チェンソーマンを称えるテレビを眺め、そうしてたどり着いた頃には全てが終わっていたのです。
「……ぅ、……あ」
……私は。
私は、食べることが好きだ。美味しいものを食べるという行為は、とてつもない多幸感を私にもたらしてくれる。
寝ることが好きだ。心地よい睡眠のためには投資も惜しまない。
三大欲求があるから……言い換えるのなら、生存本能が強いからだろう。
私は生きることに執着を持っている。それこそ、悪魔に魂を売ってでも生きていたい。
それなのに、デビルハンターという殉職率の高い仕事をしようとしているのは、おかしな話かもしれない。だけど、いかにチグハグに見えたとしても、私は悪魔の被害を見逃したくはなかった。ただ平凡に生きるだけでも、悪魔によって死ぬ事案は多数存在している。それならば、と考えるのは私にとっては自然の道理だった。
……それでも、初任務でその願いは途切れることになるらしい。
ただの悪魔。そう強くない敵。
そう伝えられた悪魔にも勝てなかった。
周囲に広がる血。ひれ伏した状態から起き上がることさえ出来ない。1ミリも動けはしなかった。待ち受けるのは死だろう。
「弱いね」
その言葉の通りだった。
契約悪魔の力を過信しすぎた。悪魔が強くとも、扱う人間が弱ければどうにもならない。考えなくても分かること。
「もし、死ぬのなら──キミの全てを私に捧げて」
なにかの冗談か、なにかの暗喩か。
分からないけれど、彼女の声はとても心地が良かった。それだけは、確かなことだった。
▽
「……ああ、少し寝てたか」
不意に訪れた眠気に身を任せた挙句、面白みに欠ける夢を見てしまった。
あれは無謀だった。仕事を斡旋してもらったはいいが、一人で悪魔に立ち向かうなんて自殺行為に等しい。しかも、初めての悪魔退治だったのだから、なおのこと危険だった。初心忘れるべからず、反省は活かしていこう。
窓の外を見ると、日が沈み始めている。私はそれを確認し、手元へと目を向ける。今日退治した悪魔に関する始末書。幾ら書き終えたらと言っても、仮眠をとっていい理由にはなりえない。気を引き締めよう。
民間でデビルハンターとして働くこと三年、公安に所属してからも約三年。しかし、四課という課に配属されてから、まだ日が浅い。それでも私はここで働くことを嬉しく思う。
人間関係に難があれば働きづらくなるだろう。しかし、四課には苦手な人はいなそうだった。
何よりも、ここにはマキマさんが、手放しに尊敬出来るマキマさんがいる。だから、私にとってはこの上なく幸福な職場だ。
今日の悪魔は、そう危険な悪魔ではなかった。
ただ数が多く、その分悪魔の力を貸してもらったから……暫く様子見をしてから、また現場に戻ることになる。
これからは暫く事務の方をやることになるのだろうか。それなら、それでいいのだけれど。
思考は段々と、現実逃避の方向へと向かっていくのが自分でも分かった。
「……マキマさんの胸揉みたい」
マキマさんは、理想的な人物だ。
彼女の目は吸い込まれそうな魅力を放っているし、顔は人ではないかのように整っている。
スーツに着られている状態の私とは違って、マキマさんは完璧に着こなしている。そしてスーツのパンツも似合っててかっこいい。私はそんなマキマさんに憧れておっぱいに顔を埋めたい。
私にとってマキマさんは高嶺の花だ。気高く咲く一輪の花。どこにでもいるような一般人の私とは全然違う。
