――見るべきではなかったのかもしれない。
あるいは、知るべきではなかった、か。
カトリナは艦長室に向かいかけて、抱き合っているラジアルとアルベルトを目にして慌てて廊下の角に身を隠していた。
「……私は、何やってんだろ……」
二人が立ち去ったのを確認してから、陰鬱なため息をつく。
委任担当官として、何よりもクラードの理解者として佇んでいたつもりが、当のクラードが居なくなってしまえばほとんどお役御免のようなもので、誰かが自分の道を諭してくれるわけでもない。
ある意味では、ラジアルが羨ましかった。
誰かに寄り添えるのならば、自分もそうしたい。
それくらいの、やけっぱちな心根が、我ながら嫌になってくる。
「……駄目だな、私。こういう時に一人で解決出来る力が――」
「何やってんすか? カトリナ嬢」
不意に背後から呼び止められ、短い悲鳴を上げてカトリナは前のめりに転んでしまう。
抱えていた書類ごと、カトリナは無様に鼻を打っていた。
「痛ったー……。って、トーマさん?」
トーマは整備班のツナギのまま、自分へと手を差し出す。
「お疲れやまっす、カトリナ嬢」
「えっと……何でここにメカニックのトーマさんが?」
「《レヴォル》一機分だけ減ったんで、お役御免って言うんですかね。ちょっとだけ余裕出来たんで、休んでいいとの事っす。ま、言っちゃうとメカニックで渋面突き合わせたって何も出ないから、月軌道までの僅かな休息を取っておけっていうご命令ですね」
「そ、そうなんですか……。その、みっともない姿を見せちゃって……すいません」
「いいんですよ、別に。カトリナ嬢はいつもそうじゃないですか」
「……うぅー……もしかして馬鹿にしてます?」
「してないっすよ。クラードさんとかじゃないんですから。あーし、カトリナ嬢の事を期待の新人とか揶揄するつもりもないですし」
「……でも、クラードさんが居なくなっちゃって……私も何をすればいいのか、分かんなくなっちゃって……」
またしても陰鬱なため息をついていると、トーマはふむ、と首肯する。
「カトリナ嬢、腹減ってねぇっすか?」
「えっ……お腹?」
「奢るっすよ。女子同士、聞ける話だってあるはずでしょ」
「えっ、でも悪いですよ……」
「いーから、いーから。あーしが奢りたいって言ってるんですから。その厚意には素直に甘えてください。そうじゃなくたって委任担当官は大変そうに映ったんですから」
トーマに手を引かれ食堂まで辿り着く。
彼女は餃子定食を頼んでから、自分には牛丼を奢ってくれていた。
「……その、トーマさんは、いつも餃子で?」
「あー、そうっすよ? だって短時間で栄養補給出来るから便利っしょ」
「……うーん、そうかなぁ……」
「カトリナ嬢、何かあったんすか? なんかいつもみたいな空元気がないっすよ?」
見透かされているのか、と感じたがラジアルとアルベルトの事はさすがに言い出せず、カトリナはクラードの懸念だけを口にする。
「その……どうなっちゃうんでしょうか。月航路までまだ道のりはあるのに、クラードさんが行方不明なんて……」
「どうにかするしかないっしょ。それがエンデュランス・フラクタルのやり方でしょうし」
「……強いんですね、トーマさんは」
「これが当たり前の職場だってだけですよ。案外ブラックなんす。一流上場企業って言っても」
トーマは餃子を頬っぺたいっぱいに頬張りながら、その箸でメカニックの学術書を捲っていく。
「……食事中にも勉強を?」
「タジマって言う、営業職の人が持ってきた新しい武装があるんすよ。それ、次の時までに覚えておかないと、サルトル技術顧問がこれっす」
トーマは指を立てておかんむりというのを示すので、思わずカトリナは笑ってしまう。
「あっ……こんな時でも、笑えるんだ……」
「笑ったほうがいいっすよ。そのほうが、カトリナ嬢っぽいですし」
「そう、ですかね……。でもさすがにクラードさんが居なくなっちゃったのに、陽気に笑うのはちょっと……」
「……うちの技術顧問が言っていました。“クラードは心配しなくっても必ず帰ってくる”って。自分達の仕事はその時に恥じるような仕事をしない事だって。タジマさんが持ってきた部品は《レヴォル》専用なんす。だから、あーしはこうして、寝る間も惜しんでそのパーツの解析。これがあーしの仕事なんです」
「……自分の、仕事……」
