本当は、兄さまの姿を見つけた瞬間に駆け寄っていきたかった。
帝君の岩槍を全て断ち切って倒れてしまったとき、今すぐに治療をしたかった。
でも、兄さまは私が戦場へ姿を現すことを望んではいません。兄さまは私を信じて、私を希望としてくれましたから。だから、兄さまも、帝君も、璃月も、全部助けます。
帝君が私に賜った弓を握り、私はあの時一瞬のうちに告げられた『不意を突け』という言葉を実行するべく矢を一本弦につがえた。
吐き気がする、眩暈がする、足元が覚束ない。
苦しい、痛い、死んでしまいそうだ。
だから、何だというのだ。
既に死者は出てしまっている。僕が苦しかろうが痛かろうが、もっと悲惨でつらい思いをしていた人々は沢山いるのだ。ここが正念場だ。これが失敗すれば、僕らの命どころか璃月という国が終わってしまう。
「――――夢の魔神は、旅人。君がやってくれ」
会って間もない、性格も目的も分からない旅人に悲願を託す。
ただ不思議と、頭の中に漠然とこの旅人なら任せられると、そう思えてしまう魅力が確かに存在している。
未だにぐらつく視界の中、僕は立ち上がり、旅人と魈もそれに続いて立ち上がる。
平原に押し寄せていた魔物ももうすぐ殲滅できると認識できるほどに数を減らし、兵士や有志たちが璃月を守るために抵抗を続けている。
この作戦は、僕たち
――――だろう? 甘雨。
『はい。久劫兄さま』
「行くぞ――――!」
魈が、僕と旅人を抱えて飛び上がる。
少し見ない間に凄く強くなっていた魈の跳躍力は目を見張るものがあり、少し僕が驚いている間に空にいる岩王帝君たちと相対するように向き合っていた。
帝君の瞳には生気が宿っていない。ヤツに言われるがままに動き、命令を履行するだけの操り人形になってしまっていた。……こんなの、許されるわけがない。
頂点に立つ者には必ず『責任』がついて回る。璃月という国の頂点に立っていた者として、そして『契約』という一番『責任』を重んじる理念を掲げる神として、帝君は常にそれを受け止めていた。
不変のものはない。永遠など存在しない。
『永遠』を掲げる雷神でさえ、かつてそう言っていたのを覚えている。風神に酒を飲まされふにゃふにゃになっている雷神の姿は今でも脳裏に焼き付いているから間違いはない。
『摩耗』は常に森羅万象に付きまとうものだ。
人が記憶を忘れるように、一種類の生物が環境の変化で姿を消すように、――――自身の『理想』の正体を忘れ、暴挙に出るように。
時代はいつの日か移り変わり、変化を遂げていく。だがそれは『摩耗』ではないと人々は言う。
削れた訳ではない。総てが消えてなくなってしまう前に、新しい礎を用意したんだ。と。
『万物は流転し、変化を続けるものもあればやがて元に戻ってくるものもある。
だからこそ『永遠』は貴いように見えて実は身近なものであり、実はあなたの身にも既にあるのかもしれませんよ』
酔い覚ましに外の風に当たっていた雷神に水を持って行ったとき、そう教えられた。
『しかし、変化の最中はとても脆く、人間が少しでも触れただけで壊れてしまいます。
変化と変化がぶつかり合い、互いに影響を及ぼしてしまうこともあります』
「今更戦おうってのか? くははっ!! いいだろう賞賛してやる。まァ、勝てないだろうがな」
きっと、彼らは変化の途中だったのだ。
帝君は僕から、そしてダンタリオンはきっとその理念に影響を及ぼす何かから、変化している最中だったのだ。
そしてそれらが複雑に絡み合い、帝君の『責任』は限界を迎え壊れ、ダンタリオンは全てを破壊する暴君へと変貌を遂げた。
結局、全ては抗えぬ『摩耗』で、目の前の二人はただ『摩耗』に呑まれてしまった被害者なのだ。
