人からよく頼み事をされるのは、信頼されているからなのか、それとも頼みやすいと思われているのか、正直なところわからない。
だけど、俺はなるべく前者であってほしいと思っている。頼みやすいと思われるのは、何か利用されている気がしてならないから。
「
「あ、はい。わかりました」
教師に頼まれ、クラスメイト34人分のプリント抱えた俺は、教師ぐらいは自分のことを信頼していてほしいなぁと望みつつ、教室までゆっくり歩く。理想論だけど、生徒を教え導く立場の人間が、生徒に頼りきりと言うのは世間体からしてよくないと思う。
「プリント返ってきたぞー」
教室の扉を足で開けて―――両手が塞がってるので勘弁してほしい―――クラスの皆に聞こえるように言うが、反応するのは10人もいない。その中で、プリントを配るのを手伝おうとするのは、2人だけだ。
「また頼まれたのか」
「断れなくてな」
「損な役回りだなぁ、お前」
呆れるように笑いつつもプリントを引き受けるのは、友達の
そしてもう1人は、香水の香りを漂わせる女子だ。
「手伝うよ。1人1枚でいいんだっけ?」
「ああ」
クラスで人気の高いマドンナ・
今も、そんな三栖がプリント配布を手伝うのを見て、クラスのそこかしこから男子の憧れや羨望の混じった呟きが聞こえてくる。逆に、そんな三栖に話しかけられた俺に対しては嫉妬じみたぼやきが向かってくるが、気にしない。
ついでに言えば、三栖のような女子が俺は正直苦手だ。嫌いなわけではないし、誰に対しても壁を隔てに接する姿勢は見習いたい。けど、クラスのみならず他クラスからも人気の高い人とは、接する度にどうにも腰が引けてしまう。さっきも、話しかけられてまともに答えられず、『ああ』としか言えなかった。あれは決して、カッコつけなどではない。
強いて言えば、彼女は近寄りがたい存在だ。
そんな彼女とは距離を置いて、俺も自分の分のプリントを配りだす。
「お願いします」
「……」
手始めに、近くの席に座っている女子に、プリントを渡す。その子は、返事はせずにただぺこりと会釈をするだけだったが、気にしない。彼女は元々、そう言う子だ。
彼女・網川さんは、入学してからずっと同じクラスにいるものの、いつもひっそりと静かな雰囲気を纏っている。落ち着いていて、喜怒哀楽をほとんど面に出さない、まるで置物のような子だ。
三栖とは正反対で、網川さんは近寄りがたいとクラスの皆は言っているし、俺も最初はそう思っていた。口数は少ないし、置物と表現するに相応しい黒く長い髪や、同じく黒い瞳など、全体的に暗いイメージだ。
「…あの」
「?」
「あ、ありがとうございます…」
「どういたしまして」
でも、こうしてプリントを渡した俺に、か細い声でお礼を言ってくれるあたり、冷酷でも無感情でもないと思っている。
周りから浮いている網川さんだが、俺はそんな彼女とそれなりに親交がある。高校に入ってから知り合っているので、昔馴染みなわけでもない。だが、クラスで孤立しがちな網川さんがどうしても放っておけなくて、何かと声を掛けることが多い。体育の授業で二人組を作る時とかも、自分がペアになるのがほとんどだ。
そうして2年過ごす中で、網川さんは周りを威圧しているわけではなくて、単に口下手なだけだと分かった。最初は俺も、ちょっと不気味な感じがすると思っていた口だが、それを知ってからはむしろ好感が持てるようになったものだ。
(何より、結構可愛いしなぁ)
この意見に関しては、当人はもちろんほかの誰にも話していない。そんなことを話せば俺の評価は地に落ちるし、特に女子からは軒並みバッシングを受けるだろう。
ただ、網川さんが俺の目から見れば可愛いのは事実だ。三栖がポジティブ系とするなら、網川さんはクール系の可愛さがある。遠めに見ているだけでは分からないが、接する機会が多い俺にはそれが分かる。
