アイの方程式   作:山石 悠

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TeX使いたかっただけ民。
(スマホ対応したつもりですが、表示がおかしかったらPC版に切り替えてみてください)


y=0 二人の交わる場所

 学校でしか聞かないチャイムが鳴り、ざわついていた仕切りの向こう側は波が引くように静かになった。放課後のはずなのに、どこか学校にいるみたいな緊張感を抱えたまま、アタシは机の上に広げられた書類に目を落とした。書類には『入塾にあたり』や『教室でのルール』といった言葉が並べられている。我ながら場違いな場所に来ちゃったなぁと苦笑するしかない。

 

「お待たせしてすみません」

「いえ、全然です」

 

 自分より一回りか二回りくらい年上の人に頭を提げられて、思わず立ち上がってしまう。まるで学校の先生に頭下げられてるような奇妙な気分だった。

 

「今井リサさん、これからよろしくお願いします」

「いえ、アタシの方こそよろしくお願いします!」

 

 塾なんて、アタシには一生縁のない世界だと思っていた。頑張っていいところに進学しようとか、成績上げて頑張ろうとか、そんなことは全然思ってなかったからだ。

 実際、それは今でも別に思ってないんだけど、気が付いたらアタシはここにいる。自分で決めたことだから当然だし経緯も含めて全部理解しているんだけど、それでもやっぱりちょっとした夢みたいな感じがしているのもまた事実だった。

 

「前に見学に来たときにも案内しましたけど、改めてここのことを説明しますね」

「はい、お願いします」

 

 塾長さんは少しクールな大人の女性って感じで、バリバリ仕事こなしちゃうんだろうってオーラがビシビシ伝わってきた。思わず伸びる背筋を意識しながら、指された書類を手に取った。

 

 

 

 進路について悩んだとき、音楽だけでやっていくというスタイルはなんだかアタシらしくないなって思った。

 

 Roseliaのみんなと一緒に一つでも多くのステージに立ちたい。もっといろんな人に、アタシ達の演奏を聴いてほしい。それは嘘偽りない気持ちだけど、だからといってそれをアタシの生活の全てにするのは違うんだって気が付いた。

 メジャーデビューすればできることも増えるけれど、大変なことだってたくさんある。バイトも遊びも難しくなっていくけれど、それでもアタシはそれを諦めることができなかった。

 

 アタシはアタシの大切なものを捨てられない。

 アタシは最短ルートで答えを見ながら問題を解くように生きたいわけじゃない。これまで起きたすべての出来事がアタシの音楽を形作っているし、これからもきっとそうだと思う。だからこそ、アタシはもっと新しい出会いと経験のために、卒業後の進路を進学に決めた。もともと紗夜や燐子も進学の予定だったし、その点は特に問題はなかった。

 

「授業は一時間半で、内容は今井さんと担当の先生にお任せしてます。受験もあるから基本的には演習問題を解いて解説を聞くような時間になると思いますが、何か分からないことなどがあったらその都度話してくださって構いません」

 

 塾は家と学校の間にある、個別指導系のところにした。元よりバンドやバイト、他にもいろいろとやりたいことがある身の上なら、自分の分からないところや苦手なところをピンポイントで教えてもらえる方がいいと思ったのだ。

 個人経営らしく、駅前に大きな広告が出ているところと違って、塾のサイズは教室二つ分の広さもないように見えた。

 

「授業スペースは自習スペースを兼ねていて、授業が行われていない席は自由に使ってもらって構いませんよ」

「それって別に授業がない日でもいいってことですか?」

「はい。それに分からないことがあったら、授業をしていない先生に声をかけて質問してもらっても構いません」

 

 それは思わぬ利点だった。やっぱり自宅だと集中できないことも多いから、自由に使える勉強用のスペースがあるのはとてもありがたい。

 

「大まかには以上ですね。細かいルール等についてはその資料に書いてありますし、分からなかったら気にせず先生方や私に質問してください。何か質問はありますか?」

「いえ、大丈夫です」

 

 塾長さんに頭を下げる。

 言われていた資料には先ほどよりも詳しく書いてあったが、そのほとんどが騒がないだとか飲食には気を付けるようにとか、基本的なマナーレベルのことばかりだった。

 

