残滓のうち、ひとつ 作:花見饅頭@クー
魔導師イ・シェドは普段と変わらない穏やかな微笑を浮かべてそこに居た。
普段と違うのは、その姿が全身血に塗れていることだけだった。立ち姿も纏っている雰囲気も、何も変わりはしない。酷く汚れていること以外はいつも通りだ。
「まあ、酷い顔色……オルランド、君は──」彼は生徒の蒼白な顔を見て心配そうに言い、そっと手を伸ばす。
「く、来るな!」
オルランドは咄嗟にその手を拒絶した。ほんの少し前まで、自分の涙を拭ってくれた手だ。心の暗雲を晴らしてくれる筈だった手だ──今はそれが怖くて仕方なかった。
彼は師の見せた姿の何が正しかったのか、判断しかねた。その一見すれば清潔そうな手が触れることを反射的に拒みながら、彼の心の中には罪悪感が湧き上がっていた。
イ・シェドは拒否されたことが意外だったのかきょとんとしていたが、すぐにその表情はまた微笑みに変わった。
「あぁ、ごめんなさい。怖がらせてしまいましたね」
彼は袖で口元の血液を拭い、ほんの些細な悪戯を謝るような軽さで言う。口の端からちらと覗く尖った犬歯が赤黒く艶めくのが、オルランドには何故かはっきりと見えた。
「……安心して、愛しいオルランド。私はあなたを害するつもりはありません」
魔導師は殺気無く言う。ただただ優雅に微笑んで、彫刻のような存在感でそこに居る。
オルランドは杖を抱きしめたまま動けなかった。詰まる喉でどうにか呼吸して、眼の前の
「……な……なんで」彼は必死になって声を絞り出す。聞きたいことは沢山あったが、価値ある言葉を発せるだけの頭の余裕はなかった。
震える少年を、異邦の魔導師は表情も変えずに見詰めている。
「何で、こんなこと……」
この血の道を踏み越えて尚、それでも記憶の中で燦然と輝く黄金の日々たちが本当に偽りだったのかだけ、オルランドはもしここで死ぬとしても知りたかった。
共に長い時間を過ごした師を見ても、こんな殺戮ができるとは彼は思えなかったのだ。
「何故?」イ・シェドは平静に言う。「それを聞いて、君はどうしたいですか?」
「どう、って……」
オルランドは困惑して口籠った。この行為を咎めるのか? 私刑を加えるのか? 問い正して罪を償わせるのか? どれも彼の実力では叶わなさそうだ。
「ふふ、この状況を見ては、流石の君も私の擁護はしませんか。戦士としては成長しましたね──少し、期待外れではあるけれど」
酷く混乱した様子の生徒をよそに、ケープの魔導師は己の所業を誇るわけでも悔やむわけでもなく、あくまで"事実としてそうである"として語り始めた。
「ひとまず、オルランド。君の考えは概ね正しいです──この城の者を殺したのは間違いなく私だということは、君に伝えておきましょう」
少年の身体にぞわりと鳥肌が立つ。杖を持つ手に自然と力が籠もる。目の前のそれに対する定義できない感情が、彼の頭の中を駆け巡った。
──瞬間、オルランドは反射的にポケットから触媒を取り出して杖を構え、次の瞬きを合図に床を蹴った。
彼は片手で器用に容器のストッパーを外し、眼前のそれに向けてその中身を振り撒く。敵は動かない。杖すら緩く携えたままだ。
「回路開放、爆破、一弾の壱ッ!!」詠唱完了から一瞬遅れ、術者を起点とし触媒が激しく炎と熱を放つ。
突如の激しい炎熱に敵は僅かに目を細める。それが爆風に揺らぐケープの先に仄かな炎を刹那灯し、初めてそれは静かに杖を構えた。
炎が晴れたその間隙にオルランドは真っ直ぐ踏み込む。
「一弾の弐──」その視線が金色の瞳とかち合う。彼は微かに躊躇し、それでも力強く杖を振り抜いた。「──爆ぜろッ!!」
杖が魔法の炎を纏う。その軌跡が火花で煌めき、ふたりの間で灼熱を起こす。オルランドは完全に、敵の頭部をそのリーチの中に捕えていた。
「温い」ケープの魔導師は無感情に呟く。彼はオルランドの目を凝視したまま、軌道すら見ずに赤熱する杖を自分のそれで受けた。
オルランドは動揺こそしなかったが──勝とうだなんてまるで思っていなかった──杖越しに感じる途方もない大きさの魔力に圧倒されて次の一手に動けずにいる。