下心を持って網川さんに近づいた、とは言わない。本当に、元々困っているのを見て助けてあげたいと思ったのだ。それから網川さんの可愛さに気づいたのであって、決して一目惚れではない。
(…いかんいかん、あまりここで考えるのはやめないと)
そこまで考えたところで頭を振って、近くの席で寝ていた男子の机にプリントを差し込むように添える。
そう、これもまた誰にも言ってないが、俺は実を言うと網川さんのことが好きだ。
きっかけは何か、と聞かれても、これといったものは思い浮かばない。最初に声をかけてから、今日に至るまでの間に網川さんを近くで見て、一緒に話す機会が多くて、そうやって自然に網川さんに惹かれていったのだ。つまり時間をかけて、自分の中で網川さんに対する恋心というものが、育まれていた。
しかし、そのことについて考えていると、顔が気持ち悪いほどににやけてしまうので、学校ではそれについて深く考えないようにしている。家に帰ってから、枕に顔を埋めて足をバタバタするにとどめておいた。自宅でそんなことをする自分は気持ち悪いという自覚はある。
どこに惚れたのか、と問われると、見た目が3割、内面的な部分が7割だ。2年余り接していて分かったが、網川さんは控えめな性格であり、たどたどしくもちゃんとお礼の言葉を伝えてくれる。ちゃんとお礼の気持ちを伝えたい、と言うのは伝わったし、それはつまり感謝の気持ちをいつも持っているということ。それが簡単なようで難しいからこそ、そういう人間性を持っているところに惚れたのだ。
(まぁ、告白なんてハードルが高すぎるんだけど)
黙々とプリントを配りつつ、小さく息を吐く。
告白に踏み切れないのは、俺がチキンハートの持ち主なのもあるのだが、何より今学校で網川さんと接しているのが自分以外にほとんどいないという点が強い。
網川さんの学校の外での生活は俺も知らないが、今この学校において網川さんと接する機会が多い男子は、妄想でも自惚れでもなく自分だ。とすれば、この状態で自分が告白などしようものなら、網川さんからは『そういうつもりで接してきたのか』と疑われかねない。成功率は限りなく低いので、フラれた後のことも不安だ。また網川さんが孤立しがちになってしまうし、俺のメンタルも死ぬ。
なので結局、今まで通りの関係をこれから先も続けていくことになるのだろう。網川さんにもっと友達が増えれば話は別だけど。
「あ、桐坂。悪いんだけど6限の英語の宿題見せてくれねぇ?」
ぼんやりと考えていると、プリントを渡した
俺は『えぇ?』と聞き返す。
「何だお前、忘れたのか?」
「いやー…つい昨日はドラマが見逃せなくてな…」
「ったく…待ってろ」
忘れた理由はあまりにもだったが、それでも見過ごすこともできないので、仕方なく自分の机からノートを取ってくることにする。当然ながら、俺は宿題を終わらせていた。
人によっては、忘れたやつが悪い、と言うだろう。
でも俺には、自分の楽しみにしていたもののおかげで忘れてしまう、と言う気持ちは分からなくもない。他人事には思えないからこそ、ついつい手を貸してしまうのだ。
お人好しにもほどがあるか、と思いつつ、俺はノートを蓮田に手渡した。
その日は、少し意外なことが起こった。
「あっ、雪!」
昼休み、クラスの誰かが窓の外を見て声を上げた。それをきっかけに、多くのクラスメイトが窓際に駆け寄って、外を眺める。俺は席に座って弁当を食べつつ、様子を窺うにとどめておいた。
元々今日は、朝から雲が広がっていたし、天気予報では『ところによっては雪』とまで言われていたので、雪が降ること自体にはあまり驚かない。
しかし、空に広がる雲は朝と比べるとずっと色合いが黒く、しかも雪は結構しっかりと降っていた。豪雪地帯には流石に及ばないが、この地域にしてはかなりの量だ。このままでいけば、積もることだって十分にあり得るだろう。
「おー、すごい降ってるな」
