毎日の深夜残業で疲れた体なのに日用品の買い物で休日を潰してしまう主人公、‟私”。
ふと見かけた古道具屋に魅入られたように侵入すると、中には不思議な少女が。
「そのぐい吞みで呑むときは泥酔するな、…必ずだ。」とだけ言って半ば強引に譲れられた染付のぐい吞み。
主人公はいぶかりながらもぐい吞みを持ち帰る。
その晩…。


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毎日の深夜残業で疲れた体なのに日用品の買い物で休日を潰してしまう主人公、‟私”。
ふと見かけた古道具屋に魅入られたように侵入すると、中には不思議な少女が。
「そのぐい吞みで呑むときは泥酔するな、…必ずだ。」とだけ言って半ば強引に譲れられた染付のぐい吞み。
主人公はいぶかりながらもぐい吞みを持ち帰る。
その晩…。


不思議な器による魂の救済。

完全な器 - 濃尾

 

 

 

 

 或る休日の午後、‟私”は日用品の買い物を済ませ家路に着いた。

 

 秋の陽がもう傾きかけて居る。

 

 

 

 ‟私”は他人からは三十七、八の何処にでも居る中肉中背な平凡な男に見える。

 

 実際は平均より少し背が高いのだが、極端な猫背の為にそうは見え無い。

 

 歳もまだ三十三だ。

 

無精髭が精彩を欠いた蒼い顔を余計に薄暗くしている。

 

 

 

 ‟私”は市電が通り過ぎるのをぼんやりと目にして、其のまま停車場の角に視線を移した。

 

 

 

 すると、其処に何時から在ったのだろうか、見覚えが無い古道具屋が在る。

 

 

 

 

 

 ‟私”に骨董趣味は無い。

 

 いや、そもそも‟私”には‟趣味”と呼べる様な道楽は一つも無い。

 

 しかし、其の時‟私”の足は既に其の古道具屋の方へ道を渡り、真っすぐに向かって居た。

 

 

 

 古道具屋は其れ自体が古道具、と呼べる程物寂びて居た。

 

 薄汚れた銀鼠色の瓦は少し軒が傾いで居る。

 

 

 

 ‟私”は表に雑然と積まれて在る諸道具には目もくれず、中へと足を踏み入れた。

 

 

 

 夕闇が迫り奥は薄暗い。

 

 しかし‟私”は順路を知って居るかの様に、ゆっくりと、しかし確かな足取りで何かに向かって進んで居た。

 

 

 

 ‟私”の足が止まり目に映った物は、其処の一隅だけ土間が清潔で、置かれた古風だが典雅な棚には、整然と道具が並べられて居る中段の端の、一つのぐい吞みで在った。

 

 

 

 知らぬ間に手に取った其れは、白い素地に、志那南方の山河が藍青で描かれた染付で在る。

 

河の畔で竿を延べる老爺、牛を曳く童、山の麓の亭には、酒を酌み交わす数人の漢と、筝を抱いた妓が精緻に描かれて居た。

 

 

 

 

 突然、澄んだ、しかし力強い声がした。

 

「そいつで呑む時は泥酔はするな。…必ずだ。」

 

 ‟私”は思わずはっと顔を挙げて声のした方を透かし見た。

 

 

 

 夕闇の迫る揚がり框の暗がりの隅から、古道具屋の主人の娘であろうか、年周り十二、三歳と言った風の少女が、すっと立った儘、此方をじっと見返して居る。

 

 

 

 ‟私”は思いがけない強さが籠った少女の声に依って強張った体を少し緩めた。

 

 良く見ると、少女は強い光を込めた瞳を此方へ向けて口は真剣そうに結ばれて居る。

 

 ‟私”から見たら、たいそう美しい、と言える少女で在った。

 

 

 

「お嬢さん。今、何て仰ったのですか?」

 

 ‟私”は自分でも驚く程、卑屈な声を出して居た。

 

「…もう一度だけ言う。そいつで呑む時は泥酔はするな。必ずだ。」

 

