ラジオから絶えず流れてくる耳馴染みのいい曲が耳朶を打って、振り返ると黎明の光が山陵を照り輝かせていく。
「ミュイ……っ! 見える? クラード、朝焼けーっ!」
「あまりはしゃぐとスタミナがなくなるぞ。――ファム」
「ミュイ――っ! ヤッホー!」
クラードは野営地でコーヒーを抽出しながら、地平線を染め上げていく閃光に目を細める。
「……見えているか? ミセリア・リリス。お前がくれた右目には……」
瑠璃色の瞳を向け、クラードはコーヒーをファムへと差し出す。
「あちっ……」
「猫舌なんだから気を付けろよ。それに、今日中には帰るんだから、帰りの電車には間に合うように下山する」
「ミュイぃぃぃ……っ、クラード、意地悪……ぅ」
ファムは舌を出してかすかな抵抗を示してから、一気にコーヒーを呷る。
「……それにしても、強いな。地球の重力は」
山岳地帯で今日がやって来たのを感じ取り、澄んだ空気を肺に取り込む。
明日の活力が肉体に満ち満ち、血流が陽射しを浴びて活性化する。
「ミュイ……っ! クラード、見て。月が見えるよ」
白い息を吐きながら、ファムは天上を指差す。
早朝に映える残月は、半面が黒く染まっている。
代わりに間違いのように開き続けていたダレトはその痕跡すらなく消え去っていた。
「……世界は正しい時間を刻み始めた……か」
「ミュイっ! それって何かの言葉?」
「いや……分からないな。最近読んだ本に影響されたのかもしれない」
クラードは朝食時のルーティンとして今日も紙の本を捲っていた。
「行儀悪いよ! クラードっ!」
「……お前に言われるとはな、ファム」
ファムは華のように微笑んでから、重たいはずの荷物を背負って指差す。
「行こっ! 帰るんでしょ?」
「……ああ、そろそろ出るか」
下山口に入り、バスを待っている間、クラードは静かに寝息を立てるファムを視野に入れていた。
白銀の髪を短く切り揃えた相貌にかかった髪を、クラードはその手で拭おうとして、腕に刻まれた紋様を視野に入れる。
「……お二人さんかい?」
声をかけて来たのは自分達と同じようなバックパッカーだ。
「……ああ。二人旅……みたいなものかな」
「羨ましいねぇ。そんな綺麗な嬢ちゃんとなんて」
バス停でバスを待つ間、相手は自分の腕に視線をくれていた。
「……珍しいだろうか。この刻印も」
「あ、……悪いね、どうにも……。最近めっきり見なくなったなって思って……ライドマトリクサー、だよな?」
「ああ。全身の七割を超過している」
「七割……? そいつぁすごいな。……後遺症があるって聞いていたが……」
「日常生活を送る上じゃ、別に支障はないさ」
「けれど連日、ニュースにはなっているだろ? RMはメンテナンスをする術がダレトの技術に頼って来たから、医者も少ないって。劣化するとかも聞いたが……」
「……どう思う? 月のダレトは消え、そしてつかの間の静寂が流れているのを」
「どうって……。ま、なるようになるだけさ。だって、ダレトがあって当たり前だったのが、今度はないのが当たり前になっていくんだろう。そういう風に人間は出来ているもんだよ。案外、人類はしぶといんだ」
「……しぶとい、か。それはそうなのかもな」
バスがやって来たのでファムを揺り起こし、続いて乗車する。
「……あんた、来ないのか?」
「おれは次のバスで帰るんだ。……一つ、いいかな? 山で出会ったら――」
「こんにちは、だろ。分かっているって」
バックパッカーは手を振って笑顔を向ける。
「こんにちは。そして出会いにありがとう」
気安くそんな言葉を吐けてしまうほど、彼は現状に不満を抱いていないのだろう。
バスに揺られる事、三時間。
そうして電車を乗り継いで、六時間が超えただろうか。
「ミュイぃぃぃ……っ! 疲れたぁ……っ!」
「慣れっこだろ、お前は」
「……ミュイ、クラード、分かってないっ! こういうのも“ダイゴミ”、でしょ?」
まだ自分の中に馴染んでいない言葉を恨めし気に口にして、ファムは駆け出す。
「クラードっ! 帰り、一番乗りー!」
ファムは微笑んで帰り道を走り出す。
――それは、海の見える白い一軒家であった。
潮風が吹き込み、肺の中を満たして行く。
遠くで海鳥が鳴き、遥か彼方の空を目指して飛び去って行った。
「あっ……鍵ってクラードが持ってるんだった」
扉を開けようとして結局ファムは自分を待っている。
クラードは自分のペースで扉へと歩み寄った瞬間――意識は白の世界に漂白されていた。
「――久方振りだな、エージェント、クラード」
「……俺はもうエージェントじゃない」
白い老爺は煉獄の片隅で、背中を向けたまま問いかける。
「……良いのか? こんな終局で。貴様はこの来英歴を救ったと言うのに。我と、そしてダーレットチルドレンの魔の手から」
「似合いの終幕だ。別に構わないだろう」
「……暫く出てこなかったのは、貴様の生き様を見据えるためだ。この二年間、様々な場所を見させてもらった。月のテスタメントベースに居た時に比べれば、無数の景色を」
「それで、何の用だ? 今さら俺の身体を預けろとでも?」
「……まさか。しかし、疑問はある。何故、我を――殺し尽くさなかった? 脳内キャッシュに残存する我など、殺そうと思えば出来たはずだ」
「残念ながら、ライドマトリクサーをどうにか出来る有機伝導体操作技術を持つ医者は限られている。その上、俺はもうどうせ……長くはないだろう」
「それがこの世界の盤面を覆そうとした狂気に対しての答えか?」
「……いいんだ、別に。俺は……ただ生きていたい。愛するべき者達と共に、有限の人生を。それを謳歌するのが……人並みの幸せなのだと。ああ、そうか」
今さらに気付く。
幸せなんてものは、なんて些細で、そして何でもない――。
「……ずっと言い続けてきた大切な人間の言葉が、今分かったような気がした。幸せに……誰だって成れるんだな」
「遅い気付きだな、クラード。……だが、貴様は背負っている。ミセリア・リリスと、そして我。限りある人生の中で飼い殺しにするのには重過ぎる咎だ」
「いい。それくらい重いほうが、生きている気がする」
「……叛逆の徒であったクラードからは、ついぞ聞けないと思っていた言葉だな、それは」
「もう、そんな事を言っちゃって、イジワルなんだからなぁ。行こっ、おじいちゃん。クラードの邪魔しちゃあ、悪いよ」
不意打ち気味に内奥で発せられた声に、クラードは思わず振り向いたところで――きょとんとする現実の視野のファムを目にしていた。
「クラード……?」
「……いや、何でもない。鍵が必要だったな。帰るべき場所には、鍵が」
首から下げた黄金の鍵を鍵穴に差し、すっと回す。
失ったものは数知れず、しかし、得たものは星の数ほどに多い。
そうやって今日も人生は巡っていく。
宇宙の深淵に通じた間違いだけを正して、世界は夕映えに輝く。
真紅の瞳を細め、クラードは彼女の待つ家へと帰っていた。
「ただいま」
「――おかえりなさい」
芳しい香りと、どこか安堵させるケチャップと玉子料理のアンサンブル。
さぁ、たった一つの約束を果たそう。
だって夕食は、彼女の得意なオムライスなのだから。
『機動戦士ガンダムダレト』 完
明日、18時更新の「あとがき」にて完結です。
ここまでありがとうございました。