明らかに謳歌するべき青春のラインを大幅にオーバーしてしまっていた、あの仏頂面のくせに中身が淫猥な水色髪の少女と分かれ道で解散してから数分後。
誰も来ない橋の下で、そもそも基本的に人が外を出歩かない雨の日なのをいいことに、同級生と不純異性交遊に励んでしまったらしい自分の知らない自分に対して延々とツッコミを入れていると、いつのまにか帰るべき場所の目の前に立っていた。
「ただ、いま……?」
亀も驚く鈍重さでゆっくりと扉を開き、玄関をくぐって帰宅する。
一応の自宅のはずなのにここまで慎重かつ遠慮気味に足を運ぶ理由はただ一つ。
俺が未だこの家に馴染んでいないから、である。
時刻は夕方。
玄関の明かりはついていたが、人影はない。
誰もいないことに内心ホッとしつつ、音を殺しながら靴を脱いで家に上がる。
(……どうするべきか)
このまま二階の自室へ直行するか。
それとも居間に顔を出して帰宅のあいさつをすべきなのか。
二つの選択肢の前で右往左往してしまい、廊下に突っ立ったまま身動きが取れなくなってしまう。
そもそも泥棒みたいなムーブで帰ってきたのは、帰宅してからどのような態度で
玄関あけてただいま一言、そのまま当たり前のようにリビングで手洗いうがい、ちょっとした小話をして自室に戻るか、適当にソファに腰かけてテレビを眺める──だなんて、まるで一般的な一般家庭の一般的な行動をとれるほど、俺はこの家を”自宅”だとは認識できていない。
それはとても、とても悲しいことだ。
彼女も俺も、互いに歩み寄りたい気持ちで日々を過ごしているというのに、内心とは裏腹に物理的な距離は全くと言っていいほど縮まっていない。
互いに親のいない身で、少々歳が離れているとはいえ
「……っ」
意を決して居間のドアノブに手をかける。
悩んでいたところで進展はない。
このまま自室に戻り閉じこもったところで、関係性の改善がまたひとつ遠のくだけだ。
そもそも挨拶もせずに家に上がったら不審者と間違われるかもしれない。
彼女と打ち解けられない原因を作っているのは間違いなく俺なのだし、歩み寄る理由を作るのも俺でなくてはいけない気がする。
両親を失って学んだことはたくさんあるが、そのうちの一つに甘えすぎてはいけないというものがあるのだ。
こちらを気遣ってくれている彼女の厚意に甘えすぎてはならない。高校二年生なら人からの厚意を自覚して、逆にこちらから気を遣うくらいできて当然のはずだ。
心に刻んだその教訓を胸に、いざ一歩踏み出すとき。
──扉を開けると、そこにはリビングのテーブルにパソコンを置いて、なにやら文章を打ち込んでいる様子の大人の女性がいた。
「あっ、大我くん!」
こちらに気づいた女性はとっさに立ち上がる。
すると厚手のニットで主張が控えめになっていたはずの胸部がたゆんと揺れた。
とっさに目を背けることもできず、しっかりとソレに視線を奪われてから、改めて彼女の顔を確認した。
安堵したような表情だ。
無事に帰ってきてくれてよかった──そんな印象を受ける。
何だと思われてるんだ、俺は。
もしかしてこの家に嫌気が差して転校早々に外泊をするだとか、そんな余計な心配を彼女にさせてしまっていたのだろうか。
……そりゃあ、まぁ、確かに昨晩は彼女が躓いたせいで牛乳を顔面にもらったけども、そんなことでグレるほど短気でも恩知らずでもないつもりだ。
「よかった、おかえりなさい……」
「……はい」
思わず目をそらして下を向いてしまう。
他人と話すときはしっかりと相手の目を見て、という常識はわかっているつもりなのだが、彼女が醸し出すほんわか善人オーラは、俺にとっては少しばかり眩しすぎるのだ。
「ただいまです、スズさん」
「ぁ……う、うん。──あっ、そうだ、今日は知り合いからケーキをもらってきたの! あとでいっしょに食べない?」
「は、はぁ……じゃあ、遠慮なく」
俺の返事に一瞬だけ暗い顔をしたものの、すぐに持ち直して別の話題を提供してくれた。この切り替えの早さはさすが大人だ。
彼女が落ち込んだ理由は自分でも見当がついている。
わずかに残っている記憶の中──つまり幼少期のころに、彼女を”スズねえ”と呼称していた事実が存在するのだ。
小学一年生のころから顔を合わせる機会がパタリとなくなり、それから十年間連絡すら一切取らなかった相手ということもあって、昔みたいに愛称で呼ぶのはさすがにハードルが高すぎる。
しかし、それはあちらとて同じこと。
昔はタイガと呼び捨てだったが、今はこの通り距離を感じる君付けだ。