「腕を上げましたね、オルランド。アンプルも卒業できたようで何よりです」
師はいつもの声で言う。
杖は未だに燃え上がっているが、その勢いに反して鍔迫り合いのままぴくりとも動かない。力を抜けばそれが折れてしまいそうで、オルランドは片時も杖に込める魔力を緩められなかった。
「ですが、対峙するものが如何に強大であったとしても、戦う前から勝てないと思っているようではいけません。君が
異邦の魔導師は息をするより容易く出力を引き上げ、見習い魔術師の杖がぎしぎしと悲鳴を上げる。
「やはり、もっと君には実践を積ませてあげるべきでしたね。至らぬ師でごめんなさい──我が名の元に、
イ・シェドがたったひと言短く詠唱したかと思うと、ふたりの杖はたちまち清く澄んだ水塊に覆われた──対抗呪文を唱えるまでもなく、水は持ち主もろとも粗末な杖を空中に弾き出した。
「あ」オルランドの体は無抵抗に宙を舞い、あっけなく床に落ちた。その手の中にあった杖も衝撃で歪みながら不規則に転がる。
背中を打ち付けた反動で、その小さな体は痺れるような痛みに包まれた。肺から根こそぎ空気が押し出され、オルランドはほんの一瞬意識を白くする。
イ・シェドは攻防の結果など露ほども気にせず、弱々しく床に倒れた生徒の側に歩み寄って助け起こそうと手を伸ばす。その指先に血がこびりついていること以外は、いつもと何も変わらない。
「オルランド、手を。少しやりすぎてしまいましたね……大丈夫ですか?」
変わらないのだ。彼は師弟が授業で行う鍛錬と何ら変わらない様子で生徒に優しく当たっている。同じ手で数多もの城兵を苦もなく捻り潰してきたというのに、そんな素振りは欠片もない。
「……なんでぇ」オルランドはまた泣き出しそうになりながら、それでも辛うじて上回る怒りを燃やして口を開いた。
「か、勝てないじゃん……こんな、こんなの……めちゃくちゃだ……」
理解し難い化物を見る目で彼は師を見上げ、頼りない杖に軋む片手を伸ばす──爪は床を引っ掻くばかりで、何も掴めていなかったが。
「わか、分かんないよ……何も違わない……」
生徒は師の汚れた手を取れなかった。
悔しさも恐怖もあるが、何よりやはり、彼ひとりがこの大量殺人を果たした信じ難い事実を受け入れることがどうしても出来なかったのだ。
「いつもの……先生じゃん、変わんない……強いのも、ちょっと変なのも……俺を助けてくれたのも……」
イ・シェドが恩人であることに間違いはない。たとえ自分がこれから守る筈だった全てをことごとくぶち壊した存在が彼であっても。
オルランドはひたすらに、悲痛に声を擦り減らした。
「おれ、俺は……ずっと、先生みたいになりたかったんだ……!」
それだけが彼の心からの願いだった。
日陰に暮らしたオルランドにとって、師は圧倒的な力で自らの淀みを乾かしてくれる陽光に他ならなかった。あまりにその光が眩しすぎて、その目を焼かれるのではないかと思うほどに。
オルランドの知る師の姿とは、誰よりも魔法に優れ、誰にでも礼儀正しく温和であり、そして弱気を助ける輝かしい英雄だった。
落ちこぼれの生徒が院で持つことができた誇りは、そんな素晴らしい魔導師を師に持つことしかなかった。
そして、彼が師を繋ぎ止められそうな唯一の言葉も、その叫び以外にはなにも無かった。
イ・シェドの瞳には少しの光も無い。
それは城下で手品を見せて歩いていた時から、ずっとそうだった。
「君は
訴えに反し、師は何の抑揚も無く、無表情でそれだけを告げた。
見習い魔術師は呆然として師の姿を見上げる。
ようやく杖を手繰り寄せ、手の中に握ってはみたものの、彼はそれに魔力を流せないばかりか、呼吸も忘れていた。
血塗れの広間は静まり返る。
魔導師はケープを撫でながら目を細めた。
「こんな光景を君に見せたくはなかったのですよ、本当に」彼はあからさまに生徒を哀れんだ様子で言った。「だから、王の出されていた命令を先んじて君に届けたのですけれど……」