同じく、正面で弁当を食べる蔵本も、感心したように呟く。
「これ、小さいのなら雪だるま作れるんじゃない?」
「いいね、作りに行こ!」
そんなことを言い出したのは、女子グループと一緒にいた三栖。早速とばかりにマフラーと手袋を準備して、三栖たちが外へ繰り出すと、それ以外のクラスメイトも徐々に外へ出始めた。大方、三栖のカリスマ性に加え、滅多にない雪でテンションが上がったのだろう。
もちろん、俺も蔵本もここを動かなかった。まだ昼食の途中だし、好き好んで寒空の下に出たくはない。ストーブで温まった教室を去るのは実に惜しい。ちなみに、宿題を忘れた蓮田はちゃんと自分の席で宿題を進めている。
「にしても、雪だるまが作れるぐらいには積もったのか…」
先に弁当を食べ終えた蔵本が、両手を合わせつつ呟く。
「お前電車通学だろ?帰り大丈夫か?」
「今のところは、大丈夫だ」
言われて、スマートフォンの運行情報アプリを見るが、今のところ雪のせいでの運休などは見受けられない。それに、この地域で交通が麻痺するレベルで雪が降るなんて話は聞いたことがないので、多分下校する時にはもう止むだろう。
「…?」
その時、視界の端っこに気になるものを見つけた。
こっちに背を向けて、自分の席で1人黙々と弁当を食べていた網川さんが、窓の外を眺めていた。頬はほんの少しだけ紅いが、それがストーブの近くの席だから、という理由だけではないように見える。
なんというか、嬉しさが籠っているように、俺は思った。
「ん、どした?」
「いや、別に?」
そこで蔵本に聞かれるが、俺は知らん顔をして弁当を食べ終える。そして、時計を見て、今日の時間割を思い出して、ふと思った。
「外に出た奴ら、5限が美術室だって覚えているんかね」
「…どう、だろうなぁ」
俺の言葉に、蔵本も肩を竦めて笑った。
食事も終わり、次の美術の授業の準備を始める傍らで、もう一度だけ網川さんの方を見る。さっきの窓の外を眺めていたのが噓のように、1人で午前の授業の予習をしていた。それを見て、俺もさっき見た姿は気のせいだと思った。
そして、雪に浮かれて外へ出て行った奴らは、全員5限の時間に遅れた。
そうして1日が終わった頃には、とんでもないことになっていた。
「えー、今日は雪がひどいので、部活動は全面的に中止と職員会議で決まった」
いつもより少し遅めにホームルームが始まったかと思えば、教師のこれだ。担任の発言にクラス全体がどよめいた。
俺とて驚かないわけではない。帰るころには止んでいるだろうと思っていた雪が、今でもしっかりと降っているからだ。しかも、昼と比べると雪の一粒一粒が大きくなっているし、窓から見える近くの家の屋根は雪で真っ白。記録的な積雪、と言っても過言ではないだろう。
「なので帰れる生徒は早めに帰るように」
『はーい』
「あー、それと」
担任の注意にクラスメイトの大半が素直に頷くが、続く言葉にクラスの空気が曇りだした。
「通用門近くの雪かきをしてくれる心優し~い生徒を募っているんだが、誰か志願する人は?」
やっぱり、そう言う話だった。
いかに都市部で雪が滅多に降らなくて、昼休みに外へ出て浮かれるほど雪に心躍っているとはいえ、教師の手伝いなど御免被りたいだろう。もたもたしていたら天気がどうなるかも分からないし、何より寒さがえげつない。性格の良い三栖でさえそれは例外ではなく、今回は大人しかった。予定があるのかもしれないが、それは些細な問題だ。
兎に角、こういう時に誰も志願しなければ、先生は目に見えなくても気を悪くする。そしてクラス全体の空気もずっと気まずいままだ。
「あのー…俺、やります」
だから俺は、先んじて手を挙げた。クラスメイト全員の視線が俺に向かい、先生は『おお、流石は桐坂!』と大袈裟なまでに喜んでくれる。
「よし、それじゃ雪かきは桐坂と網川にやってもらおうか」
…………ん?
