「ようこそお越しくださいました、黄景彰さま」
「やあ、猫猫。久しぶりだね。元気そうで何よりだよ」
朱駒宮の女官として出迎えた猫猫へ、その男はにこやかに声をかけてきた。
黄景彰。
黄家本家の次男で、玲琳の実の兄。二人の上にはさらに景行という兄がいる。雛宮入りする前、短期間とはいえ黄家で世話になっていた猫猫は兄たちとも顔見知りである。
「お久しぶりでございます。ですが、今の私は朱慧月さま付きの女官ですので、どうか距離感に気をつけていただけますと──」
「そんなに堅苦しくしなくてもいいじゃないか。君と僕の仲だろう?」
(いや、どんな仲だよ)
景彰と景行はともに武官を務めており、優秀と評判。しかも、景行は若干野性味があり逞しい美形、景彰は知的さを兼ね備えた甘い美男子。皇太・尭明や鷲官長・壬氏と同様、歩くだけで黄色い声が飛んでくる人種だ。
顔がいい男に近寄られるのは眼福ではあるものの、なまじ中身を知っていると素直に喜べない。
「景彰さま、なにか企んでいらっしゃいませんか?」
「いやだな。僕はこの通り、可愛い妹のためにとやってきただけだよ?」
(やっぱりなにか企んでるな、この人)
眉間に皺を寄せていると、一緒にいた莉莉が進み出て口を開いた。
「あの、この度は礼武官を快く引き受けてくださり、ありがとうございます! あたしは朱慧月様の筆頭女官を務めております、莉莉と申します」
「これはご丁寧に。君も大変だね。玲琳から藤黄の衣を与えられるくらい気に入られているのに、朱慧月に随分振り回されているそうじゃないか」
「そ、それは! まあ、その通りなのですが……」
慧月に関する景彰の言動には棘がある。やはり、慧月が送った手紙はばっちり、黄家兄弟からの心証を下げているようだ。
〇●〇
「あなた、あの方とどういう知り合いなの!?」
「そうよ、一人だけ親しく話してくれちゃって!」
黄景彰は早くも朱駒宮女官に大人気なようで、猫猫にまで嫉妬が飛んできた。もし気に入られて妻に選ばれればいい暮らしができるだろうから気持ちはわかるし、美形が来てやる気を出している女官もいるから良し悪しだが。
「私は景彰さまと遠い親戚にあたります。それに玲琳さまの薬師でもありますので、妹想いのあの方から多少気にかけていただいているだけです」
「なんだ。あなた自身はまったく相手にされていないってことね?」
上機嫌に去っていく女官たち。ため息をついた莉莉が肩を叩いて、
「お前も大変だな。まあ、あの方と知り合いだってのはあたしも少し羨ましいけど」
「あいつらの言った通りだよ。私は全く女として見られてない」
別に見られたいとも思っていない。そして、そんな態度だからこそ景彰も安心してからかってきているところがある。
(どうせ来るなら景行さまのほうがやりやすかったんだけどなあ……)
黄家次期当主である長男はかなり気さくな性格をしており、農耕に一家言ある。また、独学ながら医術や薬の知識もあるため、けっこう話が合うのだ。黄家にいた頃はつい話し込んでしまい冬雪に怒られたことがある。
飄々とした態度の景行もかなりの聡明さを持つので油断はできないが、景彰はそれに輪をかけて思考を追いきれないところがある。礼武官を遂行するふりをして慧月をいじめに来たのであれば厄介だ。
(まあ、嫌われたのは慧月さまの自業自得なんだけどな)
〇●〇
豊穣祭の開催地は南領の外れにある温蘇という土地となった。
祈祷師による託宣とのことで非常にうさんくさいが、道術だの龍気だのが実在している以上はでたらめとも言い切れない。
はっきり言えるのは、これが雛宮の行事として初めての長距離移動になるということ。
まあ、現地までは馬車に揺られて宿に泊まって、の繰り返しなので歩く必要はほぼない。皇太子の妻候補である雛女たちは気楽な立場である。
とはいえ、大事な雛女たちが不自由しないよう、女官は心を尽くす必要がある。主に莉莉と協力してどうにかこうにか豊穣祭のための準備を整えた。主に予算、それから働かない女官たちとの戦いだった。
なお、そんな中、軍師である実父から山のように贈り物が届いた。