「いいぜ! 来いよ! 今の我は戦える。二人がかりで来ようが負けはしないっ!!」
僕は空中で
旅人には無限の可能性を感じた。だから僕と魈が旅人に力を分け与えて帝君を足止めさせ、その間に僕か魈がダンタリオンを撃破するのでもよかった。
だが、帝君の摩耗し続ける心の器を、完全に交換することはできなくとも、これ以上僕の事で心を摩耗させないように削れた心を僅かでも戻すことができるのは僕しかいない、と魈に言われた。
全くもって無茶を言ってくれる。
けれど、帝君が……否、
そんなことができれば、の話ではあるが。
璃月上空の島のような岩は落下しかけていたところを一時停止し、零れ落ちた砂塵や礫がパラパラと地面へ落下していく。
「旅人、行くぞ――――!!」
「ああ!」
「さぁ迎え撃てモラクスッッ!! 希望なんざないってことを、こいつらに叩き込んでやれッ!!」
「グォォォォォォォォォアアアァァァァァッッッッッッ!!!!」
モラクスの咆哮が、空気を激しく揺らす。
旅人は耳を抑えていただろうか。僕はそうもいかない。先ほど無理やり力を酷使したせいで体のあちこちが痛むが、耳鳴りが聞こえるのと僕の耳から生暖かい感触が伝わってくるのは、きっと今の咆哮のせいだろう。
外の世界の音が何一つとして聞こえなくなるが、構わない。怪我を追わずに目標を達成できると思っているほど僕たちはこの状況を楽観視していない。むしろ耳が聞こえなくなる程度で済んだのは不幸中の幸いだ。
「
ダンタリオンが何を言ってるのか分からない。だが、モラクスの動きでダンタリオンが何を命令したのかは容易に想像ができる。
万物を切り裂く凶悪な爪に、更に鋭い岩を纏わせてモラクスが突撃してくる。
旅人がそれに応えるように剣を取り出し、応戦する――――
旅人は僕の上へ立っている。少なくとも視線は旅人を乗せている僕より迎撃する姿勢を見せている旅人に向けられるはずだ。それで、下方向は十分死角になる。
子供だましのような単純な作戦だが、それでも自我を失っているモラクスとそのモラクスで真下が見えず、目前に迫った勝利を手繰り寄せようと必死なダンタリオンには見事にぶっ刺さった。
「――――今だけ攻撃する無礼をお許しください」
突如真下から突き上げてきて、眼前で爆ぜたその氷の塊に、モラクスの体が大きく揺らいだ。
攻撃を宙を斬り、上に乗っていたダンタリオンが大きく体勢を崩した。
「行けッ!!」
「
落下こそしなかったものの、モラクスの上で体勢を崩したダンタリオンに旅人が迫っていく。その間、流石は岩神といったところか、モラクスはすぐに体勢を立て直して再び爪へ岩を纏いながら僕へ突撃してきた。
だが、その瞳にはほんの僅かではあるが、感情がこもっているようにも見えた。
「僕は貴方に仕えたこと、契約を交わしたこと、共に過ごしたこと、そのどれにも不満などなかったのですが……、
貴方が望むというのなら! 今、この場で断罪するっ!!」
獣化状態を解除して『不倶戴天』を握る。僕の感情に呼応し、『不倶戴天』もやる気を出しているようだ。
モラクスの爪がいよいよ振りかざされ、僕もそれに応戦するように『不倶戴天』を振るう。自身についている力のリミッターを解除し、ぶっ壊し、二度と力の開放ができなくなる覚悟でモラクスの爪を迎撃しに行く。
そこまでの事をしなければ、この岩王帝君という男には到底及ばないからだ。
モラクスは僕にとって第二の父だ。
慈悲深く、優しく、物知りで丁寧。だけど時々帰終様を困らせてしまうほどのポンコツ具合を発動させるときもあれば、思わず背筋が凍り付いてしまうほどの怒気を放つときもある。