今何か、聞き捨てならない名前が聞こえたような。
しかし、ホームルームはすぐに終わってしまい、クラスのみんなは俺に『がんばって~』などと無責任な言葉を掛けてくる。蔵本も家の用事があるようで、手を合わせて頭を下げながら申し訳なさそうに帰って行った。
「がんばってね、桐坂君」
「ああ、ありがとう」
三栖の言葉にも、俺は端的に答える。
「……」
そして最後に残ったのは、網川さんのみ。やっぱり、さっきの先生の、網川さんも手伝うという言葉に間違いはなかったらしい。
しかし網川さんは、もじもじとしていて、俺の視線と一瞬だけ合うだけで、じっと視線を合わせようとはしない。声を掛けようともしない。そんな姿に可愛らしさを抱かずにはいられないが、今はそれよりも疑問の方が上だ。
普段、積極的に挙手したり、意見することもなかった網川さんが、雪かきに立候補するとは。
「よーし、それじゃ行こうか」
その疑問を断ち切るように、担任が声をかけると、俺と網川さんは揃って教室を出た。
雪は思ったよりもしっかりと積もっていた。豪雪地帯には劣るものの、アスファルトに積もった雪は10センチを軽く超えているだろう。木や車にも積もっていて、冷たい風に合わせて、見ているだけで寒くなる。先生が貸してくれたウィンドブレーカーも、ほとんど効果がない。
「この時期に、こんなにも、降るなんて、珍しい…っ!ですけどね…」
渡されたスコップで、通用門の周りの雪をえっちらおっちらと運びつつ、俺は網川さんに話しかける。この冷えた天気の中、黙って作業に勤しむだけではやってられないので、声を出してほんの少しでも気持ちを温めたい。
「そう、ですね」
しかし、同じくウィンドブレーカーを着て雪かきをする網川さんは、意外にも返事をしてくれた。それも、今までのようにたどたどしいものではなく、比較的流暢な言葉だ。さっきの積極的に手伝いを申し出たのと言い、今日はどうしたんだろう。
おまけに、網川さんは俺と比べて作業がテキパキとしている。俺の作業量が10分で1としたら、網川さんは3か4ぐらい。通用門近くを分担しているものの、この分では網川さんの担当しているスペースの方が先に雪かきが終わる。
その時、車のクラクションが鳴った。
「おっと」
道を開けるために後ろへ退く。運転席の古文の先生が、窓を開けて『ごめんね~』と言いながら、車は通用門を出て行った。屋根の上に載っていた雪は、さっき俺が取り除いておいたので事故の心配もないだろう。
一方の網川さんは、律義に車に向かってお辞儀をしている。まるでガソリンスタンドか一流ホテルの従業員だ。
そして、車が角を曲がって見えなくなってから、網川さんはまた雪かきに戻ろうとする。
その時に、網川さんの顔がはっきりと見えた。
「……」
笑っていた。
はにかむように、ではなくて、楽しそうに。
やっぱり今の網川さんは、何か違う。
「網川さん…」
それが気になって、俺は網川さんに話しかけた。
その時、不意に足が滑った。
「え」
一瞬で見えたのは、自分の立っていた地面の雪が少し黒ずんでいたこと。どうやら、マンホールの上に知らないうちに立っていたらしい。
そして視界はどんどん低くなっていく。
「危ねぁ!」
誰かの声が響いた。
それと同時に、俺は雪の積もる地面に顔から倒れ込む。
「ぶべっ」
情けない声が口から吐き出て、顔がすごく冷たい。そして右手が何か痛い。
「大丈夫だが!?桐坂ぐん!」
そんな俺の耳に、日本語だが何か違う言葉が入ってくる。
顔を上げて見れば、俺に向かって心配そうな顔を向ける網川さんがいた。
「ああ、うん…大丈夫です」
違和感はさておき、いつまでも倒れたままだと制服と身体が冷え切ってしまうので、まずは起き上がろうとした。だが、右手を地面につけるとやけに痛み、思わず片目を瞑ってしまう。