 少女は一層、凛と力の籠った声を返して来た。

 

「え?」‟私”は狼狽した。

 

「え?私は只、是は、見て居ただけで…」

 

 ‟私”は消え入りそうな声でやっと返事をした。

 

 少女の口元に微笑の様な物が浮かんだ。

 

「其れはそれ程に値の張る物では無い。時代だって知れて居る。…持って行け。…そう言う決まりだ。」

 

 少女は穏やかな声で言った。

 

「いや…持って行けと?…詰り、お代は要らぬと?」

 

 ‟私”は益々狼狽した。

 

 少女は何も言わぬ。

 

 ‟私”は再び染付に目を落とした。

 

 ‟私”は思った。

 

 

 

 確かにぐい吞みなんぞは染付と謂えど、どれだけ時代が古くとも、たかが知れて居る。

 

 ‟私”には所謂、審美眼、などと言う物は無い。

 

 

 

「しかし、この画は…。」

 

 

 

 ‟私”は思わず呟いた。

 

 

 

 少女は口早に言った。

 

「其処の一角、其の一隅にある物だけは其れを手に取った者に下げ渡す事になって居るのだ、…此の店では。」

 

 

 

 少女の瞳が夕日を照り返して居る。

 

 もう‟私”からは少女の貌は良く見え無い。

 

 しかし、何というか、抗い難い圧力は増して来る。

 

 

 

 ‟私”は意を決し、少女を視詰めて言った。

 

「で、では貰い受けよう。其の代わり、後になって金は一切払わないぞ。」

 

 厳しい少女の声が飛んで来た。

 

「先程の忠告、忘れるな。三度は言わん。」

 

 ‟私”は又、狼狽しかけながら言った。

 

「し、しかし、何故、こんな事を…」

 

 と、言いかけた時、もう少女は踵を返して居た。

 

 

 

 

 

 すっかり暮れた道を日用品の買い物と染付の入った手提げを持って歩きながら‟私”は呟いた。

 

 

 

「多少は美しいが、大人相手に随分と生意気な餓鬼だった。そして、此れを只で呉れて遣る、と言う。其れも何処か無礼な話だ。ああ、あの最後の念押しは何の意味が在るのか…。」

 

 

 

 同じ場所をぐるぐると巡る様な思考の末、‟私”は自分の下宿の階段を登った。

 

 

 

 

 

 部屋に戻った‟私”は早速、晩酌の用意に取り掛かった。

 

 ラジオからは最近売り出し中の扇道子のソプラノが流れて居る。

 

 先にも言ったが‟私”に趣味、道楽は無い。

 

 ラジオも中古の投げ売りを先日同僚から勧められただけだった。

 

 歌手名も曲名も‟私”は知らなかった。

 

 

 

 日中の買い出しで乾物屋から買ったトバをコンロで炙り、野沢菜漬けを水屋から取り出した。

 

 酒は地酒の二級酒だ。

 

 不味くは無いが旨くも無い。

 

 しかし、安い。

 

 いつも通りの休日の晩酌だ。

 

 しかし、‟私”には新しい晩酌の朋が出来た。

 

 染付のぐい吞みだ。

 

 ‟私”は自室に帰ってから初めて、まじまじとあの染付の画を観た。

 

 其処には先程、古道具屋で見た通り、繊細な筆さばきで山川草木に遊ぶ人々が描かれて居る。

 

 

 

 ‟私”は思った。

 

 ‟活写”とは斯う言う事を言うのでは無いか?