「今井さんの授業はこの授業が終わった後でしたね。今始まったばかりですから、自習スペースで資料を見るか自習して待っていてください」

「はい。ありがとうございます」

 

 荷物をもって席を立つ。仕切りは胸の高さくらいまでしかなくて、部屋の様子を見渡すのは難しくなかった。生徒は中高生が多いみたいで、ちょうど学校が終わってすぐ来れるこの時間は席もかなり埋まっているようだった。

 流石に授業している人の真横に座るのはなーと思いながら見渡していると、部屋の隅の方の席が空いているのが見えた。隣に男子生徒はいるが自習をしているようだったので、お邪魔させてもらうことにした。

 

 授業している人達の間を縫ってその席まで行くと、彼は問題の丸付けをしているようだった。そばに積まれた問題集の表紙には数Ⅲと書かれている。

 

「ねぇねぇ」

 

 声をかけると、男の子が手を止めた。目元までかかっている癖のある髪をうっとおしそうに手で払いながらアタシの方を見る。ぼんやりとした表情は何を考えているのかよく分からなかったけど、「ん?」とこちらを伺う仕草はこちらを邪険にしているようには感じられなかった。

 

「ここの席使いたいんだけど、大丈夫?」

「どうぞ」

 

 彼は頷きながら、アタシの指した椅子に寄りかかっていたバッグをどかして自分の足元に置きなおした。

 

「ありがと!」

「いえ。……ああ、新しい人か」

 

 小さな声で独り言を漏らした彼の視線は、アタシの持っている資料に向けられていた。

 

「うん。アタシ、今井リサ。羽丘三年。よろしくー!」

「冷泉。青蘭高校三年。よろしく」

 

 それは近くの男子校の名前だった。同い年だったらしい。

 同じ受験生ということで少し親近感が湧いたので、そのままもう少しだけ話を続ける。

 

「下の名前は?」

「いま」

「イマ?」

 

 パッと名前に聞こえない単語が出てきて思わず繰り返すと、彼は持っていたノートを閉じてアタシに見せてくる。名前の部分には『冷泉(れいぜん)維真(いま)』と書かれていた。慣れた動きだったけれど、たぶん名前のことを聞き返されることが多いのだろう。

 

「真を(つな)ぐ、と書く」

 

 彼──維真──は、それで話が終わったと判断したのか、アタシの側に置いてあった問題集やペンケースを反対側に置いた。本当はもう少しだけ話してみたかったけど、ここは勉強をする場所だ。彼も受験生だし、無理に話しかけようとしても邪魔になるだけだ。

 

「アタシもやるか―」

 

 小さく声に出してやる気の底上げを図る。

 今日の科目は古典だったけれど、この後の授業内容が分からないから正直何をやればいいのか判断しかねた。とりあえずテキストを取り出して少して考えたけれど、やはりどうすればいいか分からない。

 

「うーん…………」

 

 とりあえず問題を解けばいいのか、助動詞とか語彙の復習をしたらいいのか。こんなことに悩んでいるくらいなら何も考えずに手を動かした方がいいのは分かっているんだけど、それでもやっぱり手が動かなかった。わざとらしく腕を組んでみたりもするけど、そんなことをしたところで答えなんて出ようもなかった。

 

 目元だけで隣の様子を盗み見ると、維真は問題の続きを解き始めたらしく、時折ペンを止めて考え込む場面はあるも順調に進んでいるようだった。

 真剣に勉強を進めるみんなの言葉のない熱気だけは、隣からも仕切りの向こうからも伝わってくる。みんな一生懸命で、真剣に勉強しに来ているんだっていうのが話したこともないのに分かった。

 

「……よし」

 

 古典のテキストとノートをしまう。やっぱりアタシにはまだ何も分からない。だからまずは、アタシがやった方がいいって分かるところから始めようと決めた。

 今度は明日までの宿題として出された数学の問題集を取り出す。宿題はやらなくちゃいけないのだから、まずはここからだ。

 

 数学は二年生の段階で既に終わっていた。今は共通テストの準備のために、授業でも共通テスト形式の問題を解いて解説を聞く形式になっている。

 一問目は二次方程式を解く問題だった。

 

第一問(配点30)

 