私にとってマキマさんは尊敬出来る人だ。まだ若いのに出世して、周りからも一目置かれ、眉目秀麗で、胸も大きい。
たまに彼女が劣情を催す妄想を思い浮かべようとするが、どうしてもうまく想像出来ない。妄想の中でさえ、マキマさんはいつも通りの気高く聡明な表情を浮かべている……が、想像しようと思ってしまった自分に嫌気が刺す。少し反省。
自分の想いが、世間から逸脱しているのだということは理解している。そして、私の気持ちが彼女に届くことがないことも理解している。だから、ただ心に願うだけ。
今度会ったときは、いつも通り理想的な……とは言えないかもしれないけれど、従順な部下を演じよう。きっと、マキマさんにとってもそれが望ましいことだろうから。
「まだいたんだ」
それは、測ったようなタイミングで聴こえてきた。
それだけだったらまだ良かったのだが、その声は、私の思考の渦中にいた人……つまりマキマさんのものだった。
「どうしたの?」
なるほど、今の不適切な言葉は聴こえなかったらしい。安心して肩から力が抜けるが、ずっとそうしているわけにもいられない。
書き終えた始末書を置き、彼女の問いかけに答える。
出来るだけ、軽い調子で告げるのがミソだ。
「マキマさんは今日も美しいなと思いまして」
「ありがとう」
そういう素っ気ないところも素敵だ。その思いは口にせず、ただ笑った。
「コーヒーを煎れましょうか?」
「ううん」
帰る前に顔を出しただけ、と彼女は告げる。
「書き終わった?」
「はい」
公安はホワイトだと思う。突然の仕事があることと殉職率が高いってことを除けば、という前置きはつくけども。
金払いはいいので私は死ぬまでここで働くことになるだろう。ここにはマキマさんもいるし、それだけで天国なのは間違いない。
「今日はどうなされましたか?」
「シオンちゃんの顔を見に来たんだ」
「ああ……はい」
あまり額面通りに受け取らない方がいいだろう。
単純に、必要な書類などを取りに来ただけ。そのはずだろうが、社交辞令だとしても嬉しく思え、少しうわついた気持ちになった。
「話したいこともあったしね」
「ご用件はなんでしょうか?」
「もう今日の仕事は終わり。話はお店で」
「お店、ですか」
「居酒屋」
告げられた単語に、私は固まってしまった。
おおよそ、目の前にいる高嶺の花から告げられるべきではない単語が聞こえた為だろう。
「付き合ってくれないかな」
「勿論です」
思考よりも先に返事が出た。
マキマさんに頼まれたなら断れない。というよりも、断る理由が見つからない。
「お勧めの店はある?」
「そうですね、駅前にある居酒屋はサービスが良くて……」
「案内してもらっていい?」
「はい」
私は頷いて、終わらせていない雑務をこなした。その後、マキマさんと肩を並べて歩いた。
周囲は暗く、サラリーマンたちで人はごった返している。どうやら、退勤の時間帯と被ってしまったようだ。
「人、多いですね」
「そうだね」
「店も混んでいないといいですね」
「うん」
「……」
歩いている最中も話したいことはたくさんあったが、マキマさんと無駄話をするというのも恐ろしい。
だから、私はただ彼女を見た。
赤い髪に、渦を巻いたような瞳。三つ編みという髪型は幼さを与える傾向にあると思うのだが、彼女はそれを感じさせない。
スーツを着ているから?