 

「是は…中々、良い物、何じゃ無いのか?」

 

 ‟私”は嬉しそうに染付を撫で回しながら言った。

 

 

 

 

 

 

 ‟私”は自分がかなりの時間、其れを視詰めて居た事をラジオの時報でやっと気付いた。

 

「ああ、そうだった。」

 

 ‟私”は中古の古惚けた掛け時計を見ながら呟いた。

 

 炙ったトバからは既に鮭の油が皿に薄く流れて居る。

 

 野沢菜漬けからの微かな酸い匂いも鼻を突いた。

 

 胃がぐう、と鳴った。

 

「さて、と。」

 

 ‟私”は三合程残って居る一升瓶を傾け、其の儘、染付のぐい吞みになみなみと注いだ。

 

 ‟私”は肴には手を付けず、染付の中のうっすらと黄色い液体を一気に呑み干した。

 

 

 

 其の時。

 

 

 

 

 ‟私”の意識に今までに経験した事の無い感興が渦巻いた。

 

「あ…ああ、う、あわ。」

 

 ‟私”の口から喘ぎ声が漏れる。

 

 ‟私”が其の時の感覚を例えたとすれば、‟私”は‟全く塵外の地に遊ぶ心地がした”と言ったであろう。

 

 其れ以上の言葉では‟私”の心持ちは‟私”には表現出来無かった。

 

 光、風、色、空。

 

 其れらが混然と成って‟私”の心を優しく、烈しく揺り動かした。

 

 

 

 

 

  其の晩以降も毎晩‟私”の晩酌は続いて居た。

 

 

 

 あの晩の翌朝、‟私”は古道具屋を訪ねた。

 

 心の何処かで予想して居た様に、古道具屋はあの場所には無かった。

 

 其処は枯れ始めた草が生えた空き地で在った。

 

 近所の荒物屋で尋ねた所、此の近辺には古道具屋など無い、と言う。

 

 其れ以上、‟私”にはあの古道具屋を捜し廻る気は起き無かった。

 

 

 

 

 

 

 あの晩以来、‟私”の生活は全く変わった。

 

 

 

 何よりも変わったのは世界の‟景色”だ。

 

 

 

 何処に行って、何を観ても、其処には何者かの‟跡”が記されて居り、‟愛せよ”と、言明が為されて居る様に‟私”には思えた。

 

 

 

 何を観ても。

 

 

 

 何時も小言の多い、忌々しい課長を観ても。

 

 

 

 ‟私”は愛さずには居られ無かった。

 

 

 

 何もかもを。

 

 

 

 そして、最も驚くべきは、‟私”が最早失った、否、無かった、と思い込もうとして居た、自らの‟昔”さえも愛し始めた。

 

 

 

 

 

  楽しい。

 

 

 

 ‟私”は思った。

 

 

 

 生きて居る事は、是程楽しい物なのか?

 

 

 

 いや、そうだ、‟昔”は‟私”も楽しかった。

 

 ‟あの時”迄は。

 

 

 

 だから同時に、‟私”は‟あの時”からの生涯が、生きて居る事が、どれ程辛かったかも感じた。

 

 ‟私”は思わずに居られ無かった。

 

 若しあれが、あの染付が無くなりでもしたら、俺は一体どう成るのか…。

 

 あの晩以前の俺に戻るのか?と。

 

 

 

  ‟生きて居る楽しさ”、としか呼べない物は、呑んでから丸一日経ってしまうと、其れを少し感じ無くなる心持がした。

 

 そんな時にだけ、‟私”は染付を失う不安に少しだけ駆られた。

 

 しかし、あの染付で一杯呑めば、不安は消え入り、忽ち‟生きて居る楽しさ”に満ち溢れた。

 

 

 

 世界の全肯定なのだ。

 

 只、あの染付で吞めば良いのだ。

 

 

 

 

 

 或る日、何時も通りの会社からの深夜の帰り道、‟私”は最近良くする様に独り言ちた。

 

 

 

「今日の課長は実にあの人らしかったな。俺を怒鳴り付ける様は痛快でさえ在る。君は一体、同じ過ちを何度繰り返す気なんだね?か。ははは。其れに、さあ、私にも分かり兼ねますが、と俺が答えた後の課長の顔。あれは何度考えても気の毒だ。しかし、本当の事なのだから面白い。はは、あはは。又今夜も更けての御帰りだ。まあ何、あのぐい吞みさえ在れば。うふふ。」

 

 