「怪我すたんだが!?診へでけ!」
だが、またも不可解な言葉を発しつつ、俺の手を取る網川さん。人生で初めて女の子に手を取られた瞬間だが、今は驚きと痛みの方が強い。
そして今、はっきりと右手が擦り剝けて血がにじんでいるのが分かった。
「何でごど、怪我すてらべさ…ええと、絆創膏、絆創膏…」
けがを見て、網川さんはブレザーの胸ポケットを探るように手をまさぐる。
しかしその姿と、さっきまでの違和感から、自然と口が開いた。
「…方言?」
血相を変えて網川さんが言っていたのは、日本語だったけど独特のイントネーションがあった。多分、東北辺りのだと思う。
そして、俺がそう言った直後、網川さんは顔が林檎のように真っ赤に染まった。ぼふっ、という音まで聞こえそうな勢いで。そして、おずおずと絆創膏を渡してくる。ついでに、俺の手も離してくれた。
「…雪かき、しましょう」
俺が絆創膏を貼り終えると、またぽつぽつとした話し方になってしまう網川さん。
色々と気になるところはあったが、確かに今は雪かきの途中だ。先生から頼まれている手前、サボったりするのもいけない。
倒したスコップを片手に、俺はまた雪かきを再開した。
雪かきを終えて、私と桐坂君は一度校舎の中に戻る。持ち物を教室に置いてきたのもあるけれど、先生がご褒美として奢ってくれた自動販売機のココアを飲むためだ。
「…ごめん、なさい」
けれど、今の私はココアなんて飲む気になれない。手の中でココアの缶を持て余している。
自動販売機の近くには生徒の談笑用のスペースがあって、そこにある椅子の一つに私は座っていた。隣には桐坂君も座っていて、彼もまた缶のココアを開けてはいない。雪の聖でほとんどの生徒が帰ってしまったものだから、ここはとても静かだ。
「変でした、よね…私の、言葉」
「変だなんて」
ただ黙っているだけなのは、余計に気まずかった。だから普通の言葉で…標準語で桐坂君に話しかける。さっきの私の咄嗟に出た素の言葉を、どう思ったんだろう。
けれど今、桐坂君は私に対して『疑問』を抱いているのは分かる。だから、その疑問だけは解いてあげようと思った。
「…私、中学を卒業するまでは、ずっと田舎暮らし、だったんですよ」
「そうだったんですか」
「そこでは、普通に友達も、いたんですよ…。素の私で、いられたん、です」
2年あまり、よくこの素の話し方を我慢できたと、我ながらに感心する。
元々、私は自分の方言が嫌いなわけじゃなかったし、むしろ方言は住んでいる場所を表す誇るべきものだと思っていた。
「けど…こっちの人には、方言って通じなくて、ですね」
親の都合で地元を離れて上京し、生活していると、結構な割合で方言が通じないことが多かった。親の代わりに電話に出た時や、コンビニやスーパーで買い物をした時、相手に『もう一度いいですか?』なんて何度聞かれたことだろう。一番堪えたのは、近所の方に引っ越しの挨拶をした時、『標準語で喋ってほしい』と言われたことだ。
「だから…隠そうと、思ったん、です。学校で、そんなこと言われたら…立ち直れない、から」
学校には、自分と同じ歳の子がたくさんいる。勿論、ここは私の生まれ育った故郷じゃないから、言葉だって違う。方言を話す子なんてほとんどいないに決まってる。そんな中で、自分が方言なんて話したらどうなる事か。
それが怖くて、私はずっと頑張って標準語で話してきた。それでも、方言と比べると標準語は話しにくいから、どうしてもつたないしゃべり方になってしまう。その結果、口下手と周りに認識されてしまって、友達がほとんどできなかった。
でも、そんな私にでさえ、桐坂君は優しく接してくれている。入学してから今まで、同じクラスだっただけでもすごいのに、桐坂君はそれでも私を気にかけてくれていた。
「……」
言葉が出てこない。