 [1] $aを実数とする。$

    $9a^{2}-6a+1=($ ア $a-$ イ $)^{2}である。次に……$*1

 

 

 途中まで読んで続きを諦めた。最初は一度読んで全体の流れを見た方がいいとか言われてたけど、全然頭に入ってくる気がしなかった。頭痛の始まったアタシに分かったのは、今はとりあえず因数分解をした方がいいってことだけだ。

 

 まずは、何も考えずに黙々と因数分解を始める。

 問題文を見る限り、二乗の形に分解できるらしい。ということは、$9a^{2}$は$3a$になるはずだから……

 

 

 検算も兼ねて解いた結果を二乗してみるが、ちゃんと元の式になる。大丈夫そうだ。

 そのまま ア  イ に答えを書き込んだ。

 

 問題文の同じ数字が入るマスに答えを書き込んで続きを読み進めていく。

 因数分解が終わったら、今度はよく分からないけど$A$というのが出てきて、それを解くために$a$の場合分けをする、らしい。

 

「えぇ……?」

 

 $\frac{1}{3}$や$-2$って、いったいどこから来た数字なのだろう。そもそもなんで場合分けをしなくちゃいけないのかが分からない。たぶん最後の$a$を求めるために必要な作業なんだと思うけど、何がどうしてそうなっているのかはてんで分からなかった。

 

 こういう時はどうするんだっけ。

 早くも思考がドツボにハマったような感覚に陥る。こういう時は何から手を付けていいのか全然分からなくなってしまう。時計を見ると、時間はまだ五分も経っていなかった。そりゃそうだ。アタシがやったのは因数分解だけ。これを飛ばして次の問題に進んでもいいけど、後から答えがひらめくかと思うとたぶんそうじゃないだろう。

 

 腕を組んでみる。

 ──答えはひらめかない。

 

 問題の辺りをシャーペンで叩いてみる。

 ──解法は思いつかない。

 

 天井を見上げて祈り始める。

 ──神様は答えを与えてくれそうにない。

 

 そうやって思考にならない思考を延々としていると、ふと視線を感じる。

 ペンを置いて視線の方向──アタシの隣の席──を見ると、どこか呆れたような顔をした維真がいた。

 

「…………」

「あー……」

「…………」

「こ、これはー、ちょっとした準備運動というかー……」

「分かんないのか?」

 

 維真はアタシのノートを見ながら尋ねてきた。

 初対面の人に何にも分からないというのはちょっとだけ憚られたけど、かといってここから問題が解けるビジョンも全く見えない。

 

「……はい、分かりません」

 

 アタシは早くも完全降伏することにした。

 維真はため息をついて、右手を差し出してきた。何を意味しているのか分からず、お手、みたいに右手を重ねた。

 

「違う。問題」

「あ! 問題ね! 問題!」

 

 その言葉でようやく右手の意味を理解した。あたふたと慌てて宿題を渡した。そりゃそうだよね。この流れだったら解説してくれる流れだよね。

 

 維真はそれを受け取ると、サッと内容を見た。先ほど数Ⅲを解いていたし、維真はおそらく理系だろう。彼からしたらアタシが今解いている問題なんて初歩中の初歩に違いない。

 先生に目の前で丸付けされているときみたいな居心地の悪さで座っていると、維真は視線を上げずに問題文を叩いた。

 

「因数分解はできた」

「うん」

「……あってそうだな」

「本当? よかったぁー」

 

 そこすら間違っていたら本当に終わりだった。

 

「それで、場合分けするところで手が止まったわけか」

「おっしゃる通りです」

「まあ、解答欄がここで止まってるし、そうだよな」

 

 維真の語調は優しくなかったが、それは責めているというわけではなさそうだった。なんていうか、淡々としているだけで、これが普通なんだろう。彼は本当にアタシの理解度を確認しているだけなんだろうってことは、まだほとんど話したことのないアタシでも理解できた。

 

「この式の場合分けからどうしていいのか分からなかったのか?」

「そうそう。なんでその場合になってるのかが全然分かんなくてさー」

「なるほどな」

 

 維真は少し考えこむそぶりを見せた。

 どう説明するのかを組み立てているんだろうなと思った。

 

「絶対値を外すために場合分けしてる、って言ってハッとなるか?」

「え?」

 