……いや、でも本当は分かっていた。
リミッターなんか解除しなくてもいい。無論ぶっ壊さなくても。むしろ振るうものが武器でなくともいい。
「――――っっ!!」
「
その爪が『不倶戴天』と激突する寸前、モラクスは手を瞬時に引っ込めた。
それが、主君の望みとあるならば、配下である僕は従順に従うのみ。
「……っく!! うおおおおおおおおおおおっっっ!!」
僕は歯を食いしばりながら『不倶戴天』を握る力を強め、そして力を開放していない状態の僕が出せるありったけの力を込めて、
――――帝君の顔面を『不倶戴天』の腹でぶん殴った。
そして、それとほぼ同時に、
璃月の上空を漂っていた島のような大きさの岩と、数千年間蓄積してきた数多の『夢』が、空へ散った。
大空を感じる。
張りつめていた糸が切れてしまったのか、もう力を出すという感覚すら麻痺してしまっていた。
飛んできた魈が、僕へ手を伸ばした。
だが、あと少しの所で届かず、魈がどんどん離れていく。
お前は旅人と帝君を助けてやればいい。僕の事は気にしなくても平気だ。
だって、こうして力を入れればすぐに力が解放できて……、あれ、力ってどうやって出すんだっけ。
あ、不味い。だんだんと意識が薄れてくる。
まだ全部終わっていないのに安心しきってしまったせいだ。本当に、詰めが甘いのは昔から直せていないようだ。
僕、このままどうなるんだろうか。
このまま死んでも、それはそれでいいのかもしれない。皆の顔を見れて、みんなとの璃月を守るという『約束』も今果たせた。
……『約束』か、そういえば、璃月を守るっていう約束に、一人だけ『ずっと』という条件を付けてたっけ。
泣き虫で、コロコロしてて、でもある時から急に何かを意識しだしたのか、どんどんと美人になっていって……
結局、『帰って来たらする話』というのは、一体何だったのだろうか。
……なるほど、これが『走馬灯』というヤツなのかもしれない。
耳のように強制的にシャットアウトしたような感覚ではなく、だんだんと浮遊していくような感覚。
これに身を任せれば、きっとどこか遠い場所へ行ける――――
――――ガバっと、横から誰かに抱えられた。
胸に当たる感触からして、それは恐らく女性であることが伺える。ひらりと靡く水色の頭髪に、懐かしい香りが機能を失いかけていた鼻孔を擽った。
急に変わりだした頃から、妹よりも一人の女性として意識してしまうようになってしまった人。
それは、年齢の差を考えても、兄のように慕ってくれている彼女の気持ちを考えても、決してあってはならない事だった。
故に、僕はその感情をひた隠しにしてきた。
だけど、ふと考えてしまう時があった。
もし、彼女が僕の帰る家にいて、僕が家へ帰ると「おかえり」と言ってくれる存在だったら。
……死に瀕して、少しだけ感情が爆発してしまったようだ。
こんなこと、あってはならないんだ。僕と君は年の離れた兄妹で、異性として『恋』という感情も『愛』という感情も抱いてはいけないんだ。
「兄さま……ひっぐ、無事でよがっだです……よがった、本当に……無事で……」
僕は決して鈍感ではない。彼女が、甘雨が僕に対して抱いてはいけない感情を抱いてしまっていることは既に気付いている。
だから僕の為に、僕を求めないでほしい。
これ以上は、僕の兄としての決心が揺らいでしまいそうだから。
「甘雨」
「ひっぐ……あ゛う、久劫、兄さまぁ」
でも、まずは最初に、甘雨に言わなくちゃいけないことがあった。
「ただ、いま。甘雨。早めに、終わらせられなかった」
「いい゛え……! おかえりなざい! 久劫兄さま゛ぁ……!」
――――長い間、待たせてゴメンな。
次回、エピローグ