「やっと、言ってくれたね」
柔な月明りだけの薄暗がりの中で、先輩はどんな表情をしていたんだっけ。
「先輩、お風呂上がりましたよ。さっさと入っちゃってください」
「んー、まだいいよ私は」
「昨日もそういって寝るのすごく遅くなっちゃったじゃないですか!」
「もう、しつこいなぁキミは」
夕飯のあと、ベランダで煙草を燻らせながら黄昏れていた先輩に、私はついつい小言を吐いてしまっていた。
二人で暮らすようになってから、すっかり口に馴染ませてしまったお小言。
気にも止めていないように先輩は飄々と笑う。
言いたくて言ってるわけではないのにそんなふうに返してくる先輩に顔をしかめてから、私は先輩の隣に立った。
時期は3月の頭。疎らに散った明かりは月の光を遮るには些か足りていないようだ。
「寒いよ? まだ春は少し先なんだ。お風呂のあとに身体を冷やすのは良くないと思うな」
「先輩と一緒じゃなきゃ入りません」
「そ。ならこれで最後にしよう」
先輩は新しい一本を箱から取り出し、ライターから火を受け取ると、それを口に咥える。
何度も見てきたその姿は、でも何度見ても色っぽくて、煙草は嫌いなはずなのに自分の心拍数が高鳴るのを感じていた。
「なぁに、吸ってみたい?」
私のその目線に気づいたのか、先輩は悪戯っぽく笑って箱を差し出してくる。
私が何見てたかなんて分かってるくせに。
「煙草嫌いだって言ってるじゃないですか」
「そうだったそうだった」
内心を見透かされているのが小恥ずかしくて目を逸らした私の耳に、先輩の小さな笑い声が入って来たのがわかった。
湯上がりの身体に、そうじゃない熱が生まれる。
目線の先には欠けた月。火照った身体を冷ましてくれるように吹く初春の風は、悪いけど、先輩の言うとおりちょっとだけ冷たすぎるかも。
「月、綺麗ですね」
「ん、そうだね。あの日もこんな月だった。そしてもうすぐ3年になる」
「覚えてるんですか」
「勿論」
見ていなくても先輩の顔が手に取るようにわかる。
この話をするとき先輩は、決まって悲しい目で笑っているから。
「キミが、私を救ってくれた日だもの」
先輩と私は同じ高校の先輩と後輩の関係だった。生徒会長だった先輩と書紀だった私。
才色兼備だった先輩への気持ちが憧憬から恋慕へと変わったのは、いつからだったっけ。
先輩への気持ちに気づいたときは、自分でも困惑した。だって、そんなの普通じゃない。世間で声高に性の多様性が叫ばれていても、偏見の目は拭われることはない。
だから、結局先輩が卒業するまで私の気持ちは心の奥底に固くしまわれたままだった。
大学進学を機にぱったりと関わりが途絶えてしまった──もっとも、生徒会以外で先輩と話したことなんてなかったんだけど──先輩と再開したのは、大学を卒業しなんとか就職に漕ぎつけ、しかしその職場の社内関係に辟易としていた頃。
帰りの夜道、一人歩いていた私は、偶然同じように一人歩く先輩とすれ違った。
あのとき……先輩が卒業する前とは見違えていたけど、しかし確実に感じた先輩だという直感。それなのに咄嗟に声をかけることができなかったのは、先輩の風体が昔とかけ離れていたから。
いつも綺麗に一括りにされていた長髪は、肩より上でばっさりと切られていて、艶やかだった黒髪は斑に金色に染まっていた。
なにより、先輩の頬や首に貼られた大判の絆創膏は彼女のいまの環境を物語るもので。
ただの憧れの先輩は、きっとその時私の中で死んだのだ。
どこか焦点の合わない瞳で私とすれ違った先輩は、私に一瞥をくれることもなくどこかに歩いていく。
「せ、先輩!」
思わずその背に叫んだ私の声は、きっと嗄れて裏返っていたんだろう。
でも確かにその声は先輩に届いたらしい。
先輩はひどくゆっくりと私の目を見てくれた。それはとてもぎこちなく、ブリキのおもちゃのような動きだった。
