Sprint To Heaven ~笑顔のその先に~ 作:エガヲ
二月十三日、午後五時四〇分過ぎ――。
すでにゲートは開け放たれ、レースは始まっている。
東京レース場、芝三二〇〇メートルという府中では一番長く、このダイヤモンドステークスでしか使用されないコースだ。
一周二一一六メートルを、合計六回のコーナーを通って約一周半周るが、なんといってもゴール手前の直線は日本一長い五〇〇メートルもある。
タフなスタミナを求められる厳しい展開が待ち受ける。
そんなハードなコースを、今、一四人のウマ娘たちがたった一つの栄冠をかけて、ターフの上を駆けている。
『――前半一〇〇〇メートルを通過、タイムは一分四秒台でしょうか。かなりスローな展開になっています』
ホームストレッチに入り、観客たちの居るスタンドを横切った辺りで、そんな実況の声がユーセイトップランの元にまで聞こえてきた。
(……なるべく離されないように、食らい付く…………!)
ここまで”いつも通り”のレース運びが出来ている。
集団から一番後ろの最後尾に付き、じっと
改めて今の状況を見渡す。
先頭集団を行くのは二・三名ほどで、その後ろを追いかけるようにぞろぞろと続いている。
だがそれぞれの差は大して開いておらず、僅かに期待していた縦長の展開には生憎となっていない。
もしも先頭争いをしてくれて、先行勢と後続に差が出来ていたなら、ラストまで到底スタミナが持たないのでどこかで息を入れ、足が鈍るはずだった。
そうなれば、後方について脚を溜めていた後続が有利な展開となる。
だが今回は、ハナで逃げている走者はただのペースメーカーでしかない。
皆それに合わせてスローペースで流しているような状態だ。
つまりは先行勢も余力を十分に残しているという事……。
これでは後半で差を詰めにくいため、あまり好ましくない状況であった。
しかしそれでもただ耐えるしかない。
いつか訪れるであろう
(……やっぱり府中の三二〇〇はキツイなぁ……)
一昨年、去年と三年連続でこのダイヤモンドステークスに出走し、何度もこれを経験しているが、それでもやはり長距離の中でもダントツに辛いコースであった。
他の京都レース場の三二〇〇メートルも走った事もあるが、あれを例えるなら
淀の坂ほど急ではないが、何度も坂を上り下りさせられるので、普通に走っているつもりでも気がつくと体力が奪われている、なんていうのもザラ。
ただでさえ厳しい環境の中、不安要素は積み重なる。
それに加えて、一昨年よりも去年よりも息の上がり具合が激しく、脚に疲労が蓄積しているのが分かった。
この要因については、走っている本人がそれを一番実感している。
実にシンプルかつどうしようもない問題――全盛期から衰えているという事実を……。
「――――クッ!」
それでもやるしかなかった。
例え万全の仕上がりでなくても、以前の能力を出せなくとも。
立てた誓いのため――己が身で『奇跡』とやらを実証するため。
歯を食いしばって、歩を進める。
今はただ前へと……ユーセイトップランはひた走り続けた。
そうやって何とか離されないように食らい付きながらシンガリを往き、しばらくが経過する。
気づけば、第一・二コーナーを抜けバックストレッチへと入り、もう二周目を迎えようとしていた。
まだ誰も動かない、仕掛けない。
一番後ろに居ると、レースの展開がよく見渡せる。
体力面の方は多少キツいが、まだそんな周囲の状況を確認できるぐらいのの余力は十分残されていた。
先頭は依然、八番ポートブライアンズ。
序盤から先頭につくと、リードを一定に保ちながらポジションをそのままキープしている。
そこから一バ身ほど離れた位置に、九番スエヒロコマンダー。そして六番メジロロンザンと五番メジロサンドラが続いていく。
ここまでユーセイトップランを含めて一四人、先頭から中団まで大差はなく、ほぼ一団という状態になっている。
やはり全員無駄に競り合わず、ペースを抑えているようだ。
終盤でバテないようしっかりと脚をためており、この様子では途中で息を入れる事はまずないと予想できる。
――早く行った方が良いか?