いや、きっとそれだけではないのだろう。彼女は、どんなときも冷静で落ち着いているから。だから、きっと……
「……あ、着きました」
目的地を前に、思考を停止させる。
すぐに目的地にたどり着いてしまった。そこまで遠くない店を選択したのだから、当然といえば当然だけど。
マキマさんとともに暖簾をくぐり、気の良い店主に案内してもらって、椅子に座る。
……あの、神秘的なマキマさんが、居酒屋という俗な場所にいるのがミスマッチなはずなのに、不思議と馴染んで見えた。
「シオンちゃんは何飲む?」
「そうですね……」
メニュー表を見て、考え込む。
いつもならばハイボールやサワーを頼むところだけど、何を頼んだらいいだろうか。
ちらりとマキマさんを見る。
「私は生一つで」
「なら、私も生ひとつよろしくお願いします」
今までの迷いを捨てて、そう告げた。
自慢ではないが、私はお酒に強い方だと思う。こういう付き合いの場でしか飲まないので、よく分からないが。しかし、ザルというほどでもない。マキマさんと二人きりでいるという事実だけで酔ってしまいそうだ。
「マキマさん、それで話とは」
「君にバディがいないから、そのことについて」
今現在、私にはバディがいない。いないというよりも、長くて一週間で失踪、死亡、退職するためである。前回は新人と組む予定だったものの、例に漏れず姿をくらました。私が会う直前に姿をくらましたらしい。
そういうわけで私は今もバディはいない。むしろ、私とバディを組もうとする人がいれば、私から断る。偶然だとは思うけど、私の責任だったら流石に心苦しい。
ともかく、私は現場に行くことは少なくなり、マキマさんの事務仕事を手伝うばかりになっている。
「君は正式に、私のバディになった」
「いえ、それは」
「今、手が空いてるから」
マキマさんのアルカイックスマイルは今日も素敵だ。
……いや、いくら私でもマキマさんが今も多忙なことくらいはすぐ分かる。
「……マキマさんは、その、四課に所属してるわけではないですし……」
「うん、そうだね」
マキマさんは、眉一つ動かさずに言葉を紡ぐ。
「シオンちゃんは、不気味に思われているんだよ。バディを組んだ相手が次々といなくなるわけだし。もしかしたら契約する悪魔の力かもしれない」
「……」
「君を四課に送ったのもその影響。厄介払いとも言えるけどね」
自分の評判が悪いのは薄々察してはいた。
「新人をシオンちゃんの下につけるのも危険。ただ、戦力にはなるから、このまま放置も避けたい。シオンちゃんも、このままデビルハンターをやめたくはないよね」
「勿論、やめたくなどありません」
「それなら、見極めるためにも私とバディを組むべきだと思うよ」
マキマさんは、微笑む。
「君に拒否権はないよ、シオンちゃん」
「……はい」
数分後に届けたビールを一息に飲む。
「話は以上でしょうか。それならば今日はここで解散ということで……」
そこまで告げたあとに、マキマさんの顔を見る。
「もう飲まないの?」
「痴態をさらすことになるので。マキマさんにご迷惑をおかけするかと」
「大丈夫、どうせならもっと飲もうよ」
「はい」
まあ、断れるはずもなかった。
ずるずると言われるままに酒を追加注文し、マキマさんの言葉に耳を傾ける。
「今度、新しい子が四課に来るよ」
「女の子ですか?」
「男の子。彼は少し、特殊でね」
マキマさんは、淡々とそう語っている。
私はそれに相槌を打ちながら、酒を飲む。
ビール、サワー、ジン、テキーラ、日本酒などとマキマさんは多種多様に頼んでいたから、私もそれに
「そんなに私と組みたくなかった?」
「いえ、違うんです。私は……私自身、なぜバディがいなくなるか、分からないのです。マキマさんまでいなくなったら、私は……私は、怖くて仕方ありません」
「大丈夫、私はいなくならないよ」
話は、仕事の話からプライベートなところへと移っていった。まあ、そうはいっても、仕事と地続きではあるけども。
「餅の悪魔とはどこで契約したの? 公安にいる悪魔じゃないよね」
「野良です。中学の時、家にいました」
「それで?」