仲が深まらない一因は俺だけじゃないと判明し、ほんの少しだが落ち着いた。
俺と同じ苗字を持つ、齢二十四のふわふわお姉さんだ。
両親を失って行き場をなくした俺を引き取ってくれた恩人であり、従姉ではあるが唯一の血縁者でもある。
本業がイラストレーターなせいか自宅にいる時間が異様に長い彼女だが、意外にもコミュニケーション能力は一般のそれをはるかに凌駕しており、彼女とともに近所の八百屋へ顔を出せばなんと野菜をいくつも譲ってもらえてしまう。
友人も大変に多く、夜に街を歩けばガラの悪いお兄さんたちから真っ先に声をかけられるほど容姿も優れていらっしゃる。
そんな陽キャの中の陽キャである従姉が唯一コミュニケーションに四苦八苦している相手がこの俺であり、順風満帆なはずの私生活を脅かすただ一つの要因こそが、やはり俺なのであった。
なんとなくこのまま自室に戻ると空気が悪くなると思ったのか、彼女の天敵である俺はなんとか敵から味方にジョブチェンジするためコミュニケーションを図ることにした。
具体的には手洗いうがいをし、コップに水を注いで彼女の反対側──つまり正面の椅子に腰をおろした。
まぁパソコンいじってるし面と向かってお喋りすることはないだろう。
小話とか、相槌をうって会話っぽい何かができればそれでいい。
「そういえば大我くん」
パソコン閉じちゃった……。
「実はわたしね、このまえマジックを覚えたの。試しに見てみてくれる?」
「マジック……魔術?」
「えっ? ふ、普通の手品だけど……」
よかった。もしスズさんまでオカルトにハマってたらと思うとゾっとする。
にしても……手品か。
どうしてまた急にそんなものを──なんてことを質問する前に、いつの間にか彼女はトランプを用意していた。
「これはいま開けたばっかりのトランプです。種も仕掛けもありません。じゃ、これをシャッフルしてくれるかな」
「……これでいいですか」
「ん、おっけ。そしたらこの中から好きなカードを一枚引いて?」
言われるがまま山札から引いたのはハートの四。
「確認したらわたしに見せないままこの中に戻して、またシャッフルしてね」
ここでマジックを見破るべきか、それとも素直に受け取るべきなのか。
……そもそも初見じゃ見抜けないか。
とりあえず何も考えず、指示通りにシャッフルしてスズさんにデッキを手渡した。
「ふふふ……そしたらこの中から一枚、わたしが裏向きのまま引きます。……なるほど」
「……?」
「それじゃあ大我くんが引いたカードを宣言してね」
「えっと、ハートの四です」
「オープン!」
俺が宣言した瞬間、彼女は引いたカードの表面を俺に見せてきた。
それは間違いなく──ハートの四のカード。
素直に驚いた。
「……すごいですね、スズさん。ちゃんと当たってます」
「やった、ちゃんと当たった~。えへへ、やってみるもんだね」
聖女のような眩しい笑顔でトランプを片付けると、傍らに置いてあったバッグの中から未使用のトランプを取り出し、俺に差し出してくる。
「えっ?」
「……大我くん、まだ転校してきたばかりでしょう? わたしも高校のころに転校したことあるから、最初は馴染めない気持ちもわかるんだ」
だから、と一拍置いて。
「このマジックで話題……とまではいかないだろうけど、関心を持ってもらうきっかけにはなると思うの。……どうかな?」
「…………なる、ほど」
こちらの様子を窺うように差し出してきたトランプを、俺はゆっくりと受け取ってカバンの中にしまった。
俺に友達がいないことなど、スズさんにはお見通しだった──ということか。
赤嶺と青島に関しては意味不明というか、正直ただの困惑の元でしかなかったから、スズさんには友人ができた報告や、高校生活の楽しそうな雰囲気を伝えることがなかった。
それで逆に彼女は察してくれたのかもしれない。
コミュ力おばけに見える彼女にも、俺と同じように人間関係で悩める時期があったのだ。
だから俺の事情をすぐに察知し、改善の要因にできそうなマジックを覚えて、俺に見せてくれた。
気乗りしていなかった俺ですら多少は驚いて面白くなったことから鑑みるに、楽しいことを探し続けている多感な時期の学生に対してのアプローチでマジックをおこなうというのは、案外的確な答えなのかもしれない。
「──ありがとうございます、スズさん。俺もこれ、覚えたいです」
「っ! ……そっか。そっかぁ……! じゃっ、この開封済みのほうで練習しよ、大我くん」
「はい、お願いします」