焦る気持ちからか、ふとそんな思考がユーセイトップランの中でよぎる。
悪魔の囁き……。
確かにこのタイミングなら誰も警戒しておらず、少し外から行ってしまえば、何の抵抗もなく順位を上げられるだろう。
チャンスはどこに転がっているのか……。
何かを為すためには、常識に囚われず、常道から一歩外れる勇気も必要……そのような言葉もある。
焦り、不安、戸惑い、葛藤。
一瞬で様々な思考が張り巡られる。
勝利への執着心の行き着く先には、藁にでもすがりたくなる心境に陥らせる。
あたかも甘美な誘惑に身を委ね、それに傾きかけるかのように思われた。
――だが、その誘惑を振り払う。
当然の判断だった。悩む余地などなかった。
そんな事をすれば、終盤まで持たない……分かりきっていたものだ。
もう一度状況を確認する。
あれほど研究した府中のコースを思い出せ。
残り一〇〇〇メートル以上もある上に、あの地味にきつい坂をまた登らなければならない。
ここから仕掛けて勝利した者など、未だかつて居ない。
これでは一か八かの賭けでも何でもない――ただのリスクだけだ。
そう思いとどまったものの、謎の誘惑に駆られてしまうほどユーセイトップランは追い詰められていた。
過酷な府中のコースも然る事ながら、この”いつも通り”が、果たして今の自分に通じるのか、気がかりだった。
自分にとっての必勝法であったはずが、ここ一年以上勝利から遠ざかっている。
確固たる自信など、とうの前に失われた。
そして先程から汗がどうにも止まらないでいる。
やはりベストコンディションではなかったのが、後を引いているというのか、それとも肉体の限界が近いというのか……。
最後まで持ちこたえられるのか、気が気でない。
ネガティブ要素は上げればキリがない。
次々とボロは出てくる一方だ。
つい、分の悪い賭けにのりたくなるのも、致し方ないと言えた。
――だからこんな時こそ、落ち着こう。
焦ってはいけない。
ユーセイトップランは走りながら呼吸を整える。
そして雑念を捨てるために一旦目を閉じた。
トレーナーから教わったメンタルトレーニングの一種だ。
まず、”負ける・勝てない・出来ない・無理だ”という言葉を思い浮かべる。
そしてゆっくり頭の中でこう唱える……”存在しない”、と――。
病も気からというように、暗示をかけるように念じて、そう思い込めば大抵その通りになる。
ただの気休め程度ではあるが、今のユーセイトップランには必要な工程であった。
泣き言や弱音などは全部終わってから吐けばよい。
今はレースに集中するのが肝心だ。
そう仕切り直すと、決意を胸に、瞳を開く。
さあこれからだ……。
という時であった――。
ビュウ! と、一陣の風がどこから吹き荒れ、顔をほんの一瞬、撫で回していった。
その風圧に反射的に瞼を閉じてしまう。
だがそれは本当に、”ただの風の音”だったのだろうか。
『…………じゃ……よ』
「――――ッ!?」
その風の音に紛れて、何かが聞こえたような気がしたのだ。
再び目を見開く。
目を閉じていたのは刹那の間、ものの数秒の出来事である。
そこでユーセイトップランは信じられないものを目の当たりにする。
あまりにも非現実的……。
それは目をつむっている間に、
***
『――それじゃ競争だよ』
風音の中、はっきりとそう聞こえた。
ユーセイトップランはそう聞き取れた。
それは誰かの声だった。
しかして自分がよく知る、忘れようもない声だ。
「な、なんで――」
絶句する。
立て続けに奇妙な出来事が起きる。
ただの幻聴だったのならまだいい、だが今度は視覚までも異常をきたしたようだ。
二月一三日、東京レース場、ダイヤモンドステークス。
芝三二〇〇メートル、出走者は一四人。
これに間違いはない、それが真実。
だが、おかしい……。
先程まで自分を含めて一四人だったはず。
しかし改めて見るとどうだ、開始前に居なかった人物が一人増えている。ターフを駆けているではないか。
ありもしないただの幻想、妄想、空想、目の錯覚。
そうであったなら、どんなに気が楽か――。
いるはずもない……幻の一五人目の出走者が現れたのだ。
そしてユーセイトップランには、その一五人目の人物を知っていた。
けして見間違うはずはない。
なぜならずっと共に居たから、ずっと共に走ってきたから……。
あの背中を……あの走る彼女の姿を――。
それは、ユーセイトップランがよく知る彼女――エガオヲミセテだった。
■小ネタ解説※ネタバレを含む(興味のある方だけ反転してご覧下さい)
・この10話について
急にドッペルゲンガー的なものが出てきて、ファンタジー感が増してくる。
まあ一応伏線は前(8話)に貼っていたので・・・。
この作品は三人称視点なのだが、ほとんどユーセイトップランの心情を書き綴っているので、三人称になっているのかなぁ、と時々不安になる。
正直ここで話を切るほどでもなかったが、続きを書くとかなり長文になりそうなので妥協した。
・メンタルトレーニング方法
本当に申し訳ない(ブレイク博士)