残滓のうち、ひとつ 作:花見饅頭@クー
血染めの牙が嗤う。
「神隠しは私です、オルランド。魔術院の智者も、騎士団の猛者も、政界の権力者も、全て私が喰らったのです」
オルランドは堪えてきた吐き気に限界を感じ、顔を床に向けた。
自分の慕ってきた存在への憎悪と嫌悪、それに気付けなかった自分の至らなさが棘となって少年の脳髄を焼き、狂った感覚器官が吐き出せるだけのものを彼に吐き戻させた。
「そして先程……君の元を訪ねる前、この世界の最後の食事として私は現王陛下を喰らいました。私が主犯なのがばれていたらしく、入城するなり四方八方から襲われたのですが……」
激しく嘔吐する生徒を見下ろしたまま、イ・シェドは淡々と告げる。
「まあ、結果は君の見た通りです。何人かは
オルランドは胃の内容物をあらかた吐いてもしばらく、呼吸もままならずにぜいぜい喘いでいた。
来るべきではなかった。追い掛けるべきではなかった。彼は何度も頭の中で後悔し、幸福だった数時間前の自分を恨んだ。絶えず鼓膜を震わす穏やかな低い声が、ずっと優しいものなことが何よりもおぞましかった。
彼は骨が軋むほどにきつく自分の杖を握る。
心の中にある激しい感情は怒りで間違いない筈なのに、積み重ねた記憶がそれを憎み切ることを許さない。レウケの為に働く魔術師として討つべき敵であるのは判っているのに、まるで手が動かない。
「……オルランド。私の愛しいオルランド」
異邦の魔導師は甘やかく笑う。
オルランドは震えながら、汚れた顔を上げた。師であった男は、やはり見惚れそうな程に美しい──沼底のように淀みきって暗い、濁った瞳以外は。
「君を一人前の魔術師にする、という誓いは、決して嘘ではないのですよ。君の潜在能力の高さは間違いないですし、その歳で君ほど素直な者はそうそう居ませんもの……」
イ・シェドはいつも使っていた手帳を取り出して、血でべっとりと濡れたページをぺりぺりと捲る。そこに事細かく正確に生徒の評価が刻まれていたことを、彼以外の誰かが知ることはない。
「君以外に私が見ていた生徒も、良い子たちではあったのですけれど。ふふ、君ほどの才能は感じませんでしたよ」手帳を閉じて彼は言った。「それに私のこと、嫌いみたいでしたから……」
見習い魔術師は目眩にぐらりと揺れる頭を両手で抱え、
イ・シェドの言葉は、もう彼の耳にはあまり入らなかった。満たされた血肉のひとつに自分が加わる恐怖で、それどころではなかったのだ。
「た……たべ、食べないで……」彼は万策尽きた、という様子で弱々しく哀願した。
眼前の化物の言う"喰らう"という概念が文字通り"捕食"を指すとはオルランドも考えていなかった──人間ひとりの質量すらも臓腑の内にはそう収まるまい──が、咄嗟に出たのはその命乞いだけだった。
魔導師は表情の概念を忘れてしまったかのように、いつまでも笑んでいる。処刑台の上の愚者程に惨めな存在になった教え子に向かって。
「心配する必要はありません。君を喰らいはしませんから」
返答は淡白だった。
オルランドは彼の言葉を聞いて、ただ頭を真っ白にしてぽかんとしていた。
「今の君に、私が喰らうに足るだけの価値はありません。他者に特別優る力もなければ、それを補うだけの知識もない。努力によらない素の血統ですら、上回っている者が山といた」
師は微塵も笑みを崩さずに言い連ねる。
オルランドは投げ付けられるそれを聞きながら、間抜けに口を開閉させていた。
生徒として今、恩師に対して何事かを言わなくてはならないという気持ちはあったが、言葉を話そうにも頭の中には「あぁ」とか「うう」だとかの無意味な文字しか浮かんでいなかった。
「誤算でした。君が強者と呼べるまでに至るには、余りにも時間が無さ過ぎたのです」
イ・シェドにとってオルランドは未だ、ただの生徒でしかなかった。オルランドは自らの命の危機が去ったと同時に、自分が師の足元にも及ばない弱者である烙印を押された。
