残滓のうち、ひとつ 作:花見饅頭@クー
魔導師イ・シェドが王立魔術院に名を連ねて半年。
自然魔術棟・第8研究室、夏の蒼天の眩しさなど露ほどにも知らない学徒は、本の砦から憎々しくカーテンの隙間を睨み、手元でペンを掴んだり離したりしている。
目の前のテキストの上には、ペンを押し付けた後のインク染みと、死にかけの虫の軌道めいた滅茶苦茶な線がのたくるばかりだ。何箇所かは辛うじて文字に見えないこともないが、その半分くらいには無慈悲なバツ印が乗っかっている。
半年後に迫る院公認魔術師資格試験の突破に向け、見習い魔術師たちは足並み揃えて勉学に励んでいた。オルランドも無論そのうちのひとりなのだが、どうにも彼だけは列に並べていないようだ。
「せんせー、俺そろそろ実技やりたい」
机にだらしなく伏せたまま、オルランドは怠惰に言った。それが受理される状況ならば、こんな風に完了することを想定
オルランドは決して無能ではない。輝き得る可能性は確かにある──それを見出した師の唯一の誤算は、彼が想像以上に卑屈だったことだ。「今からでも充分に皆を追い越せる」という言葉だけで煽れる程、オルランドの冬の期間は短くなかった。
だが、そんな事情はこの世界にはなんの関係もないのだ。彼が魔法の道を諦めない限り、師が生徒に説けるのは「そんな過去はさっさと捨てろ」ということだけだ。
「基礎なくして成長はありません。君がやるべきは、魔法の根本の理解を深めることなのですよ」
イ・シェドはそう言い、握っている杖で生徒を小突いた。オルランドは寝言のように不明瞭な声で何やら文句を述べたらしいが、あいにく彼自身にも聞き取れなかった。師は大袈裟に溜め息を吐き、ケープの毛羽立ちを撫でて整える。
「技巧というのは
「厳しいなぁ……」オルランドは呻いた。「それは分かってるんだけど、本当に」
生徒はもぞもぞと体を起こして、指紋だらけのテキストを緩慢に捲る。綴られた何問かが貫通したインクのせいで潰れているのを、彼は複雑な面持ちで見つめていた。
「だって、シェド先生の授業少ないんだもん」オルランドはテキストの問題にラインを引きながら不満げに言う。「最後の実技が、えっと……先月で、先生が来てくれたのは10回ぐらい?だっけ?」
その視線の先には埃を被りつつある杖が立て掛けてある。触媒のケースの開閉だけは(座学の片手間に)練習しているが、アンプルからの卒業は遠い。彼自身は何度か誰かと特訓しようとしていたようだが、どの生徒も自分のことで手一杯だったらしく結局一度も行動に移せなかったのだ。
「それは仕方ありません。君以外の生徒の授業もありますし」
「最近、人手が足りていないらしいので」
世界中の有力な魔術師を根こそぎ集めた魔術院にあって"人手が足りない"とは甚だ信じがたい事態であるが、それは間違いなく事実だった。
イ・シェドが受け持つ生徒は通常、オルランドを含めて4名。場合に応じて複数名に対して特別授業を行っている。本来、彼は研究者として院に呼ばれていたのだが、レウケ王の薦め(と院上層部の不満の解消)もあって教師を兼任する形となっていた。
概ね、研究職を主とする者が8割。教職を主とする者があとの2割。教職の術師が主要な課程を教え、それを研究職の術師がほぼマンツーマンの形でフォローする──というのが方針だ。
「そんなこと、これまでなかったのに」
それが周知の事実であるだけに、生徒は首を傾げる。
院のカリキュラムは一見──どう見ても──無理があるが、これが乱れたことはオルランドが知る限りでは一度もなかった。
オルランドは柄にもなく違和感に押し悩んだ。生徒が増えたのならともかく、今は新入生の来るような時期ではない。レウケがクドラシアの頂点にある以上、魔術師たちが国外に出ていく必要もない。
生活に直ちに関わるわけではないが、まったくの無関係だと切り捨てることもできない以上、それは彼の頭に妙に引っかかった。
「何が起きたら、んなことになるんだ?」
「お行儀が悪いですよ、オルランド……」
オルランドは解答欄の隅をペン先でつつきながら尋ねる。紙の繊維がほつれて浮き、ボロボロになっていくのを、師は困り顔で見つめていた。
「内部の事情は、実は私もよく知らなくて。私が兼任することになったのは数式魔術科の方の授業なのですけれど……」
イ・シェドは杖先のシンボルの汚れを気にしながら──オルランドは"数式魔術"の名前に戦慄していた──そう言った。
「私はただ、上層の方たちに代行をお願いされただけなんですよね」
彼はこの問題に頓着していないようだった。何なら、杖に付いた小傷の方が彼の興味を引いている程には。
無邪気な好奇心でこの事件を大事のように思っていたオルランドも、「だから、ただお休みしているだけなのかも」という師の呟きを聞くと、その熱が途端に冷めた気になった。
多少のトラブルくらい、偶然無縁だっただけかもしれない。院の歴史はそう浅くないし、過去一度として誰の欠席もないだなんて、そのほうが非現実的だ。
問題に興味がなくなったオルランドは、それを聞いて新たな疑問を抱いた。
「えっと……今更言うのもアレだけど、そういうことなら授業減るって教えてくれてもよかったんじゃ……」
問い掛けにイ・シェドは一瞬きょとんとし、数秒考え込んで、そして大きく頷いてから口を開いた。
「それはまあ、何と言いますか、うっかり、というやつですね」
「いや、普通に死活問題なんだけど!?」
生徒が尤もな叫びを訴えると、師は楽しそうににっこりと微笑んだ。