歩いた。
どこまでも遠く。
どこまでも果てのない、旅路を。
灼熱の太陽。
肌を焼くじりじりとした熱気。
だがそれらが今は、どうしてなのだか冷め切った代物に思えてくる。
それは生まれ変わった証であろうか。
「……どうだろうな……」
天を仰いだハイデガーは自分の掌を見やる。
睨んだ瞬間には積層構造のライドマトリクサー施術痕が浮かび上がっていた。
一瞬だけ開いた自分の手はまるで他者の手のように現実味がない。
「……それもこれも……」
思い返す。
違法なRM施術を請け負っている業者に頼り、ライドマトリクサーとして可能な施術を全て施した異端の肉体。
脳幹以外は全て、そのほとんどの権利を委譲していた。
最早、自分の肉体のどこが生身で、どこが機械化されているのかは判然としない。
「……その上……」
業者から足が割れては敵わない。
よって、ハイデガーは施術後に目を覚ました直後には、有機伝導技師を撃ち殺していた。
自分の経歴を知られるのは旨味がない上に、このままでは異端者の烙印を押されるだけだ。
「……だが、今の僕ならば乗れる。あの《レヴォル》に……! 焦がれ続けた、エースの座に……!」
ぎゅっと拳を握り締めたところで、ハイデガーは暗幕の中から数名の人々が出ていくのを目にしていた。
その中にあり得ないはずの人間を発見する。
「……何で、だ……」
どうしてなのかまるで分からない。分からないと言うのに、改造された視力は明瞭に、その二人を捉える。
「……カトリナ・シンジョウ。それに、クラード……」
震撼する視界の中で二人は手を握っていた。
どういう経緯なのかは分からない。
分からないが――これまで冷めていた血管が急速に沸騰していくのを感じていた。
「……何でだ。何でだ、何でだ……何でなんだ! 僕はここまで自分を売り払ったと言うのに、何であいつが……僕の欲しいものを手に入れている……!」
忌むべき手。
RM施術痕の浮かんだ腕。
だと言うのに何故なのだ。
自分は喪失した。
一生分の価値を売り払ったのに、それでも隣に居てくれる人はいない。
なのにあれには――クラードには隣に居てくれる人が居る。認めてくれる人が居る。
それが何よりも――今は断絶として許せない。
ハイデガーはその場に蹲り、二人の背中が遠ざかっていくまで見つめていた。
二人が手を繋いだだとか、クラードがこうして普通の生き方を謳歌しているだとか……そんな事はもう、どうだっていい。
どうだっていいのに、脳髄を焼き焦がすかのような怨嗟だけが止まらない。
「……何でだ。僕は……あの場所に……あいつが居るあの位置に居たはずだ……。だって言うのに何で……何であいつは……! 僕の居場所をことごとく奪っていく……!」
――足りないのか、とどこかで自問する。
その問いかけの主は妙に明瞭化した声で脳内に囁きかける。
「違う……。足りているはずだ。満たされているはずだ! 僕は……RM施術に……あいつよりも強い施術に打ち勝った! そう、勝ったはずなんだ!」
――ならば何故、そうも満たされない?
「それは……」
眼球に埋め込まれた拡張機能がこちらを見て声を潜める者達を発見し、ハイデガーは羞恥と屈辱に拳を握り締める。
「何を見ている!」
周りの人間達が散っていく。
それらを目にしつつ、ハイデガーは足りないものを感じていた。
「足りない、足りない、足りない……もっと欲しい! もっとだ! 僕は満たされなければいけない。だって言うのに、何でこうも飢えが……渇きが襲ってくるんだ! ……RM施術の失敗か?」
不意に浮かんだ疑念であったが、当の技師を殺しているので確かめようがない。
ならばヴィルヘルムに、と考えた自分の浅はかさに嫌気が差す。
「あの人は僕を見てくれない……」
だから自分だけで強くなるためにこうして努力した。
努力して、培って、そして自分を、他の誰でもない自分を。
皆が評価してくれるはずだった。
だと言うのに、残ったのは何だ。
虚無だけだ。
虚無感だけに衝き動かされ、ハイデガーは朽ちた街並みを彷徨っていた。
そこいらで燻ぶる硝煙。
それでも人々はかつての営みを取り戻そうとしている。
何よりも腹立たしいのはそれもだ。
「……壊れた物は、壊れたままだろうに……!」
何で一端に取り戻そうとしている。
何で取り戻せると思い込んでいる。
何で――自分はこんなに酷い顔色で、街を徘徊しているのだ。
ガラスに反射した自分の面持ちに笑えてくる。
「……何て顔だ。RM施術を表情筋まで至らせたはずなのに、何でこんな時、顔色一つでさえも制御出来ないんだ……」
くしゃくしゃの泣き顔に浮かんだ、身を焼き尽くさんばかりの怒り。
それは己の思考を焼き焦がし、全てを葬り去らんとする。
これまで積み上げて来たものは偽りであった。
これまでの経歴は意味なんてなかった。
これからの生にもきっと、意味なんてないだろう。
ようやく辿り着いた緑地帯で、自分の愛機であった《エクエスガンナー》が乗り捨てられていた。
頭部を損壊し、その象徴たる武装さえも破壊され、無様に横たわっている。
「……お前は役目を終えたのか」
答えはない。
《エクエスガンナー》の眼窩に意識もない。
ハイデガーはコックピットに乗ろうとして、不意に漂ったにおいに顔をしかめていた。
「……あいつのにおいだ。エージェント、クラード……!」
それを打ち消そうとして全天候モニターを殴りつける。
強化された自分の膂力がモニターを打ち砕いていた。
「……何で……何で僕には何も残されていない……。お前もか、《エクエスガンナー》! お前も僕を裏切るのか! 僕を見限るのか!」
答えなんてない。
分かり切っている。
この世に、もう自分の期待する答えは残されていない。
幽鬼のようにゆらりと立ち上がり、ハイデガーは顔を覆っていた。
叫びが、慟哭がコロニーの空を突き抜けていく。
取り返しのつかない事をしてしまった。
何も取り戻せない。
日常も、情景も、愛情も、友愛も、何もかもを捨ててしまった。
この手にあるのは人を殺すためだけの術だけ。
それも、あのクラードに遠く及ばないのは理解出来てしまう。
「全身ライドマトリクサーでも……敵わない事だけが明瞭なんて……そんな事ってあるのかよ……」
答えは遠ざかる。
正しさは背を向ける。
自分の手の中に残ったのは、滑り落ちるだけの掌に残存したのは――人でなしの証拠だけ。
もう、戻れない。
なら――。
「簡単な話じゃないか。――戻れないのなら、全部壊してしまえ」
それが自分の、世界への叛逆だ。