夜半を過ぎても未だ辺りの空気はとろりと重みを持つようで、うだるほどの熱と湿気が肌にまとわって離れない。雲一つない夜空に冴えざえと輝く月でさえ、その白く冷たい光は地に届くまでに熱を帯び、陽炎を立ち上らせている始末だ。庭先の池に差し込む月光に目を細めながら、薄い寝間着の襟をつまんで揺らした。首すじを伝う汗の感触に辟易として溜息をこぼす。
寝入ってしまえば文字通り瞬きのする間にやり過ごせるであろう熱帯夜を、沓脱ぎ石に裸足を投げ出して、ひとり縁側に腰掛け時間を潰していたのには
ちょうどそのときだ。母屋の方からこそりと人の気配がした。ここからでは死角になって見えない母屋の玄関戸が密かに引かれる音と、そこにつっかけの踵が敷石を擦る小さな足音が続いた。一歩いっぽ確かめるよう慎重に忍ばせた足取りは、それだけで彼女の歩む姿を脳裏に描き出す。あえて気づかぬ振りをしていようと心に決めて、縁側に胡坐をかいてそのときを待った。何故となく、背すじの伸びる思いがした。
彼女は
「あ」「お」
お互いに間の抜けた声を上げ、数瞬のあいだ気まずい沈黙が流れゆく。先に気を取り直したのは彼女の方で、やれやれと観念した罪人のような吐息と共に角から全身を現した。寝間着にと家の者に与えられた黒い薄地のパーカーのフードを目深に被り、その首もとから両肩に流した髪は根元で緩くまとめられ、左側だけ大輪の花を模した髪紐が結わえてある。彼女を象徴する豊かな白髪は、誰かが丁寧に梳ったのだろう――自身でやるとは思えない――ひとつの乱れもなく細い腰の高さまで落ちて、月明かりに淡く仄かな桜色を宿していた。幼い容貌に花車な肢体を持つ彼女だが、幻想的なその髪色や今しもこちらを向く琥珀色の瞳が凜と引き締まった気配を醸している。尤もそれは彼女の素性に由来するものであって、出会った頃と比べたら随分と鳴りを潜めてはいた。
彼女はぎこちなく「……ご主人」と口にした。その呼ばわり方にも大分慣れたつもりでいたが、二人きりの場で改めて言葉にされると少しばかり面はゆい。俺が戸惑っているうちに彼女は続ける。
「おぬし、まだ起きておったのだな」
「ああ、どうにも暑くてな。お前こそ、どうした? 怖い夢でも見たのか?」
「あほう。我輩を子ども扱いするでない」
「まあそう強がるな。一緒に寝てやろう」
「違うと言っておろうに! この茶をおぬしにはやらんぞ!」
彼女は上体をひねり、両手に支えた盆を体の陰に隠した。盆にはグラスが二つ載っていて、麦茶らしい液体で満たされていた。急に揺り動かされた拍子、麦茶の数滴がグラスの縁を越えて宙を舞う。
年端もいかない少女が口にするには些か大時代な物言いも、尊大な態度も、当たり前になってしまうと彼女を一層幼く見せるようでかわいらしい。おあつらえ向きにもパーカーのフードには猫の耳を象った三角形の飾りが縫い付けてあって、夜闇に光を宿す瞳も相まって「我輩」などという人称代名詞はむしろ彼女にこそ相応しいのかも知れなかった。
冗談だよ。そう言って肩をすくめてやると、彼女はしばらく半眼をこちらに突きつけていたが、ようやく相好を崩し悪戯っぽく笑った。盆を傾けぬよう、そろりそろりと寄ってきて、俺の傍にこの盆を置いたと思うとその向こう隣にひょいと腰掛ける。
すぐに彼女はグラスを片方とってこちらに差し向けてくれた。礼を言って受け取る。
「ありがとう。どうしたんだ、これ」
「台所にまだ女中がひとり残っておったのだ。こっそり抜けようと思ったのだが、通りがかりに呼び止められての。おぬしのもとへ行くのだろうと言って渡された」