 そういわれて問題の方を見直す。

 

第一問(配点30)

 

   $A=\sqrt{9a^{2}-6a+1} + \vert a+2\vertとおくと$

   $A= \sqrt{(3a-1)}^{2}+ \vert a+2\vertである。$

 

   $次の三つの場合に分けて考える。$

   $a \gt \frac{1}{3} のとき、A=$ ウ $a+$ エ $である。$

   $-2 \leqq a \leqq \frac{1}{3} のとき、A=$ オカ $a+$ キ $である。$

   $ a \lt -2 のとき、A=-$ ウ $a-$ エ $である。$

 

 

 絶対値が付いているのは$A$の式だ。これを使って$a$の値が求めたくて、そのために場合分けしているっていうことまでは分かっている。

 でも、どうして場合分けをしたら絶対値が外れるんだっけ……?

 

 理由が分からなくて渋い顔をしたところで、維真はアタシの気持ちをすべて察したらしい。「分かりやすいな」と呟きながら、ルーズリーフを取り出した。

 

「それじゃあ、最初に数ⅠAの基礎の復習から始めることにするぞ」

「了解!」

「今回は変数がある式だから面倒になってる。だからまずは、シンプルな数で絶対値の外し方を確認していこうと思う」

 

 

「こういう二つの式がある。イコールの続きに入る答えは?」

「それはもちろん、こうじゃないの?」

 

 維真からシャーペンを受け取って答えを書き込む。

 

 

 維真は頷いた。

 

「そうだな。理由まで説明できそうか?」

「そりゃ絶対値とか、ルートの二乗って、マイナスを消すためにあるんでしょ?」

 

 数直線上での0からの距離みたいなものだと先生が言っていたのを覚えている。あくまで距離を記述しているものだから、マイナスにはならない。距離にマイナスはないから。

 って感じのことをなんとか維真に説明する。維真はふんふん聞いているが、反応的には悪くなさそうだった。

 

「少し曖昧な言い回しも多かったが、認識はそれで間違ってない。絶対値や平方根を二乗した値は、見た目的にはマイナス符号を外しているように見える」

 

 そして、ペンをとってアタシの答えの続きに何かを書き始めた。

 

「それを式としてあらわそうとすると、こうなるわけだ」

 

 

「つまり、絶対値や平方根の二乗を外す作業を式として表すと、『中の値が負の場合、マイナスを付けましょう』となる」

 

 そこで何か期待を込めた瞳でこちらを見てくるが、アタシは何一つひらめく様子もなかった。

 中がマイナスだったらマイナスを付けて外してあげましょう。維真が言ったことそのままは理解できたと思うけれど、そこから先に続く感じはなかった。

 

「ごめんね、アタシ全然分かんなくて……」

「いや、別にいい。順番に説明していくだけだし」

 

 維真はあまり気にしていないようだった。

 

「そもそもここにいる連中は、みんな勉強できないから来てるわけだし。分かんないのなんて当然だろ」

「確かにそうかも」

 

 勉強できるのなら、満足できているのなら塾に来る必要なんてない。今よりももっとできるようになりたいから勉強する。アタシだってそのために来たし、それは維真も、授業を受けている他の人もきっとそうだった。

 

「話を戻すが、絶対値を外すには、その中身が正か負かを分かってなくちゃいけない。ここで、中の値に変数が混じっていたら、その中身は正だろうか、負だろうか?」

「それは、変数にどんな数が入るか次第で、場合によるんじゃないの? …………ん?」

 

 場合による?

 

 その言葉が自分の口から出たところで、何かがアタシの袖を引いたような感じがした。どこかでその言葉を見なかった?

