絶望的な寒空の下、出会ったのは歳下の男の子だった。

1話完結の作品です。


Special thanks!

星10評価 
一二三綾斗様 えあすけ様 アドサジ様 とんとん丸様

星9評価
1鍵様 @流俺様 七七志野様 ミュージック様 ガムシュー様 りーりおん様 とろとろトマト様 宵の酔い様 リーディングカメ様 名無しの大空様 

星8評価
ネモネモ様 70あい様 つよポンポン様 猫ニンジン24様

星1評価
ヒヤリ・ハット様

評価していただきありがとうございます!
また、こんなイメージの作品を書いてもらいたいとかご要望があればお待ちしております!

1 / 1
思いつきで書いてみました。

気に入って頂けたら感想や評価をお願いします。


産声

 厄介な出来事はいつだって前ぶれなく突然やって来る。

 例えば十年後に、結婚相手に浮気をされて泥沼離婚になる未来が待っていたとしても、それを前もって教えられることなんてない。きっとある日突然、知らない若い女から電話がかかってきて、衝撃の事実を告げられるんだろうな。

 

 例えば五年後に、景気の悪化で突然リストラを言い渡されて、住んでいるアパートの家賃も払えないくらいの貧乏生活に突入する未来が待っていたとしても、それを事前に教えられることなんてない。

 きっとある日上司に呼ばれて、話が終わる頃にはアタシの手元には無慈悲な紙切れだけが残って、手短に荷物をまとめて去るだけなんだろうな。

 

 例えば一年後に、海外旅行先でパスポートと財布を失くして路頭に迷う未来が待っていたとしても、誰もアタシにそのことを教えてはくれない。

 例えば明日、大好きな酢の物を食べて、お腹を壊す未来が待っていたとしても、今のアタシがそれを知る方法はない。

 例えば一時間後に、空から降ってきた隕石がアタシの頭に直撃して、二十三歳の若さで帰らぬ人になる未来が待っていたとしても、神様も仏様も、こっそり教えてくれたりはしないんだろうな。

 

 いつだって、起きたら困ることほど、突然やって来るもので。

 

 例えばあと二歩進んだ先で、鳩にフンを落とされる未来が待っていたとしても、その未来を防ぐことも出来ないまま、アタシは歩くしかない。だからある意味、この先に何が待っていても驚く必要はないんだなってりだって人生は、そういう事の連続だから。

 そしてアタシの人生の大半もまた、厄介な出来事に溢れている。

 

 例えば、ほら。五日間のツアーを終えて、くたくたの身体で彼氏と同棲中のアパートに帰って来たら、アパートの前に、幾つもの段ボールが積まれているとか。

 

「え? 何これ……?」

 

 しかもその段ボールに【今井リサ】と自分の名前が書かれているとか。

 

「え……? アタシの名前……?」

 

 一分前のアタシも、一時間前のアタシも、一日前のアタシも、想像すらしていなかった。もちろん、今のアタシですら現状を理解出来ない。

 もしかしたら実家から届いた荷物なのかもしれないと思い、段ボールの蓋を開けて中を覗いてみると、絶句した。どう見ても、アタシの荷物だ。

 たぶんクローゼットにあったであろうアタシの洋服たち。

 

 慌てて残りの段ボールを開けるけど、中身は全部見覚えのあるカバンや靴。仕事の資料に友達との思い出のアルバム。

 お気に入りのアクセや雑貨たち。全部、全部、アタシの物。

 

「なんで……」

 

 二月の空は当たり前のように寒くて、十八時を過ぎれば辺りはもう暗い。そんな日に北海道でのツアーを終えて疲れ切ったアタシは、本来なら今頃家に帰って、暖かいコタツにでも潜り込んで、ツアーの疲れを癒すために彼氏に甘えまくっているはずなのに、何かがおかしい。何かが、とてつもなくおかしい。

 五日分の着替えや、ツアーの資料が詰まったスーツケースを掴むと、アタシは急いで二階に続く階段を上りはじめた。だって、おかしい。

 急な引っ越しなんて聞いてもいないし、何より二階にあるその部屋の窓からは、アタシが帰るべき灯りが漏れているのだから。これっていったい、何の冗談なのって問い詰めたくもなる。

 自分でもありえないくらいの勢いで押したチャイムから間もなくして、ニ〇三号室の扉は開いた。

 

「あ、何?」

 

 顔を出した男が、アタシを見下ろした。良く知った男。もう半年以上一緒に居る彼。

 

「た、ただいま! それであれってさ、なに?」

「は?」

「いや、だからあれだって……!」

「だから、何?」

「あれもそうだし、あとアタシの鍵、使えなかったんだけど……?」

 

 チャイムを鳴らす前に何度も鍵を挿し込んだけれど、全くもって動かなかった。

 

「ここ、アタシ達の家だよね?」

 

 パニックと言っても大袈裟ではない状態で彼の顔を見るアタシを、あろうことか迷惑そうな顔で見下ろしてくる彼。意味がわからなかった。

 何でそんな顔をされるのか、意味が分からなかった。こんなことって普通はありえなくない? 

 

「アタシの彼氏だよね?」

 

 本当にありえないんだけど。

 

「俺、別に付き合うとか言ってないけど?」

 

 人生は厄介だ。それが男と女ともなると、尚更厄介だった。

 

「え……?」

 

 だけど馬鹿なアタシはいつも、こうやって突然、大きな落とし穴に落ちるんだ。出来ることなら今すぐに、数時間前に戻りたい。

 そして教えてあげたい。これからやってくる厄介な未来なんて知らずに、浮かれていた自分に。

 

「いいな~リサ姉は帰ったら彼氏が待ってるんでしょ? 同棲って本当に羨ましい」

「そうかな〜? でも面倒なことだって多いよ!」

「そうなの?」

「うん。だって基本掃除とか全部アタシだし、ご飯だってたまにしか作ってくれないし。あと、喧嘩しても一緒に居ないといけないしさ〜」

「とか言いつつ、リサ姉は彼氏大好きなクセに〜」

「まぁ、そうだけどさ〜。悪い?」

「全然。合コンで一目惚れして、リサ姉から猛アタックしたんだもんね〜。それで突然同棲はビックリしたけど、でもラブラブそうで良かった〜!」

「うん。まあ、そうかもね」

「何!? 照れてるの!?」

「う、うるさいよ!」

「あははっ! リサ姉はかわいい反応するなぁ!」

 

 たった二時間前、ツアー帰りの新幹線でメンバーとの会話が、今はただ虚しい記憶になる。

 合コンで知り合った目の前の彼を、好きになったのはアタシだ。

 サーフィンが趣味らしい彼は、日焼けした肌と茶色い髪。身体つきも男らしくてモテそうな雰囲気だった。

 一緒に居た友達に、リサのタイプでしょ? って聞かれたけれど、本当にタイプだった。

 少し吊り気味の目元とか、形のいい唇とか、大きくてゴツゴツした手とか、百八十センチ以上ある身長とか。挙げたら切りが無いくらいに、タイプだった。

 

 だから必死で連絡して、何とかデートの約束を取り付けた。それから何度か二人で飲みに行ったりして、気づいた時にはキスをしていた。

 言葉なんてなくて、ただ見つめ合った直後に、どちらともなく唇を重ねていた。雰囲気ってヤツだと思う。キスをしたいって、あの瞬間はアタシだけじゃなくて、彼も思ったはずだ。

 だから、その次のデートの日に初めて訪れた彼の部屋で、アタシから告白をした。

 

「アタシね、健人のことが……好き、なんだ」

 

 爆発しそうな心臓を抑えながら気持ちを伝えたアタシに、彼は優しいキスをくれた。それから、彼の匂いがするベッドの上にアタシを押し倒した。お互いに求め合って満たされてたはずなのに。

 

 なのに、これってどういうこと? どうして今、こんなことになっているのかが不思議でたまらなかった。

 

「話終わったなら帰ってくれない?」

 

 振り返った記憶の中で、嫌なことに気づいた。

 

「ま、待って!」

 

 扉を締めようとする彼に、慌ててドアノブを掴む。

 

「何だよ?」

 

 しっかりとチェーンまでしてある扉の隙間から、彼がアタシを見下ろす。でも、今はそんなことどうでもいい。正直かなりムカつくけど、今はどうでもいい。それよりも確認しないといけないことがある。

 

「アタシって、健人の彼女じゃなかったの?」

 

 デートをして、キスをして、告白をして、エッチもした。だけど、確かに言われていない。彼からは一言も、好きも愛してるも、付き合おうも。

 でもそれって、照れ隠しと言うか、言わないけど伝わってるよね的なものであって、実際に好き同士で、彼氏彼女だからキスもエッチもするわけで、もしそうじゃないなら……。

 

「だから、付き合うとか一言も言ってねーし」

「で、でも、だって……じゃあ何で、アタシ達一緒に暮らしてたの……?」

 

 そもそも、この半年間の同棲生活は何だったのって話だ。

 

「お前が勝手にここに住みたいって言ったんだろ」

「は……?」

「それで知らないうちに引っ越してきただけで、誰も同棲したいなんて頼んでもねーよ」

「へ……?」

 

 何それ? 何なのそれ? それってアタシが頭のおかしい女ってことなの? 

 

「でもさ、健人が毎回送ったりするの面倒だから、ここに住めばいいのにって。ご飯作るの苦手だから……毎日飯作って欲しいって」

「本気にするとは思ってなかったんだよ」

「そんな……」

「てかさ、リサって重いんだよねそれに——」

 

 アタシの彼氏だったはずの男は、心底面倒臭そうに髪を掻き、ありえないことを口にした。

 

「俺、彼女いるから」

「か、彼女……?」

 

 あまりのことに、さっきまでの勢いもなくなった。ムカついているはずなのに、怒りすら湧かなくなった。

 

「今風呂に居るからさ、出てくる前に帰って欲しいんだけど」

「な、何それ……」

「迷惑なんだよ」

「だ、だからって、それで、急にアタシのこと追い出すの? アタシがツアーに行っている間に、荷物片付けて追い出してやろうって作戦だったの? それっておかしいよ……いくら何でも酷くない? それならそれで、せめて話してからにしようよ……! ちゃんと順序踏んでから、同棲解消しようよ? だって、じゃないとアタシ、どこに帰れば——」

「妊娠してるから」

「へ……?」

 

 一体全体、アタシが何をしたって言うのだろう。

 

「彼女が妊娠したから結婚するんだよ。だから、お前にここに居られても困る」

「け、結婚……」

「とりあえず、どっかホテルか友達の家にでも泊まれば。これ以上ここに居られても困るからさ」

「……」

 

 前代未聞な展開に、これは昼ドラもビックリなんじゃないかと笑えないことを考える。つまりさ、これってね、

 

「アタシってさ……浮気相手、だったってこと?」

「は?」

「アタシって、健人の浮気相手だったってこと?」

 

 だから、こうやって簡単に捨てられるってこと? 

 

「てか、お前が俺のこと好きだ好きだ煩いから相手してただけなのに、こっちが悪いみたいな言い方って都合良くね?」

「何言って……」

「とにかく、これ以上話すことないから」

「ま、待ってよ……!」

「居座ったりするなら警察呼ぶから」

「なんで警察!?」

「じゃーな」

「え、ちょっと!!」

 

 うるさいくらいの音を立てて扉が閉まる直前、部屋の奥から初めて聞く女の声がした。だからもう、これ以上何もする気になれなくて、ただ涙が溢れた。悔しくて、悲しくて。

 

「ごめ〜〜ん! 今日ダーリン泊まりに来てるんだよね〜〜」

「あ、そっか。うん、大丈夫。ありがとー」

 

 学校時代の友達や、昔のバイト仲間に電話をしてみたけど、今日に限って見事に断られた。Roseliaのバンドメンバーもみんな彼氏が居て同棲中だし、そこに割って入る勇気はなかった。それに、何よりバンドメンバーにこんな事知られたくもない。

 そもそも、泊まりに来て良いと言われたからってこの荷物をどうしろって話だけどさ。

 もちろん実家に帰れば早いけど、親の反対を押し切って彼との同棲を始めた以上、こんな理由では帰れない。て言うか、こんな惨めな話、誰にも言えない。

 

「本当に……ついてない」

 

 こんな時に限って、お財布は空っぽだ。

 

 ツアー先の北海道で調子に乗って買い過ぎたお土産が憎い。クレジットカードは先月に行ったハワイ旅行で使い過ぎてるし、銀行にだって残っているお金はたかが知れている。だいたい、この部屋の家賃だって、半分以上アタシが払ってたのに。

 最悪だ。最悪だ。給料日まであと何日だっけ……? 

 

「一週間……」

 

 それまでホテル生活ってこと? そんなお金どこにもないし。それに給料が入ったからって、新しく部屋を契約するお金なんてない。

 

「本当……ありえない」

 

 頭上に落ちてきた真っ白な粒に、また泣きたくなった。二月の夜空から降りだした雪が、アタシと段ボールを濡らしていく。

 もしかしたら、アタシこのまま凍死するのかもしれない。生まれて初めて、自分の未来を予測出来た気がした。

 

「ねぇ、あんた」

 

 ほらね、遂に天使がアタシを呼びに来た。

 て、そんな御伽話みたいなことが起こるわけもないから、アタシは雪を降らす空から視線を落として、コンクリートの地面に溜息を吐いた。

 

「だからねぇって」

 

 誰か知らないけれど、さっさと返事してあげればいいのに。

 

「あんた、何してんの?」

 

 無視でもされてるの? それともナンパとか? 確かにそれなら無視もされるかも。

 

「だからシカトすんなって!」

 

 だいたい、こんな寒い中よくナンパなんてするよね。その元気をアタシに分けて欲しいくらい。

 

「だからあんたに言ってんだよ! そこの女!」

「へ……? アタシ?」

 

 突然、至近距離で聞こえてきた声に、思わず振り返った。

 

「さっきからずっと話しかけてんだろうが」

「え……?」

 

 意味がわからなかった。さっきの彼の言葉も意味がわからなかったけど、今目の前に現れた男子の言葉もまた、理解に苦しむものだった。

 

「それ、あんたの荷物?」

 

 目の前に現れた男の子は、スウェットから少し出た指先で段ボールを指した。

 

「あ、はい。そうですけど」

 

 たぶん、身長は百七十後半くらいだろう。柔らかそうな黒い髪には、緩いパーマがかかっている。

 色白の顔は、寒さのせいか鼻が少し赤い。

 薄い唇に、少し垂目の目元。でも二重が綺麗。

 見るからに若そうな男の子は、たぶん大学生だろう。

 

「あの、それが何か?」

「行くとこないなら、オレんち来る?」

 

 美少年、そんな言葉が似合いそうな目の前の男が、理解出来ない言葉をアタシに吐いてきた。

 未来はまた、アタシの予想の範疇を超えて行く。

 

 人生はいつも、突然だ。

 

「……え? ごめん、何?」

 

 あまりに理解不能な現状に、今日この日がそもそも夢なんじゃないかとすら思えてくる。

 だから鏡を見なくても、自分がどれだけマヌケな顔で目の前の男の子を見上げているかも想像出来る。でも仕方ない。他にどんな顔をすれば良いのかって話だ。

 そんなマヌケ面のアタシとは反対に、男の子は表情筋を一切変える事なく、アタシを見下ろしていた。

 

「こんな時間に引越しってこともないだろ?」

「は?」

「だーかーら、これあんたの荷物なんだろ?」

「そうだけど……」

「行く所がなくて、困ってる系なんだろ?」

「……えっと」

 

 まさにその通り過ぎて、返事も出来なかった。

 と言うか、口にしないだけで、この男の子はアタシが追い出されたことまでも感づいているのかもしれない。そう考えると余計に返事が出来なかった。

 情けなさ過ぎて、悔しくて、頷くこともしたくなかった。

 

「オレ、すぐそこのアパートで一人暮らししてんだけど」

 

 うんともすんとも言わないアタシを置いて、男は口元を緩めて勝手に話を始めた。

 

「広くはねーけど、一応二部屋はあるし」

 

 誰も聞いていないのに、自分の部屋の説明をしてきた。

 

「シェアハウスって流行ってるらしいじゃん」

 

 それが何だと言うのだろう。黙り込むアタシに、男の子がまた口を開く。

 

「だから、今夜だけ提供してもいいぜ」

「…………」

 

 たぶんこれって……

 

「……ない」

「は?」

「ありえない……!」

 

 だってそんなの、ヤリ目的のナンパじゃん。それ以外、考えられない。

 

「あ、アタシ……そういう女じゃないし。確かに、今の今まで他に女がいる男と付き合っていたって言うか……浮気相手だったけどさ。でも、だからって初めて会った男にホイホイついて行ってその……そーゆー事しちゃうような女じゃないから……! 馬鹿にしないでよ……」

「何言ってんだ? あんた」

「もう、本当に最悪……最悪なんですけど……!」

「落ち着けって」

「て言うか、君はなんなの? アタシのことなんて放っときなよ。君とヤるくらいだったら、このままここで凍死した方がマシだし。それで明日の朝、あの男が顔面蒼白になる姿を神様と一緒に笑ってやる方が百倍も千倍もマシ。だからナンパなら他でやって。アタシはもう、本当に、最悪で最低で、もう、こんなの、最悪で……死んじゃいたい……から」

 

 途中から、何を言っているのか自分でもわからなかった。きっと、こんな女ナンパして失敗したって思われている。

 もしかしたら、あの男の部屋にまで聞こえているかもしれない。だけど、涙がどんどん溢れてきて、止められなかった。

 

 もう、帰りたい。どこにも帰れないクセに、そんなことを思った。

 

「流石に死なれたら、それはそれで困るだろ」

「へ……?」

 

 泣いたせいで火照った頬に、雪みたいに冷たい手が触れた。

 

「明らか困ってる人見つけて、放っておけねーだろ」

「な、なに?」

 

 二つの冷たい手がアタシの頬を包んで、少し垂目の瞳と視線を重ねさせる。

 何が起きたのかわからなかった。だけどその瞳の中が、雪の結晶みたいに綺麗なことだけはわかった。

 

「俺んち、来いよ」

「…………」

「な?」

 

 気がついたら、頷いていた。

 

 

 

 

 ★

 

 

 

 

「あんたって、天気予報とか見ないの?」

「天気予報?」

「今日大雪予報だし」

 

 段ボールを三つも抱えた男の子が、空を見上げた。

 

「そうなの?」

「だからあんたが凍死する確率、結構高かったと思うんだよね」

「え……」

 

 スーツケースを引きながら、もう片手には北海道のお土産の入った袋を持ったアタシを、前を歩く男の子が振り向いて一言。

 

「冗談だけど」

「……は?」

「いや、なんか和むかなって。怒った?」

「怒ってないけど、冗談に聞こえなくてイヤ」

「そっか。でも冗談だから安心しろよ」

「…………」

「だって、あんた、息してるでしょ?」

「え?」

「オレが迎えに行くから、あんたは死なないよ」

「意味、わかんない」

 

 嘘みたいに整った顔から繰り出される不意な笑みに、やっぱりただのナンパ男だと思った。

 

「偶然通りかかっただけのクセに」

「確かに、あんた意外と厳しいね」

「意外って何よ?」

 

 胡散臭いだけでなく失礼な男が、歩みを止めてアタシと向き合った。

 

「だって、結構可愛いから」

「は……?」

「見た目も声も可愛いし、もっとか弱い感じだと思った」

 

 うん。すっごく失礼。

 

「だったら他の女連れ込めば?」

「うーん。それは無理」

「どうして?」

「あんただから連れ込んでる」

「なっ……」

 

 どこまでが本気で、どこからが冗談なのかわからないせいで、どんな反応をすればいいのかもわからなくなる。

 

「着いたよ」

「へ?」

「オレのアパート」

 

 そこは、彼氏ではなかったらしい男と暮らしていたアパートよりも、少しだけ小さなアパート。

 だけど初めて見る建物。大学生だろうこの男が住むには、よく似合うと言えるような普通のアパートの玄関で、アタシは暫く一人で立ち尽くすこととなった。

 

「先入ってていいから」

 

 自分の部屋の鍵を開けて、アタシを玄関に入れるなり、また外へと出て行った男の子は、残り二つの段ボールも運んで来てくれた。

 

「勝手に入れないし」

 

 だから見ず知らずの他人の家の玄関で、アタシはすることもなく立ち尽くしていた。

 途中でやっぱり危険なんじゃないかとも思ったけれど、一度室内に入ると外の寒さが際立って、結局男の子が戻って来るまで玄関で待ってしまった。

 

「段ボール、とりあえず積んどいていい?」

「うん。邪魔にならない所に置いてくれればいいから」

 

 この男の子に下心があったとしても、流石に段ボール五つを置いてもらうのには申し訳ない気持ちになる。

 

「狭いけど、テキトーに使っていいから」

 

 男の子はそう言いながら、玄関を上がってすぐにある扉の中に入っていく。たぶん扉の奥がキッチンやリビングなのだろう。

 左手を見ると、短い廊下の先に洗面所が見えた。きっと奥にお風呂場がある。すぐ脇に扉がもう一つあるから、たぶんこっちがトイレだろう。

 なんとなく間取りを確認しながら男の子の入っていった扉の中に入ると、カウンター様式になっている小さなキッチンスペースと十三畳ほどのフローリングが広がっていた。

 テレビ、ソファ、ローテーブル、パソコンが置かれた机、本棚、それからベッド。

 如何にも大学生の一人暮らしって感じのワンルームを、ぼんやりと眺める。

 

「コーヒーでいい?」

「へ?」

「寒いから、温かいの飲むかなって」

 

 キッチンから顔を出した男の子が、気の利いたことを聞いてくる。

 

「あ、うん。ありがとう」

「うい。適当に座ってて」

 

 そう言われて、なんとなくソファの下のカーペットの上に座り込む。何だろう、緊張してる。

 それと、何か忘れている気がする。

 

「はい、コーヒー」

「あ、えっと……ありがとう」

 

 突然後ろから差し出されたマグカップに、驚いて振り返る。

 

「甘い方がいいなら砂糖持ってくるけど」

「ううん。ブラック余裕だし」

「そ」

 

 少しばかり冷え込んでいたのは事実だし、その温もりを味わうかのように堪能する。ピンクのマグカップって……やっぱり異性を連れ込む事に慣れているのだろうか。

 

遊佐(ゆさ)龍人(りょうと)

「へ?」

 

 コーヒーを飲む事に集中していたから、突然かけられた言葉の意味が分からなかった。

 

「遊佐龍人」

「ゆさ、りょーと?」

「オレの名前」

「あ、なるほど」

 

 ユルリと目尻を細めた男の言葉に、やっと意味を理解した。

 

「ゆさ、りょーとくん」

「遊ぶに佐賀県の佐で遊佐で、名前は画数多い方の龍に人で龍人ね」

「龍人」

「そ」

 

 アタシが改めてそう名前を呼ぶと、龍人は笑った。

 笑うたびに、甘く緩む目尻が女の子みたいに可愛い。そんな彼の名前を聞いてしまった以上、自分も名乗るのが道理なんじゃないかと思う。

 だけど初対面の相手に、しかもこの状況で名乗って良いものかも悩む。

 

「なぁ」

「…………」

「あんた」

「……へ? え? 何……?」

「眉間に皺寄ってるけど」

「…………」

 

 慌てて額を隠すと、また笑われた。

 

「別に聞かないから」

「え?」

「あんたの名前も職業も、生年月日も別に聞かねーよ」

 

 同じブラックコーヒーを飲みながら、彼は、遊佐龍人くんがアタシを見る。

 

「あんたが凍死しないように、救助しただけだし」

「…………」

「だから安心していいよ」

 

 その目は真っ直ぐで、嘘を吐いているようには見えなかった。

 

「本当に……一晩泊めてくれるの?」

「行く所がないなら、暫く居ても構わねーよ」

「そ、それはさすがに出来ない……けど」

「そこら辺はあんたに任せるよ」

「……アタシ、本当に、そういうことは無理だよ……?」

「は?」

「な、なに!?」

 

 彼の眉が困ったように下がるから、思わず身構える。

 

「手は出さねーよ。絶対に」

「…………」

「そーゆーつもりじゃねーし。ただの人助けだから」

「……うん」

 

 アタシはまた、頷いてしまった。なんて言うか、すごく流されている気がする。

 

「風呂入る?」

「……へ?」

 

 黙ってコーヒーを飲んでいると、突然立ち上がった彼が、際どい質問をしてきた。

 

「お湯溜めてないから、シャワーになるけど」

「え、えっと……」

 

 流石に、信用しようと決めたとは言え、初対面の男の子の部屋でお風呂を借りるのはどうかと思う。

 

「それとも明日の朝にする?」

「朝?」

「オレ、明日は朝からバイトあって早く出るから、その後にシャワー使う?」

「その後って、でも」

「そのほうが、気が楽だろ?」

 

 それは確かにそうで、驚愕するくらい気の利く提案なんだけど。

 

「でも、それだと困るよ。アタシも一緒に家出るから」

 

 別の問題が発生してしまう。

 

「別にゆっくりしてればいいじゃん」

「いやいやいや……流石に……」

 

「行先決まったら鍵ポストに入れててくれれば問題ないし」

 

 なんだろう。なんなんだろう。彼は一体なんなのだろうか。

 

「そんなことしてたら、いつか泥棒に入られるよ」

「ん?」

 

 危機感がないって言うか、アタシのこと信用し過ぎじゃない? アタシだって別に何かしよって訳じゃないけど、やっぱり初対面なのは変わりなくて。

 

「とにかく、お風呂は明日駅前のスーパー銭湯に行くから気にしないで! 朝は一緒に出るし!」

「あー、そう。あんたがそうしたいならそれでいいけど」

「あ、あと、一つ確認したいんだけど!」

「ん?」

 

 マグカップを持ったままアタシを見下ろす彼が、首を傾げた。

 

「アタシ、どこで寝るの?」

 

 そう、この部屋に入った時から感じていた違和感。

 何か忘れているような、引っかかるような違和感。

 このワンルームのどこを探しても、アタシの寝る場所なんてないんだけど!? 

