いつものように書類を小脇に抱えて、カトリナはクラードを待つ。
まさか、生きて帰ってくれるとは思っていなかった。
だから、約束を果たさなければ――そう思ったのだが、何か決定的に何かが自分の中に足りない。
地獄のような戦いを繰り広げたはずだ、MFとなんて。
しかし、自分に何が言えるのだろうか。そう思うと、自然と及び腰になってしまう。
いつもなら、何も考えずに一直線にクラードへと訪問するはずが、どうしてなのだかヴィルヘルムの医務室に訪れていた。
「おや、期待の新人。どうしたのかな? 何か具合でも?」
「いえ……いや、そうなのかもしれません。私、これまで身体で、全力で立ち向かってきました。こんなでも、出来る事があるはずだって。……でも、アルベルトさんとクラードさんの立ち合いを見て、分からなくなっちゃったって言うか……。ああやって、血塗れになってでも対峙する事が、本当に相手の事を理解する事に繋がるのかなって」
「いつになく弱気じゃないか。君らしくない」
「……私らしいって何なんでしょうね。だって、これまで私は二十二年しか生きていないんです。クラードさんのほうが、もっと短いはずなのに……それなのに私、クラードさんの生きざまに圧倒されているんです。もちろん、アルベルトさんや、他の方々にも。……だって、皆さんこの月面に来るまで色んなものを切り捨てて来た、その覚悟ってとてつもないじゃないですか」
「……物分りがよくなってしまえば時にそれは毒ともなる。君の場合は、賢しくなるべきじゃない。まだまだ、馬鹿の領分でいいはずだ。それが君だろう?」
「ば、馬鹿って……。まぁいいですけれど……。私、クラードさんの何に成れるのかなって、ちょっと思っちゃいました……」
「クラードは何を求めていると思う?」
「それは……分かんないですけれどでも……生半可な覚悟じゃないのは間違いないはずです。だって、あそこまでMFみたいな敵と戦えるのなんて……ただ漫然と生きているだけじゃないって分かりますから」
「クラードが怪物に見えるのかな?」
思わぬところで正鵠を射てくるのだから、ヴィルヘルムも人が悪い。
「……かも、しれませんね。クラードさんが……私なんかじゃ及びもつかない……怪物に、見えてしまっているのかも……」
「だが怪物を殺すのは、いつだって人間だ。怪物同士の戦いでどっちが生き残るのか、という議論は不毛だよ。どのような怪物譚でも、それはやがて英雄譚に代わる。この来英歴のように」
「……来英歴……。教えてください、ヴィルヘルムさん、そこに何があるんですか? 何だってクラードさんはここまでして、月の裏側、テスタメントベースに?」
「それは、これから確かになる」
ヴィルヘルムは佇まいを正し、支度を始めていた。
「……どういう……」
「わたしも同行するからだ」
「同行って……月面に?」
「ああ、そうでなければいけない。これでもわたしは有機伝導技師だ。もしもの時のクラードの意識モニターをするための要員となる」
「そのもしもって言うのが、テスタメントベースに待っているって言うんですか?」
「ああ、そうだ。わたしだけじゃない、サルトル技術顧問も赴くはずだ」
「わ、私も……っ。その、行かせてくれませんか……?」
「君も? ……恐らく許可は出ない。クラードだって許しはしないだろう」
「それでもっ! ……私知りたいんですっ! クラードさんがここに来るまで、何と戦ってきたのか。何のために、これまで自分を切り売りして来たのかを」
「……言っておくがテスタメントベースでの無事は保障出来ない。帰還までの道筋に安全な道なんてない。死んだらそこまでだぞ」
そう言われてしまえば一瞬だけ戸惑ってしまうのが自分であったが、それでも、と拳をぎゅっと握り締めた。
「……それ、でもっ……! 私だけ置いてけぼりを食らうのは……だって嫌ですから……」
「……君のためを思って言っている……と言うのは、狡い常套句か」
「今さら無事も、何もないはずです。私は……私の心に後悔しないように生きていきたいんです……っ!」
「心、か。クラードは既に封殺したものだと、そう言っていたが、ここまで来るのに一ミリも信じてこなかったわけでもないだろう。クラードは絶対に言葉の上では肯定しないがね、彼は変わった。どこで心を得たのか、どこであんな風に戦うようになったのか、まるで分からない。わたしは、彼にクラードと言う名を与え、そしてエージェントとして教育した最初期の人間だ」