ずっと方言を隠してきたからこそ、咄嗟のこととはいえ、さっきの私の方言を聞いて、桐坂君も驚いたことだろう。そして不快に思っただろう。
桐坂君は、私の方言を聞いてどんな気持ちになったんだろうか。
私に優しくしてくれていた桐坂君が、どう思ったのか。
それを聞くのは怖い。だけど、気になる。何ともわがままだ。
「なるほどね…」
桐坂君は、天井を仰いで、どこか納得したようにそう言った。
その『なるほど』は、どういうつもりなんだろう。
「いや、そういう話は聞かなかったからさ。網川さんが地方出身っていうのはね」
「それは、今まで、話してませんでした、から…。やっぱり、変でしたよ、ね」
「変だって?まさか」
恐ろしくなって自分を低く見るように言ってしまうが、直後に桐坂君は強く否定してきた。多分、過去一番で、桐坂君が私に向けてきた言葉の中で強いと思う。
「そりゃ、最初は驚いたさ。だって網川さん、普段から静かで口下手だって思ってたら、いきなり方言が飛び出してきたんだもの」
やっぱり、驚いていたんだ。怪我を心配して話しかけてから、しばらく返事が無かったのはそういう理由だった。
「驚きはしたけど、変だなんて思わなかったよ」
でも、続く言葉に私は視線を向けずにはいられなかった。
桐坂君は、穏やかに笑っていた。
「…本当、に?」
「本当だよ。ここで嘘ついても意味はないし」
いつものように、桐坂君は優しく私のことを見てくれている。
「むしろ俺としては…嬉しかったかな」
「嬉しい…ですか?」
「今までずっと静かだった網川さんの事がもっと知れたのもあるし…」
桐坂君は、そこで一度言葉を区切った。恥ずかしそうに、気を紛らわせるように、ココアの缶のプルタブを爪で引っ掻いている。
やがて、小気味いい金属音と共にプルタブを開けた。
「…それだけ、俺のことを心配してくれたってことだと、思ってるから」
そう言って、桐坂君はそっぽを向いてココアを飲む。
指摘されて、私も少し顔が熱くなってきた。
さっきは確かに、雪の中で転んだ桐坂君が心配だった。雪の下に何があるか分からないからこそ、大怪我をする可能性もあったから。その時だけは、方言が恥ずかしいとか考えないで、ただただ桐坂君が心配だったのだ。
そこに恥ずかしさを私も覚えたのは、それだけ自分が桐坂君という1人のために必死になっていたと言うこと。他人に、それも男の人にそこまでしたのは初めてで、異性に対してそこまでの行動をした私自身が、自分じゃないみたいだ。
「ええと、あれは、その…」
「いや、もちろん心配してくれたのも嬉しかったんだよ?だからさ、そこまで落ち込まないでよ」
顔の熱さに耐え切れなくて、両手で顔を押さえる。そんな私に、桐坂君はいつものように、励ますように言葉をかけてくれる。
それが私には、とてもうれしかった。
「なんだ、まだ残っていたのか?」
「「わっ!?」」
そこで予想外にも声を掛けられて、揃って声を上げてしまう。
やってきたのは先生だった。
雪がひどくなる前に帰れとのことで、俺と網川さんは教師に帰された。
「いやしかし、本当にこんなに降るんですね」
「ええ…驚き、です」
天気予報の時点で雪を疑っていたので、俺はしっかりと折り畳み傘を準備していた。ここまで降るのは予想外だったけど。
そして、同じ傘の下に網川さんまでいるのも予想外。どうやら、網川さんは傘を持ってきていなかったとのことで、帰れなさそうだったのを見かねて相合傘を提案した。
「桐坂君…」
「?」
「あの、雪が肩に…」
「ああ、これぐらいなら気にしないで」
しかし折り畳み傘はそんなに大きくない。なので、俺か網川さんのどっちかのとるスペースを狭くしなければならなかった。当然ながら、そんなことを網川さんにさせるわけにはいかないので、俺の方が率先して傘から少しだけ身体を外に出している。そのせいで、肩に雪が降って冷たいが、網川さんと相合傘をできるのに比べれば安いものだ。