 

「まさか、一緒に寝るとか……?」

「あんたがそうしたいなら、一緒に寝てもいいけど」

「は……!?」

「冗談だって。あんたは上」

「上?」

「ん、上」

 

 そう言って天井の方に向けられた指を辿る。

 

「あ、ロフトか」

「そ。布団もあるから、好きに使って」

 

 天井だと思っていた場所にある、今夜の寝床を見上げながら、長くて厄介な一日を振り返り、何だか笑いたい気持ちになった。

 

「……ありがとう」

 

 天井から彼に視線を移すと、その顔が嬉しそうに笑った。

 それからは特にすることもなくて、テレビを見ながらカップラーメンを二人で食べた。

 食べ終わって少しすると、彼がお風呂に行くと言うから、アタシもテレビを消して、ロフトの上に必要なものを運んで寝る準備をした。

 

 化粧をいつ落とせばいいのかわからなかったけど、お風呂から出てきたところを見計らって洗面所を借りた。

 すれ違った時にした石鹸の香りに、妙に緊張したけど、アタシが洗面所から戻ると部屋の電気が消されていたから、スッピンを見られずに済んだ。

 

 明日に備えて今日はもう寝ると言った彼に、おやすみだけ言ってロフトに上がった。

 落ち着かなくて眠れない気もしたけど、相当疲れていたらしいアタシは、布団に横になった次の瞬間には、深い眠りに落ちていた。

 

 それがアタシと龍人の、奇妙な共同生活の始まりだった。

 

 

 

 

 ★

 

 

 

 

 夢を見た。

 いつもと同じベッドでいつもと同じように、大好きな男の腕の中で目覚める夢を見た。

 だけど、目覚めた先に見えた天井があまりにも近いから、それが夢だと気づいた。

 

 そうだった。アタシ、彼氏だと思っていた男に捨てられたんだ。

 

「寒いな」

 

 慣れない布団を手繰り寄せて、身体を丸める。

 本当に、良い事ないな。

 昨日から散々な事があって、けどそんなアタシにもお気持ち程度の救いはあって……そうだった。そうだよ。悠長に思い出に浸っている場合じゃない。

 

「あれ?」

 

 ロフトからリビングを見下ろして首を傾げる。

 カーテンが開けられた部屋の中に、外からの光が射し込むけど、狭い室内はしんとしている。誰もいないし、気配もない。

 そう言えば、今は何時だろうか。アタシは枕元に置いた携帯を掴み取った。

 

 たしか彼、えーっと……そう、龍人くん。

 朝からバイトって言っていたし、それって何時からだろうか。

 

「って、え!? もう十時!?」

 

 驚いた。スマホの画面に並ぶその文字に驚いた。アタシ、そんなに寝てたんだ。人様の家で、まさかの爆睡!? たしかにツアー明けで仕事も休みだけど、だからって……

 

「失敗したなぁ」

 

 アタシは急いでロフトを下りて部屋中を見渡すけど、案の定誰もいない。ただ代わりに、置手紙があった。

 テーブルに置かれたそれを掴み、カーペットの上に正座する。

 

 可愛いお姉さんへ

 

 バイトの時間なので先に出ます。

 

 起きたら風呂好きに使ってください。

 洗面所に置いてあるタオルは新品だから、遠慮なく使ってください。あとキッチンにパンあるから食べていいから。

 

 バイトが終わったら友達と遊ぶ約束してるから、帰るのは夕方になると思います。

 それまでゆっくりしてください。

 

 もしも出て行くのなら、鍵はポストに入れておいて。

 

 いってきます! 

 

 遊佐龍人

 

 

 少し丸くて、でも綺麗な字。話してた時はタメ口だったけど、手紙だと敬語だったのもなんだか可笑しく、つい微笑んでしまった。

 実はああ見えてアタシよりも年上なんじゃないかと思えるくらい気が利く。

 もしかしたら大学院生とか、浪人しているとかなのかな。

 

「……ふふ」

 

 手紙を暫く眺めてから、深呼吸をした。

 

「お風呂、借りるね」

 

 誰もいない部屋で、テーブルに向って一礼してから立ち上がる。図々しい自覚はあるけど、やっぱりお風呂は入りたい。アタシはダンボールから適当な服と下着を取り出すと、洗面所へと向かった。

 

 どこまで気が利くのか、小さな浴槽にはお湯が溜めてあった。だからその気遣いに甘えさせてもらった。

 お陰で少しだけど、昨日のことを冷静に振り返ることが出来た。

 それから、これからどうするかを考えることも出来た。

 

 ベーシストなんてイメージばかりで、実際は出会いなんて全くない環境で干乾びそうになっていた時に誘われて行った合コンで出会ったのが、あの男だった。

 確か医療機器メーカーの営業さんと、アタシの友達の看護師の子が仲良くなって、開催することになった合コン。

 社会人になってからは自分に構う余裕なんて全くなくて、本当に久しぶりの出会いの場だった。

 そこに現れたあの男は、土木関係の仕事をしていた。

 

 そのせいなのか、服の上からでも筋肉があることが想像出来るくらい、男の人って感じの体型だった。

 しかも趣味はサーフィンと聞いて、余計に格好良く見えた。

 今思えば、単純過ぎる理由だ。それでも、やっと訪れた出会いのチャンスに、付き合いたくて必死になった。

 

 つまり結局のところ、アタシもダメだったんだ。冷静になれていなくて、男の本質を見抜けていなかった。

 考えてみれば、同棲を始めてからも仕事でもないのに夜帰って来ない日もあった。クリスマスだって、職場の人たちとスノボーに行くって言って、三日間も出掛けていた。

 何故かその後に、財布が新しくなっていたんだ。

 

 きっと例の妊娠した彼女からのプレゼントだったのだろう。

 だってあの男にはそんなお金はなかったし。

 家賃だって気づけば半分以上はアタシが払ってたし、食費もアタシのお財布から出ていた。給料がアタシの方が多いから、仕方ないと思っていたけれど、たぶんあの男がアタシと同棲した理由はそこだ。

 

「お金、返してもらおう」

 

 お風呂で考え抜いて出した答え。

 今までの分はもう仕方ないけど、アタシの冬のボーナスが入った時に、今後の生活費用に渡したお金がある。

 本当は貯金もしたかったけど、あの男から給料が減るかもしれないと突然言われて、今までよりも生活費を出せなくなるかもと相談されたから、もしもの備えという意味で、家賃が引き落とされている口座にアタシのボーナスの半分以上を入れておいたんだった。

 

 もしかしたら少しは使われているかもしれないけど、それでもまだ給料一か月分くらいは残っているはずだ。

 それを返してもらえば、とりあえず給料日までホテルに泊まることは出来る。

 さすがに追い出された家の家賃に使われるのは納得いかないし、あの男だってそれくらいの常識はあるだろう。

 

 この部屋の家主は夕方まで帰って来ないみたいだし、ひとまず荷物は置いたままにして、あの男と話をしてこよう。

 たしか今週はあの男も夜勤続きのはずだから、昼間は家に居るはず。

 それで話をつけて、お金を返してもらったら、配送業者を呼んでこの段ボールたちを一度実家に送ることにしよう。

 衣替えだとか言えば誤魔化せるだろうし。

 それで駅前のビジネスホテルを取って、ここを出よう。

 

 一晩泊めてくれた龍人には、北海道のお土産と美味しい物を食べられるくらいのお金を置いて行こう。

 直接お礼を言いたい気持ちもあるけど、何となく彼と居ると調子が狂う気がするから、帰ってくる前に家を出るのがベストかなって思った。

 

【今から少しだけ会いたい】

 

 気合を入れて送ったメッセージ。もうブロックされてるかもって思ったけど、意外にもすぐに返事が返ってきた。

 

【三十分後に、公園で】

 

 たったそれだけ。

 ごめんも、昨日はどうしたもなく、ただ早くアタシとの関係を終わらせたいって感じのメール。

 もう戻ることが出来ないことを、改めて思い知る。

 

 髪を乾かし、身支度を整えると、必要最低限の物だけを持ってその部屋を出た。手紙と一緒に置かれていた鍵を鞄に入れて、部屋の位置を確認してからアパートの外に出る。

 指定された公園は、ちょうどこのアパートと追い出されたアパートの間にある。そこまでの道を、ゆっくりと歩く。

 

 こんな状況でこんなこと言ったら馬鹿かもしれないけれど、早くあの男とのことを終わらせたい気持ちの半面、終わらせることを寂しく思う自分がいる。

 だってどれだけ最悪な理由で捨てられても、楽しかった日々は確かに存在していて、アタシはあの男のことが好きだったのだ。ううん。今だって強がっているだけで……

 

「ごめん。呼び出して」

「別に」

 

 少し吊り目のこの男が、好きなんだ。

 

「彼女、大丈夫?」

「ああ、今病院に検診に行ってるから」

「そっか……」

 

 自分で聞いて、聞きたくないと思った。

 曖昧に笑うアタシを、健人は昨日と同じ面倒臭そうな顔で見た。

 

「あのね、アタシも別に邪魔しようとか文句言おうとか思って呼び出したわけじゃないから!」

「そっか」

「昨日はやっぱりショックだったけどさ、ちゃんと冷静に考えて、健人と彼女と赤ちゃんが幸せになるのが一番だって思った」

 

 どうして人間ってこんな時まで、良い人ぶろうとするのだろう。

 

「だから、もう会うつもりもないし連絡もしない」

「わかった」

「うん。それで、同棲解消するわけだからさ、ちゃんとしておきたいと思って」

「何が?」

「つまり、お金のことなんだけどね」

「……金?」

 

 それまでどこか遠くを見ていた健人が、初めてアタシ視線を向けた。

 

「あの、ほら、冬のボーナスの時に健人にお金渡したじゃん? 生活費の貯金ってゆーかさ」

「ああ」

「それね、残っている分は返して欲しいんだけど」

「…………」

 

 その視線が、さっきまでよりも冷たく感じる。

 だから、アタシのお願いが間違っているのか不安になる。

 

「えっと、だって、これからはあのアパート、健人と彼女が住むんでしょ? もしかしたら引っ越しとかするのかもだけどさ。それなのに、アタシのお金が口座にあるってフツーおかしくない? なんかお互いに気持ち悪いと思うの。アタシも、健人とのことは綺麗さっぱり終わらせたいと思うから、健人の手元にアタシの物残したくないし、それに、アタシも急に住む処なくなって困るから。そのお金返してもらえると助かるんだ」

 

 正しい事を言っているはずなのに、何故か言葉が、しどろもどろになった。でも、何とか伝わったと思った。て言うか、伝わらないわけないと思った。なのに……

 

「その金、もうないから」

 

 目の前の男は、今日も意味が分からないことを口にした。

 

「……え?」

「残ってない」

「え……ないって何? お金がないの?」

「ああ。だから返せとか言われてもこっちも困る」

 

 まるで悪びれることもなく、男はアタシにそう言った。

 

「困るって、え? だって、ないっておかしくない!? そんなに生活費って足りなくならないよね? だってアタシ毎月十万は入れてたよ? 他にも必要なものがあればアタシの財布から出してたし、だってお金渡したのだって十二月だよ? まだニか月しか経ってないのに、な、なんでないの!?」

 

 自分で言うのもあれだけれど、そこそこに売れてるバンドのベーシストだし給料もボーナスも同世代の子たちに比べたらかなり良い方だと思う。だからボーナスの半分でもそれなりの金額にはなる。

 ちなみにもう半分は先月行ったハワイ旅行使った。本当ならハワイで買いたいバッグがあったけど、健人にお金がないって言われたからそれを諦めて、あの時お金を渡したんだ。

 それが、もうないって……

 

「健人、ちゃんと説明してよ!」

「車」

「……は?」

「この前車買って頭金に使った」

「は?」

 

 本当に、言っている意味が分からない。

 

「だからあの金はもうない」

「え、え? 車って何? いつ買ったの?」

 

「正月明け」

「正月って……何それ? え、だって車なんてどこに」

「彼女の家の駐車場に置かせてもらってるから、こっちにはない」

「え、意味、わかんないんだけど……」

「てかさ、あの金好きに使えって言ったのお前だろ?」

「え?」

「お前が勝手に渡してきたのに、今更返せとか言うか普通?」

 

 何言ってるの? この男、本当に昨日から何言ってるの? 

 

「だって、あんたがお金足りなくなるかもって! 同棲続けるのが不安だって!!」

「そう言えば、お前が出ていくと思ったんだよ」

「は!? そんな言い方してないよね? すっごい困ってるって言うから、アタシは何とかしようと思って……」

「だから別に頼んでねーだろ!」

「それは……」

「お前のそう言うところマジでウザいんだけど」

「な、なにそれ……」

「勝手に彼女面して人の部屋押しかけてきて、自分が使えって言った金を今更返せとか、ウザ過ぎ」

「でも……」

 

 何だかもう、言葉が見つからなかった。

 

「てかさ、お前ちょっと顔が良くて料理上手いだけで、他は普通の女以下なんだけど」

「え……」

「掃除とか勝手にされるのも鬱陶しいし、セックスしてもつまんねーし」

 

 こんなにボロボロに言われて泣きたいのに、悔しくて泣けなかった。

 

「今まで相手にしてもらえただけ有難いと思えば?」

 

 そんな自分が、嫌だった。

 

「とにかく金は返す義理もねーから。これ以上俺に関わるんじゃねーよ」

 

 こういう時に、可愛く泣けたらいいのにっていつも思う。

 

《もっとか弱い感じかと思った》

 

 初対面の男にそう思われるくらい、可愛くない自分が嫌だった。

 

「……最悪」

「あーそう」

「あんたなんて大っ嫌い!!!」

 

 こんなこと言いたいわけじゃないのに。本当はまだ……

 

「俺も、お前のこと好きだと思ったことねーから」

 

 人を好きになることは、いつもいつも厄介だ。

 こんな痛みを知るために、アタシは恋をしたのだろうか。思い描いていたのは、こんなにも虚しい恋じゃない。

 

 それなのに……誰よりも悔しいはずなのに……涙が、出てもくれないんだなって。

 

 あれから何時間過ぎたのかもわからない。だけど辺りは暗くなってきていた。

 少し前までは、昨晩降り積もった雪で遊ぶ子供たちがいたはずなのに、もう誰もいない。小さな公園にアタシだけがいる。

 

 あの男が帰った後、ベンチに座ってただぼーっとしていた。時々思い出したかのように涙が溢れ出たけど、少しすると妙に冷静になった。

 だけどしばらくするとまた、涙が出てきた。

 あの男の前では流せなかったのに、今になって零れだす。

 最悪過ぎて、開き直った部分もある。あんな男と別れて正解だと思う。でも好きって感情だけは、なかなか上手く整理できない。

 だからただ何も考えずに、一人でベンチに座っていた。

 

「うい」

 

 誰もいない公園に、昨日と同じ声がする。

 また、天使が笑いに来たのだろうか? 

 

「散歩?」

 

 その声に、顔を上げることなく地面を見つめた。薄暗い視界に、白いスニーカーが入り込む。

 

「それとも、行くとこ見つかった?」

「…………」

「そろそろ帰らないと、風邪引くよ。今日も寒いし」

「……ない、から」

「ん?」

「アタシに……帰る場所なんてないから……!」

 

 こんな状況で、誰かに会いたいとも何処かに行きたいとも思わないし、結局お金だって無いままだ。

 

「そっか」

「…………」

 

 もうお願いだから、放っといて欲しいと思った。惨めなアタシが面白いだけなんでしょ? 

 

「今日は鍋にしようと思って、買い物して来たんだけど」

「…………」

「だからさ」

 

 冷たい手が髪に触れたから、俯いていた顔を思わず上げた。

 

「帰ろう。一緒に」

 

 ユルリと細められた目尻に、涙がまた溢れ出た。

 差し出された綺麗な手。その手に向かって自分の手も伸ばした。

 彼の優しさが、触れたその冷たい手が何よりも温かかった。

 

 

 

 

 ★

 

 

 

 

「本当は、お金を返してもらって今日中に出て行く予定だったんだ……」

「そうなんだ」

 

 テーブルにガスコンロを置いて、その上に出来立てのお鍋を乗せた彼がアタシを見てそう言った。

 

「給料が入ったら、ちゃんとお金返すからさ」

「お金?」

「うん。お鍋代とか宿泊費とか、あと水道代とか諸々」

「そんなの別に要らねーけど」

「でも……」

「あんたが居るのが迷惑だと思ってたら初めから連れ込まないし、オレ的には給料日まで居て欲しいくらいだし」

「なんか……連れ込むって言い方ヤなんだけど」

「あー、はいはい。分かった分かった」

 

 何をわかったのか、彼は楽しそうに笑う。

 

「ねえ、あんたって仕事してんだよね? 今日は休みだった系?」

「えっと、うん。そうだけど」

 

 突然の質問に、お鍋用のお椀を受け取りながら首を傾げる。

 

「明日も休み?」

「明日は仕事。でも昼からだから帰りは遅いかも」

「そっか。それなら取りあえず明日も泊まれば?」

「……え?」

「だって仕事しながら宿泊先探すの面倒じゃん。給料日ってたぶん月末とかでしょ? それならまだ一週間近くあるし、その間ずっと転々とするのってキツくない?」

 

 鍋の蓋を開けながら、彼はさも当たり前のように提案してくる。

 

「さすがに……悪いし」

「でもさ、オレも明日は夜バイトでいないし、明後日からは学校だから昼間もいないでしょ? で、夜は基本バイトがあるから家にほとんど居ないんだよね」

「そーなんだ」

「だからさ、あんたがここに泊まっていてもあんまり顔を合わせないと思うんだよね。ん、お椀貸して」

「あ、ありがとう」

「それなら本当にルームシェア感覚で使ってくれてもオレ的には問題ないから。無理に行く場所探すくらいなら、ひとまず次の休みくらいまではここに居ればいいっつーか」

「ワンルームでルームシェアって聞いた事ないけどね」

「ロフトがあるから二部屋でいいだろ。はい、熱いから火傷気をつけて」

「うん。ありがとう。あのね、ロフトは部屋って言わないよ?」

 

 アタシがお椀を受け取ると、彼は自分の分もよそい始める。

 

「じゃあ、オレがいない時はこの部屋全部自由に使っていいから」

「…………」

「あんた、なかなか落ちないね」

「へ?」

「いや何でもない。とにかくさ、考えてみる価値はあると思うんだけど」

「…………」

「それで、明日仕事が終わってオレに会いたくなったらここに帰ってくればいいから」

 

 どこまで本気かわからない彼が、今日もアタシの調子を狂わせる。

 

「アタシまだ、今日泊まるって言ってないし」

「でも泊まるでしょ?」

「……それは」

「じゃあ、泊まらない?」

「リサ」

「え?」

 

 厄介ごとのついでに出会った、厄介な出会い。

 

「今井リサ」

「りさ」

「今井は一般的な今井で、リサはカタカナだから。給料が入ったら、ちゃんとお礼するから」

「ん」

「だから……その……今日も泊めてください」

 

 掴みかけたお箸を置いて、目の前の彼に頭を下げた。

 

「もちろん」

 

 顔を上げると、やっぱり柔らかな笑みがそこにあった。

 

「ありがとね。ほんとに」

「どういたしまして」

 

 なんとなく思うこと。たぶん彼は、とても甘い。それは今まで出会ったことがないくらいに、甘い。

 

 それが少しだけ、心地良いと思った。

 

「リサ」

「は、はい……!?」

「鍋、冷めちゃうけど。早く食べないと」

「う……うん」

 

 ただ名前を呼ばれただけなのに。普段から慣れてる呼ばれ方なのに、今日はなぜか照れくさいと、そう思った。

 

 

 

 

 ★

 

 

 

 

「リサ、おはよう」

 

 日曜の朝、目覚めた瞬間にしてきた匂いにつられてロフトを降りると、エプロン姿の龍人がキッチンから出てきた。

 

「おはよう」

「スッピンも可愛いじゃん」

「……かわ、は!?」

 

 言われた言葉に、思わず両手で顔を覆う。

 

「可愛いから別に隠さなくてもいいじゃん」

「うるさい、バカ」

 

 朝から饒舌らしい龍人を睨む。歳上のはずのアタシが歳下の男の子に弄ばれてる感覚がむず痒い。

 

「リサ、寝癖ついてる」

「じ、自分で直すし……近寄らないで」

 

 当たり前のように距離を詰めようとする龍人に一歩下がると、何故か微笑まれた。何なの? もしかしてドMなの? 

 

「意外と経験なかったりする?」

「ねえ、それより焦げ臭い」

「ん?」

「この部屋、焦げ臭いんだけど」

 

 そう。目覚めた時から気になった匂い。

 

「ああ、それね。ちょっと待って」

 

 キッチンに戻っていく龍人をジッと見つめていると、お皿片手に戻ってきた。

 

「……何これ?」

「うーん、オムレツ?」

 

 見せられたお皿の上には八割が茶色くなった物体。

 

「スペイン風オムレツってやつ。この前行った店で食べたんだよ」

「……え?」

「ん?」

「朝から何してるの?」

「料理」

「うん。それはわかるけどさ、今どきの男の子って朝からお料理しちゃうの? しかもなんかわからないお洒落なものとか挑戦しちゃうの? 目玉焼きじゃダメだったの?」

 

 だってコレ、誰が食べるの!? 

