エピローグⅠ「I remember you」
エピローグ 「瑠璃色の地球と深紅の花へ」
早朝には紅茶に砂糖をひとつまみ。
焦げ目の目立つトーストにバターを塗って、今日も彼女はソファに身体を預けて、ラジオの情報番組に耳を傾けていた。
『叡智の結晶であったダレトが消え去って本日で二年が経過しました。あの日よりダレト資本の統合機構軍は解体され、連邦政府が新法案を通して秩序の均一化をはかろうとしています。調印式には、踏襲銀河連邦の代表者とかつて統合機構軍の代表者であった人々の全会一致で足並みが揃おうとしています』
「あっ、洗濯物取り込むの忘れちゃった……どうしよ、めんどくさいなぁ……」
窓のシャッターを開け、彼女は朝焼けとにらめっこする。
「……雨は降らないで……ってこういう時、確かいいおまじないが……」
ティッシュを丸め、故郷の母親から教わった雨避けのおまじないを試そうとしていた。
思えば長距離通信が途絶えて、五年が経つ。
来英歴は現状、全ての交信手段が五十年以上前のアナログ方式へと移行していた。
「メールは届くまで半日くらいかかっちゃうし、輸送物は前みたいに一瞬じゃ届かないし……。でも、こういうのがよかった時代もあるんだよね」
そうぼやきながら頭部を丸めて作ったのは故郷で「てるてる坊主」と呼称されるおまじないの人形であった。
自分の髪の毛の色にせっかくだから塗装し、次いで同居人の顔を描いていく。
白銀の髪と、薄紫色の瞳を持つ、少女。
そして金髪の髪に、真紅と瑠璃色の瞳を宿した――彼。
「……今頃どうしているかなぁ。帰って来るって、確か今日だっけ?」
長距離通信は遮断され、ほとんどその用途を廃されたかつての愛用端末をテーブルから拾い上げる。
情報は津波のように同期され、そして一秒のロスもない――と言うのはもう過去の時代。
世界は分断され、遥か遠くに離れた場所へと赴くのには相応の時間と自由が必要になった。
『しかし、今日に至るまで月のダレトが消滅した原因は不明のまま。これはともすれば試練なのかもしれません。我々来英歴の人類にもたらされた、永劫解けぬ課題のようなものでしょう』
いつの間にかラジオは招いた有識者のゲストの声を放っていた。
『福音のような技術は終わりを告げ、私達は無知蒙昧でありながらも、その答えを探し求めるしかないのでしょうね。連邦法で新たにアステロイドジェネレーターの製造は禁止され、ミラーヘッド……第四種殲滅戦の時代は終わりに至ろうとしています。残存したMSや連邦艦も、全て月との往来のためだけに使用され、そしてその目的を終えようとしている……。我々にとって無限の資産であったダレトからの技術恩恵は、今や有限となり、時代の分岐点に立っている気分ですよ』
「……時代の分岐点、か……」
それが正しかったのかは分からない。
しかし、正しいだけでは物事ははかれないのだろう。
彼女は冷蔵庫に入れておいた今宵の夕飯の材料を確認する。
「二人が帰ってくるのなら……えっと、卵はしっかりと買い揃えておいたし、ケチャップも大丈夫。……あっ、ベーコンは要らないかな? あとはベジタブルミックスと、バターをきっちり、っと」
ふと風が吹き抜けて来て、窓際に歩み寄っていた。
海の見える景観を視野に入れ、窓辺でそっと紅茶のカップを持ち上げる。
別に物憂げなわけでもないが、少しばかり一人に慣れた一軒家はがらんとして手広い。
「……今日はとびっきり……うん。とびっきりのオムライスを……二人に振る舞おう。だって、私達、もうひとりじゃないんだから」
呟いて彼女はそっと、文庫本へと視線を落としていた。
少しばかり視力が下がったせいで、黒縁の眼鏡のブリッジを持ち上げる。
