10ハロンの暴風   作:永谷河

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覚醒

皐月賞本番前、俺は美浦の調整ルームで明日のレースのことを考えていた。

 

 

「皐月賞か……」

 

 

久しぶりの皐月賞だ。

俺が皐月の舞台に立つのは何年振りだろうか。

ケガをしてから鳴かず飛ばずだった。

奇跡の復活などとはやし立てられたが、結局のところ、実力も運もなければいい馬には巡り合えないのである。

古傷や、長年の騎乗で蓄積されたダメージで身体が痛むこともあり、引退の文字が頭をよぎったこともあった。

だが、いつかG1を獲ってやる。その気持ちでここまでやってこれた。テンペストでG1を獲れなきゃ、二度と縁がない舞台になるだろう。

明日の皐月賞が勝負どころだ。俺にとってもテンペストにとっても。

そして、なんの因果か枠順はディープインパクトの隣であった。

 

 

「明日が楽しみだな……」

 

 

いい意味で俺は緊張感を保つことが出来た。

彼は俺の指示に従ってくれるだろうか。

弥生賞で負けたことをはっきりと認識していた。それで、焦って、意固地になって前以上に暴走するかもしれない。

だが、俺は決めていた。明日のレースで、彼と喧嘩をすることを。

こんなことを言ったら、正気を疑われるかもしれない。ただ、ここで一度ぶつかり合わないと、あいつはこの先ずっと「それなり」な馬で終わってしまう気がしていた。

俺の騎手人生を賭けてでも、折り合いをつけてみせる。

 

 

「これで俺の騎手人生もおしまいかもな」

 

 

藤山先生のところをクビになったら、本格的に俺は騎手として食っていけなくなるだろう。そうなったらどっかの牧場で働くかね……

ただ、俺はあいつと共に戦える自信があった。

その日の夜は長く、短かった。

 

 

 

その十数時間後、俺は中山競馬場にいた。すでに1レース走っており、騎乗した馬を初勝利に導くことが出来た。オーナーの人はたいそう喜んでおり、皐月賞も応援するといってくださった。

調子がいい。

時間が過ぎるのは早い。先生との連絡・調整などを行っているうちに、皐月賞の出走になっていた。

テンペストは馬房でも落ち着いた様子だった。

そういえば新馬戦のときはやけに張り切っていたよな。その後は落ち着くようになったけど。まあいいか。

パドック周回が終わり、俺たち騎手が乗るときが来た。

彼を曳いていた秋山君が話しかけてきた。

 

 

「今日なんですが、ちょっと集中していないというか、上の空な感じなんです。元気がないというわけではないのですが……」

 

 

「こんなときにか……」

 

 

誘導馬に従って、レース場に入ると、大観衆がいた。

多くの人はディープインパクトの勝利を見に来ているのだろう。

圧倒的一番人気。しかも3番人気のテンペストが二桁倍率になるほどのぶっちぎりだった。

 

 

「風穴空けてやろうぜ……」

 

 

返し馬でも良好な走りを見せていた。

ただ、ちょっと集中力が欠けているように見えた。

 

 

「いや、もしかして集中しすぎている?」

 

 

この時点で俺は嫌な予感がしていた。

 

 

ファンファーレが鳴る。久しぶりにターフの上で聞いた関東G1ファンファーレ。そして大観衆から放たれる歓声。

ああ、やっとこの舞台に立てた。

ゲートインが行われていく。

 

 

「行くぞ!テンペスト」

 

 

いつもなら嘶いて反応するのだが、今日はそれもない。

ちょっと不味いかもしれない。

ゲート出るときに軽く鞭を入れてみるか?そう思いながらゲートに入り、出走を待つ。

こういうとき、彼は全く騒いだりしないのは助かる。

全ての馬が入ったのを確認して、ゲートが開くのを待った。

 

 

ガシャン、そんな音と共に、ゲートが開き、他の馬がスタートしていった。

テンペストは、それに反応していなかった。スタートの合図を送ったが反応しなかった。

 

 

「アッ……!」

 

 

我に返ったかのように、彼は慌ててスタートを切った。

わずか1秒程度の遅れであったが、すでに俺たちは最後尾に近くなっていた。

そしてなぜか隣のディープインパクトも遅れていた。

躓いた?こりゃあファンは絶叫ものだな……

 