 

「いつもなら目玉焼きでもいいってゆーか、トーストだけで十分なんだけど、今日はリサが仕事だし」

「……へ? は? アタシ?」

「他にいないだろ。仕事行く前は、ちゃんと食べた方がいいかと思って、作ってみたんだよ」

「…………」

 

 その言葉に、不覚にも可愛いと思った。

 明らかに女が選んだであろう赤いエプロンを着けて、丸焦げのオムレツを持つ龍人を可愛いと思った。

 結局スペイン風オムレツは諦めて、アタシが単純な三日月形のオムレツを作ってあげた。

 クズみたいな元カレとは違ってアタシの料理を、龍人は美味しいと目を細めながら食べてくれた。

 鬱陶しくて面倒くさくて、料理もエッチも下手らしいアタシでも、誰かを喜ばせることは出来るらしい。それがちょっと、嬉しかった。

 

「大人の女って感じだな」

「何が?」

 

 仕事に行く支度をして玄関に向かったアタシに着いてきた龍人が、意味のわからないことを言う。

 

「仕事モードになったら、急に大人っぽくなった」

「まぁ……学生とは違うから」

「確かにな」

「ていうか、見送りとかいいから!」

「それはオレの自由だろ」

「……まあ」

 

 そう言われたら、反論出来ることなんてなくて。

 

「仕事、頑張れよ」

 

 今日はバイトまで出掛けないらしく、まだ寝間着姿のままの龍人が甘い笑みを作る。

 

「段ボールは今日中に取りに来てもらえるように業者に連絡しておくから、引き渡しだけお願い」

「ん。わかった」

「……あの」

「ん?」

「本当にありがとう。すごい助かってる」

 

 頭を一度下げてから、手にしていた紙袋を差し出す。

 

「リサ?」

「あの日実は北海道でツアーがあって、帰ってきたところだったの。それで、お土産」

「……俺に?」

「本当は違うけど、あげる相手いなくなっちゃったから、良かったら受け取ってってカンジ」

「いいの?」

「うん。あとお金はまた後日持ってくるから」

 

 アタシの言葉を待つように、逸らすことなく向けられる眼差しに、なんだか恥ずかしくなる。

 

「えっと、本当にありがとう。龍人」

 

 お土産の袋を受け取った龍人にもう一度お礼を言ってから、スーツケースと鞄を掴む。

 

「リサ」

「何?」

「もし帰る場所がなかったら、いつでも来て良いからな」

「……ありがとう。でも、大丈夫」

 

 これ以上この場所に甘えるのは、人としてダメだと思う。

 

「そっか」

「うん。じゃあ、もう行くね」

 

 心配そうにアタシを見る龍人に、二日間の感謝を込めて、精一杯の笑みを見せた。

 

「いってらっしゃい」

 

 部屋を出る直前に掛けられた声に、昨日よりも心が軽くなった気がした。もう帰らないって言ったのに。

 

 厄介ついでの厄介な出会い。

 結局ナンパだったのかもわからないけれど、ナンパだったのなら今頃ガッカリしているだろう。その姿を想像したら、何だか笑えた。

 いってらっしゃいなんて言われたの、いつぶりだろう。

 

 軽くなった心が、アタシを少しだけ前に進ませた。

 

 

 

 

 ★

 

 

 

 

「え!? 大学生の家に泊まった!?」

「ちょっと! 声大きいよ!!」

 

 事務所で会ったマネージャーさんに、この二日の出来事を話すと、マネージャーさんがギラギラした目で詰め寄ってきた。

 

「だって何その展開!? てか、リサあんたの彼氏って何? クソにも程があるんだけど!? 弁護士は!? 訴えられるレベルにクソなんだけど!!」

 

 美人だけど、つい口が悪くなりがちなマネージャーが、怒りが収まらないと貧乏揺すりを始めた。

 

「マネージャー、落ち着いて。そろそろみんな来ちゃうし。あ、友希那とか紗夜とか、メンバーには絶対にナイショにしてね? アタシとマネージャーさんだけの秘密ね」

「リサこそ何呑気に落ち着いてるのよ!? 今から彼氏刺しに行っても許されるレベルなんだけど!?」

「いや、物騒なこと言わないでよ。それになんかもう恨む気持ちにもなれないくらいに冷めちゃったの。これ以上あの男のことで落ち込みたくないし、さっさと忘れたいしさ」

「リサ……」

「な、何よ?」

「大学生マジックね」

「……は?」

「あーあーいいなークソ男に捨てられたと思ったら、美形の大学生に拾われるなんて」

「拾われるって、泊めてもらっただけだから!」

「美味しかった?」

「なにが?」

「大学生」

「…………」

 

 ニヤニヤとアタシを見るマネージャーに、思わず顔が熱くなる。ないないないない! 絶対ないから! 誤解されたら困る!!! 

 

「何もないから! 本当に泊めてもらっただけ!」

「……そんなのありえる? リトルマーメイドもビックリよ」

「ありえるから! 人類全てがマネージャーみたいな肉食系じゃないから!」

「草食系男子ってやつ?」

「それもちょっと違う気はするけど……」

「でも美形だったんでしょ?」

「……まあ、普通に格好良い顔立ちだとは思う」

「美少年か」

 

 まるで獲物を狙うハンターのように、ニヤリと笑うマネージャーに、話が変な方向に進みそうで頭を抱えたくなる。

 

「アタシのタイプではないから、本当に誤解しないで!」

「ひょろひょろだったの?」

「それはわからないけど、でも細そうだった」

「細マッチョかもよ?」 

「マッチョが好きなわけじゃないから!」

「身長は?」

「百八十はないと思う」

「男くさい感じは?」

「ゼロ」

「え? もしかして女子力高め系とか?」

 

 事務所を出てミーティングルームに向かう廊下でも、マネージャーが諦めずに聞いてくる。

 

「いや、そう言うわけでもなくて、何て言うか……うーんと、綺麗な感じ? 爽やか? うーん、何だろう。でも、無駄に色気はありそう」

「ほう」

「とにかく、タイプではないから安心して!」

「ふーん」

「じゃあ、またね」

「はーい」

 

 何か言いたげなマネージャーに手を振って、別れた。

 

 

 

 ★

 

 

 

 

「お先に失礼します」

 

 スタッフや先輩方に挨拶をしてから事務所を出る。

 昼休みに配送業者に連絡をして、教えてもらっていた龍人のアパートに荷物を引き取りに行く手配はしたけど、流石に今夜の宿を探す余裕はなかった。

 と言うか、この近くのビジネスホテルは全部埋まっていた。

 後輩にそれとなく話してみたら、この近くで人気アーティストのライブがあると教えてくれた。だから検索範囲を広げようと思ったけど、その時間が足りなかった。

 

 仕方ないから、マネージャーを待とうかな。でも今日デートかな。

 

 マネージャーの彼氏は確か土日休みだから、今日はデートの可能性が高い。そんな日に泊めてと頼むのは気が引ける。やっぱりホテル探そうと思い、駅に向かった。

 

 まずはどこかでご飯食べよう。お金ないからファミレスでいいや。あとコンビニに寄って、残っているお金を下ろさないと。

 帰る場所が無いって、本当に不便だ。

 一人溜息を吐いて、駅前のファミレスを目指した。

 

「え? 空いてますか? はい、一人で大丈夫です。たぶん、一時間以内にはチェックイン出来ると思います。はい、今井リサです。はい。お願いします」

 

 ファミレスでスマホ片手にご飯を食べながら、なんとかビジネスホテルを見つけた。

 予算を上げればもっと早く見つかったのだろうけど、今は贅沢出来ないから、なるべく安く収まる所で、尚且つ通勤しやすい所で探したから時間がかかった。

 でも良かった。ファミレスを出ると、駅のコインロッカーに預けてあったスーツケースを取り出して、改札に向かった。

 

 だけどついていないときは、とことんついていないらしい。

 

 電車を待つホームで何となく開いたSNSで、元カレの結婚報告の記事を見つけた。しかもあの部屋で撮ったことがわかる、彼女とのツーショット写真付きだった。

 

 うっかり見てしまったことで嫌な気持ちを思い出したのはもちろんだけど、誰とどこで繋がるかわからない場所で結婚報告をされたせいで、アタシが捨てられた事実まで知れ渡ることに気づいて泣きたくなった。

 

 最悪だ。この男には気遣いってものがないらしい。案の定、友達から電話がかかってきた。

 何を聞かれるかわかっていたから無視をすると、今度はメッセージが届いた。

 

【大丈夫? 話聞くよ?】

 

 心配してくれているのだろうけど、話す気にはなれなかった。

 マネージャーには話せても、他の友達には話せない事もある。別にその子を信用していないとか、好きじゃないとかではなくて、なんとなく友達と一言で言っても、そこに流れる空気みたいなのは一人一人違って、それぞれにここまでっていう範囲みたいなものがある。

 一週間後なら話せるかもしれないけど、今は話せない。この話は出来るけど、この話はなんとなくし難しいみたいな線引き。

 別にその子に非があるわけではなく、本当に空気と言うか、それまで築いてきた雰囲気の問題だ。

 

 だからメッセージを返すことなく、スマホを鞄に入れた。あと何人から聞かれるのかと思うと、憂鬱になる。

 そんなことを考えながら歩いていたら、ヒールが折れた。乗り換えの為に上っていた駅の階段で、右足に履いていたお気に入りのヒールが折れた。その衝撃で、階段の途中で盛大に転んだ。脛をぶつけて、膝と足首を擦りむいた。

 

 こんなにもツイていない日が来てもいいものかと思うくらいに、ツイていない自分がどんどん虚しくなっていく。

 

 このまま一人ビジネスホテルに向かうことが、一気に寂しいことに思えてきた。

 あの男は今頃あのアパートで幸せに過ごしているのに、アタシは友達からの連絡に怯えて一人ホテルで過ごさないといけないの。

 

 こんな理不尽なことってある? アタシがいったい何したって言うの? 

 

 もう本当に、最悪。

 

 破れたストッキングを見つめながら、ホームの隅で涙が零れた。

 甘えていると思われるかもしれない。非常識なのはわかっている。

 社会人としても女としてもどうかと思う。でも、今日くらい許して欲しいと思った。

 許されても良いと思った。だからホテルとは反対に向かう電車に飛び乗った。

 

《行くとこないなら、オレんち来る?》

 

 たぶんアタシも、厄介な人間の一人だ。

 

 

 

 

 ★

 

 

 

 

「リサ?」

 

 月が綺麗に浮かぶ夜、コンビニの袋を持って現れた龍人が、目を丸くしてアタシを見た。

 

「ごめん、寒いよな」

 

 それから慌てたように扉の前に立つアタシに駆け寄った。

 

「あの、ごめんね……」

「ん?」

 

 鍵を開けながら、龍人がアタシを見る。

 

「ホテル、見つからなくて」

 

 こんな嘘、吐くだけ無駄なのに。

 

「そっか」

「それで、あの、本当に申し訳ないんだけど、えっと……」

「リサ」

 

 ガチャリと扉を開けた龍人は優しく目を細めると、当たり前のようにおかえりと言って、アタシの我儘を聞き入れた。

 

「ん……ただいま」

 

 恥ずかしくて俯きながら零した言葉に、龍人がまた笑った。

 もしかしたら彼は本当に、神様がアタシに用意した、天使なのかもしれない。

 

 

 

 

 ★

 

 

 

 

「アタシね、あのアパートで男と同棲していたの」

 

 灯りの消えた部屋に、アタシの声が響く。

 

「彼氏だったの」

「ん」

「アタシ的には、ね」

「…………」

 

 あの後、アタシを部屋に入れた龍人は、何も聞かずに重たいスーツケースをロフトに運んでくれた。

 それから、自分は夕飯を食べるから先にお風呂を使っていいよと言った。

 

 あまりにも自然に受け入れられたアタシは、自分から来ておいて戸惑ってしまった。だけど、図々しく泊めてと言っておいて、遠慮をするのも今更な気がして素直にお風呂を借りることにした。

 さすがにシャワーだけで済ませたけど、図々しくドライヤーも使わせてもらった。

 

 今朝はあった段ボールは、既に宅配業者の手に渡っていたから、スーツケースに入れておいた部屋着に着替えて部屋に戻ると、コンビニで買って来たらしいお弁当を、龍人が食べていた。

 

「リサ、人参好き?」

 

 ハンバーグ弁当を食べていた龍人は、お風呂上がりのアタシにそう聞いた。なんでもハンバーグが好物で、いつも好んで買うけど、付け合わせの人参が嫌いで困るらしい。

 

 残せばいいのにと言うと、それは申し訳ないと眉を下げて答えた。食事を残すことに抵抗があるらしい。

 

「好きってゆーか、フツーに食べられるけど、歯磨きしたばかりだから今はいらないかな」

 

 食べてあげても良かったけど、また歯磨きをするのも面倒でそう答えると、だよねと納得したように頷いた後、とっても嫌そうな顔をしながら人参を食べていた。

 その顔が子供みたいだから思わず吹き出して笑ってしまったアタシに、龍人は少し拗ねたような顔をしながら残りのハンバーグを食べていた。

 

 お弁当を食べ終えた龍人は、明日は学校だから今日は早く寝ると言い、シャワーを浴びにお風呂に行った。だからアタシもロフトに上がって、寝る支度をした。

 朝畳んだ布団をもう一度敷いて、その上に寝転ぶと、やっぱり天井が近くて不思議な気持ちになった。

 自分の家でもない場所で、当たり前のように寝ようとする自分が不思議だった。

 それから、こんなわけのわからない図々しい女を受け入れる龍人のことも不思議に思った。

 

 こうなった事情を話さないといけないと思ったのは、これだけの迷惑を掛けていることへの礼儀としてなのか、ただ話を聞いてほしいと思ったからなのかはわからないけど、たぶんその両方が正解だろう。

 お風呂から戻って来た龍人がベッドに入り、部屋の電気を消したタイミングで、自分から話しかけた。

 ロフトの上から響いたアタシの声を、龍人は驚くこともなく聞いてくれた。

 

「同棲を始めたのはもう半年くらい前なの。もちろんその前から付き合っててね? って、言っても付き合い始めて一年も経ってないから、そんなに長く一緒に居たわけではないけどさ。でも、でもさ? 今少し聞いただけでも、アタシとそいつがカップルだってわかるでしょ? 同棲していたんだから彼氏彼女だって思うでしょ?」

「まぁな」

「そうだよね? そうなの! だからね、アタシもそう思ってた。だってそれが普通でしょう? 誰だって自分の同棲相手が彼氏だって思うでしょう? まさか付き合ってないどころか、他に彼女がいて、アタシは浮気相手って言うか、ただの面倒くさい遊び相手だとは思わないでしょう!?」

「だな」

 

「ねえ、龍人の友達にはいる?」

「ん?」

「そういう、クズみたいな男」

「うーん、いないね」

「そうだよね? それが普通だよね。だけどね、そいつは普通じゃなかったの。仕事でアタシが家を離れている間に、アタシの荷物全部外に出して、本命の彼女と同棲を始めていたの! しかも、結婚するって!」

「結婚?」

 

 落ち着いて説明をしようと思っていたはずなのに、話を始めればどんどん感情的になっていく。苛立ちと悔しさで目の奥が熱くなるから、何度も鼻を啜った。だけど話さずにはいられなかった。

 

「そう、結婚。ありえる? 散々アタシと浮気して、結婚だよ?」

「なんで、急に?」

「…………」

「リサ?」

 

 その声と一緒に、龍人がベッドから起き上がる気配がした。

 

「子供が出来たって」

「え?」

「彼女が妊娠したって」

「妊娠か」

 

 戸惑う声が、静かな室内でアタシの耳に届く。

 

「何それ」

「…………」

「そんなの知るかって話だよね? だって……だってさ……」

「リサ」

 

 堪え切れずに、涙が零れた。

 

「アタシとも、ゴム付けずにヤッてたくせにさ……」

 

 ぼろぼろと止まらなくなった。

 

「なんでアタシだけ、こんな目に合わないといけないのかなって……」

「リサ」

「もう、本当に最悪」

「聞いて、リサ」

「……え?」

 

 その声がさっきよりも大きく聞こえたから、視線を足元に向けると、布団で丸まるアタシの足元に、少し目尻の下がった瞳を見つけた。

 

「眠れないなら一緒に寝ようか?」

「な、なに、言ってるの?」

「だって泣いてるし」

「は……?」

「一人で寝るの、しんどいかなって」

 

 お得意の甘い笑みを浮かべた龍人が、驚くアタシを無視してロフトに上がってくる。

 

「アタシ、そういうつもりで話したわけじゃ」

「でも、泣いてるし」

「それはその……ちょっと思い出して感傷的になったと言うか、えっと……」

「別に理由とかどうでもいいだろ」

「え?」

「聞かなかったのは、どうでも良かったから」

 

 狭いロフトの上で、距離が縮まるのは一瞬だった。驚きのあまり、布団の中から抜け出せずにいるアタシの枕元に座り込んだ龍人が、さっきまでよりも真剣な眼差しでアタシを見下ろした。

 

「あの……」

「あの日リサが泣いてた理由も、今泣いている理由もオレには関係ないから」

「なっ」

 

 その言い方に、図々しくもムカついた。何かわからないけれどムカついた。だけど……

 

「リサが泣いているってことだけが重要なんだよ」

「……え?」

「過ぎた理由なんてどうでもいい」

「…………」

「それよりも、どうやってその涙を止めるかの方がオレにとっては重要だから」

 

 当たり前のように続けられた言葉に、冷え切った心には、まだ見ぬ火が灯る。

 

「止める?」

「うん。過去なんてどうでもいいんだよ」

「……過去」

「今リサと一緒に居るのは、オレじゃん?」

「え?」

「だから、オレに甘えろよ」

「……甘えるって」

「リサの傷、全部治してあげる」

 

 心臓が少しだけ、痛いと思った。

 名前と好きな食べ物と、人参が苦手なことくらいしか知らない龍人の言葉に、心が満たされていく音がした。

 

「やっぱり、連れ込み慣れてるの?」

「え?」

「なんか、ムカつくくらいに口が上手い」

「口が上手い?」

「そもそも、彼女いるでしょ?」

「え? オレに?」

「うん」

「いたらリサ連れ込まないでしょ」

「…………」

「リサ?」

「なんか、ムカつく」

 

 たぶん、きっと年下であろう大学生の言葉に、動揺している自分にムカついた。まるで口説かれているみたいな状況に、恥ずかしくて顔を背けた。

 

「リサ」

「触らないで」

 

 その指先が、アタシの髪に触れる。

 

「もう泣いてない?」

「……泣いてない」

 

 気づいたら、涙も乾いていた。

 

「リサ」

「う、うるさい」

「眠い?」

「すっごく眠いし!」

「そっか」

 

 頷きながら、クスクス笑う声が落ちてくる。

 

「一人で寝られそう?」

「……寝られるもん」

「リサ」

「…………」

 

 わざとらしくアタシを呼びながら髪を梳いた指先が、一瞬アタシの耳たぶを撫でた。全身が痺れるようなその感覚に、思わず息を止めた直後、

 

「おやすみ」

 

 甘い声を注ぐように、その唇が僅かに耳に触れた。

 

「…………!?」

 

 離れていく気配に、返事なんて出来なかった。

 何が起きたのかも自分がどうなったのかもわからない。軽いパニックみたいな状態で、ただロフトを降りていくその音だけを聞いていた。

 

 何、今の? 何なの、今の!? 

 

 やっぱり連れ込み慣れてるよ! て言うか、女に慣れてる!? 

 

 だって、今アタシの耳たぶ、カプってされたよ!? 

 

「……バカ」

 

 熱くなる耳たぶをぎゅっと抓んで、さっき触れた感覚を消すように布団に潜った。

 静かな空間に、無駄に煩い心臓の音が響く。

 それが少しだけ寂しいと思ったのは、誰のせいだろうか。その答えを見つける前に、アタシは急いで瞼を閉じた。

 

 いつだって全ては突然やってくる。

 朝目覚めたとき一番に誰を思うかなんて、今のアタシはまだ知らないし、どんな明日が待っているのかなんて誰も知らない。

 もしかしたら、過去を嘆く暇なんてないほどの衝撃が、アタシを待っているかもしれない。

 それでも今確かに動く心臓の音を隠したくて、アタシは夢の中に落ちていった。

 

 

 

 

 ★

 

 

 

 目覚めて数分後に見た光景に、アタシは自分がまだ夢の途中に居るのだと思った。

 それくらいに、ありえない光景。

 

「あ、リサ」

 

 いつもよりも慎重にロフトから降りると、身支度をしている様子の龍人が、アタシに気づいて振り返りおはようと言葉を続ける。

 それから何も言えないアタシに近づきながら、綺麗にアイロンの掛けられたシャツのボタンを止めた。

 

 落ち着いて考えれば、朝らしい普通の光景。

 テーブルに置かれたコーヒーも、一緒に並ぶトーストも、焦げ臭くない部屋も、全てが朝らしい光景なのに、明らかにおかしい龍人のいでたちに、アタシは固まって動けない。

 

「リサ?」

 

 そんなアタシを、龍人が不思議そうに見た。

 だけどその表情を、そっくりそのまま返したいくらいだ。

 

「な、なに、それ?」

「ん?」

「え? 何してるの?」

「何って?」

 

「り、龍人、なんでそんな恰好してるの?」

 

 アタシの問い掛けに、龍人は顔をしかめた。まるでアタシが変なことを言っているみたいなその態度に、アタシは負けないくらいにしかめた顔で龍人を見た。頭のてっぺんから足の先まで見た。

 

「何って、学校行く支度だけど」

「が、学校って、え? それで行くの?」

「それって?」

「だから、その、制服みたいなの」

「は? そりゃ制服着るだろ?」

「なんで!?」

 

 もう意味がわからない。

 

「なんでって言われても、制服だし」

 

 おかしい。おかしい。だって、そんなシステム聞いたことない。

 

「どうして制服着て学校に行くの!?」

「校則だから?」

「そんな大学あるの!? だってそれだと、高校生みたいだよ!?」

「あー、リサさ」

 

 明らかにおかしな恰好をした龍人が、困惑したようにアタシを見る。だからまさかと思った。

 もしかしたらアタシは、大きな勘違いをしていたのかもしれない。

 

「え、待って、だって……大学生じゃないの!?」

 

 目覚めて早々に、毛穴が全て開くくらいのパニックに落ち入ったアタシは、目の前の龍人をただただ見つめた。

 できれば全て夢ならいいのに。だけどそんな願いは次の瞬間に発せられた龍人の言葉によって打ち砕かれた。

 

「俺、まだ高校生だから」

 

 龍人は悪びれることなく、いつも通りの甘いマスクで首を傾げて、とんでもない真実を告げたのだ。

 

「リサ? 大丈夫か?」

 

 いつだって、厄介なことほど突然起きる。

 

「どうしよう……捕まるかも」

 

「は?」

 

 眩暈がしそうな状況に、腰が抜けたようにその場で落ちそうになったアタシの腕を、この部屋の主である男子高校生が掴んだ。

 

 そう、どっからどう見ても男子高校生だ。

 

 これはやっぱり、夢だろうか。

 

 夢であって欲しかった。

 

 

 

 

 ★

 

 

 

 

「は!? 高校生だった!?」

「しー! 声大きいよマネージャー」

「だって、そんな話されたら声も大きくなるわよ!」

「でも静かにしてよね! アタシ、捕まったら困るんだから」

「何それ? 捕まるようなことヤっちゃったの? 男子高校生とヤっちゃったの!?」

「その言い方やめて! 何もしてないし!」

「だって、リサが捕まるって言うから」

「それは、そういうことしてなくても、状況的には変な目で見られてもおもかしくないから、万が一捕まったらって話だよ!」

「……なんだ。つまらないの」

 

 今日も朝から慌ただしい事務所の隣の会議室で、マネージャーが不満そうにアタシを見た。

 

「高校生って、何年生?」

「三年生だって」

「なんだ。それなら春には大学生じゃん。問題なくない?」

「それは確かにそうだけど、何かやっぱりショックじゃん」

「ショック?」

「うん。いくら最悪な状況だったとは言え、まだ高校生の男の子を頼ってしまったというか、甘えた自分が情けなさ過ぎてさ……」

 

 もともと甘えている自覚はあったし、自分でも女として最悪な行動をしていると思っていた。泊めてもらって何かあっても文句を言えないって。

 だけどそれでも誰かに頼らないと無理なくらい、自分が弱っていたから、どうにか自分の行動を正当化しようと自分自身に言い聞かせていた。

 でもまさか、頼った相手が高校生だったなんて。情けないにも程がある。

 

「じゃあ、もう行かないの?」

「それは……その……」

 

 マネージャーの問いかけに、どう答えるべきか考える。

 

「ん? 何? 珍しく即答じゃないのね」

「え?」

「だってこの話の流れなら、行かないに決まってるでしょ!? って凄い剣幕で言ってくると思ったから」

「言えるなら、そう言いたいけどさ」

「リサ?」

「そう言えない状況で、送り出されたってゆーか」

「……は?」

 

 そう。衝撃の事実を告げられた今朝、早番だったアタシは龍人よりも早く家を出た。

 もちろん、スーツケースを含む荷物一式を持って玄関に向かった。

 

「リサ、仕事って何してんの?」

「え? やっぱり聞くじゃん」

「いや、だってすごい荷物持ってるから」

「あ、えっとこれは仕事とは関係ないけど」

「そうなの? なら置いてけばいいじゃん」

「……え?」

 

 制服姿の龍人は、ありえないくらい呑気な提案をアタシにしてきた。

 

「だって、今日も帰ってくるでしょ?」

「いや、あのね龍人、気持ちは嬉しいていうか有難いけどさ、さすがにもうここにはお世話になれないってゆーかさ」

「なんで?」

「なんでって、だって龍人高校生でしょ?」

「だから?」

「アタシ、大学生くらいかなって思ってたの。だから頼らせてもらったけどさ、高校生ってなると話は別だよ。さすがに甘えられない」

「ニか月後にはオレ、大学生だし。そんなに気にすることでもねーだろ」

 

 どこまでも呑気者らしい龍人は、不思議そうにアタシを見る。

 

「気にするよ! アタシはこう見えて大人なの! そういうことはちゃんとしてないと不味いの!」

「泣き虫なのに?」

「え?」

「リサって泣いてばっかりだから、全然大人に見えない」

「なっ!」

 

 失礼なことを突然言い出した龍人が、その手をアタシに向かって伸ばす。綺麗な指先が、髪に触れた。

 

「別に一生ここに泊まれとは言ってねーだろ、困っている間だけはオレんとこに帰っておいでって話」

「な、何言ってるの!?」

 

 慣れた手つきで髪を撫でた龍人が、さっきまでとは違う顔をする。それは昨日、ロフトの上で見た顔。

 

「もし帰って来なかったら、オレ制服のままリサの職場まで迎えに行くから」

「は!? って、アタシの職場なんて知らないクセに!」

「そんなのいくらでも調べられるだろ」

「そ、それって」

 

 お、脅し? アタシ、男子高校生に脅されてるの? 