返せる言葉もなく口を半開きにしているオルランドに、何かあくまで遠慮して口を噤んでいるのではないかと誤解したイ・シェドは、気遣う
「でも、私を心配して来てくれたのでしょう? ふふ……君のことを子供扱いしすぎていたみたいですね」
師の見せてきた優しさが狂気を隠す為の演技であったのか、それとも狂気に隣り合って存在し続けているものなのか、オルランドには図り兼ねた。
彼が悪意を持ってレウケに居たのであれば、今更賢者の仮面をつける必要はない。心優しい姿を持ちながら殺戮を成したと言うのなら、その方がずっと恐ろしい。
「……ぉ……に」力の入らない喉から、オルランドは願望に近い声を漏らす。「ほん……とうに、こ、殺したのか……?」
「事実は揺らぎません。言うまでもなく自明でしょう?」
魔導師は笑みを深める。
予てから、オルランドはいつも彼が浮かべる微笑みを非人間的だと感じていた──てっきり作り物のような美貌によるものかと考えていたそれは、思えば本当に"作り物"だったのかもしれない。
これまで考えたこともなかったような不穏な妄想が少年の思考を支配する。焼けたケープを纏い続けていたことも、いつも杖のことを気にしていたように見えたのも、意味があったのではないか。
「それなのに、何故今更」彼はゆったりと生徒に歩み寄って、わざとらしく小首を傾げる。「ああ、私、殺した理由をさっき言い損ねていたのでしたね。ほら、君が向かってきたから……」
オルランドは師であった男の足音に怯えて小さく悲鳴を上げた。負の感情が臓腑を圧迫し、小さな胸に吐き気が込み上げる。
魔導師は唇を舐めた。「じゃあ、お話ししましょうか。せっかくですから」
落ちる斜めの影と光がその姿を飾り立てる。レウケの権威を示す綺羅びやかなこの空間は、最早誰の物でもない。
縋り付くように玉座へと降り掛かる血の海は、もうそこに座すことはない。見習い魔術師は無意識にひと粒だけ涙を流した。
ケープの魔導師は微笑んで、そして語り始めた。
「私の生まれた一族には、古より語られる伝承があったのです。曰く──"世界一の
彼の口の動きを、オルランドはただ呆然としたままで見つめている。返事は望んではいないのか、声は淡々と続く。
「私たちの血の者は伝承を信じて魔導師となり、"新世界"への到達の為に強者となるべく鍛錬を積むのです……それだけが私の、私たちの存在意義だから」
自分の言葉にくすくすと自虐的に笑い、魔導師は杖を強く握った。
「無論、私もその宿願を果たさんとし……強者となる為の手段として、私は"叡智"を追求することを選んだのです」
「え……いち……?」
見習い魔術師はどうにかおうむ返しを絞り出して聞き返す。
「そう、叡智です。ものごとの理たる知識」イ・シェドは目を細め、言葉を続ける。「初めて見る道具でも、知識があれば扱えます。それの作り方も知っていれば、道具への理解はより深められます」
魔導師がそう言って杖を振るうと、杖先には煌々と炎の玉が燃え盛った。
「私は叡智を獲得することで、今の力を手に入れました。
彼が言うと炎はかき消え、火の粉の代わりに床には水滴がばら撒かれる。
異邦の魔導師はあらゆる魔法を使いこなして見せたが、特に際立って優れていたのは水を操る魔法だった。個々の実力でだけ判断するなら、それ以外の属性の魔法の練度は院上層の術師には及ばなかったという。
元々素質として扱えた水の魔法は鍛錬により精度を高めることもできたが、そうでないものについては手に入れた"叡智"以上の働きはできなかった。
では、その"叡智"とは、どこから来たるのか?
「私はね」魔導師は優しく微笑む。「知恵あるものの知識を喰らうのです。精神が会得した意識、肉体が記憶する動作を喰らう時、私は
「
散乱する死体。空っぽの鎧。口元の血。蔓延する死臭。笑み。呼吸が乱れ、視界が流転する。本能が激しく警報を鳴らす。大きな魚に水ごと呑まれる微生物のような、どうしようもない思考の手詰まりに陥る。
異邦の魔導師は、微笑みを絶やさない。
「
ただ口を開いて、そこに伸びる濡れた牙を見せた。