 

 

―――――――――――――――

北海道のとある牧場では、従業員が集まって、テレビを見ていた。

自分たちが生産した馬が、クラシック初戦の皐月賞に出ているためだ。

 

『……2005年、牡馬クラシックはこの皐月賞から始まります。8万人の競馬ファンが中山競馬場に訪れています。未来の三冠馬にみな、夢を託しております。今日は大注目のディープインパクトが走ります』

 

『単勝1.3倍の圧倒的人気ですからね。まだ3戦しかしていないのに、ここまで期待されるのは、アグネスタキオンを思い出しますね』

 

『未来の三冠馬の誕生はいかに、ですね。レースの展開ですが、どのような形が予想されますでしょうか』

 

『そうですね。スタートが得意なテンペストクェークが先頭に立って逃げを打ってくると思いますね。ダイワキングコンやビックプラネットもそれに追従すると思います。レース展開がハイペースになる可能性もありますので、ディープインパクトはどのようなタイミングで抜けてくるのかがカギになりそうです』

 

『ありがとうございます。14番ディープインパクトもゲートに入りました。問題ないようです……』

 

『アドマイヤジャパンがゲート入りを嫌がっていましたが、しっかりとゲートに入りました。そして、大外ダンスインザモアがゆっくりとゲートイン。全頭ゲートインです』

 

『ゲートが開いた。第64回、皐月賞スタートです。ああっとディープインパクト、それにテンペストクェークが出遅れたか?』

 

 

「「「「ああぁ……」」」」

 

 

スタートで大きく出遅れたテンペストに、何とも言えない声が上がった。

 

 

「大丈夫かよ、テンペスト……」

 

 

大波乱の皐月賞が始まった。

―――――――――――――――

 

 

スタートが遅れたテンペストと俺であったが、俺はそこまで焦ってはいなかった。

むしろ都合がよかった。

ただ、明らかに最後尾になるつもりはなかったが。

せめて中団くらいには付けておきたかったが、もうそんなことを考えている暇ないな。

予想通り、彼は前に行きたがっていた。

前はここで諦めてしまったが、今日は違う。とことんつきあうぜ、テンペスト。

 

 

『……第1コーナーに向かって先行争いになりました。ディープインパクト、テンペストクェークは後方からの競馬になりました。あっと、テンペストクェークですが、これは少し掛かっているのでしょうか……』

 

 

多分折り合いがついていないとか思われているんだろうなあと考えながら、前に行かないように彼に指示を送る。初めての出遅れ、しかも大事なレースで。わかるよ、焦るよな。

 

お前は強い、そして速い。だが、今のお前より速いやつはいくらでもいる。いつの間にか隣前にいたディープインパクトもそうだ。お前と喧嘩したゼンノロブロイもだ。

そいつらに勝つには、お前だけではダメなんだよ。

お前は自分が一番走り方をわかっていると思っているんだろう。だから俺の指示を聞かないんだな。

 

 

「だがな……」

 

 

お前は生まれて3年しか経っていないだろう。競走馬になってから2年も経ってない。

俺はなあ、この世界で20年以上も戦ってきたんだ。

ロートルかもしれないが、それでもお前よりはこの世界を知っているんだ。

だから……

 

俺はお前の重りでもリュックサックでもないんだ。

 

だから、俺に任せろ。

 

俺は彼の首元をかるく叩いた。こんなことをレース中にするもんじゃないことぐらいわかっている。危険であることだってわかっている。

だが、彼に俺の意思を伝えなければ、この競馬は惨敗で終わってしまう。

もっと早く彼と「対話」すべきだった。セントポーリアや弥生でやるべきだった。

これは受動的であった俺のミスだ。

 

 

「テンペスト!」

 

 

彼の耳が少し反応したように思えた。

そして、不必要に入っていた全身の力が抜けたようにも感じた。

強引に制御する必要もなくなった。

 

俺の気持ちが伝わったなんて思わない。ただ、彼が根負けしてしぶしぶ従っているのかもしれない。

もしかしたら彼の末脚は不発に終わるかもしれない。自由気ままに走らせた方がよかったかもしれない。

そんな気持ちがよぎった。

だけど、俺は、先生たちや自分の経験、そしてこいつの才能と努力を信じることにしていた。

 

 

「さあ、ここからが本当の勝負だ」

 

 