 

 と、‟私”は朗らかに笑みを漏らしながら、下宿の階段にたどり着いた。

 

 

 

 

 

 何時もの様に支度を済ませ、‟私”が染付に酒を注ごうとした時、誰かが下宿の廊下をぎいぎいと軋ませながら此方へ向かって来る足音がした。

 

 

 

 此の下宿でこんな夜更けに出歩いて居る下宿人は‟私”ぐらいな者だ。

 

 

 

 ‟私”は訝しんだ。

 

 

 

 足音は‟私”の部屋の前で止まった。

 

 

 

 暫くして、足音の主が声を上げた。

 

「おい、俺だ。先島だ。」

 

 ‟私”は声の主が大学時代の友人、先島だと覚ると、此の夜更けの突然の訪問にももう驚か無かった。

 

 

 

 先島はそう言う奴だったからだ。

 

 

 

 

 

  ‟私”は戸を開け、笑いながら言った。

 

「おお、先島か。はは、卒業以来だな。お前の‟夜襲”は。」

 

 先島は‟私”の顔を少し見て、無言で‟私”の部屋へ上がり込んだ。

 

 先島は‟私”よりも上背が在り、其れで居てほっそりとした優男だが、少し目付きに険が在った。

 

 一度部屋を見廻し、卓袱台の隣に座りながら先島は言った。

 

「何も無いんだな、お前の部屋は。」

 

 ‟私”は先島の言葉には何ら反応せずにこう聞いた。

 

「小林先生に俺の居場所を尋ねて来たのか?御苦労だったな。其れはそうとして、お前はあれから今迄何処に?」

 

 先島は‟私”の質問に答えずこう言った。

 

「先生が仰ってたぞ、貴様だけは見損なったよと。」

 

 ‟私”は朗らかに笑い出した。

 

「ははは、ああ。あれだろう?何処かで聞いたよ。‟小林ゼミ一番の落ち零れ”、ってやつだろ?」

 

 先島は忌々し気な顔をして‟私”を睨み付けた。

 

「‟あの小林ゼミ一番の秀才が”が抜けてるな。」

 

 ‟私”は更に高らかに笑った。

 

「ははは、其処が買い被り、ってやつだったのさ。」

 

 先島は‟私”を睨み付けた儘、暫く黙ったが、目を天井に逸らしてこう続けた。

 

「いくら買い被ろうが、天下の小林ゼミだ。其れが…此の生活は。…何だ…貴様。」

 

 ‟私”は其れに答えず、微笑みながら言った。

 

「大学を出て、俺はM商事の資源開発に行った。其れは貴様も知って居るだろう?」

 

 先島は早口で答えた。

 

「ああ、俺は研究室に残った。」

 

 ‟私”は続けた。

 

「ああ、知ってるさ。こちらは石油開発だ。‟御国の為”だ。俺の出番、という訳だったのさ。」

 

 突然、先島は苛立ちを隠さず捲し立てた。

 

「ああ!其れがどう成ったのかは知って居る!だがなあ、俺が言いたいのはそんな事じゃ…」

 

 ‟私”は穏やかに目を伏せて遮った。

 

「どう成ったのか、‟本当に”知って居る奴はもう此の世に居無いさ。…俺以外はな。」

 

 

 

 

 

  先島は‟私”の穏やか過ぎる目をまともに見詰めた。

 

 そして、ぼそり、と言った。

 

「じゃあ…あの噂は…もしかして、本当なのか?」

 

 ‟私”は微笑みを浮かべ、先島を見返した。

 

「どの噂か知らないが、立派な落ち零れが誕生したのだけは確かだ。」

 

 はぐらかされた、と感じた先島は、再び目を逸らしながら言った。

 

「…小林先生は其の事を御存じなのか?」

 

 ‟私”は卓袱台越しに先島を見ながら、ゆっくりと対面へ座った。

 

「さあなあ、もうどうでも良いだろう?気にする奴は誰も此の国には居無いのだからな。」

 