「このままでは自分も殺されると思い、何でもすると告げました」
「なんで契約してくれたの?」
「気まぐれですよ。悪魔らしいですよね」
そこまで告げて、私は思う。私の話なんかよりもマキマさんの話が聞きたい。
好きなタイプ、お酒、食べ物、趣味、何だって知りたい。だというのに、マキマさんは自分のことを語ろうとしない。
「シオンちゃんは、両親のような人を増やさないために、デビルハンターになったんだ。立派だね」
「今は、私は……ただ、マキマさんの隣にいたいだけで……」
酩酊感が心地よい。いや、やはり気持ち悪い。
しかし、マキマさんが酒を頼んだので、私も追加で注文した。届くのは早かった。飲みながら話をした。
「隣に?」
そう問いかける彼女の表情も、声音すらうまく分からない。こんなことなら、途中でやめれば良かったと思うものの、躍起になってしまうのは悪い癖だ。
「はい、そうです」
「どうして?」
「私は……初めて会ったときからマキマさんが好きで……」
「初めて会ったとき、それはいつかな」
「私がデビルハンターとして初めて戦った……」
駄目だ。なんかもう、自分が何を喋っているのかさえわからない。止め時はもう過ぎている。やめないと思うのに、マキマさんが注文するから私も注文した。
私はマキマさんに追いつきたかった。たとえ、酒の強さなんてバカげたところでも。
▽
気がついたら私はベッドで寝ていた。
見知らぬ部屋、見知らぬベッド。見知らぬ犬の鳴き声。
「……!?」
そして私は見事に全裸だった。
「おはよう。よく寝られた?」
「ま、マキマさん?」
シャワーを浴びていたのだろう。石鹸の柔らかい匂いが鼻孔をくすぐる。彼女は服を着ているのに私は着ていないという現状が恥ずかしくてうつむいた。
「あの……服……どうして脱いでるのでしょうか……?」
「わからない?」
「いえ……その、わかる……ような」
この場合、パターンは二通り考えられる。
「吐いて服を汚してしまったか、熱くて脱いでしまったか……ですよね」
「……」
マキマさんはじっと私を見ていたが、その後に小首をかしげた。
「うん、そんなところ」
時間差で告げられた言葉。もしかすると、複合的な要因かもしれない……ああ、最悪だ。
「ここは私の家、酔いつぶれた君を君の家に運ぶには遠かったから」
「もしかして、不躾なことを」
「うん、胸を揉ませて欲しいって」
「胸を……」
心当たりがある。あり過ぎるといっても過言ではない。
「それで、胸……揉んでしまったのですか……?」
「……」
マキマさんは、笑みを浮かべている。いつも通り、落ち着き払っている笑みだ。
私は遺書にマキマさんの胸が揉みたいと書くつもりだった。でも私は私の預かりしれぬところでもう揉んでしまったらしい。
……せめて、本人の前では従順な部下を演じようと思っていたのに、この体たらくか。自分が恥ずかしくて仕方がない。
「シオンちゃんは、どうするの?」
「……責任、取らせていただきたく存じます。慰謝料はどれくらい必要でしょうか」
ベッド横に鎮座していた自分の鞄を手繰り寄せる。
幸いにも金はたくさんある。全財産
「お金はいらないよ」
しかし同じ仕事、しかも上司であるマキマさんの方がお金を必要としないことくらいは想像するべきだった。
「……それでは……命で支払います」
私は鞄からナイフを取り出して自分の胸へと向けた。
「遺書にマキマさんの胸が揉みたいと書いたのですが、その夢は達成出来たようなので気にしないでください」
「……?」
不思議そうに首をかしげてはいるが、マキマさんは止めない。やれという合図だと理解した私は、思い切って突き刺……そうとした。
「だめだよ」
しかし、マキマさんは私の手を両手で包んでくれた。
暖かい人肌に、彼女の瞳に、胸がドキドキする。
「大切な部下を死なせるわけにはいかないな」
なんて部下想いの優しい方なんだろう。
「なんで、胸を揉んだ私のことを許してくれるのですか……」
「簡単なことだよ。聞きはしたけど、その願いを叶えたわけではないからね」
脱力。
