残滓のうち、ひとつ 作:花見饅頭@クー
「もう行かないと」彼は囁きほどの声で呟く。
それを聞き生徒は名残惜しげに口を開いたが、師はそこに指を1本そっと当てて声を塞ぎ、ただ穏やかに微笑んだ。
「すみません、お別れの言葉はまた後程ゆっくりと。また会いに来ます、オルランド」
「せ──」先生、と叫んだ声すら虚しく──イ・シェドはたったの瞬きの間にオルランドの前から消え失せた。
彼はすぐに窓から身を乗り出してケープの青色を探したが、魔導師の姿は既に影も形もない。
……代わりに、大路から駆けてくる数人の集団が彼の目に留まった。集団は手分けして住宅街のすべての家の戸を叩き、住民に何やら話しかけているようだった。
見習い魔術師は強い胸騒ぎを感じ、自分の杖と数個の触媒を荒っぽく引っ掴むと、慌てて階下に駆け降りた。
ばたばたと騒々しく軍靴の音が近付く。オルランドは来客がそうするよりも前に玄関の扉を勢い良く開いた。
「うわぁっ!?」ノッカーに半ば手を掛けていた兵卒は驚いて飛び上がった。「だ……駄目です! 王の命により、レウケの全国民は外出を禁止──」
「それはさっき先生に聞いた!」
掴み掛からんばかりの勢いで、オルランドは兵卒に向かって叫ぶ。
「なあ、この国で今、何が起きてるんだ!? 神隠しはどうなったんだ!!」
「そ、それは……その……国民にはお伝えできないというか……」
オルランドと同い年くらいの若い兵士はしどろもどろな返事しかできず、一緒に走ってきた仲間に助けを求めるようにきょろきょろしている。
突如現れた血気盛んな若者を避けて兵士たちはさっさと家々を回る作業に走ってしまい、残された兵卒は苦々しく魔術師に向かい合った。
「先生は……シェド先生は! あの人はどこに!?」
オルランドは折れそうな程強く杖を握り締めながら喚く。頭の中に嫌な予感が氾濫し、彼はまた目の奥が熱くなるのを感じていた。
──そして、その予感を知る由もない兵卒は、魔術師が
「なんで、その名前……」
「知ってるんだな!?」
魔術師は半ば錯乱して客人に杖を突き付け、兵卒はそれを見て彼以上に狼狽し、こちらもまた泣き出しそうな声で恐る恐るに口を開いた。
「し……シェドは……奴は、奴は城に……王を……」
兵卒が淀みながら発する言葉のその顛末を聞くよりも早く、オルランドは無我夢中になって走り出した。
背後から聞こえる若い叫び声がいくら呼び止めても、何より彼は自らの心の支えであった師のことを考えるのに忙しかった。長らく出す理由もなかった程の全力でオルランドは地面を蹴り続ける。
駆け出した瞬間は目的も何も無かったが、微かに残った声の残像が彼を王城の方向に向かわせている。
受け継いだ血のおかげで代々オルランドの家族は城下町に暮らしていたのだが、窓から見える大きな城の存在は昔から彼にとってはプレッシャーでしかなかった──今はその近さに何よりも感謝していたが。
静まり返った街路を塞ぐものは誰もいない。それどころかすれ違う者すらいなかった。城兵の命令どおり皆屋根の下に潜んでいるのだろう。
オルランドは
城門は無防備にも開きっぱなしだった。いつも堅牢に扉を守っている門番の姿もない。
オルランドは何度か深呼吸をし、手汗で滑る杖を服の裾で拭き、そして慎重に1歩踏み出した。
──城内は若干薄暗く、窓から入る自然光だけが光源だった。
人間の気配は無い。見習い魔術師は覚えたての魔法で杖の先に灯を点し、夕刻の暗がりを照らした。
「なに……」
靴の下にぬめりを感じ、彼は暗闇を注視する。
「何が起きて……」
砕けた鎧と
オルランドがそれを何であるか理解するのにはそう時間は掛からなかった。彼は急速に心拍を高め、呼吸を浅く早くさせる。
意識を強大な恐怖に支配されながらも、オルランドはむしろ呼吸をするのに忙しくて叫び声を上げる余裕はなかった。彼は震えながら杖を下げ、別の方向に光を向ける。
「何が……なんでこんな……」
液体は照らした先にも広がっていた。
城内に踏み込んだ時になぜ気付かなかったのか──或いはあまりの興奮で気がそれていたのか──オルランドは自分で自分が不思議だった。どこに杖を傾けても、その度に視界には砕かれたり溶けたり引き千切られた鉄や肉の塊が写った。
深呼吸をすると否応なしに肺に錆臭さが落ちるので、彼は極力息を止めて早足にロビーを通り抜ける。具体的な目的地はなかったが、とにかく上に──王に近い場所にその足は向かっていた。
「だ……誰か、誰か……」
