クラードは膝を折ってへたり込んでいた。
撃てるわけがない。
撃てば永劫、自分は彷徨い続ける亡者と化す。
彼は与えてくれた。
意味など存在しない自分に、ライドシンセサイザーとしての第二の生を。
「……お前を育てたのはいつでも撃てるようにするためだ。その時に迷わぬように」
歩み寄ってくるヴィルヘルムの足音に、クラードは涙する。
「……だって、だってあなたは……私のたった一人の……家族、なんでしょう?」
ぴくり、とヴィルヘルムの動きが硬直する。
その言葉だけは予見出来なかったように。
「……家族なんて居ない」
「嘘、嘘嘘嘘……嘘……っ! だって、ここまで面倒を看てくれたのは……私に裁定を下させるため……あなたをここで罰するため……! それを家族と言わなくってどう言うんですか……!」
「……理解者が家族と言う共同体である必要性はない」
「なら……!」
「だからクラード、お前は往け。お前の望みだけを伴わせて、終わりの世界を見捨てろ。それがお前に託された、唯一の……」
銃身を引き寄せたヴィルヘルムに戸惑うよりも先に、銃声が劈いていた。
心臓を的確に撃ち抜いた感覚と、彼の温かな指先が急速に力をなくしていく。
現実味も失せていた。
倒れ伏したヴィルヘルムに、思わず肩を揺する。
「ヴィルヘルム先生……!」
「クラード、わたしの……愛おしい……」
血濡れの指先が惑い、頬をさする。
その手をしっかりと握り締めて、クラードは何度も頷いていた。
「……ヴィルヘルム先生……! 先生は私に……生きる術を、教えてくれた……!」
「……馬鹿を言え。わたしは六十億を殺した大罪人だ。それだけを刻んで終わる……」
「でも……でも……! ヴィルヘルム先生は救いたかったんでしょう? 人類を……!」
「……そこまで傲慢に成り果てるものでもない、よ……」
その気力も、そして思い残す言葉もないのだろう。
ヴィルヘルムは胸の中で息絶えていた。
クラードは彼の息遣いの最後まで感じ取ってから、キッと視線を上げる。
赴く先には、《レヴォル》の名を誇る禁断の機体が佇んでいた。
「……ありがとう、ヴィルヘルム先生。私は……憂いなく、旅立てる」
ありがとう、ありがとう、と、何度も感謝してから、最後の最後に一言添えていた。
「……私の愛する……お兄ちゃん……」
憂いを打ち消し、ライドシンセサイザーの両腕を突き出す。
その途端、《レヴォル》から樹木のように機械類が伸張され、自身をコックピットへと導いていた。
『認証開始。専任ユーザーの登録を要求します』
生物の臓腑を思わせる幾何学のコックピットの中でテーブルモニターに両手を付いて、クラードは告げる。
「……私はクラード。この世界最後の人類……」
『認証を確認。クラードへ、コミュニケートサーキットは124秒有効化。“はじめまして、かな、クラード”』
その声音に、クラードは目を見開いていた。
「……ヴィルヘルム先生……?」
『“その呼称は正しくない。こちらはヴィルヘルムの人格データを複写した、AIコミュニケーションツールである。名がないのならば、レヴォル・インターセプト・リーディング。レヴォルの意志を名乗らせてもらう”』
「……レヴォルの意志……」
『“早速だが、崩壊しかけた惑星に留まっているのは賢い選択とは言えない。《レヴォル》を伴わせての空間跳躍、そしてダレトに向かってのエネルギー放出は既に完遂された。ダレト突入時のラグはレイコンマの世界で補正されるだろう”』
クラードは面を伏せていた。
ヴィルヘルムの声が最後の最後まで自分を導くと言うのならば――自分こそが六十億の霊長を殺した同族殺し、最大禁忌の「純正殺戮人類」だ。
「……私に意思を継げと、そう言っているのですか。ヴィルヘルム先生」
『“問答の時間も惜しい。《レヴォル》は20セコンド後に飛翔機動に移る”』
「……分かった。私を導け、レヴォルの意志よ。ダレトに……突入する」
『“了解した”』
直後、漆黒の機体を中心軸にして黄金の暴風が逆巻いていた。
全身を金色に染め上げた《レヴォル》の機体に灯火が宿り、次の瞬間にはそのパワーゲインで研究所を吹き飛ばす。
最後の最後、ヒトであろうとしたヴィルヘルムの遺骸は欠片も残らないであろう。
