任せようとしていた死の指先を、払い除ける。
任せようとしていた死の囁きを、振り解く。
《ダーレッドガンダム》の鉤爪が重力と時間を無視して振るわれ、ミラーヘッドビットを消し飛ばしていた。
『どうした、エージェント、クラード。今しがた貴様は、死にに行く面持ちであった』
「……ああ、そうだな。だが……やめておく。お前に葬送曲を奏でられるのには……まだこの世に未練があったみたいだからな」
それに、と言葉の穂を継ぐ。
「……誓ったんだ。この戦いさえ終われば……人でなしの宿縁さえ払えれば……もう一度、ヒトに戻っていいのだと。怪物を殺すのは……同じ怪物じゃない。ヒトでしかない、ただの……人間でしか」
どくん、と脈打つ。
――分かっている、これはもう戻れない呪縛の一つ。
それでも、自分は。
「……明日を駆ける……駆け抜けていきたい……! お前を超える、その先の明日へ……! 俺の中で譲れないものがあるとすれば、それはお前を倒した先だ……! ジオ・クランスコール……!」
『理解出来ないな』
全方位から放たれた殺意の網に、クラードは静かに唇で紡ぐ。
「……思考加速、エグゾーストネットワーク……」
直後、全ての現象が後れを取る。
その只中で、漆黒の重力圧を身に纏った《ダーレッドガンダム》がビーム銃撃網を潜り抜けていた。
ジオでさえ、関知していない時の流れで、クラードは鉤爪を振るわせる。
ミラーヘッドビットをいくつか叩き割ったところで、時は正常な時間を刻み始めていた。
『今のは、まさか』
分からない、自分でも何を手繰ったのか。
しかし、事ここにおいてジオと《ラクリモサステイン》を破る術である事だけは明瞭であった。
『そうか、貴様も使えるか。ならば加減は、すべきではないな』
「……来い、ジオ・クランスコール。俺は……まだ、死にたくない」
『エージェント、クラード。それは本音と、見るべきか。戦士としては失格もいいところだぞ。死にたくないなど』
「……ああ、俺もそう思う。だが、今の俺は死にたくない理由がある。なら、ここで終わるべきなのは、お前のほうだ」
死なないでも、死ねないでもなく――「死にたくない」。
ジオが弱くなったと判定した理由もこれならば頷ける。
エージェントとして、自分は随分と弱くなった事だろう。
だが人としてならば。
人間としてならば、これが真っ当なのだ。
ならば、自分はせめて一端の人間でありたい。
真似事でもいい、人間であろうとするのならば。
『己の弱さを露呈し、その上で活路を見出すか。それはしかし、蛮勇と何が違う。《ファーストヴィーナス》の権能を使う』
《ラクリモサステイン》が刺々しく黄金の鎧を身に纏い、それらを一斉掃射する。
《ダーレッドガンダム》で回避しながら、クラードは考えを巡らせていた。
――思えば、失ってばかりの戦場だ。
しかし、失うだけではないものもこの世にはあった。
奪い取るため、奪い返すための戦場も。
奪還のために自身を鼓舞する事に、何の疑いもなかった。
思案する前に相手へと牙を突き立てろ。その爪を研ぎ澄まし、敵を引き裂けと。
だが、力を手に入れて、その向こう側に佇む脅威を目の当たりにした時、腰が引けたのは何も弱さではない。
強さと弱さが紙一重だと言うのならば――自分は弱くともただ前へ。
《ラクリモサステイン》が《ダーレッドガンダム》へと掃射の果てに、黄金の帯で防御撃皮膜を形成する。
クラードはコックピットの中で吼え立て、《ダーレッドガンダム》の鉤爪に掌底を構えさせる。
形成された無数の壁を突き崩し、自分の障害となる全てを破壊していく。
解き放たれた黒白の砲弾が黄金の帯を叩きのめし、上下より噛み砕く勢いで引き絞られたミラーヘッドビットの光芒を突き抜け、さらに前へ。
『至近まで迫るか。ならば、迎え撃とう』
X字のバインダーに今の今まで隠されていた六本の支持アームを現出させ、《ラクリモサステイン》が火力弾幕を張る。
《ダーレッドガンダム》の装甲が爆ぜる。
砕ける。
機体が重火力に押し潰され、命の一滴になるまで絞り尽くされていく。
警戒色に染まるコックピットの中で、クラードは咄嗟に、ライドマトリクサーの接続口を外していた。
『警告。RM接続口の無効化を確認。即座に再認証を乞う』
「……見ているんだろう、レヴォルの意志……」
『“賢しい選択とは言えない”』
「それでも……! 俺の戦いを最後まで見ていろ。お前を俺は乗りこなす。《ダーレッドガンダム》、全権限を専任RMのマニュアルに移譲しろ」