オルランドは足元を極力見ないよう恐る恐る歩き、そのせいで時々血溜まりに足を滑らせたり武器の破片につまづいている。たまに足元に何かの絡みつくような感覚に囚われて視線を落とせば、決まってそこには歪んだ鎧と泡立った血肉が無様に散らばっていた。
吐き気と目眩が何度も少年の歩みを鈍らせる。彼は杖に縋ってよろめきながらどうにか歩いていたが、階段をひとつ登りきった所でとうとうその場にへたり込んで踞った。
込み上げる不快感が感情を乱し、それと共に杖先の灯がゆらゆら揺れた。廊下に転がる
王に近い場所──謁見の間まで、あともう1階層を登らなくてはならない。空気だけで折れそうな心を保たせているのは、誰より敬愛する師のあの穏やかな笑みだけだ。
思えば、オルランドはずっとその存在を盲目的に信じ切っていたが、あの異邦の魔導師が"何を求めてここに居たのか"を知らなかった。
こんな状況になって初めて、彼はあの魔導師の驚異的な力の意味を知らないことに強い疑問を覚えた。それを自分が知らないことが、何かとても不自然なことに感じられた。
「……いか……ないと……」
見習い魔術師はえずきながら立ち上がり、杖にもたれかかってまたのろのろ歩き出す。主のいない篭手が歩き出した爪先に当たり、カラカラと軽い音を立てて転がっていった。
廊下の静謐は変わりない。半開きのドアには折れた剣が突き刺さり、割れた骨董の壺の破片が散乱している。血肉は言うまでもない。
誰がこれをやったのか──オルランドは考えたくなかった。ただ、全てがイ・シェドに会うことで解決するだろう、という気はしていた。
オルランドは階段の手摺に手を掛ける。恐ろしいことに、むせ返る程の死臭にも彼は少しずつ慣れていた。
鉄の臭いが頭に刺さって頭痛を呼んでこそいるが、床に飛び散った肉片を
「行かないと……先生……」
ゆっくり、ゆっくりと階段を踏みしめる。上階からねっとりと赤黒い液体が流れてきて、肉で汚れた靴をぬるりと滑らせる。
オルランドは震えながら息を吐いた。
「……俺……は」
彼は踊り場で一度立ち止まる。
見上げると、謁見の間の大扉の頭が見える。
「俺が……どうすればいいか……」
見下ろすと、足元には大きな血溜まりがあり──大きな鳥の羽根が浮かんでいた。
オルランドはそれを拾おうとして一瞬考え込み、結局やめた。進む先の階段の上にも、同じものがぽつぽつと落ちていたからだ。
彼はそれを決して踏み付けたりしないように慎重に段を登り、そして3階の床にとうとう足を付ける。
廊下には無様に凹んだ空っぽの鎧の群れが、あるものは酷く血にまみれ、あるものはただただ握られたように潰れて転がっていた。
「……先生は」
──レウケの見習い魔術師は、試験に合格したとき、謁見の間に招かれる。自分の仕えるべき王の手で、魔術師としての資格を与えられるのだ。
オルランドもそのように、いつか王にここへと招かれる筈だった。自分を育ててくれた両親に、共に日々を過ごした学友に、そして暗くつまらない自分の人生を救ってくれた師に祝福されて、ここで証を授けられる筈だったのだ。
魔術師は杖を握り直した。
全ての才知が集うレウケで、オルランドだけがケープの魔導師イ・シェドが秘めたる事実を知ることができる。
赤黒い足跡を床に残しながら、彼は夢にまで見た場所に進む。
足元では砕けた鎧を纏ったひとりの近衛兵の死体が、持ち主のいない別な鎧に押し潰されてひしゃげていた。
見習い魔術師は、誘われるように大扉に手を掛ける。終ぞ呼ばれることのなかった謁見の間に、彼はとうとう足を踏み入れる。
扉が妙に重たかったのは緊張で足が竦んでいたからなのか、この先の光景を目撃することを本能が拒否しているからなのか、或いは単なる力不足なのか──彼のそんな考えは、扉をくぐった瞬間に意味を亡くした。
謁見の間の玉座の姿を、オルランドはこの時初めて見た。かつてレウケが大戦に勝利したとき、それを祝って造られたものだという。
黄金で彩られ、ベルベットで飾り立てられたそれは、噂に聞いていたよりもずっと
天井の大窓から降る斜陽が、部屋の中の人影をくっきりと照らす。
「まぁ……外に出るなと言ったのに。そんなに私に会いたかったのですか?」
それは穏やかに語りながら、フェザーのケープを撫でた。
きめ細やかな羽根で織られたそれは、呼吸するようにゆったりと揺れている。基調になる鮮やかな青には、よく見ると不釣り合いに黒く焦げた痕が残っていた。
オルランドは、口を開いた。
「先生」