 

「リサがちゃんと帰ってきてくれたら、困らせるようなことはしねーからよ」

 

 髪に触れていた龍人の手が、突然顎先を掴んだ。驚いて拒もうとした時には上を向かされていて、視線が重なる。

 

「リサ、ハンバーグ作れる?」

「ハンバーグ?」

 

 いったい急になんなの? アタシを見下ろす龍人の目が、ユルリと細められた。

 

「オレ、今日の夕飯手は作りハンバーグが食べたい気分だから」

「それってアタシに関係ある?」

 

 甘い瞳。ついでに言うと、声も甘い。

 ふわふわと砂糖菓子のように、アタシを狂わせる声。

 

「そ。リサが作って」

 

 まるで愛の言葉でも囁くような柔らかく甘美な口調で、龍人はアタシを脅した。

 

 

 

 

 ★

 

 

 

 

「確かに、女慣れしてるわね」

 

 今朝の出来事を話し終えると、マネージャーが興味深そうにそう言った。

 

「そうなの! そうなんだよ!」

「高校生って言っても今はマセてるから、リサよりも経験豊富だったりするんじゃない? しかも甘くて可愛い年下男を演じておいて、急に男を見せるとか高校生が使うテクニックじゃないわ。計算でやってるのか天然でやってるのか知らないけど、どちらにしても相当モテるでしょうね」

「うん。絶対に計算だよ。それに他の女も絶対いると思う」

「そうなの?」

「だってね、洗面所に歯ブラシがあるの」

「歯ブラシ!?」

 

 そう。自分のことでいっぱいいっぱい過ぎて、今までスルーしていたけど、アタシが初めて泊まった日から、洗面台には龍人のとは別にピンクの歯ブラシが置かれている。でも彼女はいないって言っていたから、元カノなのか、そういう友達なのか……女の影があることには変わりない。

 だから余計に、アタシを泊める理由がわからない。

 

「ああ、やばい。もうすぐ打ち合わせ始まるから、続きはあとで聞くねー!」

 

 悶々と考えるアタシに手を振るマネージャーを見送りながら、アタシも急いでスタジオに向かった。

 

 まあ、いい。

 今日はお礼も込めて夕飯を作りに帰ろう。

 それで明日は結構遅くなりそうだから泊まる必要ないし、その次の日は休みだからマネージャーの家にでも泊めてもらおう。

 だいたい、高校生なのに一人暮らしって……帰ったら色々聞いてみよう。

 頭の中を整理しながら、病院の廊下を速足で進んだ。

 

 

 夕方。

 どうするべきかと悩んだ割に、その扉の前に立ったアタシの手には、スーパーの袋があった。

 どうかしていると思う。でも荷物置いたままだし、お礼もしていないし、何より脅されたし……思い浮かぶ限りの言い訳を心の中で唱えて、深呼吸をする。

 

 今日で本当に最後にしよう。

 

 小さなアパートのインターホンをゆっくり押した。直後、誰かも確認することなく開いた扉の中から、もう見慣れた顔が現れる。

 

「おかえり、リサ」

 

 柔らかそうな髪を揺らした龍人がアタシを出迎える。

 

「仕方なく、帰って来ただけだから」

「ん。荷物、重くなかった?」

「金欠だから、たいして買ってないし」

「持つよ」

「……ありがとう」

 

 アタシの右手から、ハンバーグの材料の入った袋を取った龍人が部屋の中に戻っていくから、アタシも渋々中に入る。

 女慣れした男子高校生は、無駄に気も利くらしい。

 

「アタシって、料理が上手くないらしい」

「そう? でもこの前のオムレツ美味しかったけど?」

「たまたまじゃない?」

 

 二人で立つには狭いキッチンで、ハンバーグの具材をボールに入れていると、龍人が何か言いたげな顔で隣に並ぶ。ちょっと邪魔だ。

 

「ねえ、向こうで待っててくれない?」

「誰かに言われた?」

「え?」

「リサの料理、美味しくないって」

「それは……」

 

 気が利く上に、無駄に鋭い。

 

「リサ?」

「元カレ的な男」

「……ああ」

 

 毎回言われたわけじゃないけど、気合を入れて作った時に限って空回りしてた気がする。

 今さら隠すほどのことでもないから正直に答えると、龍人は納得したように頷く。

 

「もういいでしょ? 邪魔だから、向こうで勉強でもしてたら?」

「それって、そいつの味覚がおかしいんじゃない?」

「え?」

「だから、その最低野郎の味覚がおかしいだけで、リサの料理は美味しいよ。あんな男の言ったこと気にするだけ無駄だろ」

「別に気にしてないし」

 

 なんかアタシ、励まされてる? まだ高校生の年下の男に同情されてる? 

 

「気にしてないなら、自信持って作ってよ」

「え?」

「オレのために」

 

 そう言って背後に回った龍人が、アタシのつけたエプロンの腰紐を結び直した。なにこれ。心臓がうるさい。

 

「ど、どうでもいいけど、着替えたら?」

「ん?」

「まだ制服じゃん」

 

 早くこの場から離れて欲しくて、冷静を装いながら振り返ると、カッターシャツと紺色のスラックス姿の男子高校生が、甘く目尻を緩めてアタシを見下ろした。

 

「じゃあ着替えて待ってる」

「……っ」

 

 そうやって無邪気に笑うのはずるい。

 さっき大人ぶったくせに、今は素直にキッチンを出て行く背中を、アタシはまともに見ることが出来なかった。

 

「ん。リサ、やっぱり料理上手じゃん」

「……大袈裟」

 

 あれから、悶々としながら作ったハンバーグはどうにか上手く完成し、待ちに待っていたらしい龍人は、その顔を嬉しそうにほころばせながら、まだ熱いそれを口に運んだ。

 

「本当のことだよ。でもさ」

「ん?」

「何で、人参?」

 

 お皿に載せた人参をフォークに刺した龍人が、不満そうにアタシを見る。

 

「美味しいよ?」

「……嫌がらせ?」

「もちろん」

 

 ニコリと笑ってあげると、龍人は顔をしかめてから、渋々嫌いな人参を口にした。

 

「……リサって、ときどき意地悪だね」

「それはどーも」

「でもやっぱり可愛い」

「……は、え? 可愛い!?」

「うん。可愛いし、料理上手なんて最高だろ」

 

 いったいどれだけ口説き慣れているのか。ムカつくほど饒舌な龍人がアタシを揶揄い笑う。

 年下のクセに。高校生のクセに。

 

「ねえ、何でここに住んでるの?」

「ん?」

「だって高校生で一人暮らしって、珍しいでしょ?」

「ああ、うん。そうだな。でも今だけだから」

「今だけ?」

「一人暮らし始めたのも十二月からだし。それまでは普通に家族と住んでたよ」

「そうなの?」

「家を建てたから引っ越したんだけど、それがオレの学校から結構距離があったから、卒業までの期間だけ一人暮らしすることになったんだよ。だから、この辺りには元々住んでたの」

 

 まだ二つある人参をお皿の隅に寄せながら、龍人が自分の状況を説明する。

 

「なるほど。だから物も少ないのか」

「そう?」

「うん。だってアタシの彼氏の部屋はもっと物で溢れていたよ? よくわかんない趣味のあれこれとか……」

「リサ」

「ん?」

「無意識は一番良くないよ?」

「……無意識?」

 

 意味の分からない事を言う龍人に首を傾げれば、彼は困ったように眉を下げた。

 

「人参、もういらないから食べて」

「は?」

「罰ゲーム」

「え、アタシが!?」

「リサ、あーん」

「意味わかんないから」

 

 人参を刺したフォークを向けてくる龍人から顔を背けると、男子高校生は拗ねたように頬を膨らます。

 

「リサの意地悪」

「意地悪だと思うなら、アタシに優しくしなければいいのに」

「ん?」

「だいたい龍人の目的は何?」

「目的?」

「何でアタシを泊めてくれるの? て言うか、何でアタシに声掛けたの?」

 

 ずっと気になっていた。でも聞くタイミングを逃していた質問の答えが急に欲しくなって、目の前の男をじっと見た。

 

「うーん……」

「最初はナンパ目的だと思ってた」

「ん?」

「だから、ヤリたいから連れ込んだのかなって。でもそんな素振りもないし。こんな風に良くもしてくれるから、ますます理由がわからないなって」

 

 助かってはいるけど、こんなのってアタシにばかり都合が良すぎてよくわからない。

 

「本音を言っていいなら」

 

 フォークを置いた龍人が、さっきまでとは違う真剣な表情で、真っ直ぐにアタシを見た。

 その眼差しが高校生らしくない色気を含むことは、もう充分に知っている。

 

「な、何?」

 

 何故か緊張してしまうアタシを前に、龍人は口を開いた。

 

「リサと、ヤリたいと思ってるかな」

「……」

「……」

「……は!?」

「だからリサが考えていることは、だいたい当たってるっつー話」

「なっ、だって……」

 

 自分で聞いておいて、動揺のあまり言葉を失った。

 まさかこんなことを堂々と言う人が居るとは思わなかった。

 しかも本人は涼しい顔で、照れる様子すらない。

 

「でも、今すぐどうこうとは思ってないから」

「いや、あの、待って」

 

 安心って、全然安心出来ないって言うか……何!? 

 

「最終目標って言ったら誤解されそうだけど、今の目的じゃないから手は出さないだけで、毎晩我慢はしてる」

「が、我慢?」

「うん。リサが来てから、悶々として眠れない」

「ちょっと待って、意味が……」

「リサにあの日声を掛けたのは、リサにオレの存在を知ってもらうチャンスだと思ったから」

 

 話が見えない。チャンスって、アタシに知ってもらうって。

 

「で、今一緒に居るのは、オレのことをもっと知って欲しいから」

「な、なんで」

「リサを落としたいから」

「……へ?」

「オレに惚れてくれねーかなーって」

 

 重ねられる視線が、甘さを益した。

 

「そう思いながら一緒に居る」

 

 こんなにも露骨に口説かれたのは、生まれた初めてだ。だからきっと、そのせいだ。

 

「あ、アタシ、高校生とか無理だから」

「なら卒業するまで待つけど」

「待つって、そもそも年下とか興味ないし」

「それは今までの話だろ?」

「え?」

「食わず嫌いは良くないだろ」

「……っ」

 

 こんなにもドキドキするのは、あまりにストレートに口説かれたからで、目の前の龍人のせいではなくて、意識なんて絶対にしてないから。

 

「リサ?」

「……年上に興味があるなら、他の人を当たった方が」

「年上に興味があるわけじゃないよ」

「でも……さ」

「リサに興味がある」

 

 逸らせない。

 熱を帯びたその瞳から視線を逸らせないせいで、きっと全部見られた。動揺した目も、一瞬高揚した顔も。

 

「だから、リサは好きなだけ甘えていいから」

「な、何言って」

「リサが嫌がることは絶対しないし、無理矢理襲ったりもしない。リサが困っている間は、何日でもここに居ていい。もしオレが一緒に居ることが不安なら、夜はオレが出てくし」

「出て行くって」

「友達の家とかもあるから、俺は平気だから」

「だからそこまでしてもらう理由が」

「それ、今説明しただろ?」

「でも……」

 

 ほんの瞬間的に鋭くなった視線に口籠ると、龍人はまたいつものように頬を緩めた。

 

「リサ」

「……」

「ハンバーグ」

「へ?」

 

 次は何を言い出すのかと警戒するアタシを余所に、どこまでもマイペースらしい龍人は、アタシの前に置かれた皿を見ると、

 

「食べないなら、もらってもいい?」

 

 子供みたいなことを聞いてきた。

 

「な、なんで急に」

 

「オレ欲張りだから。好きな物は絶対に手に入れたいんだ」

「……っ」

 

 とんでもない男の部屋に入ってしまったのかもしれない。

 今さら気づいてしまった現実に、心臓がまた煩く音を立てた。身体中に響く鼓動が怖いくらいに、アタシは今、普通じゃない。

 

「リサ、さすがに警戒し過ぎじゃない?」

「するよ! するに決まってるよ!」

 

 食事の片づけを終えた後、急いでロフトに上がろうとするアタシを、龍人が不満そうに見上げる。

 

「何もしないから、一緒に映画観ようぜ? 借りてきたのがあるんだけと」

「べ、別にいい!」

「けど、テレビの音だけ聞こえたら気にならない?」

「ヘッドフォンでもつけたら?」

「何かそれってAVでも見るみたいだって、うわっ」

「バカじゃない!?」

 

 ロフトの上から掴み取った枕を投げつけると、見事にその顔面に直撃した。

 

「リサ、暴力的な解決は良くないぜ」

「うるさい! スケベ!!」

「まだスケベなことはしてないだろ」

「ま、まだって何よ!?」

「いいから、早くこっち来いよ」

「無理!」

「……そんな我儘ばかり言うと、夜中にスケベなことしちゃうかもしんねーぞ」

「は!?」

 

 見下ろした先で、子供らしくない笑みを作る龍人がハシゴへと近づいてくるから、アタシは急いでロフトに上がろうとする。

 

「年下って言っても男だから」

 

 だけど伸びてきた手が、アタシの足首を掴んだ。

 

「や、やだ! 危ないから!!」

「なら、早くおいで」

「ひゃっ」

 

 掴まれた右足を引っ張られた瞬間、バランスを崩したアタシのお腹に、もう一方の腕が回された。

 

「リサ捕まえるのなんて、簡単だから」

「は、離して……」

「良い匂い」

 

 呆気なく梯子から離れたアタシの身体を、龍人が後ろから抱きかかえて、無防備な首筋に顔を埋めた。

 

「やだ、龍人下ろして」

 

 くすぐったくて、頭がおかしくなる。

 

「うん。こっちでね」

「え、きゃっ」

 

 膝の裏に器用に腕を回した龍人は、軽々とお姫様抱っこをして、テレビの前のソファまでアタシを運んだ。

 途中で抵抗するのを止めたのは、暴れるだけ無駄だと理解したから。だってアタシを抱き上げる腕は、確かに男の人の腕だったから。

 高校生だからって舐めてかかっても、きっと敵わない。

 

 結局、ソファの上で下ろされたアタシは、一人分のスペースを開けて、龍人の借りてきた映画を観ることになった。

 

 少し前に公開されていたSF映画で、ちょっと気になっていた映画だったから、始まってからは文句を言うのを止めた。

 

 電気の消された真っ暗な部屋で視線を横に向けると、真剣に画面を見つめる横顔があった。

 高校生と思わなかったのは、一人暮らしをしていたってことや、どこか落ち着いた雰囲気のせいもあるけど、何よりその顔立ちのせいもあったと思う。

 高校生にしては出来過ぎている顔だ。

 もちろん高校生でもこれだけ整った顔の子もいると思う。それこそ芸能人とかモデルさんなんかだったら幾らでもいる。だけど、普通の高校生にしては完成され過ぎている。制服を着ている姿なんて想像も出来なかった。

 

 くっきりとした二重瞼に、長い睫毛。真っ直ぐに通る鼻筋と、少し薄めの唇。ああ、わかった。

 その垂目が際立つのは、目元のホクロのせいだ。間違ってもタイプではないけれど、正直格好良い。

 

 ……って、何考えてるんだ自分!? 何を真剣に観察しているの!? 

 頭を過った言葉たちを掻き消すように、慌てて視線をテレビに戻した。

 だいたいこんなに呑気に映画なんて観ている場合じゃないし、面と向かってヤリたいとか言っちゃう男の家に居ること自体、どうなのって話だ。

 

 いったいどうしてこんなことになったのか。

 どれだけ冷静に考えても、ありえないしおかしい! 

 

「リサ」

「ひあっ!」

 

 突然耳に触れた息に、身体が飛び跳ねそうになった。

 

「コーヒー、淹れてくるね」

 

 いつの間にかアタシとの距離を詰めていたらしい龍人の唇が、また耳たぶに少し触れる距離で囁いた。

 

「……っ」

 

 絶対にワザとだってわかっているのに、言い返すことが出来ない。身体は硬直して、心臓は嫌な音ばかり鳴らす。

 どうしよう。身体中がおかしくなっていく。

 

 背筋がゾワゾワ音を立てる。血液がドロドロと音を立てる。心臓がドクンドクンと音を立てる。お腹の奥が、掴まれたようにキュンと音を立てる。

 

 きっと狙っていたかのように始まった、ラブシーンのせいだ。龍人が離れて行ったソファの上で、見つからないように深呼吸をした。

 

「はい」

「……あ、りがとう」

 

 コーヒーの入ったカップをアタシに渡した龍人が、ソファを跨いでアタシの横に座る。だから少し距離を取るように右に動くと、クスクスと笑われた。

 

 だけどその後はまた映画に集中するように、部屋は静かになった。

 意味のわからない緊張感も、映画が佳境を迎えるにつれて忘れていく。迷惑なラブシーンがあったことも忘れてしまうような緊迫した展開に釘付けになる。だから気づくのが遅れた。

 

「……へ」

 

 その距離が、互いの肘がぶつかるほどに近づいていたことに、柔らかな髪がアタシの肩に触れるまで気づかなかった。

 

「あの、龍人」

 

 潜めて出した声に、寄りかかる龍人は特に反応する気もないらしい。

 押しのけようか、文句を言おうか考えたけれど、映画の空気がそれを許さないようで、それ以上動くことも声を出すことも出来なかった。

 

 ふと気づいた。

 こんな風に誰かと部屋で映画を観るなんて、今までなかったことを。

 

 そう考えると、本当にロクでもない男としか付き合ってなかったのだと思い知る。

 高校生の時に初めて出来た彼氏には、付き合って三か月でフラれた。その理由が、告白されたから付き合ってみただけで、お前のこと実は好きじゃないだった。

 

 だから、自分から告白なんて二度としないと思った。

 そんなアタシに二人目の彼氏が出来たのは、高校二年の冬だった。いいなと思っていた先輩からのまさかの告白に、二つ返事で付き合うことになった。

 だけど二か月後にフラれた。告白されて付き合ったのに、浮気されてフラれた。

 しかも浮気相手も同じ学校の子だったから、惨めって言うか気まずいって言うか……学校に行くのも嫌になるくらいに傷ついた。

 

 専門学校に入ってから付き合ったのは、合コンで知り合った社会人の彼氏だった。

 今までの彼氏よりも格段に大人な人だったから、きっと上手くいくと思っていた。なのに半年を過ぎたくらいから突然連絡が取れなくなった。メールも電話も突然途絶えた。

 上手くいっていると思っていたから、何が起きたのかもわからなかった。むしろ何かあったんじゃないかと思って、本気で心配した。

 なのに結局心配するだけ無駄で、連絡が途絶えた二か月後に、他の女と仲良さそうに歩いている姿を見かけた。

 

 いつもいつも、アタシは別れ話をする価値すらない女らしい。

 もちろんフラれるアタシにも非はあると思うけど、付き合っていた以上は通すべき筋があると思う。

 礼儀ってものがあると思う。思いやる気持ちっていうのがあると思う。

 

 なのにアタシの今までの人生を見る限り、それはただの夢物語らしい。そんなのは漫画や小説の中だけらしい。

 だいたい何が腹立つって、どいつもこいつも大して好きでもないクセに、きっちりとヤッてることだ。

 

 女がどんな気持ちで身体を許しているかを、全く理解していない。それがムカつく。

 愛されていると信じたから、不安を抱きながらも身体を許すのに。蓋を開けてみれば、愛されていない上に、セックスがつまらないと言われる始末だ。

 まるで全てアタシが悪いみたいな言われ方に、今思い返してもムカつく。だったらヤラなきゃいいのに。ムカついて、ムカついて……

 

「リサ?」

「……え」

「ごめん、怖かった?」

「怖い?」

「映画」

「……へ?」

 

 さっきまで肩に寄りかかっていた龍人が、心配そうにアタシを見ていた。

 

「だって、泣いてるから」

「え」

「本当に、泣き虫だな」

 

 目尻を細める優しい笑みに、涙が流れていることを知った。アタシはいつから泣いていたんだろう。 

 

「映画、止めようか」

「あ、ごめん。違うの」

「うん。いいから」

 

 そう言った龍人が、テレビを消して部屋の電気を点けた。

 

「ごめんなさい、途中なのに」

「別にいいよ。思っていたより退屈だったし」

「でもさ」

「リサ」

「え?」

 

 ソファに戻ってきた龍人が、眉を下げてアタシを見た。

 

「あんまり泣かれると、我慢出来なくなる」

「龍人、くん?」

 

 その腕でアタシを包み込んだ。またアタシ、おかしくなる。この人に、おかしくされちゃう。

 

「……あの、こういうの困るんだけど……」

「うん。5秒だけ」

「何もしないって……言った」

「下心とかじゃないから」

「え?」

 

 アタシを抱き締める腕は力強いと言うよりも、まるで大切に包むように優しい。

 