クラードはオッドアイの真紅の瞳から涙を流している自分を、テーブルモニターに反射させていた。
「……もう、誰も犠牲にさせない。私は……往く!」
目指すのは間違いのように虚空に開いた大虚ろ。
月が地表をさらい、世界を押し流していく。
惑星は紀元前の状態にまで還元されるであろう。
その後に生命が生じるか、生じないかまでは分からない。
明日の事など、誰も分かるものか。
《レヴォル》が黄金の色彩を纏ってダレトへと投入ルートに入っていた。
不思議な事にほとんど干渉はない。
だが、胸に抱いた最後の一撃の感覚だけは明瞭であった。
人殺しの咎があろうと、大事な人を自分のエゴで失った経験があろうと、今は関係がない。
向かうのは一路、ダレトの彼方へ。
「……私は……機動戦士《ガンダムレヴォル》を駆る……クラードだ……!」
そして、見果てぬ世界を目指した夢の彼方は、累乗の先へと――。
覚醒状態で見る夢と言うのは夢遊病に類するらしい、とここで感覚するだけの理性は残っていた。
「自分は、夢を見ていたのか。見果てぬ夢を」
だがこれは自分の記憶にはない。
全くの想像を夢で見る事も稀にあるらしいが、自分の場合はそう「設計」されていないのだから、これは記憶と考えるべきだ。
「《ファーストヴィーナス》パイロット、マーガレット・マジョルカの持つ、記憶か」
世界が滅びるさまを見せつけられたのは恐らく、先刻の戦闘で《ラクリモサステイン》が聖獣の心臓を取り込んだからだろう。
《ファーストヴィーナス》とマーガレットの持つ記憶の一端を、自分は白昼夢に近い状態で感覚させられたのだ。
「しかし、疑念が残るとすれば、聖獣の心臓にはそのような権能があったのか」
『……大佐? 今しがた観測された巨大な存在力の塊が上がってきます。……王族親衛隊の命により、宇宙に上がってくる勢力は叩けとのお達しです』
腹心たる部下の言葉にジオは視線を振り向けていた。
「納得いかぬ、という物言いに聞こえる」
『……大佐は、この世界の土壇場でどうお考えですか? IMFとやらによって、宇宙と地上の交流は三十年は閉ざされると聞きます。それでも、我々に栄光は輝くと、そう思ってもいいのでしょうか……?』
「勘繰っても我々の身分には不必要な領域だ」
断じた声音に部下は戸惑いを浮かべているようであった。
『……そう、なのでしょうが……分からなく、なってしまうのです。私は、撃てと言われれば撃ちます。叩けと言われれば、叩きましょう。それくらいの覚悟を持って王族特務に臨んでいるつもりですが……あんなものが、我々の意思決定に差し挟まれていたとなれば、疑問もあります』
「あんなものと、形容せぬほうがいい。死が近づくぞ」
『分かっては……! 分かってはいるんですよ、大佐……! 王族親衛隊とはそういうものである事くらいは……! ですが、やはり……自分は人間なのです。どうしようもなく……人間である事を痛感させられるんですよ……! 上に噛み付いたところで何も好転しない……それくらいは分かっています。ですが、それを大佐が誹りを受けていいかどうかは別でしょう!』
「自分は駒だ。駒は打ち手に忠実であらなければいけない。余計な感情論を挟む余地はない」
『……大佐の答えは、予め分かっていました。ですが、飲み込めぬ、とはこの事であって……! いえ、やめましょう……か。我々が問答するだけ、無駄なのですから。世界は彼らの思惑に沿って動いている、それが遅かれ早かれこういった形で結実するだけの……』
《パラティヌス》に乗り込んだ腹心は接触回線を切って離れていく。
また、こうして人が離れるのだな、といやに醒めた心地で考えていた。
「敵を捕捉。あれは、驚くべきだな」
蒼い軌跡を描きながら、二隻の艦艇と共に地球より浮上してくるのは討つと決めた怨敵だ。
存在力の輝きを誇りつつ、その対象物は光を拡散させて宇宙の常闇へと上がって来ていた。
「ミラーヘッドビット、電荷。これより敵を撃つ。王族親衛隊、前へ」
『了解しました。全機、対聖獣弾頭を装備。敵を――血濡れの淑女(ジャンヌ)を討つ』
「残念だ、エージェント、クラード。やはり自分とそのほうは、戦う事でしか分かり合えぬらしい」