テンペストクェークがニューマーケットでレースの疲れを癒しているころ、ディープインパクトは、凱旋門賞に向けて調整を行っていた。
つい先日、クイーンエリザベスⅡ世ステークスを勝利したテンペストクェークを管理している藤山調教師からも連絡が入っている。
『凱旋門賞に行くかもしれない有力馬は全員叩きのめしました。あとは本番でテンペストと戦った時のような走りをしてください』
「全く、プレッシャーかけてくれますね」
この夏、日本馬が競馬の本場である欧州で躍動していた。
キングジョージを勝ったハーツクライ。
英国際S、愛チャンピオンS、クイーンエリザベスⅡ世Sを勝ったテンペストクェーク。
特にテンペストクェークはすでにマイル~中距離で現役世界最強馬に君臨している。
そうなると、当然ディープインパクトへの期待も上昇するのである。
「フォア賞は危なかった。やはりディープは馬体を併せられると少しスピードが鈍るな。初めての海外に初めての洋芝でかなり戸惑っていたのもあるが、本当に本番でなくてよかった」
フォア賞が終わったあとも、疲労をそこまで見せておらず、徐々にこちらの環境にも慣れてきたように見える。
体調も万全で、いい意味でいつも通りのディープインパクトであった。
「先輩や同期の馬にこれだけ御膳立てされているのだから、絶対に勝たなくてはな」
ロンシャンの舞台に衝撃が走る……かもしれない。
【凱旋門賞】
1920年にフランスで誕生した国際競走である。ロンシャン競馬場の芝2400メートルで行われ、世界中のホースマンの目指すべきレースとされている。多くの名馬がこの凱旋門賞で栄光を勝ち取った。この凱旋門賞が行われる10月1週の日曜日とその前日の土曜日には、短距離から長距離までの大レースが数多く施行され、凱旋門賞ウィークなどと呼ばれている。
1969年のスピードシンボリが初めて凱旋門賞に出走してから、日本馬の挑戦の歴史が始まった。このときの結果は着外であり、当時日本最強馬だった馬の敗北に世界のレベルの高さと海外遠征の厳しさを思い知らされた。その後もシリウスシンボリやメジロムサシが挑むも世界の頂は遥か彼方であった。1999年にはエルコンドルパサーが長期の海外遠征を経て挑戦したが、モンジューの前に惜しくも2着に敗れた。その後も2頭が挑戦したが、芝の違いや海外遠征の難しさもあり、勝つことはできていない。
凱旋門賞という言葉は、日本のホースマンにとって憧れであると同時に、呪いでもあった。
「テンペストがもう少し長い距離を走ることが出来れば挑戦していたんだけどなあ……」
「2200~2300が限界ですからね。テンペストには凱旋門賞は厳しいですね」
西崎はロンシャン競馬場に来ていた。テンペストは出走していないが、ディープインパクトの凱旋門賞を観るためにフランスに来ていたのであった。仕事もあるのでレースが終わったらすぐに帰る予定である。そして、隣にはイギリスから帰るついでに寄ったという藤山調教師がいた。彼もレースが終わったらすぐに日本に帰国するとのことである。イギリスからフランスと、国同士の移動が楽なのも西欧の特徴である。
「ロンシャン競馬場2400メートルのコースは高低差が10メートル近くありますからね。重い芝を駆け抜けるパワーと傾斜を苦にしないスタミナ。それにフォルスストレートといった日本にはないコース形状もありますので、馬との折り合いも試されます。本当に難しい競馬場ですよ」
「ディープインパクトは勝てますかね」
現状ディープインパクトは一番人気であった。日本人が大量に賭けたことが要因であるが、日本馬の躍動を見てきた現地のファンや関係者からも評価はされていた。また、フォア賞での結果も考慮されての人気だった。
「可能性はありますね。フォア賞でディープらしくない走りをしていましたけど、ぎりぎりで勝利しましたからね。いつも通りを心がけていれば勝てると思います。昨年の凱旋門賞馬のハリケーンランは、キングジョージ以降は昨年のような勢いはないですし、シロッコも調子がいいとは言えませんね。むしろ怖いのはレイルリンクですね」