でも言ってしまったのは事実なのだと思い直す。今後マキマさんに顔を見せづらい……ってああ、マキマさんとバディになるという話をされたばかりだった。なんとも間が悪い……
布団を身体に包んで、床を見渡す。
「ああ、服は洗っているから貸すね」
やっぱり吐いてしまったのだろうか。私は恥ずかしくてうつむいた。
「マキマさんは、気にしていないんですか?」
「うん、全然気にしてないよ」
「そう……ですか」
全然気にしていないと言われると、それはそれで複雑な気持ちになる。
「ご飯食べていく?」
「……いえ」
「そっか。用意しちゃったから食べて」
拒否権はないらしい。
マキマさんは笑みを浮かべると、部屋から出ていった。私はマキマさんの出してくれた服に腕を通す。
こんな仕事をするのだから、大きくて身長が高い方がいいと思っていたけれど、今だけは自分の体格が優れていないことに感謝した。大は小を兼ねる。素晴らしい言葉だ。
気がつけば、先ほどまでの罪悪感はとうに失せていた。
昔から切り換えが早かったからそのせいなのかもしれない。先程まで罪悪感で満ちていたのに、今はただ幸せだ。しかし、今度から酒を飲むのは控えよう。碌なことにならない。
私はマキマさんの香りに包まれて、そそくさと寝室を出た。寝室から廊下、廊下から居間へ。
犬の鳴き声がすることから、彼女が飼っているのだろうと考えてはいたが……想定以上に多かった。
「犬、飼っているとは驚きました」
「皆良い子だよ」
そうなんですね、と相づちを打って犬を見る。動物にはなんの興味も湧かないが、マキマさんが飼っていると考えるとそれだけで愛おしく思える。
「撫でてもいいですか」
「うん。でも、朝食前には手を洗ってね」
許可を得たことだしと、彼らに触れる。存分に手入れされているのだろう。多頭飼いなのにも関わらず全部の犬の毛並みが良く、その上マナーも良い。
マキマさんの躾が行き届いているのだろうと伝わってきて、それだけで笑顔になれた。
「ねえ、シオンちゃん」
不意に名前を呼ばれて、彼女の方へと顔を向ける。
「私に、全てを捧げて」
言葉と反して、あまりにも気安かった。きっとこれは命令ではないのだろう。そう、他人事のように考えて。
「すみません。それはちょっと……」
私も軽く返事をした。
「私に、命を捧げる気はあるんだよね」
「何もしていないのなら、死ななくてもいいかと」
「……」
沈黙が痛いというのは今のような状況を指すのだろう。マキマさんの計るような間に耐えきれず、私は口を開いた。
「……マキマさんは、私に死んでほしいのですか?」
「ううん。そんなことはないよ」
「死んだら悲しいですか?」
「どうだろうね」
大切な部下だから死なせるわけにはいかないと言いつつも、そこでぼかされるらしい。
「ただ、少し不思議だったんだ。君は私のために死ぬのは嫌だと告げるのに、さっきはナイフを手に取った。そこにはどんな違いがあるのかな」
マキマさんは、どこか楽しげに問う。
「死ぬのなら、自分の意志で。死に場所は自分で決める。こうしてデビルハンターとして働く以上、不可能に近いかもしれませんが」
単純に、まだ死にたくはなかった。自分の命が惜しいのは誰だってそうだろう。
……先ほどのは、他の代償が見つからなかったのだから致し方ない。
「うん、分かった」
今の流れで何が分かったんだろう。そう思うも、彼女の笑みを見ているとどうだって良くなってしまう。
「バディとは言っても、現場に行くことはほぼない。君には、私の手伝いをしてもらおうと思っているの」
「……事務仕事ですか?」
「うん。それと、神社に行くのにもついてきてほしい」
「……神社」
「君はキリシタンだったかな?」
「いえ」
今後の仕事の話で会話は終わり、マキマさんの用意してくれた食事へと手をつけて、自宅に帰った。せっかくマキマさんが作ってくれたのに味すら分からないのが残念だが、彼女が作ったのだから美味しかったに決まっている。
▽
初めて出会ったときから、今に至るまでマキマさんとはあまり会話をしたことがなかった。たた、遠くから眺めるだけの生活。
それが、今はどうだろう。