「下心はあるけど、今はそれじゃない」

「意味わかんない」

「リサを守ってるだけ」

「……」

「これ以上傷つかないように、守りたい」

「……な、何それ」

 

 誰も傷ついたなんて口にしていない。守って欲しいなんて、頼んでもいない。

 

「リサ」

「今すぐ離さないと、帰るから」

「帰るって、どこに?」

「どこって、ホテルとかだよ」

 

 聞き返されてから、帰る場所がないことを思い出す。

 

「もう夜だから、ダメ」

「ダメって」

「こんな時間に外に出るのは危険だろ」

「アタシ、龍人と違って子供じゃないし」

 

 その腕の中で、自分の体温が上がっていくのがわかる。自分がどんな顔をしているのか、想像しただけで嫌になる。

 

「ねえ、リサって何歳?」

「……え」

「オレより年上なんだろうけど、二十歳とか? でも働いているからもう少し上か」

 

 抱き締めながら、女に年齢聞くってどうなの? デリカシーが無さ過ぎると思った。

 

「知りたいなら、離して」

「わかった」

 

 思いの他あっさりとアタシを離した龍人が、真っ直ぐにアタシを見つめる。見られたくないのに。けど、デリカシー無いとは言っておきながら、答えちゃうアタシもなんだかなって感じだ。

 

「……23」

「ん?」

「だから、23だって言ってるの」

 

 別に知られたってなんの問題もないのに、言いたくないと思うのは女の性だ。けど、言ってしまった。

 

「リサって童顔だね」

 

 そして単純なお世辞に、少しばかり嬉しくなるのも、きっと女の性。

 

「龍人が思っているよりもおばさんだから、口説くならもっと若い子にしなよ」

「なんで?」

「だから、5つも年下とかありえないし」

 

 どうにか自分を落ち着かせようとするけど、それをまた乱される。五つも年下に、振り回されている。

 

「オレ的にはありえるけど?」

「え?」

「リサが何歳でもリサには変わりないじゃん」

 

 真っ直ぐな瞳が、アタシにだけ向けられる。そんな目で見ないで欲しい。

 

「例え10歳離れていても、口説く予定だから」

「……バカみたい」

「そうかもね」

「……」

「お風呂、行く?」

「え?」

「マスカラ、落ちてる」

 

 指先が、涙の後を拭うようにアタシに触れた。

 

「口の上手い男は信用しない。ってかしたくない」

「ん?」

「年下も無理だけど、それ以上に恋愛とか今は無理だから」

「……」

「だから、彼女探しなら学校でしなよ」

 

 ソファから立ち上がったアタシを、龍人はジっと見上げた後、またゆるりと目を細めた。

 

「リサは手強いな」

「……お風呂、借りるね」

「ん。いってらっしゃい」

 

 そうやって甘く笑う高校生に、少しムカついた。誰かと比べられたみたいで、ムカついた。

 

 

 

 

 ★

 

 

 

 

「リサ、仕事行かねーの?」

 

 朝、制服に着替えた龍人が、カバンを片手にアタシを見る。

 

「今日はその……午後からなの」

 

 コーヒーを飲み終えたマグカップを二つ洗いながら、龍人に視線を向ける。

 

「そうなの? だと帰りは遅い感じか?」

「……遅い、かな」

 

 まるで同棲でもしているかのような物言いで聞いてくる男子高校生に、迷いながら答える。

 

「そっか。じゃあ今日はオレの夕飯はいいから」

「……は?」

「オレも夜バイトだから、まかない食べてくる」

「……はあ」

「でも11時前には帰るから」

 

 そう言って、龍人はゆるりと目尻を細めた。なんだろう。なんなのだろう。

 柔らかな口調と甘い表情に騙されそうになるけど、この男、凄く強引。

 有無を言わせないと言うよりは、うっかりわかったと頷きそうになる巧みさに思わず身構えてしまう。

 油断するとまた流されそう。今日こそは、この部屋を出ると決めたのだから。

 

「うん。学校頑張ってね」

 

 自分でも完璧だと褒めたいくらいの笑顔を作ってみせると、龍人が疑うような目でアタシを見た。

 

「な、何?」

「いや、リサが珍しく素直だから」

「いつも素直だと思うけど? 朝から本当に失礼かますじゃん」

「まぁ、いいや。リサも仕事頑張ってな」

 

 何それ。ちっとも良くないってゆーか、すごく疑われているよね、アタシ。

 それが面白くなくて返事を躊躇っていると、高校生のクセに整った顔の龍人が距離を詰めてきた。

 

「顔、近いんだけど……」

「いってらっしゃいのキスしてもらおうと思ったんだけど」

「す、するわけないじゃん」

「痛いって」

「やめて欲しいなら、さっさと行きなよ学校」

 

 羨ましいほどきめ細かな頬を抓ると、龍人はまた嬉しそうに笑っていってきますと部屋を出て行った。本当に、油断できない。

 だけど今日に限ってはアタシの方が上手だ。油断したのは龍人。

 龍人が出て行った部屋で、アタシは急いで自分の荷物をまとめ始める。本当は午後からだからしっかり寝ておきたい所だけど、のんびりしていると何があるかわからない。

 

 メモくらい残そうかと迷ったけど、考えて止めた。

 

 龍人の言葉がどこまで本気かはわからないし、たぶん半分以上が冗談だろうけど、万が一本気だったら……期待をさせるようなことはしたくない。

 そういう中途半端な優しさがどれだけ厄介かを、アタシもよく知っている。少し日が経ってから、ポストに御礼を入れておこう。

 

 本当に助けられた。泊めてもらえたってことだけじゃなくて、気持ちの部分でも助けられたと思う。

 この数日、一人で居たらもっと弱っていたと思う。毎日酷い顔で仕事に行くことになっていたと思う。

 でもそうならなかったのは、龍人の存在があったからに違いない。それだけは言い切れる。

 

 不思議な時間だったけど、悪い時間ではなかった。

 

「ありがとね」

 

 静かな玄関で、不在の家主に感謝を伝えて、アタシは一人で扉を開けて外に出た。

 今度こそ本当にお別れだ。預かった鍵を玄関のポストに入れた時、少しの寂しさに襲われた。

 

 

 

 

 ★

 

 

 

 

「リサ!」

 

 龍人の部屋を出て一時間後、よく晴れた空の下、アタシは呼ばれた名前に振り返る。

 

「ごめんね、遅くなって」

「ううん。こっちこそ、休みなのに朝からごめんね」

 

 待ち合わせたカフェに現れたマネージャーが、コートを脱ぎながらアタシの座るテーブルに近づいてくる。

 

「今日午後からでしょ? 寝てなくて良かったの?」

「うーん。寝たいけど、そうもいかない」

「高校生?」

「そこ強調しないでよ。何飲む?」

「ブラックでいいよ」

 

 椅子に座るマネージャーの言葉に、店員を呼んで注文をする。

 

「それで昨晩はどうだったの?」

「どうって言うか……」

「ハンバーグ作ってあげたんでしょう?」

「まぁ、それくらいはね」

「それでそれで??」

「……」

「何? 進展あり!?」

 

 黙り込んだアタシを、マネージャーが興奮したように身を乗り出て見る。その期待に満ちた眼差しに顔を背けたくなる。

 

「進展とかフツーに無いから」

「じゃあ、何よ? 告白でもされた?」

「それは……」

「え? 当たり?」

 

 マネージャーの言葉に、体温がゆっくりと上がる。

 

「告白ではない……と、思う」

「だったら何?」

「お、落としたいって」

「ほう」

「だから、自分のことを知って欲しくて泊めてるって」

「随分ストレートに言うのね、彼って」

「たぶん、からかっているだけだと思うけど」

 

 運ばれてきたコーヒーに口をつけながら、マネージャーが考えるように黙り込む。

 

「それで、今日は午後からって言ってあるの?」

「一応は」

「ふーん」

「だから、仕事終わりマネージャーの部屋に行ってもいい?」

「いいけど、昼前には彼帰ってきちゃうけど」

「うん。大丈夫。それからはホテル探すから」

「帰らないの?」

「え?」

「高校生の所」

 

 そんな風に聞かれると、龍人の顔が嫌でも浮かぶ。

 

「もう行く気ないし、会うつもりもない」

「でも向こうは、リサのこと好きなんでしょ?」

「だからそれは……」

「傷つくよ? 挨拶もなくいなくなったら」

「でもさ」

「ん?」

「それなら余計に会えないかなって」

「どういうこと?」

「中途半端なことして、期待されても困るってゆーかさ」

「期待、ね」

「だから、アタシも彼のことは頼らない」

「……」

「……な、なに?」

 

 マネージャーが文句アリって顔で見てくる。

 

「嫌いじゃないんでしょ?」

「え?」

「その高校生のこと」

「……」

「黙り込んでないで、素直になれば?」

「それは、やっぱり色々親切にしてもらったから嫌いではないよ」

「むしろ、どちらかと言えば好き」

「いや、だからそれは違うよ」

「キュンってした?」

「きゅんって、意味わかんないから」

「だから胸の奥がドキドキしたりキュンってしたり、ときめいたか聞いてんのよ! てか、したんでしょう!?」

「なっ、勝手に決めつけないでよ」

 

 マネージャーの言葉に、頬が急激に熱くなる。

 

「だって、普通気持ち悪くない?」

「気持ち悪い?」

 

「どうでもいい男からそんなこと言われた状況で一晩過ごすとか、私だったら無理なんだけど。でもリサは昨日も同じ部屋で眠れたんでしょ? その時点で、リサにとってその男は普通よりも上にいるってことじゃないの?」

「そんなことは……」

「悪い気がしなかったから、その後も一緒に居られた」

「……」

「だいたい、あんたさっきから顔真っ赤よ。見ているこっちが恥ずかしいから」

「そんなことっ」

 

 慌てて両手で頬を押さえる。

 

「別に無理に離れようとしなくても、予定通り給料日まで居れば良かったのに」

「そんな予定ないから!」

「せっかくの出会いなのに」

「……出会いって」

「もう少し一緒に居るのもありだと私は思うけどね」

 

 そんなこと言われても……

 

「無理だよ。高校生だもん」

「たまにはいいんじゃない?」

「マネージャー!」

「だって、結婚するわけじゃないんだから、嫌な気がしないなら付き合ってみればいいでしょ? 相手はリサのこと想ってくれてるんだから」

「でもさ」

「たまにはさ、誰かにウザイくらいに愛されてみるのもいいんじゃない? リサはいつも、自分ばかり愛を使い過ぎなのよ」

 

 誰かに、愛される……

 

「まあ、今日一日考えてみたら? そもそも、高校生との恋に反対して欲しいなら、相談相手が間違ってるのよね。こんなに面白いネタ、盛り上げないわけないでしょ?」

 

 マネージャーが綺麗な顔でニコリと笑う。

 

「面白いって、アタシは真剣なのに」

「真剣に悩むってことは、その気ってことよ」

「もー……」

「まあでもそれとは別にしても、住む場所どうするの? 一応、兄には話してみたけど」

「本当?」

「うん。明日時間あるなら、物件見に行ってみたら?」

「いいの?」

「たぶん大丈夫。後で連絡してみるね。契約金のこととかはある程度融通利かせるとは言ってくれてたから」

 

 マネージャーのお兄さんは不動産屋に勤めていて、前に一人暮らしを考えていた時にも相談したことがあった。その後で例の元カレと同棲することになり、話を聞くだけで終わってしまったけど。

 

「ありがとう。助かる」

「いいえ。どうする? 仕事まで家来てゆっくりする? 少しは寝たいでしょう?」

「マネージャー、神!!」

「女神様ね」

 

 本当に、女神のように綺麗な笑みがアタシに向けられた。

 こんな言い方ずるいってわかっているけど、マネージャーに会って話をすれば、この数日の出来事をスッキリさせることが出来る気がしていた。

 

 強引で知りたがりのマネージャーが、答えを引き出してくれるんじゃないかって。

 だけど、そんな自分勝手なアタシの考えを見抜いているのか、マネージャーはカフェを出てからは龍人の話を一度も出さなかった。だから言い訳が出来ないまま、仕事に向かう時間を迎えることになった。

 

「頑張ってね、リサ」

「うん。ご飯もありがとね」

 

 仮眠を取らせてもらった上に、マネージャーはご飯まで用意してくれた。

 

「いいえ。明日来る前に連絡して。兄に連絡しておくから」

「わかった」

「もやもやしてる?」

「もやもやって?」

 

 顔を上げると、マネージャーが優しい目でアタシを見ていた。

 

「リサはわかりやすくて飽きないな」

「何それ?」

「ねえ、聞いてもいい?」

「ん?」

 

 玄関でスニーカーを履き終えたアタシは、マネージャーと向き合う。

 

「その彼がね、高校生じゃなかったらどうしてた?」

「……え?」

「例えば年下でもなくて、同い年や年上だったら? 年齢の問題がなければ、リサはあと何日、彼の部屋にいた?」

「そんなの……変わらないよ」

「そう?」

「当たり前でしょう?」

 

 本当はドキッとした。

 

「ふーん」

 

 心臓が、たしかに鳴った。

 

 だから少しだけ、このもやもやの原因がわかった気がした。あんな風に誰かに口説かれたのは初めてだった。

 

 

 

 

 ★

 

 

 

 

「リサってモテるでしょ?」

 

 それは中学のころから友達が出来る度に聞かれた言葉。だけどその度に首を横に振るアタシに、周りは信じられないと文句を言う。でも本当なのだから仕方ない。

 告白をされないどころか、男友達と呼べる存在もいない。その理由がわかったの社会人になった時に友達と行った合コンだった。

 

「リサちゃんって美人なせいか、話しかけにくいオーラあるよね」

 

 隣に座った男に言われた言葉。あまりにもストレートな言葉に、驚いて返事も出来なかった。

 確かに友達にはよく、第一印象とのギャップがあると揶揄われたりするけれど、そんなオーラを出しているつもりもなかったから驚いたし不快だった。初対面の男に嫌味を言われた気分になった。

 

 だから龍人に出会って戸惑った。あまりにも自然に話しかけてくる龍人に戸惑った。

 口説かれることもそうだけど、たった数日であそこまで距離を詰めてくる龍人は、どう考えてもアタシとは違う。

 社交的の域を超えていると思う。一体これまでどんな経験を積んできたのか、想像すると怖いくらいだ。

 

 だけど一番の戸惑いは、そんな龍人と過ごした数日が、自分にとって嫌な時間では無かったと言う事実だ。でも、アタシが何を思ったところで現実は変わらない。

 アタシと龍人では何もかもが違う。年齢だけが問題ではない。

 

 出勤してすぐレッスン着に着替えて、スタジオに向かう。けど、その前に飲み物を買おうと事務所の一階にある自動販売機に向かう途中、アタシは急いでいた歩を緩めた。事務所の待合スペースに、制服姿の背中を見つけた。

 だから思わず立ち止まった。いつか龍人が言った言葉を思い出す。

 

《もし帰って来なかったら、オレ制服のままリサの職場まで迎えに行くから》

 

 まさか、ね……

 

 再び歩き始めながらも、何度も確認するように視線を向ける。でも今日はバイトって言っていたから、まだ帰っていないはずだし。もしかしてバイト前に一度帰って、アタシの荷物がないことに気づいたとか? 

 いや、でもアタシの職場どころか職業も伝えていないし。名前と年齢だけで見つけられるわけない……いや、名前をネットで検索かければ引っかかっちゃうな。

 やっぱり気になってもう一度視線を向けたタイミングで、制服姿の背中がゆっくりと振り返った。

 

「アタシ、すごくバカだ」

 

 慌てて正面を向き直り、誰にも聞こえない声で呟いた。

 

 何やってるんだろう、アタシ。

 何考えていたんだろう、アタシ。

 

 恥ずかしさに進む足が速くなっていく。心臓がバクバク音を立てる。

 

 ああ、もうヤだ。本当にヤだ。こんなのおかしい。何がって、アタシがおかしい。だって。 

 

「あ、今井先輩お疲れ様です」

「お、お疲れ」

「……どうしました?」

「え!?」

「顔、真っ赤ですよ?」

「な、何でもない!」

 

 後輩の言葉に慌てて返事をして、すぐに立ち去った。だって恥ずかしいにも程がある。

 

「……居るわけないよ、バカ」

 

 振り返った姿は、少しも似ていなかった。たぶん冷静に見れば、制服だって似ているだけで違うだろうし、ただ少しだけ、背格好が似ていただけなのに。

 

「……もう、ヤだ」

 

 アタシ、何を期待したの? 心臓がどこまでもうるさくなる。

 

 ほんの数日の出来事なのに、言い訳出来ないくらいに変わっている自分がいる。

 最低な元カレのことで落ち込んでいたはずなのに。思い出すのは、上手くいっていると思っていた同棲生活の記憶だったのに。その度に、悲しさと悔しさに負けそうになっていたはずなのに。

 

 全てが遠い昔の出来事になったみたいに、アタシの中から薄れていく。それが嫌だった。

 自分がすごく薄情な人間みたいで嫌だった。

 実はアタシも、あの最低の元カレと変わらないくらいに、浮ついた人間に思えて嫌だった。

 自分の変化を受け入れることに、誰に対してなのかわからない後ろめたさがある。

 

 龍人はきっと、いい人だ。どれくらい遊び慣れているかは別にしても、人に対してすごく優しい人だと思う。

 でないと、自分の生活スペースに出会ったばかりの他人を入れるのは、しかも数日間泊めるなんていうのは無理だと思う。それを嫌な顔一つせずに出来てしまう龍人は、例え下心があったとしても、優しい人だと思う。

 

 だから、彼の言葉を信用していないわけじゃない。マネージャーに指摘された通り、嫌な気はしなかった。

 むしろあんな風に言ってもらえる自分が、少しだけいいモノになった気がした。

 最低な男に捨てられるくらいに価値のない自分が、価値のあるものになった気分だった。

 

 でもそれが、ときめきや恋かと言われたら違うと思う。もっと狡くて醜い感情だと思う。

 もしも龍人の言葉が全て事実で、本当にアタシを想ってくれているのなら、やっぱりこれ以上会うべきじゃないと思う。不釣り合いだ。アタシとなんて。

 

「今井さん、大丈夫?」

「え?」

「今日、あんまり喋ってなかったし」

 

 スタジオ一緒に練習していた先輩がアタシに話しかけてきた。

 

「普段から練習中はあんまり喋らないタイプですから」

「でも今日は顔が怖い」

「え、そんなにヤバい顔してますか?」

「男にフラれた顔してる」

「先輩、それ最悪ですね」

 

 今日一日、同じところでグルグル回っているような情けない自分に、両手で顔を覆った。

 

「……疲れた」

 

 練習を終えて事務所を出ると、いつも以上に疲れているのを感じる。もちろん仕事に集中しているけど、少しの間が出来ると頭が勝手に考え始めてしまう。忘れようと言い聞かせるほどに、余計なことまで思い出す。

 部屋に置かれていたCDとか、いい香りのする石鹸とか、朝見た寝癖とか。とにかく龍人に関わることを、どうでもいいことばかりどんどんと。自分を追い詰めるみたいに。

 駅に着き、マネージャーに今から行くとメッセージを打つ。とりあえず寝よう。そうしたら少しはスッキリするかも。それから家を見に行って、早く次のスタートを切ろう。

 だってほら、明日は給料日だから。一週間なんて、あっと言う間だ。

 

「ない!」

「何?」

「え、なんで?」

「だから何がよ?」

 

 昨日来たばかりの同僚の部屋に着いて早々、スーツケースの中を漁るアタシを、ソファに座り髪をセットするマネージャーが振り返り見る。

 

「充電器! 絶対ちゃんと持ってきたはずなのに」

 

 もう一度ポーチの中も確認するけれど、やっぱり見当たらない。昨日から充電していなかったせいで、もう電池が十%を切っているのに、肝心の充電器が見つからない。

 

「忘れてきたんじゃない?」

「え?」

「男子高校生の部屋に」

「そんなはずない! 絶対に入れたし」

「でもないんでしょ?」

「それは……」

「使う?」

「使う」

 

 差し出された充電器に素直に手を伸ばす。絶対に持ってきたと思ったのに。起きてすぐにコンセントから抜いたのは覚えているのに。

 

「どうするの?」

「ん?」

「取りに行くの?」

「……買うからいい」

 

 忘れ物したからと言って会いに行けるわけないよ。

 だってほら、龍人のことだから、返して欲しかったら一泊してとか言われそうだし、昨日はどこに居たのか聞かれたら、職場がバレる可能性もあるし。

 

「取りに行きなさいよ」

「……え」

「だって彼も迷惑でしょう? そんな置き土産されても。余計にリサへの未練が残るわよ」

「そんな」

「あーあ、可哀想……ってことで私は仕事に行くから」

 

 準備を終えたマネージャーが立ち上がり、悪戯な視線を向けてくる。それに続いて不満顔で立ち上がったアタシは、玄関まで家主を見送りに行く。

 

「鍵返すの明日でいい?」

「うん。1時には兄が迎えに来るから、部屋探し頑張ってね」

「マネージャー、色々ありがとう」

「良い報告、期待してるからね」

「良い報告って」

「年下の、男の子~♪」

「もう! 古いから! いってらっしゃい!」

 

 鼻歌交じりのマネージャーを送り出してから、疲れ切った身体を布団に預けた。

 

 どうしよう……充電器。

 買えば済むはずの選択肢なのに、それに踏み込めない焦ったさが鬱陶しかった。

 

 

 

 

 ★

 

 

 

 

「最初に見た部屋、明後日には入れそうだけど、どうする?」

 

 昼間から始まった部屋探しは、気づけば夕方になっていた。

 マネージャーのお兄さんが紹介してくれた物件はどれも良かったけど、その中でも一番気に入ったのは最初に見に行った部屋だった。

 

 1LDKの部屋は、10畳のキッチンダイニングスペース、6畳の洋室がスリガラスの引き戸を挟んで続き間になっていて、戸を開けておけばかなり広いワンルームのような間取りになっている。

 何よりもお風呂が広くて綺麗なのが気に入った理由だ。それにオートロックにもなっているから、一人暮らしは初めてだけど安心出来る。

 

「はい、あの部屋でお願いします」

「了解。じゃあ、手続き進めるね」

「あ、えっとお金は明日でもいいですか?」

「ああ、いいよ。可能な分を持ってきてくれれば、足りない分は俺が立て替えておくから」

「え、でもそれは申し訳ないです!」

「いいって。色々大変だったって妹から聞いているから」

「でも……」

「まあ、大手の不動産屋じゃ無理だろうけど、うちは個人でやっている分、融通も利くから甘えてよ」

 

 いくらマネージャーのお兄さんとは言え、優し過ぎる気遣いに申し訳ない気持ちになる。自分が情けない。

 

「そんなに気になるなら、この後飯でも行かない?」

「え?」

「ラーメンでも奢ってよ」

 

 兄妹揃って美形なだけでなく、話し上手なお兄さんは大手から引き抜きの誘いが来るほど優秀な営業マンだとマネージャーは言っていた。その上、中学の同級生とずっと付き合っていて、今年の夏にめでたく結婚をするらしい。

 なんて言うか、絵に描いたような理想の男性。アタシもこういう人と出会いたかったな。

 

 そんな無意味なことを考えながら、お兄さんの提案に頷いたアタシは、彼の車で一緒にラーメン屋に向かった。

 

「雨止みそうにないね」

 

 二人合わせても千五百円もしなかったラーメンは、奢ったと言っていいものか悩む。そんなアタシの隣で、雨を落とす夜の空を見上げたお兄さんが呟いた。

 

「すみません、遅くなってしまって」

「いいよ。送っていくから」

「いえ、そこまでしてもらうのは」

「遠慮しないで。さすがにこの雨だと歩いて帰るのきついから。しかもあの荷物の量で」

 

 その言葉に、スーツケースの存在を思い出す。

 