物語を紡ぎ、彼女はページを捲る。
「人が海に錨を下ろすように……物語には栞が必要、か……」
誰かが言った引用不明の言の葉が滑り落ちて行き、片手で青い栞をつまむ。
物語に没頭出来る今を、描き出すために。
『では今日のナンバーは、二年前に主要メンバーであるメイア・メイリスさんが行方不明となった伝説のバンドの新譜より。“夏への扉”』
「ちわーす。宅配便でーす」
扉を開けてこちらを認めた女性客へと、帽子を取って会釈する。
「ああ、宅配屋さん。何だか慣れないわねぇ。二年前にはそういう職業ってなかったから」
あっ、とそこで夫人は失言に気付いたようで口元に手をやる。
「ごめんなさいねぇ……別にお仕事を軽んじているわけじゃ」
「いえ、自分達もこういうの、まだまだ馴染んじゃいませんので。サインかハンコ、お願い出来ます?」
「えっと……サインは……」
「ファミリーネームだけで大丈夫でーす」
応じた夫人はしかし、少し話したかったのか言葉の穂を継いでいた。
「でも、大変ねぇ。ダレトのポートホームがなくなっちゃって。今はこうして運搬業でしょう? 二年前は誰でも一秒のロスもなく何でも手に入ったのに」
「いえ、自分達みたいな仕事が食いっぱぐれないのはありがたいっすよ」
「今日は? 何で来たの?」
「トラックっす。運搬用の」
玄関先からトラックを覗き込んだ夫人は、あら、と指差す。
「あれ、あなた達の運送会社の名前、ガイ……」
「――凱空龍運送っす。読みづらくってすいません」
「いやねぇ……何だか暴走族みたいだわ」
そう言ってからまたしても失言をこぼしたのだと感じて、夫人は何度も頭を下げる。
「ごめんなさいねぇ……よく知りもしないで」
「いえ、大丈夫っす。言われ慣れていますから」
サインを受け取り、荷物を差し出す。
離れる前に、夫人が呼びかけていた。
「運送屋さん。……しっかりね」
軽く会釈して、トラックの助手席へと乗り込む。
「……大丈夫ですか? 富裕層にペコペコするの、副長……じゃなかった、トキサダさんの性に合わないでしょう?」
ハンドルを握る相方に、彼は――トキサダは帽子を取って応じる。
「なに、これが必要だって言うんなら、その仕事をこなすまでさ。それに、富裕層だからってのも今さらだろ? あの日……二年前に月のダレトは堕ち、もう誰が金持っているだとか、権力だとか言うのもほとんどリセットされちまったようなもんだし。それにな、グゥエル。おれ、意外かもしれないけれどこういうの、何だか落ち着くんだよ。何て言うのかな、穏やかな生活ってのにさ」
「穏やか……ですか。しかし、微妙に解せないのは、こうしてトラックのハンドルを握って今日も明日も北へ南へ行ったり来たりってのが……想像もつかなかったですよ」
年代物の運送用トラックの荷台部分には「凱空龍運送」のトレードマークたる宝玉を握り締める龍の紋様が描かれている。
「おれからしてみれば、お前だって分からねぇよ。……いいのか? 再編されるって言う、軍警察に就職したってよかったじゃ?」
「俺……これでもやっぱまだ二軍ですから。副長……じゃない、トキサダさんの下に付きたかったってのはあるんですよ」
鼻の下を擦ってはにかんだグゥエルは、凱空龍時代の奔放さを取り戻しているように映ったが、実のところ彼は重度のRM施術を施された立派な戦士だ。
それが――もう存在しないエンデュランス・フラクタルによって刻まれた呪いのようなものだとしても、彼はそれを嘆く事はしない。
トキサダも同じようなもので、袖を捲ると騎屍兵時代に刻まれた刻印が今も時折疼く。
「……何事もなかったかのように生活するってのは……案外出来ないのかもな。おれ達は失い過ぎたんだ。何もかも、全て……。あの第二次月軌道決戦で……」