バディなんて名ばかりで、一緒に悪魔を殺しにいくことはなかった。でも、オフィスで作業をしていると、たまに姿を見せるようになった。
マキマさんが笑う。マキマさんが私を見ている。マキマさんは私に声をかけてくれている。
その事実に、心が軋むように痛む。
『十年』
それが、カースという悪魔になされた通告。つい、二ヶ月前のことだ。
でもまあ、十年も残っているのだから問題ない。
『五年』
別にカースだけではない。私は寿命を削って、現場に存在しているわけで。
『一年』
死にたくはないのに、全く死にたくはないのに、こうして削ることは惜しくはない。
こうしてマキマさんのそばにいれる今が幸せだから、だろうか。幸せの絶頂に死ねるのならそれもありかもしれない。
「マキマさんは殺しても死ななそうです」
「それ、褒めてるの?」
「もちろんです」
やはり、死にたくはない。
私は平穏とは言い難い日々を送った。
事務で仕事をし、悪魔を殺し、銃で撃たれ、呼び出されれば神社に行き、マキマさんと食事をし、悪魔を殺し、悪魔を殺して、マキマさんと映画を見に行って、悪魔を殺して悪魔を殺し、地獄に行って両腕がなくなり、そして退職。
流れるような速度でドロップアウトした私は、何もかも空虚なままで日々を過ごしていた。
そして、その日は、特別な日だった。
マキマさんの家に来てもいいと告げられたのだから。
もう上司でもないマキマさんから、こうして連絡を受けるとは思わなかった。が、これ幸いにと彼女の家へと訪れる。
「予想外だった」
玄関先で告げられた唐突な言葉に、理解が及ばなかった。
「シオンちゃんが、ここまで生き残れるの」
「自分でも予想出来なかったことですね。他の優秀だった人を押しのけて、私が生き延びれた理由は分かりません」
私は生き汚いとは思うけれど、死なないためならば何だってやれるけど、それは他の人も同じだろう。
もっとも、生き延びただけで仕事も全て失ってしまったのだから、自分からすれば喜ばしいことではない。
「ですが、ひとつ理由を考えるのなら……愛ゆえに、だと思います」
「……へえ、愛が原動力。シオンちゃんは面白いこと言うね」
もしや、冗談として取られているのだろうか。
私が生きるのは自分のためだけれど、生き延びた先で好きな人と一緒に生きていたいからというのも、大きな支えになっている。それは、間違いのないことなのだが。
「シオンちゃんには、大切な人がいるんだね」
「マキマさんが大切です」
「うん、ありがとう」
やはり軽く流されてしまった。
本気として受け取られていないのだろうな。
「マキマさんにはいますか? いえ、秘密ということならば、秘密でいいですが……」
「うん、いるよ。憧れの存在。もうすぐ会えそうなんだ」
……彼女は、とても嬉しそうだった。
だから、言いたかったことを呑み込んで、ただ祝福の言葉を告げる。
「……おめでとうございます」
「シオンちゃんは、私のことを知りたい?」
「知りたいです」
「悪魔なんだ、私」
「悪魔ですか」
「……」
マキマさんは、冗談を言っているようには見えない。
「まあ、そういうこともありますよね」
人間らしくないと思っていたし、納得した。
人間に友好的な悪魔は、人間に近い見た目になる……と、どこかで聞いたことがある。それが本当なら、マキマさんも悪い悪魔ではないのだろう。
「ですが、私に告げて良かったんですか」
「言いふらされたら困るね」
勿論、私が言いふらすはずもない。
「私は、キミのことを評価しているんだ。だから、これはお礼のようなもの。キミの隣は、居心地がよかったしね」
マキマさんは、魔性の女だ。私が彼女のことをどう思っているのかなんて、もう知られてしまっているだろうに、そんなことを告げるのだから。
「……付き合いませんか?」
心の声が洩れてしまった。
「付き合おっか」
マキマさんは笑みを浮かべている。
その表情は、やはりいつもと変わらない。
冗談? マキマさんお茶目なところがあるし、冗談なのかもしれない。
……そうだというのに、なんだろうか、この違和感は。
「……」
胸が痛む。グチャグチャと、際限なく思考がまとまらない。
私は同性愛者だったか?