「ホテルは取ってあるの? それとも妹の部屋に送ろうか?」

「あ、えっと」

「さすがに俺の部屋には泊められないからね」

「当たり前です!!」

 

 慌てて答えると、お兄さんがケラケラ笑った。こういうところもマネージャーっぽい。

 

「リサちゃんが動きやすい場所まで送るよ」

 

 部屋探しに夢中で、今日泊まるホテルを確保するのをすっかり忘れていた。明日も仕事だから、出来れば通勤しやすい場所がいいけど。

 

「あ」

「ん?」

 

 充電器……

 

「あの」

「何? どうしたの?」

「泊めてあげた人の忘れ物が家にあったら、やっぱり困りますか?」

「え?」

「しかもその人と連絡が取れなかったら、捨てるのにも困るのかなって」

 

 そんなことをお兄さんに聞いても仕方ないのに、他に聞く相手がいないから聞いてみた。

 

「まあ、勝手に処分するのは気が引けるよね」

「……ですよね」

 

 自分がその立場でもそうだと思う。ましてや充電器なんて、捨てるに捨てられない。

 困り果てて、いつまでも部屋の片隅にあることになるだろう。

 

「すみません……寄りたい所があって、そこまで送ってもらってもいいですか?」

 

 頭を下げたアタシに、お兄さんは快く承諾してくれた。

 

 どうしよう。アタシは、どうしたいのだろう。

 

「ここでいいの? 用事済むまで待っていようか?」

 

 車で走って二十分程、すっかり見慣れてしまったアパートの前に着いた。

 

「いえ。大丈夫です。本当にありがとうございます」

「どういたしまして」

「明日仕事の前に一度伺います」

「了解。わからないことがあれば連絡して」

「はい。ありがとうございます」

 

 車を降りたアタシに、お兄さんは「おやすみ」と声を掛けてから、雨の中に消えて行った。

 

「……はあ」

 

 一人きりになったアパートの前で、アタシは小さな溜息を吐く。

 充電器を受け取ったらすぐに帰ろう。部屋には上がらないようにしよう。それから……

 

「リサ?」

 

 これからのことを考えていたアタシの耳に、その声が飛び込んできた。

 驚いて振り返ると、コンビニの袋を手にした龍人が、傘をさして立っていた。

 

「リサ、何してんの?」

「あ、あの……」

「ごめん、待たせた?」

「え?」

「寒かったろ」

 

 戸惑うアタシに、龍人は慌てて傘を閉じると、すぐに目の前まで駆け寄って、そんな優しいことを言ってくれる。

 それから部屋の鍵を取り出すと、当たり前のようにアタシを中へ招こうとした。

 

「待って、龍人!」

「ん?」

 

 このまま中に入るわけにはいかない。

 

「あの、アタシ忘れ物をしちゃってさ」

「忘れ物?」

「うん。それを取りに来ただけなの。だから、すぐに帰るつもりで」

 

 重なった視線が、射貫くようにアタシを見る。

 

「忘れ物って、何?」

「あ、えっと、充電器」

「……ロフトの上かな?」

「そ、そうかも」

「わかった。すぐに取ってくるから、せめて玄関で待ってて。外は寒いし」

 

 あまりにもあっさりと部屋の中へ入って行った龍人に、拍子抜けした気分だった。もっと色々なことを追及されると思っていた。

 だけどこのまますぐ帰ることになりそうだ。ホッとすればいいのに、そうなれない。

 

「あったよ」

 

 リビングに続く扉が開いて、龍人が充電器を持って現れた。その髪が、雨で少し濡れている。いつもはふわっとした髪が、元気なく見える。

 

「やっぱりロフトだった」

「そっか、ありがとう」

「うん」

 

 アタシよりも大きな手から充電器を受け取る。

 

「じゃあ、もう行くね」

 

 あまりにも簡単だった。もっと苦労すると思っていたのに、そうじゃなかった。これではまるで違う展開を期待していたみたいで、アタシは急いで背中を向けた。

 

「鍵開ける」

 

 背後から聞こえた声と同時に伸びてきた手が、ドアノブの下の鍵に触れる。

 

「あ、鍵、かけてないから」

 

 玄関に通されてから、そのままにしていた。

 だから鍵は開けなくても……そう思った時、目の前の手が確かに動いた。龍人が、鍵を締めた。

 

「え、龍人?」

「ごめん」

 

 わけがわからず振り返ろうとした身体は、背後から伸びてきた彼の両腕に閉じ込められて、身動きが取れなくなる。背中に触れた熱に、心臓が止まりそうになる。

 無防備な耳たぶを、その呼吸がくすぐる。怖いほどに、ドキドキしている。

 

「龍人、アタシ、帰らないと」

「さっきの男、誰?」

 

 いつもよりも低くい声。だけどいつもの強引さはなく、まるで泣きそうなほど弱気な声。

 

「さっきのってん」

「本当はリサが車から降りてくるところから見ていたんだ。でも怖くて、声掛けられなかった」

「怖いって」

「今はすごく、イラついてる」

「龍人」

「でもそういうこと聞いたら、うざいと思われるだろうから我慢するつもりだったんだけどさ」

 

 首元に顔を埋めた龍人の息が、アタシの肌に触れる。

 

「やっぱ、無理。余裕ぶったり、大人ぶったりしたいのに、全然出来ない」

 

 何これ? なんなの、これ? 

 

「リサ、昨日あの男の部屋に居たとか言わないよね?」

 

 もしかして、アタシの心臓壊れてる? 

 

「てか、今日もあの男の」

「昨日は遅かったから、マネージャーの家泊まったの」

「……え」

 

 心臓どころか、頭も壊れたの? 

 

「ちなみにマネージャーは女性だから」

 

 緩んだ腕の中で振り返ると、相変わらず綺麗な顔をした高校生と目があった。

 

「そんな夜遅いって、リサなんの仕事してんの?」

「それは……」

「言いたくないような仕事?」

「まぁ」

「キャバとか?」

「いや、違うから」

「そっか。でも気になる」

「そ、そういうのは言わないって約束でしょ? とにかく、昨日は仕事だったの。それにあの人は友達のお兄さんで、不動産屋さんだから今日は物件を紹介してもらって」

「物件?」

「新しい部屋見つかったの……それに婚約者だっている人なんだから、変な誤解しないでよ」

「じゃあ、今日は?」

「え?」

「今日はどこに泊まるの?」

 

 龍人がアタシを逃がさないように見つめるから、逃げるように顔を背ける。

 

「それは、今からホテルを探そうと」

「いいよ、探さなくて。ここに泊まればいい」

「それは」

「リサ」

 

 そんな目で見ないで欲しい。そんな声で呼ばないで欲しい。

 

「帰らないで、ここに居ろよ」

 

 お願いだからそんなこと、言わないでよ。

 

「……明後日までだからね」

 

 ほら、もう本当に。アタシは弱い人間だ。

 

「ん、ありがと」

 

 どうかしている。こんなことおかしいのに。こんな予定じゃなかったのに。さっきから熱くて仕方ない。全部全部、龍人のせいだ。

 

「今日はハンバーグじゃないの?」

 

 結局泊まることになったアタシは、コンビニ弁当を食べる龍人を、ソファに座りながら眺める。

 

「さすがに毎日食べるわけじゃねーし。それに、リサのハンバーグ食べたからっつー方が大きいかも」

「アタシの?」

「ん。だから、ほかのハンバーグの魅力が薄れたってカンジ」

「……」

「また作ってね」

 

 そう言って、甘く目を細める龍人にまた、心臓が煩くなる。年下のクセに、どうしてこうも口が上手いのだろう。

 

「アタシ、先にお風呂借りてもいい?」

「いいよ。疲れた?」

「……疲れた」

「リサってさ」

「何?」

「俺のこと好きだよね」

「……は!?」

 

 ソファに座るアタシを見上げる男の目は、やっぱり少し垂目で、何故か色気がある。

 

「たぶん、まだ少しだろうけど」

「何勝手なこと言ってるの? バカみたい」

「もうすぐ落ちそう?」

「落ちないから!」

 

 熱くなる頬を見られたくなくて、アタシは急いでリビングを出て、お風呂場へと向かった。

 さっきは弱気なことを言っていたのに、急にあんな発言をしてくるなんて。

 考えれば考えるほど、顔を合わせるのが気まずくなる。

 赤く染まる肌が、シャワーのせいなのかもわからない。

 万が一この気持ちの正体が好きだとしても、それを言葉に出来るほど、アタシはまだ龍人のことを知らない。

 その言葉がどこまで本気なのかも、正直わからない。

 

 もう、恋をして傷つくのは嫌だ。

 

「リサ、もう寝るの?」

 

 お風呂を出て早々にロフトに上り布団を敷いたアタシを、龍人が下から見上げる。

 初日こそ気にしたスッピンも、今は抵抗なく見せてしまう。

 

「明日は仕事の前に不動産屋に行くから、もう寝たいの」

「でも、まだ9時半だけど?」

「別にいいでしょ」

「オレが風呂出るまで待っててよ」

「なんで?」

「一緒にDVD観るから」

「観ないから」

「今日は映画じゃなくてお笑いのだから、そんなに長くないから」

「アタシはもう寝るから一人で観て」

「……」

「な、何よ?」

「とにかく、オレが戻ってくるまで寝るの禁止」

 

 不満そうに顔をしかめてそう言うと、龍人はさっさと部屋を出て行った。こういうところは相変わらず強引だ。

 だけどその言葉に素直に待ってしまう自分もどうかと思う。そして待つこと二十分。ドライヤーの音が消えた直後、龍人は戻って来た。

 

「リサ、お待たせ」

「お待たせって、え、何?」

 

 身体を起こしてロフトから顔を出すと、龍人を見つける前に部屋の電気が消えてしまった。

 それに驚いて、布団の上に置いたスマホに手を伸ばすと、ロフトに繋がる梯子が軋む音がした。

 

「え、待って」

「一緒に観るって言ったじゃん」

 

 振り返ると、シャンプーの匂いを纏った男と目が合った。

 ロフトの上にDVDを観る為のプレイヤーを置いた彼は、また下へと戻って、今度は布団を抱えて現れた。

 

「もしかして、ここで観る気?」

「そうだよ?」

 

 当たり前のようにアタシの布団の隣に自分用の掛け布団を置くと、持ってきたポータブルプレイヤーを枕元にセットする。

 

「何考えてるの?」

「面白いから」

「面白い?」

「そ。だから一緒に観たいだけ」

「アタシ、もう寝るつもりで」

「眠くなったら止めるから」

「でもだからって、なんで龍人まで布団?」

 

 DVDを観ることよりも、そっちの方が問題だ。なのに龍人は、何も不思議ではないと言いたげな表情で言葉を続ける。

 

「寒いから。リサ、もう少しそっちに寄って」

「寄るって」

「掛け布団しかないから。敷き布団半分わけて」

「や、やだよ!」

「でもそれオレの布団だし」

「なっ!!」

 

 それを言われると、反論なんて出来ないわけで。

 

「掛け布団持ってきただけでもマシでしょ」

 

 そう言って距離を詰める龍人を無言で睨んだ。

 それからは本当にただ二人でお笑いのDVDを観た。龍人はあまり声を上げて笑うタイプではないらしくて、たまにフッと口元を緩めて笑っていた。

 時々自分の好きな芸人さんの話をアタシにしてくれた。

 勤務が不規則な分、決まったテレビを観ることがないから、流行りの芸人さんとかをあまり知らないアタシに、龍人は目を丸くして驚いたりもした。

 でもそれは不快な感じではなくて、知らないと言ったアタシに龍人は嬉しそうに説明をしてくれた。

 

 だけどそれも一時間が過ぎるとさすがに眠くなる。だって今日は、部屋探しで動き回ったんだもん。さっきまで画面を観ていた顔はもう、枕に埋まっている。

 

「リサ、眠い?」

「……ん、眠い」

 

 龍人の柔らかな声が遠くに聞こえる。でも実際はすごく近くにいることを、その体温で感じる。

 

「リサ?」

「ん……なに?」

「もうすぐ終わるから」

「うん」

 

 瞼が、ゆっくりと視界を閉ざしていく。

 

「リサ」

 

 もっと話さないといけないことがあるはずなのに。今日だって本当は、ここに居るはずじゃなかったのに。

 

「ねぇ、起きないとキスするよ」

 

 どうしてだろう。こんなにも温かくて心地良い。

 

「リーサ」

 

 また龍人に名前を呼ばれるこの夜が愛おしい。寂しかった心を、どんどん埋めていく。

 

「本当に……無防備過ぎだろ」

 

 龍人は、アタシのことをどう思っているのだろう。

 

「ねぇ、本当にキスしちゃうけど?」

「……」

「あと1センチだけど、起きないの?」

 

 こんな年上の女を、本当に恋愛対象として見てくれているのだろうか。もしそうなら……

 

「リサ、キスするよ」

「……ん」

 

 もしそうなら、嬉しいな。

 

「なんて言って出来たら苦労しないんだけどな……おやすみ、リサ」

 

 夢を見た。だけど内容は覚えていなかった。でも夢の中で誰と居たのかは、思い出さなくてもわかる気がした。温かい夢だった。

 

「おはよう」

 

 ロフトから下りると、もう制服を着ていた龍人が声を掛けてくれる。その笑顔は今日も甘い。

 

「おはよう……早いね」

「もうすぐ卒業式のわりに、うちの学校やること多いんだ」

「そっか……」

 

 そうだよね。もうすぐ三月だから、卒業だよね。

 

「リサ、今日は何時くらいに帰ってくる?」

「あ、うん。八時くらいかな」

「わかった」

 

 龍人が嬉しそうに笑う。だから少し、気持ちが油断する。

 

「遅くなってもいいなら、ごはん作ろうか?」

 

 ただのお礼の気持ちだから。

 

「なら、リサ帰ってくるの待ってる」

 

 別に深い意味なんてない。

 

「コーヒー、淹れてもいい?」

「そんなこと聞かなくてもいいのに」

 

 キッチンに入るアタシの後ろを、龍人がついて来る。それが何だか、くすぐったい。

 

「リサの髪って、綺麗だね」

 

 コーヒーを淹れるアタシの髪を、龍人が当たり前のように指先で遊ぶ。

 

「羨ましい」

「言われた事無いけどね」

「そうなの?」

「うん」

「龍人はパーマかけてるの?」

「いや、俺は天パーだから」

 

 そう言って目を細めて笑った龍人のふわふわの髪が揺れた。

 

「お洒落パーマかと思ってた」

「何それ?」

「生意気な高校生だなって」

 

 コーヒーに口につけながら答えたアタシに、龍人がケラケラと笑う。

 

「お洒落に見えたなら、毎朝頑張ってる甲斐がある」

「頑張ってるの?」

「リサには格好良いとこ見せたいからな」

「……アタシ?」

「寝起きは酷い時は爆発してるから、リサが起きてくる前に確認してる」

 

 そういう何気ない言葉ですら、今のアタシには凶器らしい。

 

「そんなこと頑張らなくてもいいのに」

「ん?」

「アタシなんて毎朝スッピン見られてる」

「リサは可愛いから問題ないよ。スッピンでも化粧してても」

 

 朝から、糖分高い。それこそ、苦いはずのコーヒーも甘く感じる程に。

 

「龍人も十分格好良いじゃん」

 

 気を張っていたいのに、溶けそう。

 

「リサ」

「何?」

 

 整った顔が、僅かに距離を詰める。

 

「そういうこと言うと、キスしたくなる」

 

 その言葉と一緒に近づいて来る顔を見ながら、ゆっくりと瞼を閉じたことに、意味なんてない。

 

 意味なんて持てないくらいに、無意識だったんだ。

 

 まるでそれが当然の行為のように、まだ眠たさの残るアタシの脳は、ゆっくりと速度を上げながら、目の前の男に浸食された。

 

「……」

 

 静まり返る部屋に、時計の針だけが音を立てる。

 まるで息が止まったような沈黙に、アタシの唇は冷たいままで、描いていた一分後の未来が訪れないことに疑問に思い瞼をゆっくり開けた。

 

「……は?」

 

 困惑しながら目を開けたアタシの前には、やっぱり龍人が居た。その瞳に、真っ直ぐにアタシが映る。

 そしてアタシの目にも、龍人だけが映る。

 数分前、余裕そうな顔で生意気な色気を垂れ流しながらアタシに近づいた男。

 なのに今、アタシの目に映るのは、漫画みたいに真っ赤な顔をした龍人だった。

 

「龍人?」

 

 重なった視線から逃げるように、龍人が顔を背ける。

 

「リサってなんなの?」

「なんなのって、それはこっちのセリフで」

「あんな顔見せられたら、キスなんて出来ないだろ」

「はい?」

「だいたい何でキスしようとしてんだよ。バカじゃない」

「バカって」

「ああ、もう……」

 

 項垂れるように龍人がしゃがみ込む。

 

「ねえ、流石に意味わかんないんだけど……」

 

 自分がしようとしたクセに。

 

「リサは、鈍いクセにズルい」

「ずるい?」

 

 拗ねたのかアタシを見ようとしない龍人の前にしゃがみ込むと、その耳はまだ赤かった。

 

「今、オレとキスしようとしたんだよ? わかってる?」

 

 チラリとアタシを見た龍人の視線に、自分の行動が一気に現実味を帯びて体温が上がる。

 

「だって、龍人がするって」

「拒否られると思ったんだよ。いつもみたいに抓ってくれないと困る」

 

 どこまでも勝手な言い分に腹が立ちそうなのに、何故だかそんな気分にもならない。

 

「だったら、変な冗談言わないでよ」

 

 ただ心臓が煩くて仕方ない。

 

「……て言うか、そろそろ学校行かなくていいの?」

 

 こっちを見てくれない龍人の天パの髪に手を伸ばした。

 触ったら、柔らかそうな髪……そう思って伸ばした手が突然掴まれた。逸らされていた視線が重なった。

 

「龍人?」

「……冗談じゃないから」

「え?」

 

 その言葉に首を傾げた瞬間、

 

「オレだって、男だよ」

「わっ、え、待っ……」

 

 今まで知らなかった力で身体を引き寄せられたと同時に、冷たかった唇に今度こそ熱が触れた。

 

「……んっ」

 

 触れた熱は、すぐに離れていく。

 

「リサ」

 

 ただその綺麗な顔が目の前にある。

 

「な、何?」

 

 たぶんアタシ今、この男とキスをした。

 

「やっぱり早くリサが欲しい」

「へ?」

 

 握られた右手が熱い。

 狭いキッチンに座り込むアタシの背中に、その手が触れる。

 

「全然足りない」

「あ、あの」

「もっと、したい」

「りょう、んんっ」

 

 いつも甘い瞳が、一瞬の鋭さを見せた直後、唇がまた重なる。それは息をする間もないくらいのキスだった。

 

 離れたと思ったら、逃がさないようにまた塞がれて。

 息をする隙に、舌を捻じ込まれた。いとも簡単に絡め取られた舌が、恥ずかしい音を立てる。

 

 一体こんなキスどこで覚えたんだとか、本当にこれが高校生なのかとか、思うことは沢山あったけど、そんなことを考える余裕はどんどん奪われて、気づいた時には床の上に押し倒されていた。

 

 漸く離れた龍人の唇が、全てを物語るように濡れている。

 無意識に掴んでいた制服のシャツには、皺が寄っている。

 

「リサ」

「ダメ……」

 

 そしてまた近づいて来る唇に、思わず右手を出した。

 

「も、もうダメ!」

 

 接近してこようとする唇を右手で塞いだアタシに、その顔がわかりやすく不満を訴える。

 

「学校!!」

「いいよ、別に」

 

 龍人がアタシの手を掴み、自分の口元から離す。

 

「よくない!」

「なら、帰ったらまたしてくれる?」

「へ?」

「この続き」

 

 そう言って、少し垂れた目尻を細めた龍人の舌が、中指と薬指の間を撫でるように舐めた。

 

 どうしよう。理性が吹っ飛びそうだ。

 

 

 

 

 ★

 

 

 

 

「何? 朝から高校生とセックスでもしたの? それとも朝までヤってたの?」

 

 職場について早々、事務所で顔を合わせたマネージャーの言葉に、持っていた荷物を落としそうになった。

 

「なんでそうなるの!?」

「顔に書いてあるから」

「顔にって……」

 

 思わず自分の顔を両手で触る。

 

「セックスしてきましたって顔してるわよ?」

「してないし、何もないから!」

 

 急いで否定して、ロッカーの鏡で自分を確認する。

 

「でも昨日も泊まったんでしょう?」

「えっと、それは」

「さっきから幸せオーラが出てる。ホテルに一人寂しく泊まった女の顔ではないわね」

「幸せオーラって」

「別に今更隠すことでもないでしょう?」

 

 確かに、マネージャーの言うことは間違ってはいない。だから素直に頷いた。

 

「良かったね」

「え?」

「上手くいったってことでしょう?」

「上手くって、別にそういうつもりで泊まったわけじゃないから……」

「じゃあ、どういうつもり?」

 

 マネージャーの問いかけに、今朝の出来事を思い出す。それだけで体温が上昇するのがわかる。いつまでも気づかないフリが出来ないことは、自分が一番わかっている。

 

「リサ?」

「……アタシ、つい数日前に彼氏にフラれたんだよ?」

「ああ、うん。そんなこともあったわね」

「なんか、都合が良すぎない?」

「どういう意味?」

「……龍人の気持ち、利用してるみたいでさ」

 

 昨日も今日も思い浮かぶのは、半年も同棲した男ではなくて、たった数日を一緒に過ごしただけの男の顔。龍人の甘くて柔らかい笑顔。

 

「リサはさ、100%を求め過ぎなんだよ」

「え?」

 

 顔を上げると、マネージャーが溜息を吐いていた。

 

「好きって気持ちの大きさや、好きになっていく速度なんて人それぞれなんだから、無理にその高校生と同じになろうとすることないでしょ? 今はまだ高校生の気持ちに比べたら小さい感情かもしれないけど、確実にリサの気持ちの中に彼がいて、その想いが僅かでも成長しているなら、それでいいんじゃない?」

「マネージャー……」

「だいたい利用しているって話なら、高校生のほうがよっぽどリサのこと利用しているでしょ?」

「龍人が私を?」

「そう。だって、傷心のリサが泊まる場所に困っているとこに付け込んで口説いてるんだもん。それならリサがそこに甘えても、誰も文句言わないわよ。お互い様」

 

 そういうものなのだろうか。

 

「だいたい嫌なら今すぐに切ればいい関係なのに、今も一緒に居るって時点で、リサの中に彼を想う気持ちは生まれているってことでしょ? それならあとは単純なことで、その気持ちを育てたいなら、その高校生の胸に飛び込めばいいのよ。一人で悩むより、二人で好きって気持ちを育てていくの。彼だってそれを待っていると思うけど?」

 

 龍人と一緒に、気持ちを育てる。

 今はまだ不安定な、芽生えたばかりの気持ちだけど……

 

「帰ったら、龍人と話してみる」

 

 それでも龍人なら、受け止めてくれるかもしれない。キスをした時の、真っ赤な顔を思い出す。

 

「頑張りなさい、リサ」

 

 そう言ってアタシの背中を叩いたマネージャーに、ありがとうと伝えてから、ロッカールームを後にした。

 

 夜、仕事を終えたアタシは急いでスーパーに向かった。

 

 職場を出て電車に揺られている間もずっと、何を作ろうか考えていた。

 待ちに待った給料を、朝一番で降ろしたから、少しは贅沢が出来る。この一週間、お世話になったお礼の気持ちもあるのだから、ちゃんとした物を作りたいし、何より龍人に喜んでもらたい。

 たいして美味しいわけでもないアタシの料理を、龍人が美味しいと言って食べてくれたから、粉々だったプライドが、少しだけ救われた気がした。

 