「確かフランスの3歳馬ですね」
「凱旋門賞も斤量が馬の年齢とかで変わるんですよね。ディープインパクトやハリケーンラン、シロッコは59.5㎏なんですけどレイルリンクは56㎏なんですよ。それでいて、フランス所属でパリ大賞を含めた5連勝で勢いに乗っている馬ですから。おそらくディープ陣営も警戒していると思いますよ。まあ、斤量なんて絶対的な馬の力の前にはそこまで影響はしないと思いますが」
「なるほど。こういう話を聞くと、日本の馬が外国で勝つことの難しさがわかります。テンペストは4勝していますけど……」
「テンペストはちょっと規格外というが普通のサラブレッドの範疇を超え始めているので、あの馬を基準にするとほとんどの馬が並になってしまいますよ」
テンペストは日本の天皇賞・秋からクイーンエリザベスⅡ世ステークスまでGⅠ競走を7連勝している。海外GⅠでは、ドバイDFから4連勝していることになる。特に英国際S→愛チャンピオンS→クイーンエリザベスⅡ世Sの連勝はジャイアンツコーズウェイですらも達成できなかった記録である。最高のメンツといわれたクイーンエリザベスⅡ世Sを驚異的な末脚で全頭差し切っての勝利は、欧州の競馬関係者を震撼させた。稍重のアスコット競馬場でラスト1Fを10秒ジャストで走っており、マイルの舞台であるとはいえダンシングブレーヴの再来とまで言われていた。
「ただ、ディープも並の馬ではないですからね。少なくとも2200メートル以上であの馬にかなう馬はいないと思います。あとは、どれだけこのアウェーの地で彼らしい競馬ができるかが勝負の鍵だと思います。というかJRAがあそこまで宣伝してしまっているんですから勝たなきゃヤバいですよ」
「わかっていたとはいえ、テンペストのときよりも来ている日本人が多いですね」
ロンシャン競馬場にはツアーや個人で来た日本人、欧州在住の日本人がたくさん来ていた。これが凱旋門賞なのかと西崎は思っていた。
「さて、そろそろパドック入場だな」
日本では、競馬番組だけでなくスポーツ番組が特番を用意して中継を報道していた。
多くの競馬ファンがテレビに噛り付いてみていた。馬券の結果を見るために競馬を見るというより、ワールドカップやオリンピックを見るような感覚であった。
『……パドック周回はまだ始まっていません。欧州ではパドック周回はレースの直前に行われるのですね』
『この辺りも日本と違いますね。パドック周回の時間が短いのも特徴ですね』
『パドック周回が始まるまで、ディープインパクトのライバルの馬の紹介です……』
映像では、ハリケーンランとシロッコが紹介される。
『ハリケーンランはキングジョージでハーツクライの2着に敗れていますが、実績は十分な馬です。昨年の世界ランキング1位の馬ですから、能力は相当高いものを持っていると思います。シロッコもフォア賞は2着でしたがアタマ差での敗北でしたので、そこまで敗北は参考にならないと思います。実績も十分ですからね。ただレイルリンクなんかも斤量差や最近のレースの状態を見ると、ライバルになりうる馬だと思います』
『ありがとうございます。ディープインパクトをもってしても手ごわい相手がいるということですね。それにしても現地の様子ですが、かなりの観客が入っていますね』
『日本人も多いみたいですが、現地のファンも多いみたいですね。ハーツクライやテンペストクェークが大活躍していますからね。その二頭を破ったことがあるディープインパクトはどんな馬なんだという興味もあるみたいです』
テレビではスーツやドレスで着飾った観客がパドック回りに沢山いる光景が移っていた。
『さて、展開の予想ですが、どのような競馬が行われると思いますか』
『ディープインパクトの末脚がしっかりと発揮できるような走りをしていく必要がありますね。スタートからの直線でしっかりとポジションを確保して、前半にしっかり脚を溜める必要があると思います。フォア賞のときはそれが少しできていませんでしたからね。コーナーが下り坂なので、そこでスピードを上げ過ぎてしまうと、ラストの直線で足が鈍る可能性もありますから、いかに折り合いをつけて走ることが出来るのかがポイントになると思います』