ああ、分からない。いつからそうなったんだっけ。
ああ、そうだ。マキマさんだ。マキマさんと知り合ってから……だっただろうか。途端に無性に不安になり、彼女を見る。
マキマさんが、私を見ている。
マキマさんの、琥珀色の綺麗な目が、渦を巻いたような瞳が、私を見ている。
それがとてつもなく幸福で、そうでしかなかったはずなのに、身が竦む。
私は、ここで頷くことが怖かった。
「私の服探しに、付き合ってくれるんですか?」
そう、つまり私はとんだ腑抜けだった。
マキマさんの言葉の真意は分からない。
いつ死ぬかも分からない身の上だ、マキマさんの言葉に乗っておけばよかったのにそれは出来なかった。
癪に障るから? いや、私がマキマさんにそんな感情を抱くはずがない。なんだか、釈然としなかった。
マキマさんは、私の顔をじっと見た。
「うん。私も、服を探そうと思っていたところだったから」
「……あ、ああ……やはりそうでしたか」
口内は乾ききっていて、思うように返答が出来ない。
「ごはん、私の家で食べる? そのあと行こっか」
「……ハイ」
私は緊張しながら頷いた。
別に取って食われるわけでもなかった。その後も、ただデートをしていただけ。なんなら、この違和感はただの勘違いに過ぎなかったのかもしれない。
マキマさんは、私にとって理想的な人だ。
季節が巡っても、年月が経っても、ずっとそうで。
「もう、キミとはお別れかもね」
その言葉は寂しかったけれど、仕方ないと納得も出来た。私の人生は、これから何をなせばいいのかすら分からなかったけれど、それでもマキマさんが元気でいてくれるのなら、それでよかったから。
「……」
だって、そう、私はずっとマキマさんのことが好きで──
▽
「……本当に、好きだったのかな」
少し、昔のことを思い出していた。
何もしてないと、ただ生きているだけだと、ふと思い出してしまう。
マキマさんが、生きていたときのことを。
私はマキマさんのことを好きだったのだろうか。
好きだった。でも、それもマキマさんの力を使ったからなのかもしれない。その可能性は否定出来なかった。
分からない。分からないけれど、胸に秘めた思いは未だ熱を持っている。それだけは、確かなことで……
悪魔の力は、その悪魔が死んだら解除される。
これを信じるのであれば、今の感情は本物なのだろう。
あの時の感情が本物だったのかは分からない。それでも、私は今でも彼女のことが好きだ。依存なのかもしれないけれど、それでも愛している。
マキマさんが彼に倒されてから、数ヶ月。
私は未だ、のうのうと暮らしている。
幸いにも、金ならば存分にある。使い道が思いつかず、持て余してしまっているが。
マキマさんに捧げようとしていたお金だったが、彼女がいないのだから、今まで育ててくれた人たちに渡そう。考えたのはそれだけ。マキマさんに見てもらうための遺書は火に焚べて、もう跡形もない。ある意味、健全な遺書になったのかもしれない。
今私がいるのは、ただの公園だった。
休日の公園では、子供たちが遊んでいる。
平穏そのもので、悪魔なんていないかのように、時は流れている。
公園の一等角では、多頭の犬が駆け回っていた。そして、追いかける黒髪の少女がひとり。
引き取ろうとはした。しかし、あと数日で死ぬのだからと思い直したのは記憶に新しい。
多頭の犬……マキマさんの飼う犬がいて、マキマさんとは違う彼女がいる。それはつまり、少女の保護者である彼がいるという事実を示している。
笑顔でこちらに向かってきた彼は、軽く挨拶をしてくれたのだろう。
会話の内容は、なんてことのない世間話だった。
通う学校がどうのとか、犬がどうのとか、ナユタがどうのとか、そんな話。
彼はきっと優しい。私は彼に関わろうともしていなかったのに、こうして普通に話をしてくれている。
しかも、私が気にするであろう話題ばかり出してくれるのだから、頭が上がらない。