 先島は憤然と部屋を見廻し、手を‟私”の狭い部屋ぐるりに振りながら言った。

 

「どうでも良いって…貴様は、此れで、本当に良いのか!」

 

 ‟私”は先島に目を細めて言った。

 

「ああ、最近、完璧なんだ。」

 

 其の‟私”の眼を視て、先島は頬で少し笑った。

 

 しかし、其の目は笑って居無かった。

 

「完璧って…。貴様…、…去年先生に会っただろう?御茶ノ水駅で。」

 

 ‟私”はああ、と言う様に頷いた。

 

 先島は目を畳に置かれた一升瓶の方へ逸らしながら言った。

 

「…貴様、其の場で先生に借銭を申し出たそうじゃないか?…其れは完璧、なのか?」

 

 ‟私”は又、ああ、と言う様に頷いた。

 

 そして、先島を穏やかに視つつ、自信あり気に言った。

 

「今は完璧だ。」

 

 先島は信じられん、と言う様に目を閉じた儘言った。

 

「俺はなあ…、今日、ハルビンから東京に帰って来た所だ。…松遼盆地だ。」

 

 ‟私”は静かに頷いた。

 

「…そうか。貴様も行ったのか。そこでその噂を仕入れた訳か…随分と遅かったな。うん、遅過ぎた。…でも、其れは貴様の所為じゃ無いしな…。言うなれば御国の所為さ。」

 

 

 

 其れ切り暫く、二人は黙った儘、互いの目を視合って居た。

 

 

 

 

 

 其の内、先島が目を逸らし、自分の鞄を探り始め、変わった成りの四合瓶を取り出し、差し上げながら言った。

 

「土産の白酒パイチュウだ。呑むか?」

 

 

 

 そう言った先島の顔をじっと視て、‟私”は実に嬉しそうに笑った。

 

「漸く貴様に会えたよ。」

 

 

 

 

 

  ‟私”は立ち上がり、水屋の方へ歩きながら言った。

 

「最近は客も無いんでね。コップは在るが、肴が無い。」

 

「此れじゃあ客は呼べんだろう。」

 

 先島は殆ど間髪を入れずに、又もや‟私”の部屋の有様を腐した。

 

 しかし、‟私”が背中で聞く先島の声には、先程迄とは違う、少し楽しそうな様子が出て居た。

 

 ‟私”が水屋の前に立ち、背中で聴く先島の声の調子は変わら無い。

 

「肴が無いと言うが、貴様は今、晩酌をしようとして居たのでは無いのか?塩でも舐めるのか?」

 

 ‟私”はガラスのコップを二つ持って振り返って、顎で卓袱台の上の染付を指しながら言った。

 

「うん。確かに晩酌だが、其れに一杯切りなんだ。」

 

 

 

 途端に再び、部屋の空気が冷たくなった。

 

 先島は言った。

 

「…このぐい吞みに、一杯切りなのか?」

 

 ‟私”は静かに頷いた。

 

「うん。其れで完璧なんだ。」

 

 先島は‟私”の眼を見て、何か言いかけて、止めた。

 

 そして目を伏せ、微かに笑いながら呟いた。

 

「そうか…。其れ程‟完璧”なら、しょうが無いな。」

 

 ‟私”は頷いた。

 

 

 

 そうして卓袱台にガラスのコップを二つ置きながら言った。

 

「下の階に会社の同僚が住んで居るんだ。何か肴を貰って来るとしよう。」

 

 先島は言った。

 

「俺なら本当に塩で良いんだぜ?」

 

 玄関に向かいながら‟私”は言った。

 

「塩で良いなんて、お前はそんなに豪傑だったか?すぐ酔う癖に。」

 

 

 

 

 

 こんな夜更けに会社の同僚に訳を話し、野沢菜と二尾の目刺しを分けて貰い、‟私”は階段を登り始めた。

 

 

 

 同僚は‟私”の突然の訪問より、‟私”に客が来ている事の方に興味が在りそうな様子だった。

 