「出しますよ。次の配送先に急がないと。あっ、そういえばさっき、トキサダさんの電話に一報入っていましたよ」
「一報? ……仕事中だっての。一体誰……げっ……トーマ……」
着信履歴は一分刻みで入っている。
恐る恐るトキサダは電話に出ていた。
「その……もしもし……?」
『何やってるっすか! 仕事は今日こそは長引かないって言ったっすよね?』
「悪い、トーマ……早番で出たらその後もって言うんで……サービス残業だよ。分かるだろ? 社長なんだから」
『呆れた! 社員の意識改革がないと、何事も立ち行かないんっすよ! ……それに、今は休暇中っす! ……せっかく産休取ってるって言うのに……全然帰らないんだから……。トキサダのばか』
「うっ……悪いとは思ってんだよ、それは……。ただな、現場をまだ慣れていない連中が居るってのも確かで……」
『言い訳は聞きたかないっすよ! ……今日の晩御飯は何がいいっすか?』
「あっ、出来れば肉……」
『注文だけは一端なんすよね! うちの旦那は!』
ぷつりと通話が途切れたのを、運転席のグゥエルがにやにやしながら眺めている。
「……怖いっすねー、トーマさん……おっと、これはオフレコでもまずい。トーマ社長は」
「……あいつも運送業の云々ってのが分かっているはずなんだがなぁ……」
「そもそも、何でトーマ社長、この会社を興したのってのは俺達、凱空龍の居残り組のためですからね」
「……まぁな。行くところのないおれ達みたいな跳ねっ返りでも、出来る仕事があるってんで飛びついてみたら……まぁ、とんだ割を食う仕事だったってわけだが」
「けれど、俺、この仕事好きですよ。色んな人と会えますし」
ハンドルを回してカーブし、舗装されたばかりの高速道路に入ったグゥエルにトキサダは小さくこぼしていた。
「……おれみたいに、何もかもを失ってから気付くような奴だって居るんだ。トーマのやった事ってのは、結構そういう意味じゃ、救いだったのかもな」
「ちょっとラジオかけますね。おっ、ギルティジェニュエンの新譜」
何でもないかのように聞き流したグゥエルに、トキサダはふんぞり返る。
「……あのよ、副長からのありがたーい言葉だろうが」
「もう副長じゃないでしょ? それに、いいんですか? もうすぐパパになるってのに」
グゥエルの皮肉めいた言葉に、トキサダは渋面を返す。
「……まぁなぁ。娘だとよ。……あーあ! カタギに成るなんて誰が思うよ?」
「……娘ちゃんには、トキサダさん、いいパパでいられそうですか?」
「分かんねぇよ。自信もねぇし。……けれど、そうだな。いい父親に、成れるときっと、いいんだろうな」
別にこの話題が嫌なわけでもない。
生まれてくる命に対して、グゥエルは微笑んでいた。
「羨ましいなー。俺はそういう出会い、全然ですから」
「……お前はユキノが居たろ?」
「ユキノはもう一年くらい、連絡なしっすね。そろそろ時勢も整い始めて来ましたし、どうです? 凱空龍同窓会。もちろん、経費は会社持ちで」
何でもないかのように提案したグゥエルに、トキサダはトラックの助手席から空を眺めていた。
雲一つない晴天には、もう間違いのような大虚ろが大口を開けている事はない。
この世界から、ダレトは完全に消し去られたのだ。
――ただ一つ、致命的な犠牲を伴わせて。
「……凱空龍……おれらの青春、か。そうだな、久しぶりにユキノ達にも会いたいし……」
「でもトキサダさん、本命は……もちろん、でしょ?」
どこかこちらの思惑を読み取ったかのように笑うグゥエルへと、肘で小突く。
「……馬鹿お前、それは……言いっこなしだろ。あの人は……今はどこに居るんだろうな。ヘッド……」