思わぬ告白にカトリナは面食らう。ヴィルヘルムはそんな自分を見据えたまま喉元をさする。
「この喋り方も、この佇まいも、彼はそっくりそのまま真似たはずだ。エージェントとして、人格模倣は初歩の初歩だからね。アルベルト君達が人が変わったようだ、と言っていたのは恐らくそのためもあるのだろう。クラードはこれまで、数多の“取り繕い”の上に成り立っていた。それは彼自身の出自もだし、彼のこれまでの行動も、だ。何もかもを表層で取り繕い、そして全てを消し去って味方だと思ってくれた、そう言ってくれた人々を殺して、その上で彼の足並みは成り立っている。彼の足元は既に屍だらけなんだ、もう、ね。戻れない、とクラードが思っているのだとすればそうだろう。死んだ人間は戻らない。そして――裏切った過去はなかった事にはならない」
「……過去を、なかった事には……」
「後悔なんて一言も言わないが、クラードは元々、そこまで非情な人間だっただろうか、とわたしは時折思う。こんなでもね。彼は冷徹だが、冷酷ではない。そうするべきと規定した事を、全てにおいて成し得るだけだ。その点において言えばストイックでさえもあるだろう。しかし、それは彼にとって酷な道だったはずだ。わたしはあの時……戦場で拾った一つの命に、“クラード”の名を授けるべきではなかったのかもしれない……」
それはヴィルヘルムの口から漏れた初めての後悔――否、懺悔だったのだろう。
クラードを、彼をエージェントにするべきではなかった。それはきっと、拭えぬ過去の痛み。
だがカトリナは知っている。
クラードは決して、後悔だけで生きているわけではないのだと。
「……大丈夫ですよ。クラードさん、それだけでエージェントをしているわけじゃありませんから」
「……大丈夫って、君が何を……」
「何を知っている、って思われるかもしれませんけれどでも……クラードさん、約束してくれました。私みたいなのと約束を。だから! 帰ってきたら私、オムライスを作るんですっ! クラードさんのために、ふっかふかのオムライスを!」
こちらの言葉があまりにも常識外れに思われたのだろう。
茫然とするヴィルヘルムに、カトリナは言いやる。
「だから、ヴィルヘルムさんも後悔なんてしないでください。クラードさんもきっと、そう言ってくれるはずです。ここまで来るのに、無駄なんてなかった。この場所に到達するのにきっと、意味がないなんてなかったはずだから、って」
「……驚いたな。君に諭されている」
「そうでしょう? 私、これでも他人を叱るのは得意だったり!」
茶化すと、ヴィルヘルムはようやく、微笑んでくれていた。
「……まったく。君のような期待の新人に最後のきっかけの背中を押されるとは。わたしもある意味じゃ、焼きが回ったとでも言うのかな」
「な――っ! 言い方っ!」
「いや、これは事実だから“取り繕わ”ないほうがいいだろう。誰かを煙に巻くような言葉ではないのだから。……カトリナ・シンジョウ君。感謝している。テスタメントベースに向かうための心構えが、まさか君の言葉だとは思いも寄らない」
「……私も、まさかヴィルヘルムさんにこんな事言っちゃうなんて、思いも寄りませんでした。でも……」
「でも行くんだろう? 強情だな。だが、それも気に入った。艦長に許可は取り付ける。君は格納デッキに向かうといい。強襲用のシャトルを使う。サルトル技術顧問と一緒に居れば、連れて行ってもらえるはずだ。もしごねるようならわたしが許可したと言ってくれればいい」
「……ヴィルヘルムさん……」
「わたしは君のような人間に、クラードを想っていて欲しいのかもしれないな。彼は独りではないのだと、どこかで納得するために。だがそれはわたしのエゴか」
それでも、否定も肯定も出来ないまま、ヴィルヘルムはカルテや様々な機器を手に医務室を後にする。
もう帰ってこられないかもしれない。
そんな医務室の風景は、いつもより物寂しい。
格納デッキには、既に居合わせていた強襲用のシャトルに乗り合わせる人員がノーマルスーツを纏っている。
「おい、期待の新人……。まさか、あんたも来るのか?」