見習い魔術師は、自らの魔法の師によって実力を否定されたのだ。歩んできた道は無意味ではなかったが、本当に届きたかった場所には遠く及ばなかった。
彼の中から恐怖は無くなったが、その代わりに空間を埋める感情は空しさでしか無い。極度の混乱も、吐き気も今は無い。
「でもね、オルランド」
灰のように黙り込む少年に、師はほんの少しだけ曇った笑みを向けた。
「君がレウケの魔術師として私の元で成長し、
異邦の魔導師は、ケープの留具に指を掛けながらそう言った。
血の赤茶色で斑に染まり、火の粉で所々が溶け落ち、それでも生きているように艷やかな青色のフェザーで編まれたそれは、クドラシアの民の耳に聞き馴染みない彼の名前の代わりとして、代表的なアイデンティティになっていた。
「私は君の師として、増えていく跡が誇りだったのですよ? ふふ、結局、数える程しか君との手合わせは出来なかったのだけれども」
彼は片手で器用に留具を外していく。ずっと羽毛の下に覆い隠されてきた肩口が、橙の陽光の下に晒された。
「オルランド、誰より愛しい我が生徒──」微笑は柔く、そして無知な者の心を深く包み込む。幼い魔術師がそうされていたように。
オルランドは服の裾を引っ張って顔を拭うと、僅かに心の底に残っていた塵のようなプライドを振り絞って杖を握り直した。
目の前のそれが自らアイデンティティを剥がすことが、彼には何か恐ろしいことの前触れであるような気がしていたのだ。
ぷちんと軽快な音を立ててケープの金具が外れる。ふわりとその端が広がる。
「君が認定式を迎えることを夢見ていると知っていたのに、私はそれを壊してしまった」
ケープの魔導師は、そっと自分の視覚的イメージを構成していた外皮を掴む。
勿体ぶるように隠されていた背中から、焼けた羽根が取り払われる。
「だから、師として」彼は脱いだケープを胸に抱く。「……そして、力を得た君の栄光を称えて」
オルランドはその姿を見て思わず息を呑み──そして、半ば無意識に立ち上がった。
レウケの民がどうやってもこの魔導師に敵わなかった理由を、彼は思い知らされたような気になった。
魔導師にとっては、この世界で起こったことなど茶番でしかなかったのかもしれない。教え子を慈しみ、組織を支え、死者を悼んで尚、殺戮に抵抗がなかったのは、
「これを、レウケ王立魔術院の魔術師である君の、証として」
恭しく頭を下げた異邦の魔導師──"翼持つイ・シェド"の背には、猛禽のそれによく似た大きな"翼"が誇らしげに広げられていた。
1枚1枚濡れたように艷やかな美しい青色の羽根が、自分を縛り付ける殻から解き放たれてぴんと伸びる。世界中探しても、ここまで見事な翼を持つ生き物はいないだろう。
──さながら、天の使いのようだった。
王という絶対的な存在の恩恵を一身に受けてきたオルランドは生まれつき神を信仰していなかったが、寂れた古い神を信じる教論が研究室に飾っていた絵画には、見目麗しい有翼の人間が描かれていた。
もしも人の生き死にを決める何者かが存在するとすれば、それはこの男に他ならないだろう──オルランドにとって、それは事実だった。
無力なオルランドは呪いに掛けられたように立ち尽くし、情緒も理性もぐちゃぐちゃになって静かに泣いていた。
「偉大なる王の名の下に、レウケと君に栄光が有らんことを」
低く、優しく、甘い声で。教師のような目で。殺人鬼のような口で。
ぞっとするほど美しく、虜になるほど悍ましい姿で。
誰かの血に染められた喉から、未来を願う言葉を吐きながら。
すべてを喰らった魔導師だけが、生徒の卒業を祝った。
「……せんせぇ」
日陰の生徒の震える肩に、魔術院の最後の師は焦げたフェザーのケープを着せた。ぱちんと音を立てた留具には、魔術院の公認魔術師であることを示す金のレリーフが彫られていた。
魔術師の証は、資格無きものが身に着けることは許されない。学徒オルランドはレウケ王城謁見の間での認定式を経て、この瞬間、正式な魔術師になったのだ。
「せ、せんせ……先生……」