 正直、彼への気持ちが本当に恋なのかはわからない。好きだと思うけど、まだそこに踏み出す勇気がない。でも一緒に居るのが嫌ではないのも事実で、この胸のモヤモヤが龍人のせいなのも確かだ。

 

 それにしても、連絡先、聞いておけばよかった。辿り着いたスーパーで、人参以外に苦手な物があるのか気になったけど、連絡を取る手段もない。

 

「どうしよう」

 

 やっぱり男の子はお肉かな。肉じゃがなら作れるかも。でも肉じゃがって狙い過ぎ? そもそも若い子って肉じゃがとか食べるのかな? おばさんっぽいとか思われたらどうしよう……

 

 あ、でも若い子と差をつけるために肉じゃがってアリなのかも……って、何を考えているのだろう、アタシ。差をつけるって、いったい誰をライバル視しているのか。

 

「……帰ったら、連絡先を聞いてみよ」

 

 タイムセール目当てのお客さんで賑わうスーパーで、アタシは肉じゃがの具材をカゴに入れた。

 

 本当にアタシは単純だ。単純で、大事なことをすぐに忘れて浮かれてしまう。

 人生は過酷で、どれだけ前向きになっていても、突然大きな穴に落とされる時があることを、アタシはすっかり忘れてしまっていた。

 

「おかえり、リサ」

「ただいま。遅くなってごめんね」

「大丈夫。でも、待ちくたびれた」

「じゃあ、すぐ作るね」

 

 どれだけ真面目に生きていても、どれだけ正直に生きていても、突然どこからともなく災いは降りかかる。

 

「何作るの?」

「……肉じゃが」

「オレ、肉じゃがも好物だよ」

「美味しいかはわかんないけどね」

「リサが作るんだから、絶対美味しいだろ」

「急いで作るから、向こうで待ってて」

 

 だけど知らないアタシは、いつもいつも起きた後に気づくのだ。

 

「いいよ、ゆっくりで」

「でもお腹すいたでしょう?」

「うーん。まあまあ」

 

 そう笑った龍人に続いて入ったリビングで、いつもと違う光景を見つけた。

 

「実は少し前にドーナツ食べたんだ」

 

 少し申し訳なさそうに言う龍人の顔を見ないまま、アタシはその一点を見つめた。

 

「……ねえ、龍人」

「ん?」

「誰か、来ていたの?」

 

 ソファの前に置かれた小さなテーブルの上には、初めて見る赤いマグカップ。その横には、いつも龍人が使っている青いマグカップが並んでいる。言われなくても、お揃いだって分かる。

 

「うん。来てたけど」

「あのマグカップ、初めて見た」

 

 アタシの言葉に、龍人の視線もテーブルに映る。

 それから目を細めた龍人は、

 

「ああ、あれは(かえで)専用なんだ」

 

 当たり前のように、知らない女の名前を口にした。

 

「かえで?」

 

 龍人の顔を見ることが出来なかった。

 

「うん。貸していたDVDを返しに来たんだって」

「……そう、なんだ」

 

 いつもは冴えていない勘が、こんな時にばかり働く。

 

「そうしたら、楓が泊まるとか言い出して、ちょっと焦ったけどね」

 

 まだこんな時間なのに、龍人から石鹸の香りがする。

 

「まさかリサに会わせるわけにもいかないし、急いで帰らせたんだ」

 

 いつもは綺麗なベッドのシーツが乱れて見える。

 

「その子、よく来るの?」

「うーん、結構来てるかも」

「……仲良いんだね」

 

 口にした言葉には、棘があるかもしれない。

 

「そりゃね」

 

 だけど龍人はいつも通りの優しい声で答える。棘があるのは、龍人の方だ。

 

「もしかして、洗面所の歯ブラシもそのかえでさんのだった?」

「そうそう。いつ来てもいいように置いてある」

 

 甘い声が、急に悪魔のように思えた。

 

「龍人、彼女いないって言ったよね?」

「いないけど、もうすぐ出来るかも」

「え?」

 

 その言葉に、漸く龍人の顔を見た。少し目尻の下がった、甘くて優しい顔。

 

「リサがなってくれるかなって」

 

 だから余計に悲しくなった。

 

「……帰る」

「え?」

「ごめん。やっぱり帰る」

 

 首を傾げる龍人の横を通り過ぎて、荷物の置いてあるロフトに向かう。

 

「リサ?」

 

 そんなアタシに、龍人が不思議そうな声を出す。それに少し腹が立った。

 どうしてこんなにも普通なのだろう。自分が何を言っているのかわかっているのだろうか。て言うか、こんな風に知らされるくらいなら、隠しておいて欲しかった。だって、まるでアタシがおかしいみたいだ。

 

「リサ、どうした?」

「触らないで!!」

 

 掴まれた腕を、反射的に振り払った。

 

「リサ?」

 

 涙が零れそうで、唇を噛んだ。

 

「ごめん、オレ何かした?」

「……な……なの」

「え?」

「なんなの、これ」

 

 唇が震えて、上手く言葉にならない。

 

「リサ?」

「なんで、こんなことするの?」

「こんなことって」

「結局、ヤレれば誰でも良かったの?」

「……は?」

「連れ込める女の子が他に居るなら、アタシのことなんて放っておいてよ!」

「連れ込むって」

「可哀想だから同情した? 1週間で縁が切れる都合の良い女だと思った? それともあれ? 年上の女を落とすことに興味があったの?」

「リサ、待てって。何か勘違いしてない?」

「してるよ! してたよ! 龍人の言葉全部、本心だって勘違いしてたよ! だから今日もこうやってノコノコと帰って来て、まさか他の女連れ込んでるなんて思いもしなかったくらいに、龍人のこと勘違いしてたよ」

 

 もう……嫌だ。

 

「リサ、落ち着けって。オレの説明が悪かったのかもしれないけど、オレ、リサを裏切るようなことしてないから。さっき言った楓ってのは、リサが思っているような関係じゃないから」

 

 どんな言い訳をされたらアタシは納得するのだろうか。

 ただの友達? 幼馴染で異性として見ていない? それとも元カノでつい優しくしちゃう? ああ。それか妹とか。

 

 納得出来るなら、なんでもいいとすら思えた。なのに……

 

「楓は男なんだ」

 

 龍人は、ありえない言い訳をしてきた。

 

「……は?」

「というか、弟なんだよね」

「おとうと?」

「そう。だから誤解されるようなことは一つもなくて、オレはちゃんとリサ一筋だから」

 

 言葉と一緒に、その腕がアタシを包んだ。それに抵抗しなかったのは、あまりにもお粗末な言い訳に、呆気にとられたからだ。

 

 赤いマグカップのクセに。ピンクの歯ブラシのクセに。ベッドが乱れて、シャワーまで浴びているくせに。ドーナツだってどうせ、そのかえでさんが持ってきたんでしょう? 

 それなのに、男って何? 弟ってなに? 愛情たっぷりの声でかえでって言いたクセに。

 

「ば、ばかに、しないで」

「リサ?」

「バカにしないでよ!」

 

 勢いよくその腕から抜け出したアタシを、龍人は目を丸くして見た。

 

「そんないい加減な言い訳されて信じるわけないじゃん! 確かに元カレにも、元々カレにも、その前の彼氏にも騙されたし、馬鹿にもされてきたけど、だからって、そんな嘘にはい、そうですかなんて言うわけないじゃん! アタシそこまで馬鹿じゃないし、鈍くもないから」

「……リサ」

「泊めてもらったことは、助けられたと思うし感謝もしてるけど、龍人が望んでいるような関係になるつもりないから」

「俺が望んでるって?」

「……1回ヤッてさよならするような関係になるつもりもないし、そのかえでさんみたいな都合の良い女になるつもりもない!」

「だから、弟だって言ったよね?」

「そういう嘘も、もういいから」

 

 叫んだ直後、龍人の顔がわかりやすく不機嫌に歪んだ。

 

「てか、1回ヤッてさよならする気も、都合の良い女にする気もないから。だいたい、好きな女をわざわざそんな扱いにする意味ってなに?」

「もう聞きたくない。そうやって甘いこと言えばすぐに騙せると思った?」

「は?」

 

「いつもいつもいつもいつも、どうして男の人ってそうなの? 優しくして甘い言葉吐いたら身体を許してもらえるから? それで面倒になったら捨てればいいって考え? なんなのそれ? なんでそんなことされないといけないの? こっちは、そんなあんた達の都合でどれだけ傷ついたと思ってるのよ! 好きなのに! ただ好きだっただけなのに、どうしていつも裏切るの!? そういうのもう、嫌なの……」

 

 溢れ返った感情が、ただ無意味な言葉になった。愚かだ。それから滑稽だ。だからきっと、愛想を尽かれた。

 

「あのさ」

 

 いつも甘い声が、初めて冷たく感じた。

 

「馬鹿にしてるのは、リサだよね?」

「……え」

 

 重なった視線に、いつもの優しさも見えない。

 

「さっきから、何?」

「龍人?」

「リサ、誰と喋ってんの? 誰に文句言ってんの?」

 

 その距離が、有無を言わさず近づく。

 

「リサにとってオレもそのクソみたいな彼氏たちと一緒ってこと?」

「だ、だって……」

「人の話聞かないで勝手に勘違いしたと思ったら、聞くだけでもムカつく男たちと一緒にされて、挙句に嘘つき呼ばわりって、オレの気持ち馬鹿にしてるのは、リサだろ?」

「それは……」

「だいたい、人のこと散々年下だからって相手にしてなかったけど、リサのどこが大人なの?」

 

 目の前に立った龍人が、アタシを見下ろした。

 

「自分だけ傷ついたような顔してるけど、さっきからオレのこと傷つけてるって気づいてる?」

「……え」

「リサが昨日オレの所に帰って来てくれた時、やっと信用してもらえた気がしてすごく嬉しかったんだけど」

 

 その整った顔が、悲しそうに苦しそうに歪んだ。だから自分のしてしまったことに、漸く気づいた。

 

「オレ、全然信用されてなかったんだね」

「あ、ちが……」

「てか、信用してない男の部屋に平気で泊まって、キスする女とかこっちが無理だから」

 

 流れていた涙が、止まった。

 

「龍人」

「帰りたいなら、さっさと出てけば?」

 

 涙が、流れてもくれなかった。

 

「それでまた、どうしようもない男に騙されれば?」

「……っ」

 

 何も言えない私に、龍人が背中を向けた。

 

 それがこの七日間の終わりだった。

 

 気づいた時にはいつも手遅れだ。

 

 彼の部屋を出る時、サヨナラもまたねもなかった。

 見送られることもなく、顔を合わせることもないまま、アタシはスーツケースを持って夜空の下で立ち尽くした。

 

 消えたと思っていた涙が、馬鹿みたいに溢れだした。傷ついたと思っていた。また傷つけられたと思っていた。だけど、本当は傷つけていた。

 

 どうして今まで散々信じてきたのに、一番信じられる人を信じきれなかったのだろう。

 ううん。きっと、誰よりも信用できる人だってわかっていたから怖かった。もしも裏切られたときのことを考えたら、自分が傷つくことが怖かった。自分勝手だ。ちっとも大人じゃない。

 

 そもそもどうして龍人は、アタシなんかを好きになってくれたのだろう。

 その理由すらも聞かないでただ疑い続けていた自分が、心底恥ずかしくてくだらなくて、最低な人間だと痛感した。

 

 言い訳ばかり並べていたのはアタシだ。龍人の気持ちと向き合おうともしないまま、ただその優しさに甘えていた。始まりなんて、なんでも良かったのに。

 

 年齢だって、どうでも良かったのに。

 ただその真っ直ぐな言葉を信じれば良かっただけなのに、そんな単純なことに気づけなかった私は、泣く資格すらもない。

 こんなにも胸が苦しいのは初めてだ。

 大切な人に傷つけられることよりも、大切な人を傷つけることのほうがよっぽど心が痛いことを、アタシはその夜知った。

 

 

 最悪な夜に偶然出会った男子高校生との七日間は、再び訪れた最悪な夜の中で、ただ静かに幕を閉じた。

 

 どれだけ最悪な出来事が起きても、世界は同じように動いている。

 どれだけアタシの瞼が腫れようと、朝は容赦なくやってくる。

 そして仕事に向かう。人生はいつだって、自分の感情だけではどうにもならない。

 

 

 

 

 ★

 

 

 

 

「新しい部屋はどう?」

 

 久しぶりにマネージャーと仕事の上りが一緒になった日曜日、病院の近くの居酒屋で飲むことになった。

 

「まだ荷物が片付いてないから」

「明日休みだっけ?」

「うん。だから一日掃除」

「じゃあ、片付いた頃に遊びに行くね」

 

 ニコリと笑ったマネージャーに、龍人との話はまだしていない。

 

 龍人の部屋を出た翌日の朝、出勤してきたアタシの顔を見たマネージャーは、何かを言いかけて口を噤んだ。

 触れるべきタイミングを見極めるのが、マネージャーはいつだって上手い。

 

 新しい部屋への引っ越しは、マネージャーのお兄さんの助けもあってすぐに終わらせることができ、その流れで、実家の母親に電話をして、彼氏と別れたことも潔く伝えられた。

 さすがに他に女がいたことは言えなかったけど……

 

 それでも、実家にあるベッドと荷物を送って欲しいと頼んだ私に、母は文句を言いながらもすぐに送ってくれた。

 だから昨日からはある程度の生活が出来るようになった。

 

 まだ片づけを終えていない部屋は、一人暮らし向けの間取りなのに広く感じる。その理由は考えなくてもわかる。

 どうやら自分が思っていた以上に私は、彼のことが好きだったらしい。

 

 結局、マネージャーと二人で飲みに行ったけど、全然酔えなかった。

 誰もいない一人きりの部屋に帰って、ベッドに腰をおろすと、どうしようもなく虚しい気持ちになる。

 実家から送り返してもらった段ボールの中身を見る気にもなれない。開けたところで、どうでもいい男との思い出が出てくるだけだ。

 もう今となっては、どうでもいい思い出。

 どうでも良くなかったはずなのに、どうでも良くしてくれた。

 全部全部、龍人が居たからだ。

 

 龍人が変なことばかり言うから、意味わかんないくらいに甘やかすから、気づいたら傷ついたことが遠い昔のことのようになっていた。

 

「なんで、信じられなかったんだろう」

 

 誰に向けるでもなく呟いた言葉は、夜の静けさに消えるだけ。最悪で最低な気分だ。ベッドに倒れ込むと、枕に顔を埋めた。

 

 もう、忘れないと。

 

 休み明けの火曜日、引越しの片づけで疲れ切った身体にうんざりしながらも出勤すると、事務所はいつも以上に忙しそうだった。

 

「おはようございます」

 

 スタッフに挨拶をして、今日の動きを確認する。

 

「リサ、大丈夫?」

「はい?」

「顔真っ赤。熱でもあるんじゃない?」

「ほんとだ。病院行ってきた方がいいんじゃない? 今日はレッスンくらいしか予定は無いんだし」

 

 スタッフさんにそう言われて、初めて自覚した。言われてみればたしかに今日はヤケにボーッとする瞬間が多かった気がする。

 引越しの疲れが一気にきた。きっとそれも原因の一つなんだろうけど、他にも思い当たる節はあった。

 

 今日はそのまま上がらせて貰って病院に向かった。マスクをした老若男女で溢れる受付をして、診察室前のベンチに座っていた。

 

 名前を呼ばれ、二番の部屋で診察をする旨が伝えられて、そのまま二番診察室へと向かった。

 荷物用のカゴにカバンを置き、イスに座った。先生が来るまでもう少しお待ちくださいと言われて静かに待っていると、部屋の奥の方からどことなく会話が聞こえてきた。

 

「風邪かなって感じたのはいつから?」

「金曜の夜」

「そこから熱は?」

「土日はずっと39℃近くあって寝込んでました。それから昨日ちょっと下がったからいけると思ったけど、やっぱまだ怠いから来ました」

 

 先生の淡々とした質問に、明らかに風邪とわかるくらいの鼻声で患者さんが答える。

 

「熱はだいぶ下がってきているみたいだね」

「薬飲んだら治りますか?」

「まあ、ただの風邪だろうからね」

「インフルかと思った」

 

 喋り方からして若そうな患者さんが、鼻をすする音が響く。

 

「何か風邪ひくようなことした?」

「夜中に家の近所を彷徨ってた」

「……目的は?」

 

 先生が少し困惑したような声を出すから、思わず笑いそうになった。

 

「人捜しって言うか……」

「ああ、彼女にフラれたとか?」

「……彼女ではないです」

 

 片づけを終えて診察室の奥に下がる。どうやら隣の部屋の患者は失恋をしたらしい。アタシと一緒だ。

 

「それが風邪の原因かもね」

「うーん……」

「とりあえず薬出しとくから」

「……猫、拾ったんです」

 

 鼻声の患者さんがまた、会話を始めた。

 

「猫?」

「そう。一週間前に捨て猫を拾って、それですごい愛情込めて面倒見たつもりだったんですけど、逃げられました」

「……ああ、それで町を彷徨っていたってことか」

 

 なんだ、猫か……

 

「失礼します」 

「まあ、猫は気分屋だから諦めた頃に帰ってくるかもしれないし、今は自分の身体を治すことが第一だ。私も猫を飼っているから気持ちはわかるよ。きっと君もその猫に、名前を付けたりしていたんだろ?」

 

 先生が、椅子から立つ音がする。そしてありえない言葉を耳にした。

 

「リサって名前なんです」

 

 はっきりと耳に届いた声に、顔を上げることが出来ない。心臓がバクバクと音を立てる。

 

「じゃあ、遊佐さんは受付で待っていてくださいね」

「……はい。ありがとうございました」

 

 よく聞けば、よく知っている声だった。爆発しそうなくらいにスピードを上げた心臓が煩い。

 

 厄介なことはいつだって、突然やってくる。

 

 だけど、こんなありえない展開を前に、簡単ではない感情がアタシの身体を熱くさせた。

 

 思いもよらない奇跡も、ある日突然やってくるのかもしれない。

 

「リサ」

 

 診察を終えて病院を出たアタシを待っていたのは、聞き慣れた声とは少し違う、鼻声の男子高校生だった。

 

「リサ、聞こえてる?」

 

 驚くよりも、泣きたくなった。

 

「ねえ、リサ」

 

 待っていた。アタシが出てくるのを待っていた。

 

「待ちくたびれたから、無視とかなしね」

「……何、してるの?」

「聞かないとわからない?」

 

 わからないのではなくて、わからないふりをしたかった。知られるのが、恥ずかしかった。

 

「リサのこと待って」

「あ、アタシ、急いでるから!」

 

 言葉を遮るように出した声に、龍人が顔を顰める。でも今は何を話せばいいのかわからないし、会えないよ。

 龍人が待っていてくれてるなんで思ってもいなかったけど、それが嬉しかったなんて知られたくなかったから。

 

「急いでるって?」

「それはその……」

 

 黙るアタシに、龍人も同じように黙る。あんな風に傷つけたのはアタシなのに、それでもこの状況を喜ぶ自分が、すごく汚い人間に思える。

 

 だから自然と視線は下がっていき、後ろめたさに俯くと、流れていた沈黙を裂くように、苦しそうな声が耳に届いた。

 

「痛っ」

「え……龍人!?」

 

 顔を上げると、さっきまでアタシを見ていた龍人が、その場にしゃがみ込み、蹲る姿が目に飛び込んできた。

 

「痛っ、いたたたっ」

「え、何? どうしたの? 大丈夫!?」

 

 ずるいくらいに動かなかった足が、一瞬にしてアタシを動かした。蹲る龍人に駆け寄り、その顔を覗く。

 

「龍人? お腹痛いの?」

 

 そうだよね。だって風邪で診察に来て、それからずっと待っていて……アタシのせいだ。

 丸くなる背中を摩りながら、情けなさでいっぱいになる。

 

「大丈夫? どこが痛い?」

 

 苦しそうに顔を歪める姿に、自分のせいなのに泣きたくなった。最低だ。傷つけて苦しめて、それなのに甘い期待をして。こんなアタシが彼に相応しいわけないのに。

 

「ごめんね、龍人」

「……リサ」

 

 込み上げてくる感情に、堪らなくその頬に触れた時、それまで逸らされていた瞳が、真っ直ぐにアタシをとらえた。

 それから、あの日アタシにキスしたときと同じ顔で、

 

「心臓が痛い」

 

 龍人は確かにそう言った。

 

「し、心臓?」

「うん。痛過ぎて歩けない」

「え、あの」

「だから家まで送ってよ、リサ」

「……うそ、じゃん」

 

 混乱するアタシを前に、その口元が悪戯な笑みに変わる。

 

「な、何それ、騙したの?」

「騙してないよ。オレ、病人だもん」

「でもさ」

「それともリサは風邪のオレを置いて帰るの? 病人を見捨てんの? オレすっごい怠いのに、リサのことずっと待ってたんだけど」

「一応アタシも、病人なんだけど」

 

 まるで勝ち誇ったように捲し立てる龍人の手は、いつの間にかアタシの両腕を掴んでいる。だからたぶん、もう……

 

「リサに置いていかれたら、オレここで凍死するかも」

 

 逃げられない。

 

「わ、わかった、もうわかった。家まで送ればいいんでしょ?」

 

 自棄になって叫びながら立ち上がるアタシと一緒に、龍人が柔らかな笑みを浮かべて立ち上がる。

 

「リサもやっと物分かりが良くなったな」

「それって、貶してるの?」

「貶すわけないよ。それにもう逃がさないから」

「待って! 手、離して!」

「うるさいな」

「え?」

 

 強引に絡められる指先が、きゅっと握られた。

 

「いいから、帰るぞ」

 

 そう言ってアタシの手を引いた龍人の背中に、不覚にも心臓が跳ねた。

 指先の熱が、アタシの身体を蝕むように伝わっていく。それが嫌ではないのだから、どうしようもない。

 

 

 

 

 ★

 

 

 

 

「リサ、こっちだよ」

 

 電車を降りて改札を出ても、龍人は手を離さなかった。

 制服姿の龍人と手を繋いで電車に乗ることを全力で拒んだけど、あの流れで許してもらえるわけもなく、もう諦めたようにその手を握っている。

 

「そっちの道は好きじゃない」

「でもこっちからだと遠回りじゃない?」

「たいして変わらないから、こっちがいい」

 

 こんな時にも我儘を言う自分はどうかと思うけど、こんな時だから通りたくない道もある。

 

「……ああ、そういうこと」

 

 暫く不思議そうに考えた後で、龍人は理解したように、本来は近いはずの道の先を見た。

 その道から帰ると、途中で例の男のアパートの前を通ることになる。それはもうずっと避けている場所だ。

 

「……嫌なら、龍人はそっちから帰ってもいいよ」

「リサはなかなか面倒だな」

「え?」

 

 重なった視線が、不安に泳ぐ。龍人が発する言葉一つで、バカみたいに動揺する自分がいる。

 

「そういうところも可愛いけど、今回はムカつく」

「龍人?」

「安心して? 一緒に帰るから」

 

 甘く垂れた目尻を細めた龍人が、今度は優しくアタシの手を引いた。繋がれた手が熱くて、胸がいっぱいになる。

 ゆっくり歩いているのに、龍人の吐く息は少し苦しそうで、握る手にきゅっと力を入れた。

 

 隣を歩く横顔を見ると、ただ真っ直ぐに前を向いていた。まるで何かを考えるように、ただ真っ直ぐ。

 

「リサ、お腹空いてる?」

「へ?」

 

 黙っていた龍人が口を開いたのは、角を曲がりアパートが見えてきた頃だった。

 

「冷凍のうどんくらいしかない」

「そんなの気にしなくていいよ」

「コンビニ寄ろうと思ったけど、ちょっと無理っぽい」

 

 不意にアタシを見た瞳が、ほんのりと充血していた。

 

「大丈夫だから。早く帰ろう」

 