 

「あ!」

 

 そこでようやく気が付いた。

 

「$a$を場合分けしないと、中身が正か負か分からないんだ!」

「そういうこと」

 

 維真は頷いて元の問題を指さした。

 

「問題の$A= \sqrt{(3a-1)}^{2}+ \vert a+2\vert$では、外さないといけないものが二つあるよな」

「うんうん。$\sqrt{(3a-1)}^{2}$と$\vert a+2\vert$の二つだよね」

「そうだ」

 

 それまでずっと存在する理由が分からなかった$-2$とか$\frac{1}{3}$がどこから出てきた数字なのかを理解した。つまり、$A$の式の中にある『ルートの二乗』と『絶対値』。その二つの中の値が正だったり負だったりする場合分けをした結果なのだ。

 正と負が切り替わるタイミングは、それぞれの中身が0になるとき。つまり、

 

 『ルートの二乗』であれば、$3a-1=0$となって、$\frac{1}{3}$より大きいか小さいか。

 『絶対値』であれば$a+2=0$となって、$-2$より大きいか小さいか。

 

 そして、この場合分けを同時に適用しようとすると、本来の問題文のようになる。

 

 

 ・$a \gt \frac{1}{3} のとき(どちらも正の場合)$

 ・$-2 \leqq a \leqq \frac{1}{3} $ $(『ルートの二乗』が負、『絶対値』が正の場合)$

 ・$a \lt -2 のとき(どちらも負の場合)$

 

 

 この場合分けができて初めて、ルートの二乗や絶対値を外すことができるようになるということらしかった。

 

「そもそもこの問題自体が、$A$を解いて、$a$の値を求めたいっていう話だ。最初の因数分解は問題を解くための誘導として与えられたものだな」

「あー。この方程式はこうやって因数分解できるけど、それってこういう問題で使えるよねー、みたいな感じってこと?」

「そうそう。だから、実質的に本題はこの場合分けのところからだな」

 

 維真の解説のおかげでだいぶ意味が分かってきた。アタシは絶対値の話をなんとなくで覚えていたから、マイナスを付けるとかってところを忘れちゃっていたんだ。

 

「ここからなら自分で解けそうか?」

「たぶん大丈夫……かな?」

 

 先の方を見ていくと、実際に絶対値等を外して解いた結果を入れるところがある。

 

「ちょっとやってみる」

 

 まずはさっきの外し方で外して問題を解くところだ。

 外す条件さえ分かってしまえば、アタシにも余裕な計算だった。

 

 

 これで、 ウ  キ までの答えが出た。

 

「計算も合ってるな」

「本当? よーし!」

 

 思わずガッツポーズ。なんだかすごくすっきりして気持ちがいい。

 

「じゃあ、そのまま続きも……」

 

 と、問題を読み進める。

 今度は場合分けした結果がまた違う式で表される場合に、$a$の値を求めたい、ということらしい。

 

「ねぇ、維真」

「……えっ? ああ、どうした?」

「確かさ、こういう変数って、二つの表し方が出てきたら、解けるようになるんだよね」

「そ、そうだな」

 

 その言葉で解き方を確信する。

 つまり、アタシがやるべきことはこうだ。

 

 

 $A$は、場合分けした式と、新しく出てきた式の二つを使って表すことができる。

 だから、それをイコールで結んで方程式を解けば、$a$の時の答えが出てくる! と思ったけど、なんだか予想外の事態が起きた。

 

「……あれ?」

 

 当たり前だが、答えが三つ出てきた。でも回答するのは二つだけだ。正直、一つ目と三つめは符号が代わってるだけだったからいい感じに一緒になるんだと思ってたけど、そういうわけじゃないらしかった。

 一つが整数だから$6$が入るのは確定するんだけど、分数の方が分からない。どちらが入るのだろう?

 

「なんか間違っちゃったかー」

 

 とりあえず計算しなおしてみる。計算ミスで一致するはずのものが一致してないという可能性はありそうだなって思った。

 

「あれ、あってる」

 

 計算は何度やり直しても問題なかった。でも、どちらかを選ぶことはできそうにない。

 必死に首をひねってしばらく格闘してみるけど、それでもやっぱり何をどうすればいいのか分からなかった。

 

 少し唸っていると、再び自分の問題に戻っていた維真が手を止めて声をかけてきた。

 

「ダメそうか?」

「うーん、ちょっとね。三つの計算まではできたんだけど、この分数の答えのどっちが正解なのか分かんなくて」

 

 維真は横から問題とアタシの回答を覗き込んで、「あー」と納得したような声を上げた。

 

「なるほどね、分かった」

「本当に? アタシの計算間違ってた?」

「いや、計算は間違ってない。ただ、今井は前提条件を忘れているみたいだな」

「……前提条件?」

 

 何の前提条件だろうか。

 

「ここまで方程式を三つ解いて、答えを三つ導き出した。これらは一つの式から作ったもの。そうだよな?」

「うん。$A$を場合分けしたもんね」

 

 それは三つの式を解いている上にも書いてあることだった。

 

「ああ、今井はそれの存在を完全に忘れているってこと」

「え?」

「いいか? 三つの式を解いて$a$が出てきたのはいいが、()()()()()()()()()()()()()?」

「正しい、値?」

 

 維真の言っていることがよく分からない。計算したんだから合ってるんじゃないの?