『“《ラクリモサステイン》の高精度オールレンジ攻撃をマニュアルで回避する気か? 死ぬぞ”』
「……マシーンに頼りっ放しでは奴には一生勝てない。最後の最後で手綱を寄越せ、《ダーレッドガンダム》。奴を超えるのには、確率論を凌駕したものが必要だ」
『“……いいだろう。全権限を専任RMのマニュアル操作に、切り替える。言っておくが、世界が切り替わるのに等しい。落差で死ぬと言う、最も愚かしい真似だけは描いてくれるな”』
直後、世界が切り替わっていた。
全接続系が排除され、クラードは唐突に身一つで《ダーレッドガンダム》のコックピットへと「取り残される」。
――これがライドマトリクサーの肉体一つになるという事。
識別信号も、脳内にマッピングされていた情報網も全て消え失せた。
だがそれでも明瞭なのは――己の中に持ち得る戦意だけ。
胸に宿った闘争心の炎が燃え盛り、クラードは音のない宇宙で確かに、その音階を聞いていた。
「……これが、《ラクリモサステイン》の奏でる葬送曲か」
まずは《ダーレッドガンダム》の機動を切り替え、現れた操縦桿を握り締める。
久しく忘れていた、己の手でMSを稼働させる感覚。
しかし自分には在りし日の凱空龍の経験則がある。
敵の全方位射撃に対し、急加速して潜り抜け、レイコンマの世界で上下左右を挟み込もうとした敵の殺意の網を抜ける。
振りかぶった先には、ただの命一つ。
《ラクリモサステイン》の中で、自分を試すジオの魂の色が、今ほど確かに映った事もない。
クラードは思いっ切り、右腕を振るい上げさせる。
鉤爪が引き裂く機動を描こうとして、ミラーヘッドビットの銃撃網が交差して内部より砕き果てる。
「……まだだ!」
右腕マニピュレーターを排除し、クラードは自身と一体化した脈動の中で、操縦桿を押し上げる。
《ラクリモサステイン》の支持アームが勢いを伴わせて延びるのと、《ダーレッドガンダム》の拳がその頭蓋を打ち据えたのは、ほとんど同時。
暗礁の宇宙で、交差した拳が互いの頭蓋を打ち砕く。
『なるほど、自分に最後に届くのは、ビームでも奇をてらった攻撃でもなく、物理的な拳であったか』
「ジオ・クランスコール……!」
ゼロ距離で支持アーム先端に組み込まれていた銃口が煌めくのを、いちいち意識に留めている時間さえも惜しい。
クラードはさらに返す刀の勢いでもう片方の拳を固め、《ラクリモサステイン》を激震させる。
ぶれた照準が《ダーレッドガンダム》の頭部のすぐ傍を掠め、その火力がブレードアンテナの片面を焼き尽くしていた。
至近距離で浴びせ蹴りを見舞い、《ラクリモサステイン》の支持アームが照準の頼みを失ったように彷徨う。
そのまま機体を引き寄せ、クラードは思いっ切り頭部を引いてから、相手の頭蓋へとコックピットブロックたる頭部を衝突させていた。
激震するコックピット。
だが、ライドマトリクサーの術をことごとく断ち切っている自分には、機体ダメージのフィードバックは訪れない。
しかし、ジオは違うはずだ。
《ラクリモサステイン》が標的を見失ったように中天を仰いだところで、クラードは敵機へと膝蹴りを叩き込み、よろめいた肩口へと手刀を打つ。
まるでもみくちゃだ。
それでも、己の魂一つを賭けて、クラードは立ち向かっていた。
最早、体裁も何もない。
蒼い伝導液を迸らせ、二機はもつれ合うようにして宇宙の闇を漂っていた。
『エージェント、クラード。このような戦い、誰が望んでいた。貴様らしくもない、暴力だけの発露など』
「……いけないか? 俺は元々、宇宙暴走族、凱空龍の、切り込み隊長だ」
『それは容易い答えだと言うのか』
「少なくとも……パンを八枚に切るよりかは、充分に簡単だ」
拳が装甲へとめり込み、破片が散る。
武装のほとんどを失った形の《ダーレッドガンダム》へと、《ラクリモサステイン》は支持アームで抱え込んでいた。
『この距離ならば外す道理もない』
六本の支持アームの銃口にビームが充填される。
狙っているのは《ダーレッドガンダム》のアステロイドジェネレーターだろう。
クラードは機体の両腕を組み、ゼロ距離の死地において、打ち下ろす。
まさに喧嘩殺法としか言いようのない戦い。
頭蓋を叩きのめされたラクリモサテインの真正面から、掌底を叩き込ませる。
「――砕けろ」
それは段階加速をミリ単位で実行させた一撃。