娘が辺境まで旅をすると聞いてあれこれと物資を寄越してきたのだ。長々とした手紙も同封されたものの、そちらは流し読みした後で焚きつけに使った。
(物資は……せっかくだから慧月さま用の荷物の足しにするか)
調薬に使えそうな品など必要なものだけを手元に残して、後は朱駒宮の倉庫に放り込んだ。
〇●〇
道中は特に大きな事件もなかった。
強いて言えば、玲琳と同じ馬車に乗ることになった慧月があれこれ構われて『楽しそうに』疲弊していたり、女官たちが景彰に粉をかけては軽くあしらわれていた程度。
後は、他家の女官から嫌味を言われたりが少々。まあ、でかいいざこざにならないだけ良しとしよう。幸い、黄家の女官からは嫌がらせはなかったし。
(それにしても、他家の礼武官も見事に美形揃いだな)
外遊中の護衛を務める礼武官は名誉も責任も大きな役目。基本的には雛女に近しい者、それも優秀な者が務める。そのため、他家から借りた慧月を除き、他の雛女はみな家の中心に近いところから選りすぐった者を連れてきている。
もちろん玲琳が連れているのは上の兄である景行だ。
(そういや、念のため礼武官の評価をあいつに聞いておいたんだよな)
猫猫の方から手紙を書くのは珍しいからか、実父は快く各人の評価について答えてくれた。彼が黄家の中では末端に近い羅の一族でありながら軍師を務めているのは、ひとえに並外れた人物眼ゆえ。
その眼によると、礼武官の中で要注意人物は、
(藍林煕。あの男によれば、正しい評価は不能。駒としては機能しない、とのことだが)
どこまで信用していいのかはわからないものの、猫猫の実父──漢羅漢は、人の顔が分からない。代わりに、その者の才覚や技能などの総合的な力を測り、それを碁石や将棋の駒という形に置き換えて教えてくれるらしい。
彼の眼によれば、藍林煕は、相手に取られたわけでもないのに勝手に動き出す駒。いくら有能でも、そんな駒はまともに使えない。
論理的でないものを証拠にはできない。過信も禁物だが、頭の片隅に留めておくくらいならいいだろう。
「ところで、玲琳さま。お身体に変わったところはございませんか? 薬はどの程度服用を?」
「まぁ、猫猫ったら、心配しすぎよ。調薬はわたくしも得意なのですから、よほどのことがなければ対処できますわ」
「玲琳さま。薬師にだけは誤魔化すのはお止めください」
「もう、仕方ないのだから。……くれぐれも、他の誰にも見せてはだめよ?」
すらすらと書き連ねられた薬の一覧を猫猫は一読し──覗き込んでくる莉莉や慧月、紙を透かしてでも読み取ろうとする冬雪を遮って、紙自体を破り捨てた。
「寒気でしたらあの薬のほうが効果が高いのでは?」
「一理あるけれど、併用を考えたらあちらの薬のほうが良いのではないかしら?」
「む、値段が十倍は違いますが、玲琳さまなら希少な薬も揃えられますからね。羨ましい……。あの畑もなかなかの宝の山ですが、やはり玲琳さまの薬棚が恋しく……」
「あなたたち! 二人の世界に入ると誰にもついていけないからやめてちょうだい!? 黄玲琳の体調が悪いわけでもないのでしょう!?」
薬談義で盛り上がっていたら慧月に止められてしまった。
彼女の言うことも一理ある。玲琳の体調不良は体質と虚弱さによる慢性的なもので一刻を争うようなものではない……はずだ。
正直なところ、猫猫はそれを徐々に疑い始めている。調薬について、ともすれば猫猫よりも詳しい玲琳が適切に処置してなお次から次へと湧いてくる病が、果たして自然のものなのか。病を呼ぶ超常の力、と言うならこの間遭遇したわけで。
(確証はない。それに、薬屋の仕事は適切に薬を与えることだ)
これからも経過は観察していこう。今は慧月の女官だが、なんだかんだ言いつつ玲琳と一緒にいることが多いので機会はある。
〇●〇
「ご来臨をお喜び申し上げます」
温蘇の郷長(ごうちょう)である江氏は穏やかそうな印象の老人だった。
辺境と言っても郷都にはそれなりの人口があり、入り口には立派な門が鎮座している。その前に集まった男女が皇太子、および雛女たちに平伏し歓迎の意を示す。