「あ、はい……っ! 私だって、出来る事があるはずですっ!」
「出来る事ねぇ……。どっちにしたって、他人の命なんて頓着出来ないんだぞ? 自分の身は、自分で守れよ」
差し出された拳銃を躊躇いつつもカトリナは握り締める。
「にしても、あーしからしてみても意外っす、カトリナ嬢」
「トーマさん……。はい、私も意外でしたけれどでも、ここで付いて行かないほうが、もっと怖いって思いましたので」
「ふぅーん、いい事っすよ、それ。きっと」
「《レヴォル》の最終点検は? どうなっている?」
「ああ、クラード。おれ達が帰る頃には、きっと出来上がっている。そうだよな? みんな!」
整備班の、応! と言う声にクラードは応じてパイロットスーツに袖を通す前に自分を発見していた。
「……あんたも来るのか」
「あ、はい……っ! だって付いて行かないと、クラードさん、どこかに行っちゃいそうですし……」
「危険な宙域だ。レミアの情報と摺合せた結果、新たなMFの出現かもしれない。それに月軌道艦隊を守る不明な機体も居る。……素人が口出し出来るような状況じゃない。明らかに生死の是非を問う場所だ」
「……それでも、クラードさんが行くんなら私、行きます……っ。だって、委任担当官は私が任せられた仕事で、そしてこれからもきっとっ! クラードさん達のための仕事のはずですからっ!」
「……俺達のための仕事、か」
「心配は要らねぇ。オレも付いていく。なに、もう下手な事はかまさねぇ。オレは、オレの信じるもののために戦うんだ」
「ヘッド、おれ達はベアトリーチェを守るぜ。……ラジアルさんが命張って守ってくれた場所だ。あんたが帰ってくる場所でもある」
「……お前ら……ったく、言ってくれるぜ」
少しだけ涙ぐんだのを目にしたが茶化すのはよしておく。
「あんた、カトリナとかだったな?」
「もうっ。そろそろ覚えてくれません?」
「行き帰りの保証の出来ない旅路だ。命を預けるに足る相手でもある」
「……どういう……」
クラードはライドマトリクサーの手を拡張させる。
剥き出しの機械の腕はしかし、以前のような嫌悪感はなかった。
――それは人を守るための腕だからだ。
今はそれがハッキリと分かる。
「握手して欲しい。俺が命を預けるに足ると、そう感じた相手にだけ、このライドマトリクサーの腕を触らせる事にしている」
「うっわ、めっちゃレア……!」
トーマの声を受けつつ、カトリナはおっかなびっくりにクラードの機械義肢に触れていた。
「……あったかいですね」
「ライドマトリクサーの部位に熱は通っていないはずだが」
「そういう事を、言っているんじゃないんですよ、もうっ」
微笑み一つでクラードへと返答し、そしてきっちりと握手するように、その部分を握り締める。
これで命一つ、預ける覚悟は出来たようなもの。
「……アルベルト。お前にも……」
「いや、オレはやめておくぜ、クラード。だって、そんな縁起でもねぇ、命を預けるなんてな。オレ達はだって、いつだって背中合わせだろ? きっと、これからも」
背中を預けるのなら、腕を握る必要はない。
相手を認めるのに、格式ばった言葉や動作は必要ないのだろう。
「……そうだったな。いつだって、アルベルトは……俺に切り込みを任せてくれていた。今もまた、そうなんだな?」
「分かっているじゃねぇか、クラード」
だから、今はこの二人がその手を取る必要はない。
つい先ほどの殴り合いで、既に絆は確かめ合ったのだから。
「……行かなきゃいけない。《レヴォル》の整備は任せておく。テスタメントベースに《レヴォル》を持って行けば、それだけで警戒される。《レヴォル》は俺達の切り札だ。出来るだけ温存しておく」
視界の隅に映った《レヴォル》は、今もまた改修作業が行われていた。
大仰な鎧に身を包み、全身これ武器とでもいうような装備に身を包んでいく。
「……また、《レヴォル》が強くなる……」
「MFと戦うかもしれない。最後の形態――《フルアーマーレヴォル》へと換装する」
クラードはパイロットスーツに身を包み、自分もまたノーマルスーツに袖を通していた。
「……分かっている、カトリナ。これがきっと……最後の戦い……」
自分に言い聞かせ、そして迷いを振り切って向かう。
彼らと共に、月面に降りるために――。