残滓のうち、ひとつ 作:花見饅頭@クー
「昨夜はありがとうございました。お陰様で快適でした」
人々がまだ目を擦って微睡むような時間にも関わらず、旅人はヘルムからグリーブまできっちりと着込み、腰にはぴかぴかの鞘に納まった剣を帯びている。騎士然とした鎧を纏っていながら、手に握られているのは相変わらず
昨日と違うのは、頑なに閉じられていた筈のヘルムのバイザーが持ち上がっており、秘匿されていたその素顔が顕になったことだけだ。
旅人──イ・シェドはにこやかに笑い、そして興味津々な様子で樹皮貼りの壁をガントレットでぺたぺたと触りまわって──そして木っ端を散らかして──いた。
「虫も魔物も出ませんでしたし、お部屋も涼しかったです。それに、お掃除も行き届いていましたしね」
「そりゃそうだ」農夫は素っ気なく吐き捨てた。「生き物は死に掛けて動けないだけだし、寒いのも元からこういう気候だ」
彼には不自然なまでに無邪気な様子で日常を取り沙汰すこの旅人の真意は図り兼ねた。ヴォーダインの人類生活圏はそう広くないが、ひと月そこらで横断できるほど狭い訳でもない。
しかし、今この時になっては何処に行ったとしても状況には大差ない。どこも寂れて朽ちかけ、からからに乾いている。ここまであからさまに珍しがられると、村人は却って馬鹿にされているような気になった。
「綺麗なお部屋だったのには代わりありませんよ」
あけすけに無関心な男に、イ・シェドは優しく微笑みかけながら言う。
それもまたどうにも腹立たしく、彼は地面に砂混じりの唾と「やることがなかっただけだ」空虚な言葉を吐くと、小屋に背を向けて早足に歩き出した。
「何処に?」旅人はその背中を追ってゆるゆると歩を進めつつ、再びバイザーを降ろして尋ねる。
「あんたに
「お礼!」イ・シェドはわざとらしくはっとして手を打った。「そうですね、それは忘れてはいけませんよね」
彼は芝居がかった明るい声で言い、杖を手の中でくるりと回しては得意げに天に掲げてみせる。
農夫は横目でそれをちらと見、すぐにまた視線を戻した。
「ご安心召されよ、恩人たるあなた。このイ・シェド、我が名に誓ってこの地に富をもたらしましょうとも」
魔導師はバイザーの奥で密かににやりとすると、杖の金色を曇天の下に閃かせた。
一見して華奢なつくりのそれは、彼の纏う堅牢な鎧にはあまり似合っていない。この農夫は素よりあまり物を知らなかったが、それでも彼がどこか不格好であることは察することができた。
「……そういやあんた、魔導師って言ってたな」
農夫は独り言のような声で呟く。
旅人はそれを耳聡く聞き付けると、嬉しそうにええ、と相槌を打った。
「はい、私は魔導師──魔法の道を志す者です。もしかして、ここでは珍しいのでしょうか」
魔導師の問い掛けに村人は首を横に振る。
「珍しくはない。一昨年くらい
彼は一度溜め息を吐いた。その沈黙の意味する所は、外来の者である魔導師にも察することができた。
「でも、魔法を使う勇士は、あんたで3人目くらいだ」
──村人はやがて村の最中の枯れた広場にまで歩いていき、立ち止まって客人を振り返る。
イ・シェドは少し遅れてその前に立ち止まり、ゆっくりと瞬きをし、唇を舐めた。
男は乾いた声で笑うと、話を続ける。
「世界中が
彼は不意に広場の一角に目をやる。視線の先には雑に並べられた割れ石がいくつか並んでいた。
「なるほど」旅人はそちらに顔を向けて静かに目を伏せ、そしてまた追って尋ねる。「では、私の前の
「そういう奴は強すぎて誰も敵わないから、散々やってさっさと行っちまう」
村人はまた素っ気なく答え、足元の石を何気なく蹴飛ばす。砂埃を上げて転がったそれは、地面に開いていた亀裂の中に吸い込まれるように落ちた。
「は、だから、魔法の加護を受けんのは相当久し振りってことだよ、勇士さん」
仄暗い闇へ消えた石ころに一瞥をくれて、男はそれきり口を噤み、旅人を呼ぶでもなくただそこに立ち竦んだ。
イ・シェドもその背中を所在なく眺めるだけで、こちらもまた静かに黙っている。敢えて彼に掛けられるような言葉があった訳ではなかったから、余計なことを口にして機嫌を損ねては
ヴォーダインの民にとって最早、魔法使いとは果実の生る木でしかない。その恩恵は乾きを潤し、飢えを満たす。
魔法──魔術とは"無から有を生み出す術"であり、成る程確かに、この消費だけが延々と続くだけのヴォーダインで、魔法がこんな形で望まれるのは無理もない事だろう。
イ・シェドは再度、この世界の憐れを憂いた。
足掻くことすら辞めてしまった
──やがて、厚い雲の向こう側を滑る光球が斜めに地上を照らす頃。
広場にぞろぞろと連れ立って、数人の村人が訪れた。揃いも揃ってみすぼらしい風貌の男で、女子供の姿は無い。この環境の中でまともに動けないのか、或いはもう
「あんたが今回の勇士か」
群衆──20人にも満たないが──の中でもひときわ老いた男がその中から一歩踏み出し、旅人をじろじろ眺め回しながら尋ねた。
「はい」旅人は自分に声をかけた民に向き直ると、杖を地面に突いて恭しく頭を下げた。「私はイ・シェドと申します。昨夜は泊めていただいてありがとうございました」