『ありがとうございます。あ、そろそろパドックの周回が始まるようです』
装鞍所から出てきた出走馬たちが次々とパドックを周回する。ディープインパクトの様子はいつも通りといった感じであった。
その後、調教師や騎手へのインタビューが行われ、勝利への自信の程を語っていた。
『騎乗した後も落ち着いていますね。いい意味でいつも通りといった感じです』
短いパドック周回の後に、本馬場へと向かう。その間には多くの観客がおり、日本の競馬場より、馬と人の距離が近かった。
ロンシャン競馬場のコールに入ると、誘導馬に誘導されながら、8頭の馬が歩いていた。先頭はディープインパクトであった。
返し馬が始まると、歓声が上がる。
『返し馬が始まりました。走りの方はどうでしょうか』
『フォア賞を経験したおかげか、足取りは軽そうに見えますね。ここでも落ち着いて騎手の指示を聞いていますね』
返し馬が終わりスターティングゲートへと馬たちが向かう。
『さて、そろそろゲートインが始まります』
ライバルたちが次々とゲートに入っていく。ディープインパクトは最後のゲート入りであった。
『最後に日本のディープインパクトがゲートに入ります。第85回凱旋門賞。日本の悲願なるか。スタートしました!』
ゲートが開かれると、8頭の馬が一気に飛び出した。
『全頭揃ってスタート。大きな出遅れはありません。ディープインパクトは後方集団に入りました。先頭はアイリッシュウェルズ。二番手にシロッコ、そのやや後ろにはハリケーンランがおり、馬群が固まっております』
スタートしてから1000メートル近い直線が続く。途中から上り坂となっており、ここで登坂力のない馬は体力を消耗させられてしまう。
『……ディープインパクトは現在7番手。後方集団には、レイルリンクにシックスティーズアイコン、そしてディープインパクト、最後方にプライドがいます』
2006年の凱旋門賞は、8頭立てという少数でのレースとなっていた。
そのためか極端な逃げ馬やハイペース馬がおらず、序盤はややスローペースな展開となっていた。
『……ディープインパクトは後方集団に位置しております。先頭はアイリッシュウェルズ。二番手はシロッコです。その後ろにハリケーンランがおります。ディープインパクトはフォア賞とは違い後方からの競馬をしております』
長い直線と坂が終わると、第3コーナーが始まる。ここから坂が下りになり、1600メートル地点まで一気に下ることになる。ここでスピードを上げ過ぎると、スタミナを消費することになる。
『まもなく残り1400メートル。ディープインパクトは現在7番手に位置しています。アイリッシュウェルズ先頭、シロッコ二番手、その後ろにハリケーンラン。そしてレイルリンクと続きます……』
第3コーナー、第4コーナーを終えて、完全に坂を下り終えると、250メートルほどの直線に入る。この直線はフォルスストレートと呼ばれ、馬が最後の直線と勘違いしてしまうことがあるため、馬との折り合いの付け方も試される場所であった。
『残り1000メートルを切って、ロンシャンのフォルスストレートに入ります。ややペースが上がった形になったでしょうか。アイリッシュウェルズ、シロッコ、ハリケーンランがややペースを上げた形になった。ディープインパクトは変わらず7番手。しっかりと折り合っているようにも見えます……』
フォルスストレート中盤、ディープインパクトは最後方のプライドの外ラチ側の斜め前にいた。そして、残り700メートルあたりに差し掛かってから少しずつスピードを上げていた。
『……ディープインパクトが動き始めました。外を回りながら少しずつスピードを上げていく。しかし先頭集団もペースを上げていく。アイリッシュウェルズにシロッコ、ハリケーンランもスピードを上げている。ディープインパクトは捉えることが出来るか……』
最後の緩やかなコーナーを過ぎたとき、アイリッシュウェルズ、シロッコが先頭を争っており、その後ろをハリケーンランが走っていた。そこから少し離れてレイルリンクが走っており、ディープインパクトはレイルリンクからやや離れた外側を走っていた。