掌底がぶつかるのと同時に、右腕だけでミラーヘッドを帯びさせ段階加速はまるで砲弾の如く《ラクリモサステイン》の頭部を叩き割る。
遂に砕けた頭蓋の内側で、球体状のコックピットブロックが露出する。
照準の精度を失ったビームの砲火が明後日の方向を射抜いていく。
クラードは相貌を焼かれた《ダーレッドガンダム》のコックピットブロックから、《ラクリモサステイン》よりこちらを覗くジオと向かい合っていた。
「……決着だ、ジオ・クランスコール……」
『まだ戦うと言うのか。貴様は、もうエージェントではないな。生き意地汚く生にしがみつく、ただの人間だ』
「……それでいけない事はないだろう。俺は……どうせ、人間だ」
『そうだと誓うのならば、征け』
《ラクリモサステイン》が機体を引き剥がす。
この期に乗じてミラーヘッドビットを引き戻されれば自分の敗北だ。
だが、自然と後悔はない。
やれる事はすべてやったと言う清々しさだけが胸の中に去来する。
《ラクリモサステイン》はミラーヘッドビットを駆動させたが、自分を狙おうとはしなかった。
「……どういうつもりだ」
『これが答えだ。エージェント、クラード。自分はここでようやく託せる。自分を殺せるだけの人間を見届ける事こそが、本懐であった』
「何を……何を言っている……? お前は、俺を撃墜するんじゃ……」
『それを分かっていると言うのならば、戦え。この世の果てになったとしても、戦い続けろ。自分一人のためでもない、誰かのためと言う高尚さでもない。お前は、お前の信じる、愛すべき者達のために、戦え』
「……愛すべき、者達……」
アルベルトやカトリナ、それにピアーナやレミアの姿かたちが、明瞭に像を伴わせて脳裏を過っていく。
愛すべき者達のために戦えなど、言うような人間ではなかったはずだ。
「……どこへ行く? ジオ・クランスコール」
『終わらせて来よう。宿縁と言うものを』
反転した《ラクリモサステイン》は最後の最後に、オープン回線を開いていた。
『ファム、聞いているか。すまなかった。自分は、いい兄ではなかったらしい』
その懺悔に返答が欲しかったわけでもないのだろう。
《ラクリモサステイン》は中破した機体を、トライアウトブレーメンの艦艇に向けて加速させていた。
「……待て、待つんだ、ジオ・クランスコール……。戦えと……! お前が言うのならば、俺との決着をつけてから……それからで……」
『あまり縋るものでもない。エージェント、クラード。三年前に取り損なった命の行方は、お前のものだ。自分でしか決められない命の行方を、失うものではない』
「……自分でしか決められない……命の行方……」
赤い機体は推進剤を焚いて、トライアウトブレーメンの艦隊に向けて、飛び立つ。
最早、呼び止めるだけの言葉もない。
彼の岸へと旅立った者を、呼び戻すような言葉は、存在しない。
ただ――その中でオープン回線を叩いた、小さな声を聞いていた。
「……泣いているのか。ファム……」
何度も咽び泣く声を、ジオは聞いていた。
オープン回線で、この世の極致にあるような戦場では場違いな、言葉一つが結ばれる。
『……いってらっしゃい……にいさま……』
「ああ、行ってくる。ファム」
分かり合えた邂逅ではなかったのだろう。
そして分かった風に成るべきでもなかったのだろう。
それは理解出来ていても、ジオは仮面の下でフッと微笑んでいた。
「分からぬものだ。自分のような人でなしでも、残せるものがあったとは」
『大佐……。どこへ行こうと言うんです』
腹心の部下が《ラクリモサステイン》と肩を並べる。
しかし、乗機である《パラティヌス》はほとんど大破同然だ。
片腕を失っている状態の《パラティヌス》を嚆矢として、自分の背後には無数の機体が続いていた。
誰も彼も王族親衛隊で自分の下につくと決めた一騎当千の猛者達だ。
「さぁ、どこへ行こうか。自分でも決めかねているのだ。笑うか」
『……大佐の身勝手は今に始まった話でもないでしょう? ……よろしいんですか。妹君を、遺して行かれるのは』
「構わない。もう託すべき人間を見出せた」
クラードの《ダーレッドガンダム》は戦闘能力のほとんどを失った状態で虚脱したように宇宙を漂っていた。
『それは何より。……さて、どうしますか。トライアウトブレーメン。ただの道楽部門でないのは魔獣を駆り出して来た事からも明白ですが』
「一隻でも轟沈させる。それが遺すに足ると感じた者達への手向けだ」
『……了解。王族親衛隊……敵艦を迎撃する。皆の者、大佐に続け。御旗は万華鏡、ジオ・クランスコールである』