「えへへ……じ、実はね、シャッフルする前に──」
俺がこの家に越してきてから、ようやく拝むことができたスズさんの愛想笑い以外の初めての笑顔。
マジックはもちろんだが、俺にとっては普通の人間とのコミュニケーションの取り方を思い出させてくれた彼女のやさしさが、なによりもうれしい収穫だった。
◆
翌日の放課後。
俺は内心舞い上がりながら校舎の階段をおりていた。
きっかけをもらったとはいえ、そう都合よく事が運ぶことはないだろう──とあまり期待しないで登校したのだが、美術の授業でペアになった中嶋という男子に手品を披露してみたところ、なんと意外にも絶賛の声をいただいた。
それをきっかけに話してみると、なんと彼の実家はスズさんがよく立ち寄っていたあの八百屋だったらしく。
中嶋はたまに店番をしているときに訪れる彼女に憧れを抱いていたらしく、そこから繋がる話もあって彼とはすぐに打ち解けることができた。
彼は女好きというか惚れっぽいというか、女性に興味を抱きやすい性質があったものの、個人的にはさして気にするほどでもない個性というか、むしろはたから見れば面白いと思ったため、相性が悪くなかったのも幸いだった。
俺は学校生活中に話せる仲の人間が欲しくて、中嶋はスズねえとつながるきっかけが欲しかった──互いに多少の打算はあったものの、話の合う友人になれたのは間違いない。
同じゲームをやっていたのもポイント高かった。彼と話すきっかけをくれたスズさんと美術の先生にはもっと感謝しなければ。
「……?」
昇降口におりて、立ち止まる。
中嶋は部活の先輩に挨拶をしてから帰るとのことで、このあと校門前で待ち合わせをしているため、一刻も早くそこへ向かいたいのだが、どうしても立ち止まらざるを得ない状況が目の前にはあった。
あの茜色の髪──赤嶺だ。
友人を待っているのか、ソワソワした様子で立ち往生している。
そういえばだが、今日の昼休みはあの空き教室に彼女は現れなかった。
自分から取り付けた約束は反故にするけども、噂が立つほどの有名人なのはやはり間違いないようで、男女ともに下校前の生徒から逐一声をかけられている。
中嶋から聞いた話によれば、なんでも読者モデルとやらをやっているようで、さらには動画を投稿しているSNSのフォロワーもそこそこ多いらしい。
であればあの人気っぷりも納得だ。
他の生徒の噂話を小耳にはさむ程度だった俺ですら有名人だと知ることができるほどの影響力を持つ彼女だったからこそ、中嶋からもたらされた新情報を耳にしてもさして驚くことはなかった。
そして、また一つ判明した事実がある。
校内では名の知れた人気者で忙しい身にある彼女が俺に近づいた理由だ。
何を隠そうそれはイタズラ、ないし罰ゲームである。
あのいつもボッチの根暗をからかってやろうぜ──くらいのノリで賭け事がおこなわれ、それに負けたからこそ彼女は俺に近づいて恋人のフリなんかで遊んでいたのだろう。
青島の件は……まぁ、あいつもきっと似たような感じだ。
ぜんぶ罰ゲーム。
そうしたらあの二人のおかしな言動にも説明がつくのだ。
教えてないはずの名前も、よく考えれば教室にある座席表を見たらそれで把握できる。
察せたのなら、あとは空気を読むだけ。
舞い上がって声をかけたりなどせず、遊ばれた被害者は飽きられたおもちゃだったと自覚して、さっさと退散するに限る。
「──あわっ!」
そう考えて彼女の横を素通りしようとした瞬間、赤嶺が段差に躓いてしまった。
幸い転倒することはなかったものの、空きっぱなしだった彼女のカバンの中からノートやら筆箱やらが散乱してしまう。
偶然にも人の通りがパタリとやんでいたこともあり、彼女に手を貸せるのはその場で俺だけであった。
しょうがない。
ここで無視してまた罰ゲームの標的にされてはかなわんし、人としての普通の優しさ程度は向けてやろう。
「だいじょうぶかさくら……これ、教科書」
「あっ。ごめんね、ありがとう」
ほら、まるで他人行儀。
すでに彼女の中で恋人ごっこは終わっていたらしいし、俺の必要以上に声をかけないムーブはきっと正しい。
茜色の艶やかなロングヘアーに、カラコンなのか自前なのか判別できないがとにかく発色のいい金色の瞳と、目鼻の整ったいかにもなモデル顔──容姿は最上だが、中身が最悪なことは既に判明している。
必要以上にかかわるべきではない。
「それじゃ」
「あっ! ちょ、ちょっとまって」
今すぐにでもこの場を離れたい俺の心境とは真逆に、ここへ残ることを提案してくる赤嶺。