『フォルスストレートが終わって最終コーナーに入る。シロッコがここで先頭に立つ。先頭はシロッコ。隣にアイリッシュウェルズ、やや後ろにハリケーンランがついている。ディープインパクトは現在5番手。これは大丈夫なのか!』
最後のコーナーを過ぎると、残りは533メートルの直線である。数多くの名馬がこの直線の叩き合いを制して栄光をつかみ取っていた。
ディープインパクトは我慢に我慢を重ねていた。騎手が、しっかりと脚を溜めるように指示をだし、ディープインパクトもそれにしっかりと従っていた。
『……最後の直線に入った。ラスト500メートルの攻防が始まる。先頭はシロッコ。ハリケーンランは前が支えているか。アイリッシュウェルズは少し後退している。ディープはまだか、まだなのか』
残り400メートルに入り、先頭集団の馬たちがスパートをかけていたが、そこまでの伸びを見せていなかった。
ディープインパクトは外に出しており、徐々に先頭集団に近づいていた。
『シロッコ先頭。後方からピンクの帽子、レイルリンクが猛烈なスパート。シロッコに並びかける。ディープインパクトにも鞭が入った。一気に加速する。外からディープだ。ハリケーンラン、アイリッシュウェルズを躱して現在3番手。まだわからない!』
残り200メートル。先頭は地元フランスの3歳馬のレイルリンクであった。シロッコもスタミナが尽きたのかズルズルと後退し始めており、先行馬が軒並みハイペースで沈む状況となっていた。そこを強襲したのが中団で待機していたレイルリンクと、さらにその後ろから一気にスパートをかけたディープインパクトであった。最後方にいたプライドも一気に先頭に迫っていた。
『レイルリンク先頭。ディープは2番手。残り200メートルを切った。1馬身差でディープ二番手。後ろからプライドが迫る』
多くの人が差し切れと願っていた。
先頭のレイルリンクがするすると伸びていく姿に、ディープは大丈夫なのかと思っていた。
重い芝、慣れない環境。フォア賞での辛勝。ディープが実力を発揮できない要素を考えればきりがない。
そんな心配をよそに、ラストの100メートル。ディープの脚は止まらなかった。
騎手が最後の鞭を入れた。
ディープインパクトがさらに加速した。
同じように伸びてきたプライドを突き放し、半馬身前にいるレイルリンクを捉えて、そのままの勢いで抜き去った。
いつも日本で見慣れた光景であった。
『ディープインパクトが捉える。捉える。行け!差せ!差し切れ!』
『頑張れ!行け!差せ!』
アナウンサー、解説が己の仕事を放棄してディープインパクトを応援していた。
現地のファン、競馬実況を見ている、聞いている日本のファン。
多くの競馬に魅了された人々がディープの勝利を願っていた。
『ディープインパクトが伸びる。伸びていく。残り100メートルでレイルリンクを躱した。ディープ先頭。先頭はディープだ! ディープ差し切った。そのまま伸びていく。これは決まったか。あと少しだ。1馬身、2馬身……。今先頭でゴール。ディープインパクト凱旋門賞制覇!』
『差し切った!勝った!』
ディープインパクトは凱旋門賞のゴールを先頭で通過した。
ビデオ判定の必要もない。
2馬身半差の勝利であった。
残り700メートルくらいから徐々にスピードを上げていき、残り3ハロンを切ったあたりから一気に加速していく。そのいつも通りをロンシャンの舞台で見せることが出来た。
『スピードシンボリが、メジロムサシが、シリウスシンボリが、エルコンドルパサーが、マンハッタンカフェが、タップダンスシチーが。そして挑戦できなかった馬たちの思いが、執念がここに実りました』
観客の歓声がロンシャン競馬場を包み込んだ。
日本のホースマンの悲願が達成された瞬間であった。
『ありがとうございます。この場所でこのインタビューを受けるのが夢であり志でもありました。ディープは飛んでくれました。本当に強い馬です。本当に……。ああ、勝てた。やっと勝てた……』