 

「ここで、今井が忘れている前提条件の話だ。そもそもこれらの式は絶対値や平方根の二乗を外すために、場合分けを行った結果導かれたものだ」

「そうだね」

「じゃあ、三つの式を解いた答えは、それぞれ()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()ってことになる」

「え? ……あ」

 

 場合分けしたことは既にアタシの中で終わってて、確かにもう全然気にしていなかった。

 例えば、一番最初の場合を考えてみると、場合分けの条件は$a \gt \frac{1}{3}$で、答えは$6$だった。これは条件に一致しているから正しい答えだって言えるわけだ。

 

「それに当てはめて考えると、違うものは自明だな」

「二つ目ってことでしょ?」

「ああ」

 

 二つ目の条件は$-2 \leqq a \leqq \frac{1}{3}$だけど、答えは$-\frac{5}{2}$となって、場合分けの条件から外れてしまってる。

 

「二つ目の答えが$-\frac{5}{2}$だったら、最初に設定したはずの条件と矛盾する」

「矛盾するってことは、その答え自体が間違ってるってことになるわけね」

「そういうこと」

 

 だから、正解は三つではなく二つ。選ぶべきは一つ目と三つ目となるわけだ。

 

 ちゃんと答えを記入して大きく伸びをした。

 最初は因数分解しかできてなかったのに、維真の解説があったとはいえ、最後までちゃんと納得して答えを埋め切れるとは思っていなかった。

 

「最後までできた―!」

「よかったな」

 

 どこか他人事みたいに言ってくるが、維真が説明してくれなかったら絶対にできていなかった問題だ。

 いつもは最初の何問かを解いて後半のところは放り出しちゃうような感じになっていたから、最後まで解けたのは嬉しかった。

 

「維真も本当にありがと!」

「別に。学校でも同じようなことしてるし、これくらいは」

 

 維真はなんでもなさそうに髪を弄っているが、先ほどよりも少しだけ頬が赤くなっていることに気が付いた。どうやらお礼を言われて照れているみたいだった。

 ぶっきらぼうな印象だったけど、冷たい人じゃないってことはもう分かっていた。友希那みたいに気持ちを表に出すのが苦手なだけの不器用なタイプで、本当は結構優しい人だ。

 

「でも、それってそもそも大問一の一問目だろ。その後のも全部解かないと」

「それはそうなんだけどねー」

 

 話を逸らそうとしているのは分かったが、乗ってあげることにした。

 

「維真は数学とか得意なの?」

「そうだな。一番点数がいい。他のもそれくらい点取れてくれればいいんだが」

「分かる~。苦手な科目とか単元やってるとき、いっつもそう思ってるよ」

「今井は数学苦手なのか?」

「うーん。理系科目は全般苦手かなぁ。別にすっごいできないってわけでもないんだけど、平均点行ったり行かなかったりって感じ」

 

 とびぬけて得意な科目もないけど、苦手も科目もなかった。強いて言えば暗記系は覚えるだけだから楽だけど、数学みたいなのは計算とか考え方が分からなくて点数が低くなりがちなところはあった。

 

「塾に来たのも、やっぱり受験対策か?」

「まあね。もともと受験するかはちょっと悩んでたんだけど、やっぱりちゃんとやろうと思って」

「就職するつもりだったってことか?」

「え? うん、そんな感じ」

 

 就職っていうか、Roseliaに集中するという選択肢だった。

 Roseliaは数か月前にメジャーデビューした。もともとガールズバンドに詳しい人なら知ってくれている人もいるバンドだったわけだけど、確かにバンドを見る人でもなければまだ知名度なんてないようなものなのかもしれなかった。最近は学校でも応援してくれる子もいたりしたから、そっちに慣れてしまっていた。