意外と教育が行き届いている。朱家の雛女であり、今回の主催である慧月もこれにほっと息を吐いていたが──それも束の間。
尭明と他家の雛女たちが先んじて郷都の中へと馬車を走らせていき、朱家の者たちだけが残されると彼らの態度は一変、慧月に向けて昏い視線を投げかけてきた。
「……どぶネズミが」
(なるほど。さっきまでのは猫を被っていただけか)
ありありと向けられる悪意に慧月が愕然とする中、車は進む。郷都は規模のわりにどこか活気がなく、民の表情からは余裕というものが欠けている。金、あるいは食料が足りていないのだろう。
苦境に陥っている時に現れた、わかりやすい「朱家の象徴」。恨みや怒りをぶつけたくなっても無理はない。他の雛女には悪意を向けないあたり分別はあるし、この程度で済んで良かったとも言えるが。
「………っ」
金がない、学もない、人手も足りないなりに必死に準備してきた慧月が、それに耐えられるかは別の話だ。
〇●〇
都からの一行には不自由のない室(へや)が用意され、その後、豊穣祭の前夜祭が催された。
巫女の代理である雛女たちが濃厚神の祭壇前で食事をとり、神に感謝と祈りを捧げる。儀礼的な意味はあるが、言ってしまえば食事会である。
この催しに礼武官以外の男は参加しない。陰陽の均衡を整えるため、陰の気の強い女と陽の気の強い男は極力切り離される。
そして、郷の女百人が平伏する中、朱家の雛女である慧月は芸を披露しなければならない。
(今日までの稽古も大変だった……)
泣き言が多い割に投げ出さないのが慧月のいいところだが、逆に言うとやる気はある癖にいちいち無理だとかできないとか文句が多い。特別呑み込みがいいわけでもないので、玲琳や猫猫に教えを請いながら必死に練習していた。
ともあれ、無事に二胡による演奏を披露できれば、少しは雛女としての威厳も示せると──。
「二胡は事前に送り届けたはず。なぜないのよ!」
「も、申し訳ございません!」
(また問題か)
肝心の二胡が紛失してしまった。二胡の梱包、送付の手続きは猫猫と莉莉がしっかりと確認した。手違いで届いていないということはないだろう。その上で、居室の見張りを担当していた老婆は「わからない」と繰り返す。
「なんでだよ。雛女様の使う二胡って高いんだぞ……っ!」
莉莉までもが頭を抱える中、猫猫は一歩踏み出して確認する。
「二胡は確かに受け取られたのですよね?」
「は、はい。ですが、いつの間にか無くなってしまったらしく……」
弁解する女は見張り役の老婆が盗んだ可能性を示唆した。老婆は賎民。郷都には賎邑と呼ばれる、罪人、および罪人の子孫の村が隣接しており、そこの出身だという。
郷都の民の中でも貧しい者たちなので動機はある。雛女に対する反感も理由になるだろうが、
(ぬかった。盗まれたり壊される可能性くらい考えておくんだった)
前夜祭の準備であれこれ運んだり指示出しをしなければならず、猫猫も莉莉もそれどころではなかった。他の女官に見張らせるという手もあったが、素直に言うことを聞くとは限らず、むしろ率先して嫌がらせをしてきた可能性もある。
「違います! あたしたちは──」
必死に縋ろうとする老婆を慧月はとっさによけた。石の床に正面から倒れ込んだ老婆に同情の視線が集まり──。
「あんなに声を荒げなくても……」
藍家の雛女、藍芳春が呟いたのを皮切りに、あちこちから声が上がった。
「やっぱり天罰だよ」
飢えと重税に苦しめられている者たちの怨嗟。周り中、敵だらけのような状況に置かれた慧月はわなわなと震える。自己顕示欲が強いくせに自信に欠けるこの雛女には効果てきめんだ。
「落ち着いてください、慧月さま。可能な限り二胡を探します。なかった時のため、他に使えそうな楽器がないか確認してもらってください。最悪の場合でも、衣さえ無事なら舞に変更できます」
「っ、言われなくてもそのくらい、わかっているわ!」
顔を上げた慧月は、負けん気の強さを良い方に発揮し、猫猫と共に走り出した。
この程度で泣いている場合ではない。
しかし、状況はことごとく慧月を裏切り──。
「そんな……っ!?」
慧月の部屋には、壊された二胡と、穢された衣が無造作に捨てられていた。