この日、この瞬間、彼らの歯車がかみ合った。

 

 

 

 

『……先頭はビックプラネット、その後ろにコンゴウリキシオーがいる……』

『……千メートル通過は59秒台で通過している。ここでディープインパクトが少し順位をあげる。後ろはアドマイヤフジ……』

 

 

ディープインパクトが大外を回りながら、少し前の方に出ていった。確かにすこし前に出る必要があるな。俺はテンペストに指示を送ると、彼も少しだけスピードを上げて、中団のやや後ろにつけた。

第3コーナーを抜けるころには、ディープインパクトはさらに先頭の方に抜けており、すでに中団の先頭付近にいた。

 

 

『第四コーナーを過ぎて、ビックプラネット先頭。しかし差はあまりない。中団が固まっている。ディープインパクトは外からしっかりと回っている……』

 

 

後方から一気に追い抜く必要があるため、こうしてコーナーで膨らむ必要があった。走る距離が伸びるため、タイム的にもロスとなる。しかし、不思議とその心配はしていなかった。

 

そして、このままでは、あの馬においていかれると感じた俺は、彼に加速するように指示を出した。

すると、スーッと加速していくと同時に、前の馬も後ろの馬もいない大外に膨らんで、走っていた。

 

 

「大外一気。いいね。採用だ!」

 

 

残り400メートルを過ぎて、直線に入る瞬間、俺たちの3馬身ほど前にいたディープインパクトに鞭が入った。

加速段階に入っていたディープインパクトがさらに加速したように感じた。簡単には終わらせない。お前の三冠を阻むのは、俺たちだ。

 

 

「行くぞ!」

 

 

俺が鞭を軽く一発入れた瞬間、彼の体の重心が低くなったように感じた。首も前に前に行こうと下がっていた。

そして、俺は後ろに引っ張られるような加速を感じていた。

 

こんな馬初めてだ……

というか調教でも見たことねえぞ、こんな走り……

 

一気に加速したテンペストは、坂を駆け上がりながら先行集団を抜き去っていた。

 

 

『……ディープインパクト先頭に立っている。そこに大外からテンペストクェークがものすごいスピードで迫ってくる。先頭はディープインパクトだ、テンペストクェークが差し切るのか。これは……』

 

 

差し切れ!勝ち筋が見えた!

その瞬間、彼の猛烈なスピードが少し減速した。

そして、ディープインパクトと俺たちはゴール板を通過していた。

 

 

『ディープインパクト、ゴールイン!そして半馬身差でテンペストクェーク。まず4連勝で1冠目を獲りました。テンペストクェークの猛追を振り切り、三冠への第一歩を踏み出しました』

 

 

写真判定をするまでもない。俺たちの負けだ。

あと半馬身くらい足りなかった。

原因はわかっている。最初にテンペストと喧嘩して、余計な体力を消耗させてしまったことだった。

掲示板には1.58.5の数字が表示されていた。2002年にノーリーズンが記録したレコード記録と同タイムであった。1着と2着の差は1/2馬身。3着には5馬差をつけていた。

 

 

「こりゃあクビかもなあ……」

 

 

ただ、覚醒したこいつが、未来の三冠馬を打ち破る瞬間を見ることが出来ると考えていた。

高い壁だが、超えられないわけではない。

 

 

「その時に、俺が乗っているかはわからんが、これからよろしく頼むよ。テンペスト」

 

 

俺は笑いながら、勝った馬の方を見ていた。

 

 

 

 

数年後、ディープインパクトの騎手は語った。

『もうパーフェクトですね。走っているというよりより飛んでいる感じでした。最後にテンペストクェークが一気に突っ込んできたのはさすがにヤバいと思いましたが、最後の最後でさらにディープインパクトも加速してくれたので、差し切られませんでしたね。パーフェクト以外の言葉が見つかりませんよ』

『ただ、テンペストクェークの鞍上の高森さんが終わった後、やけにニコニコしていたんで、何だったのかと思ったんです。ただ、その後のテンペストクェークの走りや、1年後のあのレースのことを考えたら、そういう意味だったんだなって理解しましたね』

 

 




タイムがやや早くなっていますが、テンペストクェークの猛追を察知した騎手が、ディープインパクトをさらに加速させたためです。もし併せることが出来ていたら、結果は変わっていたかもしれません。

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