「あっ」
「!」
そこで、また足が滑った。直前の足から伝わる感触で、どうにも目の細かい金属製の側溝蓋を踏んでしまったらしい。そしてこの体勢だと確実に尻もちをつく。
だが、そうはならなかった。
「大丈夫だ―――大丈夫、ですか?」
「う、うん…ありがとう」
網川さんが、俺の腕を掴んでくれたのだ。それで辛うじて、転ばずに済んだ。
そして今、網川さんは方言で『大丈夫?』と言おうとしていたのも分かった。網川さんの顔も、やはり咄嗟に方言が出るのは恥ずかしいようで、また顔が赤くなっている。
「…あの、桐坂君。その…私の、方言のことは…みんなには、内緒にして、もらえると…」
「もちろんだよ」
網川さんは、クラスメイトに地方出身であること、方言を話すことが知られるのをすごく嫌がっているようだ。うちのクラスには、方言ぐらいで人を馬鹿にするようなやつはいないので、心配する必要もないと思うけど、念のためにこのことは俺と網川さんだけの秘密ということにする。
「でも、標準語を話すのが難しいなら、俺の前でなら自然に話して大丈夫だよ」
「……」
「俺は網川さんの方言とかからかったりしないし」
また、網川さんがうつむいてしまった。
流石に踏み込みすぎただろうか、と思ってしまうが、網川さんは傷ついたわけではないらしい。
「…桐坂君て、本当、優しいですよね」
「へ?」
「だって、今日だけじゃなくて、今までも、私みたいな人の、こと…ずっと気にかけて、くれて。人の、頼みとか断らない、し」
そう言われて、思い出す。確かに俺は、網川さんのことが前からずっと放っておけなくて、常日頃から気にしていた。それは気になる人だから、というのもあるが、やっぱりずっと1人でいるのを見ていて不安に思ったのもある。
「…頼みを断れないのは、俺がやらなきゃ誰かが困るから、っていうのがあるし」
実は前に一度だけ、頼みごとを断ったことがある。
中学の時、クラスメイトが掃除当番を代わってほしいと頼んできた。理由について聞こうとしたら頑なに言わなかった。そのぐらいの年でも、俺は他人の頼みはできる限り聞いてきたが、安請け合いはしていなかった。なので、理由もなしに代わることはできないと断った。
そして翌日、そのクラスメイトは俺に対して軽い文句を言ってきた。何でも、買いたい漫画の最新刊が欲しくて、早く帰りたかったのだそうだ。ただ、漫画を買いたいと言う理由だけで頼むのが恥ずかしかったから、敢えて理由を言いたくなかったのだそうだ。
その場で俺は、『悪かった』と謝り、次に同じようなことがあれば引き受けるとも約束した。
しかしその時のことは、俺の中では結構長いこと引きずっている。文句を言われたのもそうだけど、早く漫画を買いたいと言う気持ちも分かったから、断ったことに罪悪感を抱くようになった。
それ以降、頼み事は引き受けようと決めたのだ。
「でも、それだけでちゃんと、頼みを引き受けるのは、すごいなって…」
「そうかな…」
それでもなお、網川さんは俺を評価してくれる。俺としては当たり前のことをしてきたものだから、いまいち褒められることに対して疑問を抱いてしまう。せっかく網川さんがそう言ってくれたのに。
「ええ。頼みごとを引き受けたら断れないのは…お人好しなんじゃなくて、優しいからだって」
だけど、そこまで言われれば流石に俺も気持ちが揺らぐ。自分が優しい人間かどうかなんてのは、自分で決められないものとばかり思っていたから、改めて他人に、それも網川さんに言われたのがひと際嬉しかった。
「だから…んだなはん」
その時、網川さんの言葉が明らかに変わった。
隣を見ると、はにかんでいる網川さん。
「桐坂ぐんが嫌でなげれば、桐坂ぐんの前でだげは、こったな感じで話してと思います」