トライアウトブレーメンのベアトリーチェ級より艦砲砲撃が見舞われる。
《パラティヌス》が宙域を舞い、対聖獣弾頭を放っていた。
赤い砲撃に艦艇が砕けるが、返答のMS部隊による銃撃の連鎖によって《パラティヌス》は容易く散っていく。
『……お先に失礼します。大佐……共に戦えて……光栄……』
次々と、自慢の部下達がこの宙域で砕け散っていく。
声が、肉体が、魂が、霧散していく。
《ラクリモサステイン》を急加速させると、既に危険域だと言う信号が発せられ、警戒色に塗り固められていく。
ジオはその加速度の中で、《ヴォルカヌスカルラ》と識別照合された機体に半身を叩きのめされた《フォースベガ》が《ネクストデネブ》と共に後退していくのを目の当たりにしていた。
「行く者達、か。進め、最後の一滴になってでも、自分は押し通る」
ミラーヘッドビットが電荷され、蒼い残像を引いてトライアウトブレーメンの艦を打ちのめし、出撃していたMS部隊を叩き落とす。
だが、如何に《ラクリモサステイン》が優れていても、ただの一機のMSには違いない。
ミラーヘッドの両翼を広げた《アイギス》相当の機体が全方位より照準する現実からは逃れられそうになかった。
銃弾が赤い装甲を引き剥がし、そのX字のバインダーが砕け落ちていく。
途端、警告信号と共に直通通信が入電されていた。
『ジオ・クランスコール。ここで死ぬ事は許さぬ』
「死に際くらい、自由にさせていただきたい」
『ならぬ。貴様は最後の最後まで役割があった』
『そして何故……先の戦いで思考加速を使わなかった? あれを使っていれば勝てた戦場であろう』
「戦場では、ない。あれは勝負であった」
『理解出来ないな。これまで計算の枠外でしか動かなかった貴様が、ここに来て離反するような真似に出るとは』
「あなた方には分かるまい。魂の色を交わした者との邂逅、それこそが自分の、命題であった。たとえ紛い物であっても、命の色彩だけは、他者に誇れる唯一の」
『思考加速を使えば死ぬ事が恐ろしくなったのか? エグゾーストネットワークでいくらでも貴様は勝てるように設計した。我々の尖兵として』
「どうであろう、な。自分でも、最後の最後には、命が惜しかったのかもしれない。いいや、違うか。命は、この世に放たれた時点で、自由だ。それを今さらに分かっただけの――ただの愚か者であった、という、遅いだけの代物に過ぎない」
『ジオ・クランスコール。ここでの死は与えない』
『左様。エグゾーストネットワークを使って生き延びろ。これは命令だ』
「思考拡張で自分に命じる事は出来ない。自分もまた、あなた方と同じく、ダーレットチルドレンの末席を汚す者としては」
「約定」の思考拡張を跳ね除け、ジオは真っ直ぐに戦域を見据えていた。
そこいらで火線が舞い上がり、火の手が上がって蒼い残像と焔に抱かれていく。
宇宙の常闇を満たす不出来なサーカスの戦火に、ジオはふと、口にしていた。
「……こんなにも、世界は美しかったのか……。ファム、お前はこれを見ていたのだな……。最後の最後まで、不格好な兄であった事を、許して欲しい……」
艦砲射撃が《ラクリモサステイン》のミラーヘッドビットを粉砕する。
複製した自我が分散し、加速度を失いかけた自分へと斬りかかってきた《アイギス》に死の影が差したのを予感するも、割って入ったのは腹心の部下の《パラティヌス》であった。
『……大佐を、死なせはしない……。大佐、あなたの下で働けた事、身に余る武勲でした。どうか、よい人生を、歩んでください』
ビームサーベルを引き抜いた《パラティヌス》と《アイギス》が交錯し、直後には互いを斬りつけて収縮爆発が連鎖する。
――ああ、こんなにも、命が輝く。
ジオは正面に捉えたトライアウトブレーメンの艦艇に向けて、ミラーヘッドビットを伴わせて前進する。
艦砲砲撃が掠め、コックピットに亀裂が入っていた。
それでも――愚直に前へ。
ベアトリーチェ級の艦橋が眼前に迫った瞬間、ジオはフッと口元に笑みを刻む。
「死に行けるのは……しかし、少し寂しいな。そうか、これが……。クラード、戦い抜いて行け。この激動の時代を、終わらせるために。お前は……ひとりではないのだから」
《ラクリモサステイン》の躯体が艦橋へと突き刺さる。
直後、爆発した光輪は何も特別なものではなかった。
ただの命一つとして、艦を巻き添えにして宇宙を疾走する激情は、終焉の時を迎えていた。