「胸を張って、オルランド。ふふ、怒ったり泣いたり忙しい子なんだから」
イ・シェドは少年のものになったケープを毛羽立ちを綺麗に撫で付け、ぼさぼさになった髪を指で漉き、汚れた顔を拭いてやり、最後に愛情深く頭を撫でた。
嘘偽り無い祝福を受け、オルランドは空しさを感じながら涙をはらはら落とし続けた。彼にはまさか"喰われなかった"そのことが屈辱になるなんて思いもよらなかったし、魔術師になったことをその当人に祝われるなんて、予想する方が無理な話だった。
「──ふざけんなよお……」叫ぼうとして口を開いても、囁きのような乾いたかさかさとした音しか彼の喉からは出なかった。杖も緩くしか指には掛かっていないし、身体も石のように緊張したまま動かない。
視界を埋め尽くす有翼の男の優美な羽根がきらきら光り輝き、悪である筈のそれの神々しさを目に焼き付けられる度、新米魔術師の惨めさが浮き彫りになる。
あまりにも理不尽で、不条理で、誰も納得できない結末だ。
突然現れ、そして突然全てを壊した。レウケに住まう誰であれば、あの邪智暴虐な客人を許せるのだろうか。
「あんた、一体、誰なんだよおぉ……」
陽光が最も美しく全てを照らすその時に、オルランドは呻くようにしてただそう言った。怒りでも悲しみでもない、それだけが心の底から出た言葉だった。
翼人は一瞬だけ手首に棘が刺さったかのような顔をしたが、すぐにまた微笑を顔に貼り付けた。
「私は私です。君が見たものが全てですよ」
異邦の魔導師は誇り高く言った。
国で最も優れた賢者は冷静に言った。
非道な殺戮者は嘲って言った。
翼持つイ・シェドは、ただ、それだけを言った。
「だから」無数の彼の中から、たったひとりの魔術の師である彼は言った。「君は、レウケの魔術師として成すべきことをしなさい」
オルランドは鼻をすすった。
魔術院の公認魔術師は、真に仕えるべき王の名の下に、レウケの──ひいてはクドラシアの永続的な発展と安寧を維持する為に存在する。
王はもういない。オルランドが公認魔術師になったことを知っている者もいない。守るべきレウケは存在しない。
そうなるべくして生きてきた彼に、今後道を示すものはもう無い──師の言葉以外には。
「……殺す」
彼は空っぽの心の中に、自分の意志の代わりにそれを容れる。レウケの魔術師であれば、これからどうするか。クドラシアを脅かす者をどうするべきか。
歪んだ杖が握り締められ、幽かにそこに流れ込んだ魔力によってじわりと熱を持つ。熱は魔法にはならず、杖身を通ってその先からまるい火花になってこぼれ落ちた。
「殺して、やる」
魔術師は、はっきりとそう口に出した。
「俺の、命に替えて、でも……いつか、いつか絶対に、あんたを殺す」
成すべきことがあるとすれば、それしかなかった。あの魔導師と同じ高みに至り、そしてそれを越える。
それが無知だった頃の自分の目標と同じであることに気付いた時、オルランドは殆ど動悸に近いまでの胸の高鳴りを感じ、爪が刺さるほどに強く杖を握った。
じわりじわりと落ちる陽に、部屋の影の色はどんどん濃く、長くなっていく。
翼人を神聖に見せていた黄金の光はゆっくりと陰り、その表情を隠す。
「……やっぱり、君は私の自慢の生徒です。君に出会えて本当に良かった」
宵闇に浸食される部屋の中で、オルランドははっきりとイ・シェドが笑うのを見た。或いは、あの微笑が網膜にすっかり焼き付いてしまっていて、それが彼の脳内で無意識に重ねられたのかもしれない。
それでも、声に熱が籠もっているのは確かだった。今この瞬間を喜んだのか、大局的に見た物事の前進を喜んだのかまでは、生徒には判らなかったが。
イ・シェドは自分を殺し得るものの存在を望んでいる。不死者が死を渇望するような、そんな悲哀のある理由ではない。ただ己に死をもたらす者を喰らえれば、その死を取るに足らないものに変えられるからに過ぎない。
レウケに尽くし、民に知識を分け与えてきたのも、有象無象の中から爆発的な能力を持つ者がいないかを探っていただけだ。