「なるほど」
彼女には特段の含むところはないようだが、俺からするとそのお手伝いさんに逢引を見透かされていようで恥ずかしい。もとより隠し立てするような仲ではないし、できるとも思っていないが、こうも筒抜けだったとは。
指摘するのも藪蛇になろうから黙って麦茶をすすった。そうしてつい、グラスを見つめてしまった。てっきり冷えたものと思い込んで口にしたそれは、どういうわけかまったりと温かったのだ。頂いたものに文句をつけるつもりもなかったが、知らず表情には出てしまったらしい。同じようにグラスを傾けていた彼女が目敏くもそれを見咎めて、得意げに語る。
「こんな夜更けに体を冷やしたら、寝付きが悪くなる……とその女中が言っておった」
なるほど、道理だな。
「さてはお前、お手伝いさんに注文をつけたな」
「……」
彼女はふいっと目を逸らした。図星か。大方、お手伝いさんから麦茶を受け取ったときに「冷たいものがよい」などと口にして、同じように窘められたのだろう。まったく、自分を棚に上げて何を得意になっているのやら。
意地の悪い笑みが頬の辺りに疼くのを、グラスの内に隠して彼女の様子を窺う。彼女は結わえた左右の髪のうち、より長く縁側の床にまで広がって垂れている左の房に落ち着きなく手櫛を通してから、「それよりも!」と声を上げた。代わりの話題を見つけ出してきたか。
「妙な匂いがせぬか?」
「妙な匂い? ……ああ、これか」
身を仰け反って躱し、彼女とは反対側の隣に置いていたソレを指差して彼女に示した。両手に乗るほどの大きさの、小さな陶製の豚だ。中は空洞になっていて、誇張された大きな鼻から、独特な香りのする煙がゆるゆると細く立ち上っている。
彼女は興味を刺激されたようで、間にあった盆を脇に寄せ、ずいと身を乗り出した。俺の脚に覆い被さるように向こう側へ両手を突いて四つ這いになり、陶器の豚に顔を寄せる。小さく鼻を鳴らして匂いを確かめる、好奇心に従順な様はますます猫みたいだ。しかし彼女は間違いなく見目の整った少女であり、無防備に過ぎる仕草はこっちの心臓に悪いことこの上ない。
いっそ衝動に任せて撫で回してやろうかと見つめていた頭が、不意にこちらを向いた。
「これだ、これだ。これは蚊遣りの香か? んむ、どうした?」
「いや、なんでもない。蚊遣り……そう、か。そうだな、蚊取り線香だ。お前、昨日の晩ここで蚊に刺されていただろう?」
「そうだったの。あの掻痒感には煩わされたが、今朝塗ってもらった薬は冷やっこくて、刺激的な臭いで、なかなか面白かった」
「暢気なやつだ」
「ふふ。……しかしわざわざ用意してくれたのか? ご主人は気が利くの。褒めてやろう」
「はいはい、そりゃどうも」
至近で花開く衒いのない笑みを見ていられず、返答がぶっきらぼうになる。それに気づいているのかいないのか、彼女はくすぐったそうに笑いながら身を引っ込めた。座り直したとき、盆がなくなった分だけ彼女は俺の傍に寄り添って、肩が触れそうなほど距離が縮まっていた。それどころか彼女は僅かに体を傾けて、こちらに肩を預けてくれる。……或いは俺こそが寄りかかったのだろうか。彼女がまた声なく笑ったのが、触れた肩から伝わってきた。
騒ぎ出す心臓を落ち着けようと、空を見上げた。幾ら深く呼吸をしようとも、半身に広がる熱は冷めやらず、それどころか一層胸が高鳴るようだ。渇いた口を麦茶で湿しながら、らしくもない自分を俯瞰して呆れてしまう。そんな俺をよそに、彼女は楽しげに口を開く。
「妙な匂いだが……、慣れると心地よいのう」