「しかし、そう驚く事じゃ無いかもな。」

 

 ‟私”の同僚は、階段の軋む音を聞きながら呟いた。

 

「奴、最近何か変だけど、まあ良く喋るし、笑うもんなあ。」

 

 

 

 

 「貰って来たぜ。」

 

 と、言いながら、‟私”が自室の戸を開けると、真っ先に目に飛び込んで来たのは、先島が卓袱台に倒れ込んで居る姿だった。

 

 先島の顔が此方を向いていた。

 

其の眼を見た‟私”の背筋が凍った。

 

 

 

 

 

 

 「先島っ!」

 

 肴を放り棄て、‟私”は慌てて先島を抱え起した。

 

 先島は息をして居無かった。

 

 どんよりと開いた眼は、何も見ては居ない眼だった。

 

 もう既に、其の身体には冷たさが入り込んで来て居た。

 

 

 

 ‟私”は久々に大声を上げて先島の身体を乱暴に揺り動かした。

 

「おい!先島っ!どうしたんだ!おいっ!おいぃっ!」

 

 先島の身体はだらりとして‟私”の為すが儘になって居る。

 

 と、其の時、先島の手から何かが床に転がった。

 

 ‟私”は其れを見て驚いた。

 

床に転がった物は、‟私”の染付だった。

 

 

 

 其れを見た‟私”は、瞬時に事の経緯を悟った。

 

 先島は、自身の土産の白酒を‟私”の染付で呑んだらしい、と。

 

 

 

 白酒の酒精度は高い物では六十度を優に超える。

 

 先島の体質なら、急に二杯も呑めば、正体を無くす事も在り得る。

 

 しかし、先島は正体を無くす所か、死んで居るでは無いか?

 

 

 

 

 

 立ち上がった‟私”の耳に、あの少女の声が蘇る。

 

「そいつで呑む時は泥酔はするな。…必ずだ。」

 

 確かに、少女はそう警告した。

 

 だが、生命を失うとは聞いて居無い。

 

 

 

 項垂れて、先島を見て居る‟私”の後方で、人の声がした。

 

 下宿の住人達だ。

 

「大変だ!人が…死んで居るぞ?」

 

「何だと、本当か!」

 

 ‟私”はしゃがんで、先島が持って居た染付を手に取り、くん、と臭いを嗅いだ。

 

 やはり、白酒の臭いがした。

 

 其の時、‟私”は何かに惹かれる様な、妙な違和感が働いた。

 

 ‟私”は感じた。

 

 

 

此の染付からだ。

 

 

 

 ‟私”は食い入る様に染付を視た。

 

 

 

 白い素地に、志那南方の山河が藍青で描かれた染付。

 

 河の畔で竿を延べる老人、牛を曳く童、山の麓の亭には酒を酌み交わす数人の漢と筝を抱いた妓。

 

 

 

 其れに…。

 

 矢張り、居た。

 

 先島が。

 

 亭中で、漢共は、美酒に舌鼓を打ち、手を叩き、妓は、筝をかき鳴らし、興を添えている。

 

 そして、其の床の隅に、先島が寝て居た。

 

 酔い潰れて居る様が、ありありと描かれて居る。

 

 

 

 

 ‟私”はやがて、静かに言った。

 

「…幸せそうだ。」

 

 下宿人の誰かが聞き返した。

 

「え?なんだ?」

 

 すっくと起ち、染付を見詰めた儘、‟私”は続けた。

 

「やはり世界は完璧だ。」

 

 おもむろに振り向いた‟私”は、右の手に白酒、もう片方に染付を持って、前を真っすぐ見た儘、野次馬達をゆっくりと擦り抜けて行く。

 

 野次馬の一人が怒鳴った。

 

「おい!何処へ行く気だ!」

 

 其の時、既に‟私”は、人垣から離れて、下宿の階段を降り掛けて居た。

 

 

 

 

 其の後、‟私”と染付を見た者は居無い。

 

 

 

 

 

 

 

          完



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