何故その口で美辞麗句を並べられるのか、オルランドには分からなかった。その謎が明かされることも無いだろう。
「次に会った時には、私がこの地にいつ戻るのか伝える、という約束でしたね」
影の中からイ・シェドは言った。
生徒自身、それどころではなくなって忘れかけていたが、師であった彼と数時間前に交わした約束だ。
オルランドは彼の言葉に頷く。それを見ると、魔導師はくすりと静かに笑い、また話し始めた。「本当は明後日になる予定だったのですが、
宵が深まる。互いの輪郭が溶け始め、空間は曖昧になる。
「でも、ほら。私、嘘は吐かないって言ったでしょう?」
空間を縫って金の杖がぬうと現れ、生徒の顔を指し示した。
オルランドは乱れる呼吸を気取られまいと唾を飲んで、それを睨んだ。
「君が、私を殺す準備を整えた時。この世界で最も強くなったその時に、私は
イ・シェドは穏やかに言った。
彼をいつか殺すことだけが、オルランドが魔術師として掲げる目標だ。
それがどれ程遠いものかなんて、今日の殺戮を──院を、国を崩壊させた神隠しを見れば、誰であっても嫌でも理解できる。
それは、もしかすればイ・シェドが新世界に至ろうとする、その目標と同じくらいに途方もない過程なのかもしれない。
「……先生」
生きている間に、自分にそれが成せるのだろうか。新米魔術師は震える手でケープの端を少し握り、そう思考した。
それでも、魔導師の足跡が増える度にこうして誰かが死ぬのであれば、誰かが成し遂げなくてはならないのだ。
異界を股に掛け、いたずらにその内側を喰い尽くす悪意の存在を知るものは、クドラシアにはひとりしかいないのだから。
「そして」
もうその姿は闇の中に消えていて、オルランドが杖から零す火花が時折金色をちらと浮かび上がらせることでしかその存在を証明するものはない。
「その未来を預かった身として、最後に君を守らせてください。君が生き残り、
ほんの少しだけ寂しげに、しかしやはり愉しむ様に、穏やかな声はそう言った。
オルランドも自分の弱さを自覚しているだけに、何も言わなかった。心の何処かで師との思い出が燻って脳裏にちくりとした刺激を感じたが、それは間もなく煮え滾る殺意の中に落ちて溶け去った。
暗闇は部屋の血の色を隠し、不快な錆臭さを際立たせる。
少年が数秒おきに鼻をすする音だけが、しばらくそこに響いていた。
ふたりが共にいた時は、常にどちらか一方が口を開き続けていた。
レウケの民は、これから誰かと心から楽しんで言葉を交わすことは出来るのだろうか。
魔術師はその答えをうっすらと予想していたが、意識することはしなかった。
「先生……イ・シェド」
──オルランドは異邦の魔導師に呼び掛ける。
闇の中に居るはずの気配は、彼には感じ取れなくなりつつあった。
「イ・シェド、あんたのこと、俺は──俺たちは絶対に許せないし、これ以上……こんなこと、させるつもりも、ない」
新米魔術師はもう泣いていなかった。
「でも──」
そして、その様子を見て、翼持つ魔導師は密かに微笑んだ。
「でも、助けてくれて、ありがとうございました、シェド先生」
誰もいない空間に向かって、レウケ王立魔術院の最後の卒業生は深く頭を下げた。
自分を日陰から助け起こしてくれた、最も敬愛する師の為に。
言葉では言い表せないような感謝の念が、オルランドの何よりの本心であった。
もう戻らない黄金の日々は割れたアンプルの破片と灰の山の下に埋もれ、二度と掘り起こされることはない。
院での記憶は既に燃え尽き、残ったのは火種を護る"経験"だけになった。
これからの人生で、オルランドは自分から進んで人を殺すのだ。夢も希望も持つべきではない。
魔術院公認魔術師がこれから歩む道の先には、いつかの頃と全く変わりなく、燦然と輝く星が確かにあった。
「卒業おめでとう、愛しいオルランド」
陽は落ちた。
暗闇の中に言葉は残ったが、翼人の姿は蒸気のように消え失せていた。
その日はレウケがかつての形を保ち得る、最後の夜だった。