まだなにかあんのか。
「どうした?」
「……あの、変なことを聞くようでごめんね。……あたしたち、どこかで会ったことある?」
「は?」
記憶消去すっとぼけタイプかよ、タチ悪いな。
……待て。
ならどうしてわざわざ引き留めたんだ。
──あっ、しまった。
そうだ、さっきは”さくら”と呼んでしまっていた。
仲がいいわけでもない男子からいつまでも下の名前で呼ばれるのは虫唾が走るのかもしれない。有名人だしたぶんそういうとこある。
「ほ、ほら、さくらって名前を呼んでくれたし……」
呼んで
相手が罰ゲームにハメられた男子じゃなかったら『えっ、この子もしかしてオレに名前呼ばれて嬉しいのか……?』って勘違いしていたところだぜ。気をつけなさいよ、ホント。
「ごめん、馴れ馴れしくいって悪かった。ほら、赤嶺って有名人だからさ、つい」
「あ~……なるほどね。あっ、その怒ってるとか、全然そんなんじゃないよ。むしろみんな遠慮して赤嶺としか呼んでくれないから」
「そ、そうか……」
お前をそう呼ぶように仕向けたのは他ならぬお前自身なんだけどな。いやまあ、言い間違えた俺も悪いけど。
ていうかここまで無知を装ってとぼけられるなんてもはや一種の才能だ。
わざわざ引き留めてまで名前呼びの理由を聞いてきたり、まるで罰ゲーム中の記憶なんて忘れましたとでも言いたいようなその雰囲気づくりには恐れ入る。性格が悪いとかそういう次元じゃない。
ハメた男子が俺でよかったな。
他の男子だったらたぶんこの段階で普通にキレてるぞ。
「呼び止めてごめんね。また会ったら、そのときもできたら名前で呼んでほしいな。……えっと」
「あぁ、俺の名前か。如月だよ」
「如月くん、か。気をつけて帰ってね、如月くん」
「お、おう……それじゃ」
昨日までの昼休みがウソのような他人行儀のやり取りを済ませ、靴に履き直して昇降口を出る。
いま話していた間も中嶋を待たせているのだから、はやく向かわないと。一緒に帰ろうって約束した当日にドタキャンしてしまったら心象最悪だ。
「──大我っ!!」
はやる気持ちを抑えつつ早歩きでグラウンドを踏みしめていると、後ろから名前を呼ばれた。
それを受けて振り返るよりも先に、後ろから誰かが背中に抱き着いてきた。
心臓が跳ねる。
生まれてこのかた一度たりとも、背後から誰かに抱擁されたことなどありはしない。
初めての体験に大きく動揺し、生物である以上存在する無意識的な反射反応で肩が跳ね、おもわず抱き着いてきた人物を跳ねのけてしまった。
「あっ」
まずい、突き飛ばすような威力が出てしまった。
「ご、ごめ──」
抱き着いてきた誰かさんも悪いが、俺も少々大げさな反応をしてしまったと、混乱しながらそう判断して振り返り手を差し伸べる。
その手と視線の先にいたのは、つい数十秒前まで眺めていた見慣れた顔だった。
「ぁ、赤嶺……?」
「いたた……も、もう
「は……?」
尻もちをついた赤嶺が不平不満を垂れているが、そんなものは関係ない。
──意味が分からない。
なにがあったらさっきのやり取りからこんなシチュエーションに繋がるというんだ。
どうすればそんな人格が切り替わったように振る舞えるんだ?
手を貸すのも忘れてしまうほどこちらは狼狽しているというのに、彼女はなんでもないといった雰囲気ですっくと立ちあがり、とても自然に隣りへ立って俺の手を握ってきた。
グラウンドの砂で少し汚れた赤髪を軽くはたいて。
いつの間にカラーコンタクトを外したのか、燃えるような紅色の瞳をぱちくりする赤嶺。
呆けた俺を前にして、彼女もまた呆けている。
「大我……? どうしたの、帰ろうよ」
「……あ、赤嶺おまえ、まだそれ続けるのか?」
「な、なに言ってんの……?」
恋人ごっこは終わったんじゃなかったのか。
なら先ほどの他人行儀な、まるで初対面かのような態度と言動はなんだったんだ。
俺の疑問も懊悩もはねのけて、赤嶺は自分の行動がまるでいつも通りであるかのように振る舞い、俺の手を引いて歩きだす。
「あっ! ……ご、ごめん、学校じゃ付き合ってるの内緒だもんね。手を握るのはまずいか……」
手を放してきたが、そんなことは関係ない。
困惑と恐怖が脳内を埋め尽くしていく。
わからない。
この眼前で”当たり前”を振舞う少女が──わからない。
正門付近に友人を待たせている大事な約束すら太刀打ちできないほどの、茫漠とした空気に支配されてしまった俺は、ただ言葉もなく立ち尽くすことしかできなかった。