村人たちは簒奪者の目で鎧の男を取り囲み、そして数人がその身の軽さを見て露骨な落胆を顕にする。
イ・シェドだけがただひとり、針先のような冷えた視線に気付かない──仮に気付いていたとしても、彼が次の言葉を淀むことはなかっただろう。
「私は旅の魔導師です」
彼は透明な圧迫をものともせず、穏やかな声で言った。
「この村の──この世の現状、しかとお見受け致しました。何と凄惨なことかと、胸の痛む思いでございます」
鎧の旅人の言葉に村人たちがざわつく。
存在しない──自分たちが使い捨ててきた──筈の魔法使いが、まさか再び現れるとは思いもしなかったのだ。
嘘か真か、と人々は旅人の杖を凝視する。
ぴかぴかの鎧と傷ひとつない剣。傷の目立つ金色の杖。この世界には必要のない装備。
「故に私は……未だ至らぬ身ではありますが、
狼狽し、期待し、恐れ戦く観衆に、魔導師は芝居がかった丁寧さで高らかに告げる。彼の鉄の塊に包まれた腕が、天高く杖を掲げる。
魔法が始まることを観衆は理解し、皆一様に黙りこくった。
虚ろな瞳が曇天に輝く杖の先を見、厚く切れ目のない雲に噛み付く、優雅に翼を伸ばした鳥の姿に魅了されていた。
魔導師は秘匿された表情に密かな恍惚を滲ませ、乾いた空気を吸う。
「
鉄の鎧に包まれた肉体がすうと冷たい温度に染まっていく──砂の小粒でざらつく口から、細い術式が紡がれる。
「
式はヴォーダインの冷えた空気を編んで空に昇る。不可視の糸が湿った空と乾いた土の間に張られ、根のように術者の魔力を汲み上げる。
魔導師にだけはそれが見えた。身体に流れる血のすべてが、魔法の構造を完全に理解していた。
イ・シェドは大きく息を吸い込む。
抜け落ちた魔力と感覚の滾りの温度差が、背骨をざわりと舐め上げた。
「──
泡の割れる音ほどの声で静かに詠い、ミモザのように腰を折り、魔導師は金の杖をそっと土の上に横たえた。空気はしんと静まり、いつも砂埃ばかり撒き散らす風も鳴りを潜める。
その場に魔術的な
イ・シェドは杖を拾い上げ、元のように右の手の中に収めると、またきちんと直立した。
何も起こらない──空気が冷たく停滞するだけで、何も起こらない。当の魔導師の表情は、バイザーが厳密に隠している。
誰かがねばつく唾を飲んだ。
「一体、何が──」
村人のひとりがしびれを切らして声を上げた瞬間、その頬が濡れた。
ひとりがそれに気付いて空を見上げ、ふたりが見上げ、間もなく魔導師以外の全員がぽかんとして首を上に曲げた。
その場にいる生き物に余すことなく、同じ感覚が降り注いでいる。
たんたんと感覚器官を打つ冷たい温度を認識するのに、人々は数秒を要した。
「拙いものですが、これが私からの心ばかりのお礼にございます」
「上空の雲に干渉しました。継続して波及し、時間は掛かりますが、そのうちヴォーダイン全域の雲に影響するでしょう」
魔導師は全身の金属を叩く水滴の音を聞きながら、にっこりと笑った。
テミルに雨が降ったのだ。
実に数年越しに大地へと注いだそれは、焦れったく感じるくらいに優しく、しかし確かに全ての生き物を潤していく。
人々は皆一様に色めき立った。ある者は首を曲げたまま空気を必死に舐めようとし、ある者は薄っぺらい革袋を慌てて広げ、ある者は潜んでいた屋根の下から這い出してきて歓喜に掠れた叫び声を上げた。
民は狂乱し、空腹を忘れて叫び、笑った。ただひとり、昨日旅人を迎え入れた元・農夫だけが、魔導師の濡れた鎧を凝視したままぼうっと騒ぎの外で突っ立っている。
彼だけがただひとり、滅びを待つ日常をなんの気無しに救ってしまった魔導師を恐れていた。
「ああ、あ、勇士さま!」
歓喜して口々に救世主を讃え続ける浅い人波を分けて、ひときわ薄汚い衣服の子供がよろよろとその足元へと傅く。
子を養うだけの余裕はこの世界の何処にもない筈なのに、それは見てくれ齢10足らず程の、とくによく食べよく眠るであろう頃合いの少年だった。
喚いていた群衆が声を落とし、刺すような視線を一点に集める。
倣って、魔導師も首を傾げつつ幼子を見下ろした。この少年は昨日の"観光"の最中には出会わなかった人物だ。今の今まで影も形も見えなかった筈だが、隠れていたのだろうか。
人々の思案も露知らず、少年は垢と泥に塗れた顔の中の幼い瞳をきらきら輝かせている。
「ぼ、ぼくは……ぼくの、な、名前は、えっと、タレル……って、いいます」
少年はがさがさの耳障りなボーイソプラノを震わせ、汚れた手をそっと光の方へと差し出した。
群衆は総じて怪訝な目をして、野菜くずのような子供を睨み付ける。救世主に目を奪われたタレル少年だけが、その飢えた視線に気付かない。
このヴォーダインの地で──ある意味では──最も異質なその少年は、訴えるべき言葉も持たず、それでも救世主を見つめ続けている。
「──まあ」鎧の魔導師は
言い、彼はバイザーを持ち上げて瞳の色を衆目に晒す。
「荒野に根差す最後の新芽よ、君の望みも叶えて差し上げましょう。さぁ、言ってご覧なさい」
遥か上空に凝り固まった硬い雲が、雨を吐き出しながら綿のように裂ける。
その間隙にようやっと見えた空の色は、紺に近いまでのどす黒い青だった。