「カトリナ嬢の仕事はきっと、委任担当官って言うデカい仕事のはずでしょう? あーしにはお手伝いは出来ませんけれど、その代わりにこうして牛丼奢って、女同士でしか出来ない話をするのが、せめてもの餞別なんすよ」
トーマはぱくぱくと餃子を口に放り込んでいくのですぐにランチタイムは終わってしまいそうであった。
「……でも私、クラードさんに、まだ何も出来ていない。まだ、何も……してあげられていない……」
「それでもいいんじゃないですか。カトリナ嬢の仕事をこなしていくうちに、クラードさんにとっては困らないようになるはずっすよ。その時を信じて仕事すれば、絶対に裏切らないはずです」
「……でも、ここに来て分かんなくなっちゃったんです。何で、MF相手に、艦長はクラードさんと《レヴォル》を単騎で寄越したんだろうとか、それとか……色々……。私も納得したいわけじゃないとは思うんですけれど、それでもどこかで答えが欲しいんだと思います」
「答えなんて、辿り着いた時にようやく、って感じっしょ。一個一個に意味がないように思えて、それが答えなんてザルっすよ。カトリナ嬢はこうして頑張っている。その積み重ねで今は納得していくしかないんじゃないですか?」
「……頑張りで、納得……」
「あーしの仕事もすぐに結果が出るようなものばかりじゃないです。でも、その結果に裏切りたくない、信頼を失いたくない一心で、こうして打ち込んでいるわけっす。自分に何が出来て、何が成せるのかなんてきっとその時その時の答えでしかないんですよ。だったらせめて、腹だけは空かせないようにするのが務めじゃないっすかね。腹が減っては何とやらって昔の人も言いましたし」
「……腹が減っては、か……。でも、私……」
そこで不意にトーマが餃子を突き出し、自分の弱音を発しかけた口を塞ぐ。
「でもとか、ストとか禁止にしましょ。そのほうがいいに決まってます。あーし、偉そうな事は言えませんけれど、今だけは待つ時なんだって思うんす。だって、クラードさんはきっと帰ってきます。なら、その時に万全な姿勢で待っていないとか嘘でしょ」
「……万全で、待つ……」
「カトリナ嬢、餃子食っていいっすから、その分だけでもお腹満たしてください。そうじゃないと戦えません」
トーマの言葉にカトリナは突き出された餃子をぱくつき、そして牛丼をかけ込んでいた。
今は待つ事しか出来ない、それでも、自分に出来る抵抗があるのならば、これだけだ。
こうする事だけが、自分が待つ事への表明なのだ。
牛丼を勢いよくかけ込んでいる途中で、不意に喉に詰まってむせてしまうが、トーマはそっと水を差し出す。
「ゆっくり行きましょ、カトリナ嬢。どっちにしたって、月までは少し遠いんですから。足並みを止めなければきっと、見えてくるはずですし」
「……足並みさえ、止めなければ……」
「そういや、カトリナ嬢。いっつもそれ、付けてるんすね」
「えっ……何の事……」
「いや、今ネクタイの裏に見えたっしょ。思い出の品っすか?」
「あっ……そういえばこれ、ずっと付けっ放しだった……」
取り出したのはエンデュランス・フラクタル入社初日に実家から送られてきた祖父の遺品であった。
「……鍵、みたいに見えるっすね、それ」
「何の鍵なのか、未だに分からないんですよねぇ……。部屋の鍵とかそういうんじゃなさそうですけれど……」
「うーん……見た感じ、デバイスっぽくもありますけれど……。でも意外っす。カトリナ嬢、化粧っ気ないっすから。パイセンみたいに歴戦の、って感じでもないっすし」
「バーミット先輩とは違いますよ。……でも、これ何だろう……? うん、違う……、何だっけ、これ……」
不意に脳裏を掠めた不明瞭な記憶のビジョンに、カトリナは眩暈に似た何かを感じ取る。
「……大丈夫っすか?」
「あっ、大丈夫……。この、鍵……何なの……?」
全く知らないわけではない。だが該当する記憶がまるで存在しない、意図しない何か。
「まぁ、調べられる環境さえあればいくらでも調べられるんすけれどね。《レヴォル》があんなじゃ、整備班の検索窓も使えないっすし」
「鍵には、見えるんですけれどね……」
「まぁ、大事なものって事じゃないっすか? じゃ、お先するっす」
カトリナは金色に電灯を反射する鍵をじっと見据え、それから呟いていた。
「でも、私にも、何か出来るはずなんだから……。だからカトリナ、負けちゃ駄目……」
その時に見えてくる景色を、今は心待ちにするしかないだろう。