 

「いろいろ頑張りたくて」

 

 ただ進学するだけなら塾に行く必要はなかった。でも、今の学力で行けるところにするのはなんだか違う気がして、今よりも少しだけ上のところを狙ってみることにした。たぶん、アタシなりの受験勉強だった。

 

「維真も進学だよね。どこ行くつもりなの?」

「俺か?」

 

 尋ねると、維真は有名な国立大の名前を挙げた。地元の大学よりもずっといいところで、アタシの偏差値では受けようって考えすら湧いてこないくらいだった。

 さっきまでは理系だから数学出来るんだろうなって思ってたけど、そんなの全然関係なかった。もしかしたら、文系科目ですら維真の方ができる可能性がある。

 

「特にやりたいことがあるわけじゃなくて、ただ数学が続けたいだけだけどな」

「ううん。別にいいじゃん、それで」

 

 本人は自嘲しているみたいだったけど、アタシはそれでも構わないんじゃないかと思った。アタシだって進学先自体にはあまり興味ない。何か勉強したいことがあるわけでもない。かといってRoseliaが、将来ずっと音楽で生活していけるバンドであり続けるとは限らない。

 そういう意味では、アタシだって人のことを言えないくらいには、不安定な未来を選んでいる側の人間だった。

 

「やりたいなって思うことがあって、それを手放さないように頑張るのって大事だと思う」

「そんなもんか」

「うん。アタシはそんなもんだと思う」

 

 Roseliaもバイトも遊びも。何一つ捨てられないアタシだからこそ、それだけは自信を持って言えた。

 

「だからもっと自信もっていいと思う。それに、アタシに数学こうして教えてくれたのもありがたかったし」

「いや、それくらいなら別にいつでも教えるけど」

「嘘!? また頼んでいい?」

「ああ。正直、数学はもう自分で勝手にやるくらいの科目だから、教えたりで復習するくらいしかやることないし」

 

 数学は共通テストで使うけれど、やっぱり文系科目の方が大事になってくるからと特に塾でやる予定はなかった。席が空いてればいつでも使えるわけだし、こうして教えてくれるのは本当にありがたかった。

 

「この席はだいたい授業に使われてなくて、俺はいつもここを定位置にしてる」

 

 そう言って右の席──つまり、アタシの席──を指さした。

 

「今井も、分からないところがあったら来ればいい。いやまあ、先生に聞いてもいいんだけど」

 

 最後のはやっぱり照れ隠しみたいな感じで、思わず笑ってしまった。素直じゃないけれど、彼なりの優しさというか、面倒見の良さみたいなものを感じた。アタシもそういうのほうっておけないから、たぶん親近感みたいなものなんだと思う。

 

「ありがとう、維真。……あ、そうそう。アタシのことはリサでいいから」

 

 ずっと今行って苗字で呼ばれていたのが気になっていた。

 だけど、維真の方は少しだけ考えこんでから呻くような声を出した。

 

「女子を名前で呼ぶの慣れないから、今のままでいいか?」

「うんうん、りょーかい。名前は慣れたらでね」

 

 ちょっと距離を感じるけど、そこは人次第の話だし、アタシは結構仲良くなったつもりだけど、それでも人なりのスタンスがあるだろう。

 維真はちょっと恥ずかしがりながら、話を切り替えようと「と、とにかく」と早口でまくし立てた。

 

「まずはその問題を終わらせるぞ。とりあえず自力で解けるところまで解いてみてくれ」

「はいはーい」

 

 それだけ言って維真は自分の問題を解き始める。

 まだ続きを手伝ってほしいなんて話はしていなかったし、付き合う義理もないはずなのに、彼の中ではもう最後まで面倒を見るつもりだったらしい。それがなんだかおかしくって、まだあって数十分しか経ってないのに、維真が学校でもこうして誰かに勉強を教えている姿を想像することができた。

 

 チラチラとアタシの様子を見ているのを気付かない振りしながら、また続きの問題を読み始める。

 次の授業まではまだ一時間近く残っていて、アタシはこの新しい友人との出会いがあっただけでも塾に通い始めたかいがあったなと思った。


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