 さっきまでよりも熱くなっている手に気づいて、私はすぐに答えると、小さく頷いた龍人を引っ張って歩を速めた。黙っていたのも、きっと喋ることすら辛かったんだ。よっぽとアタシより重症だね。

 

「薬は? 貰ったよね?」

 

 アパートに着くとすぐに、龍人から部屋の鍵を奪い取って、玄関の扉を開けた。

 まさかこんなにも抵抗なくこの扉を開けることになるなんて、数時間前には思ってもいなかった。

 

「まだ飲んでない」

「……え、なんで!? バカなの?」

 

 扉を開けて振り返るアタシを、龍人が先に入るように目配せをするから、仕方なく玄関でパンプスを脱ぐ。

 

「なんでって、ずっとあそこに居たから」

「……じゃあ、ご飯は? 近くにコンビニもあったでしょう? もしかして食べてないの?」

「食べてない」

「なんで!? やっぱりバカなの?」

 

 勢いよく振り返ると、龍人が顔をしかめてアタシを見た。

 

「だから、逃げられたくなかったんだよ」

 

 拗ねたような口調に、そんな場合じゃないのにときめいた。

 

「バ、バカじゃない!?」

「……ごめん」

「風邪ひいて病院来たのに、なんで無理するの?」

「……うん」

「また悪化したらって、え!?」

「リサ」

 

 目の前の身体が、ユラリと揺れた。

 

「龍人!?」

「無理」

「えええ!?」

「ごめ」

 

 言い終える前に、龍人の身体がアタシを抱きしめるように、いや……押し潰すように倒れてきた。

 鈍い音が響いて、硬い床にお尻をぶつけた直後、仰向けに倒れていく身体に、どうも出来なくて目を瞑った。頭をぶつけると思った。

 

「きゃっ」

「……ごめん」

 

 だけど、アタシの後頭部に痛みが走ることはなかった。

 咄嗟に守ってくれた龍人の手が、アタシの頭をそっと床に置いた。それから前髪を払うように撫でた。

 

「だ、大丈夫」

 

 驚きで、何度も瞬きをして龍人を見た。その額に滲む汗に、ずっと限界だったことがわかる。

 

「リサ」

「龍人」

「リサ」

「あの、ベッド。休まないと」

「好きだ」

「行こ、う。ねっ?」

「リサ」

 

 空耳かもしれないと思った。泣きだしそうなくらい充血した瞳の龍人が、アタシを見下ろしながら、苦しそうに息を吐いた。

 

「好きだから」

 

 ただアタシのことだけを見つめて、好きだと言った。

 

「りょう……と」

「リサ、好き」

 

 キスをした。

 

「んんっ」

 

 重なった唇が熱くて熱くて、涙が零れた。

 唇が角度を変えるたびに、龍人の息遣いが荒くなっていく。重なる身体が重力に負けるように重みを増していく。

 

「龍人っ! 待って!」

 

 覆い被さる制服の胸元を、急いで押し返した。

 

「ん」

 

 漸く重なった視線は、定めることが出来ないように朦朧としていて、アタシは慌てて身体を起こす。

 

「なんですぐに無茶するの!」

 

 力が入らないらしい身体は、ずるずると落ちるように、アタシの腰に腕を回しながら、お腹の辺りに顔を埋めた。

 

「リサ」

「病人なら、大人しく言うこと聞いてよ」

「ん」

「アタシだって、心配してるんだから!!」

「ごめんね」

「龍人」

 

 しがみつくようにアタシのお腹に顔を埋める龍人の肩を揺らす。だけど、それすらも許さないように、

 

「行かないで」

「へ?」

「もう、どこも行かないで」

 

 弱りきった龍人は、アタシの身体をぎゅっと引き寄せた。

 

「マジで好きなんだ。リサのことが」

「龍人」

「だから、オレと一緒に居よう?」

 

 心臓が、

 

「絶対に、幸せにするから」

「……うん」

 

 雪のように溶けた。

 

「リサ?」

 

 顔を上げた龍人の真っ赤な瞳は、驚いたように丸くなっている。それから、その瞳が涙で滲んでいくのを見た。

 全部が愛しくて、愛しくて、苦しい。

 

「好きだよ、龍人」

 

 弱った身体を、大切に抱きしめる。

 

 それから、ぐったりとした龍人をベッドまで運ぶのは一苦労だった。

 何とかベッドに寝かせてからも、アタシの腕を掴んで離そうとしない彼を無理矢理引きはがして、机の上に散らかっていた冷却シートを一枚、その額に乗せた。ついで自分にも一枚貼っておいた。

 

 性格柄、こういう状況には強いはずなのに、いざ直面すると何から手を付けるべきか混乱したりする。

 とにかくまずは薬だ。龍人の鞄の中から、病院で受け取ってきた風邪薬と胃薬を取り出す。

 

「龍人、薬飲んで」

「……ん」

 

 水の入ったグラスを差し出すと、身体を起こした龍人は素直にそれを受け取った。

 

「飲める?」

 

 錠剤を手に出して、龍人に見せる。

 

「うん」

「はい」

 

 その手に錠剤を乗せるアタシを、龍人がジッと見てくる。

 

「何?」

「……ナース服」

「ナース服?」

「着ないの?」

「……え?」

「リサ、ナース服着ないの?」

 

 意味がわからなかった。熱でついに頭がおかしくなったのかと思った。

 

「龍人、いいから早く飲んで」

「絶対似合うと思う」

「なんでそーなるのよ」

「なんで?」

「は?」

 

 意味不明過ぎて顔をしかめると、龍人もまた不満そうに眉を寄せていた。

 

「ナース服は憧れじゃん」

「憧れじゃんって、そんなことアタシに言われても」

「他の人はどうでもいいけど、リサが着ないのはおかしい」

「……ねえ、どうでもいいから早く飲んでくれない?」

「リサがナース服着てくれたら、飲んでもいいよ」

「無理に決まってんじゃん」

「……」

「無言で訴えても無理なものは無理。だいたい現物がないのにどう着るのよ」

「だったら今から注文しよう」

「注文?」

 

 真っ赤な顔をして、辛そうに息を吐きながら、ベッドの上の男子高校生は前のめりになってアタシを見る。まるでとんでもなく良い案が浮かんだと言いたげに。

 

「うん。それでオレが寝ている間に準備しておいてよ」

「準備って」

「目覚めたらナース服のリサが待っていてくれると思えば、薬もよく効きそう」

「意味わかんないんだけど」

 

 どこまで本気かわからない男子高校生の言葉を無視して、さっさと飲んでと催促する。

 

「ねえ、リサ」

「薬飲んで」

「……わかった。飲む」

 

 その返事と同時に、ゴクリと水を飲む音がする。

 

「ねえ、リサ」

「全部飲んだ?」

「うん。飲んだ」

「じゃあ、寝て」

「あのさ」

「アタシ、何か食べられそうなもの作ってくるから」

「リサ」

 

 キッチンに行こうと立ち上がると、スカートの裾が引っ張られて、仕方なく振り返る。

 

「……何?」

「オレのこと、好き?」

 

 やっぱり辛そうな龍人が、だけど嬉しそうに目を細めてアタシを見る。ずるい。そういうの本当にずるいよ。

 

「リサ?」

「……好きだから」

「ん?」

「龍人のこと好きだからここに居るんでしょ」

 

 もう何度も何度も狂わされている。壊されそうになっている。その声にも、その視線にも、その熱にも。

 

「そっか」

 

 こっちが恥ずかしくなるくらいに幸せそうな笑みを零した龍人は、掴んでいたスカートの裾から手を離すと、今度こそ素直にベッドの上で寝転んだ。

 

「これでもアタシ、龍人のことを心配しているの」

「うん」

「だから、早く元気になって」

 

 せっかく気持ちが通じ合えたのだから、なんて言葉は続けられないまま、逃げるようにキッチンへ向かったアタシの耳に、ありがとうと甘い声が届いた。

 

 それから、アタシがキッチンに移動した直後、龍人は張っていた糸が切れたみたいにぐっすりと眠ってしまった。だから自分が食べる分のうどんを茹でて、先に食事を済ませることにした。

 暫くすると、薬が効いてきたのか、龍人の額からは汗が溢れるように出てきて、何度かタオルで拭いてあげた。

 やっぱり、高校生のクセによく出来た顔をしている。

 

 ふーふーと苦しそうに息をする龍人を見つめながら、そんなことを考える。

 見た目だけなら、年齢差なんて気づかれないかもしれない。

 

 ……いや、それは言い過ぎか。でもやっぱり綺麗な顔。

 

 本当は全然タイプじゃない。

 白くて肌理の細かい肌なんて、男らしくないと思っていたし、手だってもっとゴツゴツしている方が好き。体格だって、龍人みたいに華奢な身体が隣に立っていたら、アタシが太れないじゃん。

 

 そんなの困るんだからね。本当に困るんだから。こんな風に好きになる予定じゃなかったのに。こんなにも好きになってしまった。

 

「責任取ってくれないと困る」

 

 こんな本音聞いたら、引いちゃうかな。

 

「龍人、大好きだよ」

 

 生まれた想いが、水のようにキラキラと揺れた。

 

「ナース服じゃない」

 

 龍人が目を覚ましたのは、三時間後のことだった。随分とすっきりした顔でアタシを見た彼は、心底不満そうに言葉を吐いた。

 

「それ、そんなにこだわるところ?」

「こだわるよ」

 

 ベッドから降りてトイレに向かう龍人に合わせて、食事の準備をする為にアタシも立ち上がる。

 

「うどんでいい?」

「うん。なんかお腹空いた」

 

 だいぶ元気になったらしい龍人が、そう言ってお腹に手を当てる

 

「ちょっと待ってて。すぐに用意するから」

 

 食べやすいように、うどんは柔らかめに茹でてみた。これを食べて、少しでも元気になってくれたらいい。

 

「食べられる?」

「うん。大丈夫」

 

 テーブルの前に座り込み、龍人が箸を掴む。

 

「無理しないでね? 残してもいいから」

「ありがとう」

 

 まだ鼻声の龍人が、音を立てながらうどんを啜る。

 

「……美味しい」

 

 こんな時まで、彼はアタシを褒めてくれる。

 

「食べたら一回着替えた方がいいかも」

「うん。そうする」

「それで、もう一回薬飲んで寝よう」

「わかった」

 

 素直に頷いた後で、龍人が箸を止めてアタシを見た。

 

「ん?」

「あのさ、その前に大事な話してもいい?」

「大事な話?」

 

 突然真剣な眼差しを向けられるから、背筋が伸びる。

 

「一晩経って、無かったことにされたら困るから」

 

 急に訪れた緊張感に、視線をゆっくりと合わせる。先に息を吐いたのは、どちらだっただろうか。

 

「リサとオレって、付き合うってことでいいんだよね?」

「……えっと」

「オレのこと、好きなんだよね?」

 

 はっきりとした口調で、逃がさないとでも言うようにそう聞いた龍人は、アタシが答えるよりも先にまた口を開いた。

 

「オレはリサを彼女にしたい」

「龍人」

「リサは? オレが彼氏なのは嫌?」

 

 迫ってくる視線に負けそうで、思わず俯く。

 

「嫌とかではない」

「ちゃんと言って」

「……だ、だって」

「何?」

「アタシたち、知り合ったばかりだよ?」

 

 チラリと顔を上げると、龍人が首を傾げていた。

 

「だから?」

「だから、その……龍人のこと、あまり知らない」

「これから知ればいいよ」

「でもそれなら」

「ん?」

「知ってから付き合ったほうが……」

「却下」

「え!?」

 

 明らかに不機嫌に表情を変えた龍人が、呆れたようにアタシを見る。

 

「リサは最近オレを知ったかもしれないけれど、オレはもうずっとリサが好きなんだけど」

「……へ?」

「だから、両想いってわかったのに我慢とか出来ない」

「え、ずっとって、どういう意味?」

「だからずっとだよ。たぶんリサがあの男と同棲始めた頃。つまり半年前にはリサのことを知っていた。それで可愛いなって思っていたんだ」

「は、半年前って」

「まあ、好きって自覚したのは少し経ってからだけど」

「え、だって、え?」

「リサは覚えてもいないだろうけど、喋ったことだってある」

「アタシと!?」

「……」

「……ご、ごめん。全く覚えてない」

 

 正直に答えたアタシに、龍人は肩を落としたように溜息を吐いた。

 

「リサさ、仕事に行くときによく、すれ違う人すれ違う人に挨拶してるじゃん」

「へ? ああ、うん」

 

 それは子供の頃からの習慣だ。近所の人に会ったら挨拶をすること。

 

「それでオレにも何回か挨拶してきた」

「アタシが龍人に?」

「そう。だからリサのことはすぐに覚えた。今時こんな都会にそんな人いないから」

「いや、えっと……」

 

 なんだか恥ずかしくて、また視線を逸らす。

 

「新鮮だった」

「へ?」

「誰かに朝から笑顔で挨拶されるって、いいなって」

 

 胸の奥がきゅんとした。言葉が、真っ直ぐ過ぎた。

 

「だから、リサと会えた日はラッキーだなって心の中で思ってた」

「なんか、恥ずかしいよ」

「リサ挨拶し過ぎて、近所のおばあちゃんにみかん貰ったりしてたよね」

「うそ、それも知ってたの?」

「うん。たぶん仕事に行くから急いでいるのに、ソワソワしながらもおばあちゃんの話しずっと聞いてた」

「あ、あれは、だって」

「すごく優しい人だなって思った」

 

 恥ずかしい。そんな姿まで見られていたなんて考えもしなかったし、それを褒められるなんて思いもしなかった。

 

「可愛くて明るくて優しくて……いいなって思いながら見てたんだ」

「……あの、そんなに褒めなくてもいいよ」

「そういう照れ屋で謙虚なところも好き」

「なっ……」

「だから彼氏と居るの見たときは地味に凹んだ」

「え?」

 

 龍人が気まずそうに視線を外してから、ゆっくりと話の続きを始めた。

 

「いつだったか学校帰りに、あのアパートの前にリサと彼氏が一緒に居るの見かけて、別に告白したわけでもないのに、フラれた並みに落ち込んだんだよね」

「そんな……」

「でもまあ、そもそもオレなんて相手にもされないだろうから仕方ないなって思って、その後はそれまで通り、リサに会えたらラッキーって毎日。でも急に引っ越しが決まって卒業まで一人暮らしになった時に……たぶんオレ、内心寂しかったんだよね」

「寂しい?」

「うん。一暮らしだから好き放題出来るとか喜んでたけど、始まってみると不安なことばかりだし、弟も親もいない部屋って静かでつまらないし……寂しいって口に出さないけど無意識に感じていたんだと思う」

「そうだったの?」

「うん。そんなの時に、リサと偶然喋る機会があった」

「……アタシと」

「思い出さない?」

「ご、ごめんなさい」

 

 申し訳なくて龍人を見ると、その目が優しく笑った。

 

「冬休み入る前くらいかな? 一人暮らしになって初めてのゴミの日でさ、ゴミ捨て場に行ったはいいけど分別とかわからなくて戸惑っていたら、たまたまリサが来てこれはこっちだよとかこれとこれは違う日だよとか教えてくれた」

「……なんか、ちょっと記憶あるかも」

 

 ゴミ捨て場でウロウロしている高校生を見かけて、声を掛けた記憶はある。その顔までは覚えていないけど。

 

「いつも可愛いなって思っていた人に急に声掛けられて、しかもすごく近い距離に立ったら良い匂いとかするし、説明なんて話し半分で聞いて、ただリサから目が離せなくなった」

「な、何それ」

「ダサいし、気持ち悪いよね」

 

 龍人は冗談でも言うように笑うけど、アタシはそれどころではなかった。

 恥ずかしくて、恥ずかしくて、心臓が壊れそうだ。

 

「その時、別れ際にリサがいってらっしゃいて学校に向かうオレに手を振ってくれたんだ」

「……アタシ、なんか恥ずかしいね」

「嬉しかった。それもすごくね。いってらっしゃいって誰かに言われることがすごく幸せなことだなって気づいた。それで、そういう言葉を自然に言えるリサが、やっぱりすごいなって思った。この人に毎朝見送られたら、絶対に幸せだって」

「そんな、大袈裟だよ」

「うん。でもそれで惚れた」

「へ?」

「リサのその一言で、完全に落ちた」

 

 龍人がまた、真っ直ぐにアタシを見る。

 

「彼氏がいても、相手にされなくても、この人が好きだって思った」

「龍人」

「だからそれからはずっと、リサに話しかける機会を待っていた。ストーカーみたいにね」

「ストーカーって」

「冗談じゃなくてわりと本気。リサに会えるのは何曜日か真剣に推理したり、どっち方面の電車乗るのかホームでチェックしたりして、自分でも引くくらい」

「そんなの全然気づかなかった」

「引いた?」

「ううん」

 

 すぐに首を振ったのは、その気持ちが理解出来たから。

 

 アタシだって何度も片想いをしたことがある。先輩の授業の時間割を調べたり、好きな男の子と偶然を装って休みの日に会ってみたり……たぶんみんな経験する、甘酸っぱい記憶。

 

「だからあのアパートの前を通る時はいつも緊張していた。リサに会えるかもって……でもそうしたらある日、あの男が段ボールを運び出しているのを見たんだ」

「……え、それって」

 

 話は漸く、あの最悪な夜に繋がっていく。

 

「うん。それから数日リサを見かけなくて」

 

 たぶんアタシがツアーに出掛けていた期間。

 

「別れたのかなって思った」

 

 その予想は、結果的には正解だった。

 

「それで複雑な気持ちになった」

「え?」

 

 龍人の眉が、困ったように下がった。

 

「別れたならオレにもチャンスが巡ってくるかもしれないから嬉しいって気持ちと、このアパートを出て行ったってことはもう会えない可能性が高いって事実に、複雑な気分だった」

 

 確かに住む場所しか知らないなら、引っ越してしまったらお終いだ。

 

「話しかけなかったことをすごく後悔した。でもだからあの日、アパートの前で立ち尽くすリサを見つけたときは、迷わずに声を掛けたんだ」

 

 あの夜の記憶が、まるで昨日のことみたいに蘇る。ボロボロのアタシをあんたと誰かが呼んだ夜の光景。

 

「そう、だったんだ」

「うん。ついでに言うと、あの男の部屋に新しい女が出入りしていることも知っていた」

「え」

「リサのストーカーだから」

 

 そう言った龍人が、悪戯に笑ってアタシを見る。

 

「でも、それを知った時はリサを手に入れるチャンスだと思った」

 

 

 あの夜にアタシの物語が大きく動いたように、きっと龍人の物語もずっと、知らないところで動き続けていた。

 

「単純な発想だけど、傷ついているリサに優しくして優しくして、オレのものにしようって考えた。その為に、あの夜は強引にでもオレの部屋に連れ込もうって思った」

 

 だけど実際は全然強引じゃなかった。重たい段ボールを持ってくれて、ボロボロのアタシに温かいコーヒーを淹れてくれた。

 

「龍人の作戦は、成功だね」

 

 その甘くて優しい手に、アタシはまんまと落ちた。

 

「失敗しかけたけどね」

「え?」

「本気でもう会えないかと思った」

「龍人」

 

 まだ熱を残す手が、アタシの頬に触れる。

 

「だから今日病院でリサを見つけたとき、これが最後のチャンスかもって。見間違いかとも思ったけど」

「……うん」

「でも本物だった」

「アタシも……もう会えないと思ってた」

 

 嫌われたまま、忘れられていくのかと思ったら怖かった。

 

「リサがオレを知らなくても、オレはリサを知っている」

 

 その甘さはいつかアタシを滅ぼすかもしれない。

 

「だからオレを信じてよ。絶対に裏切らないから」

「……でも」

「ん?」

「アタシの好きが足りない気がして、申し訳ないの」

 

 龍人の言葉を疑う気持ちなんて、今はもうない。

 

「リサの?」

 

「龍人が想ってくれている気持ちに、アタシはまだ追いつけていない気がして……それがすごく申し訳なくて。だから、もっと好きになってから付き合ったほうがいいひゃっ」

 

 喋っていた頬が突然、引っ張られた。

 

「リサはやっぱりバカだ」

「ふえ」

 

 龍人の両手が、アタシの頬をぐいぐいと伸ばす。

 

「そんなの待てるわけないだろ、バカ!」

「にゃっ!」

「好きの大きさや量なんて計れるものじゃないから、ただ一緒に居たいって想える相手と一緒に居ればいいだけの話で、リサにとってのそれはオレなんじゃないの?」

「りょう、と……」

「てか、リサはオレにドロドロに愛されてればいいんだよ。それで好きなだけ甘えてればいい」

 

 涙が、たぶんもう溢れている。

 

「お願いだから、早く彼女になってよ」

 

 意地悪をされていた頬が、今度は優しく撫でられた。まるで全てを包み込むように。

 

「龍人」

「オレは、リサが彼女になってくれるだけで、充分幸せだよ?」

 

 誰かに愛されることがこんなにも幸せだなんて、今までのアタシは知らなかった。それを龍人が教えてくれた。

 

「好き」

 

 ただ一方的ではない恋をしたい。笑う時も傷つく時も、互いの顔を見合える愛がいい。

 

「龍人が好き」

「リサ」

「だからさ、アタシと……付き合ってください」

 

 きっとこの恋に溺れるのは怖くない。

 

「リサ、泣き過ぎ」

 

 グチャグチャの視界の中で、龍人が笑ったことだけがわかる。それが嬉しくて、アタシは両手を伸ばした。

 

「やっと恋人同士だ」

 

 抱き合った耳元で囁かれた言葉に、嬉しくて何度も頷いた。幸せでまた涙が流れた。たぶん龍人も泣いていた。

 

 人生は厄介なことの連続だ。だけど龍人となら、どこまでも乗り越えていける。

 

 そんな予感が今、全身を駆け巡った。

 

「リサ、押し倒してもいい?」

 

 アタシを抱きしめた龍人が、病人らしからぬ言葉を吐く。

 

「ダメだよ」

「でも我慢の限界」

「病人なんだから絶対にダメ!」

「じゃあ、風邪治ったらエッチしてくれる?」

「えっ、な、なんでそうなるの!?」

「だって恋人だし」

「ひゃっ」

 

 耳たぶに触れた舌に、思わず身体が跳ねる。

 生意気な男子高校生の言葉に、アタシはこれからどれだけ翻弄されるのだろう。

 

「ああ、そう言えば」

「な、なに?」

「リサに言ってないことがある」

 

 その言葉に、また突拍子もないことを言われるのではないかと身構えると、龍人は甘い眼差しで口を開いた。

 

「初めてなんだ」

「……初めて?」

「だから、リサが初めて」

「え?」

 

 それが何を指すのかわからなくて首を傾げた2秒後、想像もしていなかった、出会ってから一番の爆弾が落とされた。

 

「セックス」

「せっくす?」

「するの」

「……」

「……」

「……は!?」

 

 思わず出た声の大きさに自分でも驚いた。だけどそれ以上に、知ってしまったそれに驚いた。だって絶対に、そういうことはもうとっくの昔に経験をしているものだとばかり思っていたのに……。

 困惑するアタシを他所に、龍人は動揺ひとつせず、むしろいつも以上に余裕に満ちた笑みを浮かべた。

 

「う、嘘でしょう?」

「嘘じゃないよ。だから色々教えてね? おねーさん」

「え、待って龍人」

「ダメ。待たない」

「でも、んんっ」

 

 人生はやっぱり、厄介だ。

 

 ありえないほど濃厚なキスに、アタシはもう諦めることにした。

 この綺麗な顔をした年下の男に抗うことを諦めて、ただその甘い蜜の海に溺れることを決めたのだ。

 

 

 




21名の方、評価ありがとうございます。

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. よみあげ
  11. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。

評価する
※参考:評価数の上限
評価する前に 評価する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。