彼女の語り口は、幼い声に比して老成したものだった。
「永く、永く、この世を見つめ続けてきたつもりだが、匂いも味も、こうして伝わる熱にも、驚かされてばかりだ。目に映る景色さえこの数日で次々と塗り替えられて、まるで違えて見える」
溜息交じりの呟きは、どこか独り言めいていて、返答を欲してはいないように聞こえた。穏やかに語る口ぶりの奥底に、過去の己と決別せんとする、深い諦念にも似た強い意志が垣間見え、そこに水を差すのが躊躇われた。だから俺は、ただ煌々と照る月を見上げて、彼女の微かな息の音に耳を傾けていた。いつしか夏の暑さを忘れ、肌を這う湿気さえ不思議と心地よく感じられた。
彼女が身の回り全てに対してそうであるように、俺にとっては彼女が隣にいるだけで世界が違えて見えるのだ。夏の夜に輝く月がこれほどまで美しいということも、生まれてこの方、知らずにいた。彼女の言につられて鼻に意識を向けたとき、真っ先に感じるのは蚊取り線香の香りなどではなく、いつまで経っても慣れることのない、甘く柔らかな匂いだった。
不意にどこかで、寝ぼけた蝉がジリリと鳴いた。はっと我に返り、自分があんまりにも小っ恥ずかし思考に耽っていたと自覚する。まさか気取られてはいまいかと、誤魔化しついでに軽口のひとつでも放ろうとした寸前に、彼女の呼吸が安らかなものに変わっていることに気づいた。首だけひねって彼女を見下ろすと、たったそれだけの身動ぎで彼女の上体は崩れ落ち、ゆるゆると俺の胸を伝って腿に身を横たえる。手足がぐずった赤子のように動いたから、起きてくれるかと思いきや、収まりの良い場所を見つけたか体を丸めてきり静かになってしまった。いよいよこのまま寝入るつもりらしい。
信頼されているととるべきか、案外誘われていたりするのか……、頭を振って邪な考えを払う。ツッコミ不在ではへたにボケるわけにもいかない。邪心のついでに彼女の向こう側で置き去りにされたグラスを、蹴飛ばされてはかなわんと、盆ごと手足の届かなそうな隅に追いやった。自分のグラスは一息に呷ってその隣に戻しておく。
いやしかし。
「……どうするんだ、これ」
誰にともなく呟く。やりようもなく、フードを被ったままの彼女の頭に手を置いた。彼女を起こして、母屋の寝所に帰すことも考えたが、そうするにはやや惜しい状況だ。枕になってやるのだからこれくらいは許されようと、彼女の長い白髪の先をつまんで弄び、出来心で鼻を寄せた。シャンプーのよい香りがした。
あんまり見つめているとキスでもしてしまいそうだったから、指の背で彼女の頬を撫でながら、空いた片手を体の後ろで突いて身を反らす。手が届きそうなほど大きな満月に向け、ああなんと贅沢な時間なのだろうかと内心で語りかけた。先日の彼女の言葉ではないが、このまま眠ってしまったら、この時間は瞬く間に過ぎ去ってしまうのだ。それはどれほど恐ろしいことだろう。
人として生きていくことを決めた彼女が抱えられる時間は、悠久の時を宿していたはずの彼女にしてみればほんのひとつまみのものでしかないだろう。それを怖れながらも受け容れた彼女を支えるために、できることならこの俺のちっぽけな
……らしくない決意はまあ、いずれ彼女に伝えることにして。今晩は眠りに落ちるそのときまで、この気持ちよさそうな寝顔をネタに、明日どうやってからかってやろうか思案しようではないか。こんなところで二人寝入ってしまえば、明日家の者たちに大目玉を食らうだろうが、知ったことか。
そうして俺は、いつの間に眠ってしまうその瞬間まで、彼女の寝顔を眺めていたのだった。