焦るようでも、恥ずかしがるようでもない、自然体。
網川さんの言葉は、そんな感じの話し方だった。
やっと、本当の網川さんの姿を知ることができて、何だか笑いが零れてしまう。
「…新鮮だなぁ、そういう網川さんも」
「そう言われるど、少し照れ臭えなって…」
「いやいや、恥ずかしがらなくていいからさ」
ようやく自分を出してくれたことで、まるで今までとは違う世界に踏み込んだ気分だ。おかげで、気になっていたことも聞ける。
「そう言えば今日の網川さん、少しテンション高めだった気がしたけど、もしかして雪のせい?」
「あはは…地元ではこの時期しょっちゅう降ってらったものだがら、つい気持ぢが高ぶってしまって…」
地方出身と言っていたが、網川さんは雪の多い地域に住んでいたようだ。この辺りでこれほどの雪が降ることなんて今までなかったから、より新鮮に思えたんだろう。
「んだがら、雪への対策がちゃんとしてねぁー人どが見るどはらはらしてしまって。特に桐坂ぐんとが」
「気を付けます…」
そこで俺は、気付いた。
網川さんと話すときの俺は、今までずっとですます調だった。網川さんの静かな雰囲気が、随分大人びていて同い年と思えなかったから。
けれど、網川さんのことを知った今は、ちゃんと普通の話し方ができている。それは網川さんに対する距離が、ほんの少しだけでも縮まったからなんだろう。
(告白は…まだまだ先になりそうだな…)
傘を持つ手を変えて、内心ぼやく。
網川さんが好きと言う気持ちは変わらない。方言程度で気持ちはそうそう変わらないし、むしろ可愛さがより増したともいえる。
そして、俺の前では方言を我慢せずにありのままでいられるようになったからこそ、これから先、まだまだ知らない網川さんが見られるかもしれない。
そうして網川さんんことをより深く知った後で、告白をしよう。
気持ちが変わらなければ、とは言わない。
桐坂君は、本当に優しい人だ。
ずっと、素の自分でいることを怖がっていた私のことを受け入れてくれて、今までと変わらずに話してくれている。
方言を隠してひっそりと過ごしていた頃から、桐坂君は変わらない。
そんな彼の存在は、今日のこともあって私の中ではより大きくなっていた。
「桐坂ぐん、手が寒そうだねぇ」
「あぁ、手袋を今日は忘れてきちゃって」
傘を持っていない桐坂君の右手が、握っては広げてを繰り返している。それが寒そうなのは分かった。
なので私は、その手を自分の左手で握った。
「え!?」
「寒そうだがら放っておげねぁーで。地元ではごうやって温め合ってらったし」
「……」
「それに、転ばねぁーようにするにはこったな方がいいし」
嘘ではない。今日みたいに寒い日は友達とこうして手をつなぐこともよくあった。転ばないようにするにも、お互いがこうして支えながら歩いたほうがいい。
ただし、手を繋いだことがあるのは女子だけだ。男子と手をつないだことなんて生まれてこの方一度もない。それでも、寒そうにしている桐坂君を放っておくのが、嫌だった。桐坂君がそうしてきたように。
そして手を繋ぐと、私まで温かくなるようだ。単に体温が伝わってくるから、と言うわけではなくて、優しい人に接しているからかもしれない。ただ、桐坂君もこういうことには慣れていないのか、顔が赤い。何だか微笑ましい。
(いいなぁ、桐坂ぐんとこったなこどするの…)
唇が緩むのを抑えきれない。
桐坂君のことは憎からず思っているけれども、具体的にどんな気持ちかを突き詰めたことはなかった。
でも今の状況は、自分の気持ちを浮き彫りにするには十分だった。
私は、桐坂君のことが好きなようだ。
その気持ちを伝えるのは、少し先になってしまいそうだけれど、この気持ちが褪せることはないのだろう。根拠はないけれど、きっとそうだという自信はある。
白い雪を踏みしめながら、私はそう思った。