彼はマキマさんを倒した。そのことに、私は酷い喪失感を覚えた。でも、不思議と怒りは湧かなかった。
心のどこかで、こうなることが分かっていたのかもしれない。
目の前で動かなくなる罪人。ヤクザの親類の目を持つ彼女。根本的に交わらない会話。
それでも彼女を信じていたかった。きっと良い人なのだと、目を背け続けていた。
それでも私は人間で、人に害をなそうとする彼女が倒されるのは仕方のないことだと思っている……いや、思いたい。マキマさんは、人の命をなんとも思っていないような悪魔だし、平気で嘘をつくような人なのだから、仕方ない。
彼とは会話を続けた。しかし、世間話の予定だったからか、彼はまた今度と告げる。私はそれに頷きかけたが、当初の目的を思い出す。
「これ貰ってくれないかな。適当に、家の中に置いてほしいの」
彼は不思議そうな表情を浮かべていたが、頷いて受け取り、彼女と犬と共に帰っていった。
当然といえば当然だが、マキマさんに墓は存在しない。それが悲しくて、最期の心残りだった。
私が適当に作った墓なんて、きっと何の意味も持たない。それなら、彼の家に飾ってもらった方がいいなんて、そんな安直な考えで渡した。
また今度などと彼は言っていたが、もう二度と会うことはないだろう。遠ざかる背中を見つめ、そうして目を離す。
マキマさんは、私のことをどう思っていたのだろうか。
昔、彼から聞いた話が本当なら、マキマさんは対等を求めていた。
私とマキマさんの関係は、きっとそうではなかった。
そう考えると、ひとつの結論に至る。
どうでもよかったんだろう。路傍の石でしかなかった。邪魔になりそうなら取り除かれたのだろうけど、私は何の障害にもなれなかったから、だから殺されることもなかった。
彼と仲良くなることはなかったし、他の同僚とも一歩引いた関係だった。良くも悪くも、マキマさんしか見えてなかったことが、こういう結果をもたらしたのだろう。
私自身、マキマさんに到底好かれる理由なんてないように思えたし、きっとそれが正しい。
『死ぬのなら、キミの全てを私に捧げて』
初めての悪魔退治をしたとき。公安に所属せずに、ただ突っ走っていたころの話。
今思い返すのであれば、あれは確かにマキマさんの声だった。
私はそれに何と応えたのか。
それをじっと考えるが、答えは出ない。そうして、それを思い出す。
私は、返事をしなかった。いや、出来なかった。死に体の私は、その声を追うだけで生いっぱいだったからだ。それでも生かされ、こうして公安に所属することになった。
マキマさんが私を生かした理由なら分かる。私の契約した餅の悪魔はそれなりに有用だったから、その悪魔の力を使いたかったのだろう。
それでも、マキマさんが私にその命令をしなかった理由は分からなかった。最後まで、彼女はお願いしかしてこなかった。
「……」
それなら、あのときの言葉は、マキマさんが付き合おうと言っていたのは、冗談だったのだろうか。
もし、あそこで頷いていたら、どういう未来が待ち受けていたのだろうか。他の人たちのように、使役される未来が待ち受けていたのかもしれない。それでも……などと思ってしまうのは、随分と毒されていくのかもしれない。
「マキマさん」
ただ呟く。
生きる希望は見いだせず、遺産は全てマキマさんに渡す予定だった。でも、いないのだからどうしようもない。
「マキマさん」
余命は既に伝えられている。耳元で囁く悪魔が、今日も騒がしく煩わしい。
恐怖は湧かなかった。身体は腕以外なら不自由なく動くし、声を出すことだって出来る。実感すら湧いていない。
ただ平穏な、何もない一日で全てを終えられる。私は悪魔に殺されるのではなく、死ぬことが出来る。やはり、それは幸福なことだ。
私はきっと、幸せに生きることが出来た。でも、心残りもひとつだけ存在していたのかもしれない。
「……私も食べたかった」
口をついて出た言葉なんて、そんなちっぽけでおぞましいもので。
不意に出た笑い声は、乾いたものだった。