「ああ、君か。久しぶり。見違えたね、気づかなかったよ」
数年後しに聞いた先輩の声は、記憶の中の声と比べるべくもないほど枯れていた。
なぜだか、その瞬間、自然に涙がこぼれ落ちた。
それは憧れがここまで落ちぶれてしまった現実にかもしれないし、先輩のいまの境遇への同情かもしれないし、取るに足らない正義感から来た義憤ゆえかもしれない。
結局いまになってもその正体は理解できていない。
分かってなんていないけど。
「え、ちょ、どうしたの。なにか辛いことでもあったかい。私に話してご覧よ」
絶対先輩だって辛いだろうに、私のことを真っ先に慮ってくれたのは、結局のところ先輩が先輩たる所以だったんだろうと。
それだけは、すぐに分かることだった。
その夜私は先輩と連絡先を交換し、それ以降たまに会うようになった。
先輩に会えるのは決まって夜の間。
昼間に何をしているのかを先輩は話さなかったし、私も聞かなかった。怖かったのだ、聞いたらなにかが変わってしまう気がして。
私と先輩は偶然再開しただけのただの先輩と後輩で、それは数年前となんら変わらず。
社会に出たばかりの小娘には、何をも変えられやしないのだと。そう、思っていた。
「ひどくチープな舞台設定だな」と、なぜか冷静に──或いは呑気に──考えていた。
月はすっかり身を隠し、大粒の雨が降る夜のこと。
少しの残業を終えて当時住んでいたアパートに戻った私は、扉の前で座り込む先輩を見つける。
びしょびしょの全身とその下にできた水溜り。
「シャワー浴びてくださいよ。鍵、開けますから」
やっぱり私は何も聞かなかった。
ただ先輩は黙って私の後ろについてきて、促されるままに服を脱いで浴室に入る。
うちに入ったことはあっても、頑なに私の前で肌を見せようとしなかった先輩が、私の目の前で。
先輩はとても長い時間、身体を流していた。
その間に私がしたことといえば、なんてことはない。
いつもどおり夕飯を用意して、いつもどおりテレビをつけて、いつもどおり何くわぬ顔で先輩を待つ、それだけ。
いつもどおり、先輩のキズに触れないように。
「どうですか、今日は唐揚げを揚げてみたんですよ。前美味しいって言ってくれたので」
脱衣場に置いておいた私の服を着て上がってきた先輩に、私はいけしゃあしゃあと話しかけた。
よくする話だった。普段と変わらない話し始めだった。
いつもと同じような先輩の返事だけが、返ってこない。
「今日はですね、ヨーグルトで下味をつけてみたんです。お肉が柔らかくなるらしいんですよ」
先輩の顔を努めて見ないようにしながら、私は茶碗にご飯をよそった。
顔を見てしまったら、もう駄目だろうなと思っていたから。
「ご飯も炊きたてですよ。今日はお味噌汁まで作っちゃいました」
今の先輩の顔を見たら、きっとその時が、私達の関係が決定的に変わってしまうときだと、直感していたから。
「だから、ほら。座ってくださいよ。夕飯、食べましょうよ」
「なにも、聞かないんだ」
本当に細いその声を聞くのが、私の限界だった。
「聞かないです。先輩が自分から言ってくれるまで。だからお願いします先輩。私と一緒に暮らしましょうよ。もう見ていられないんです。だんだんやつれていく先輩が。絶対に不便はさせません。苦労もさせないです。だから、だから私のところに来てくださいよぉ……」
涙はどんどん溢れてきて、最後は自分でも何を言っているのか分からなくなっていた。やっぱりなんで泣いているのかは分からなかった。ただ、先輩は泣きじゃくる私のそばに来て私をそっと抱きしめてくれた。
傷ついて、たぶん誰かから逃げ出して、それで私に助けを求めてきた先輩は、でもやっぱり自分のことより私のことを優先してくれた。
そんな先輩だから、私は恋をしたんだろう。
「ごめんね、たくさん心配をかけたんだね。分かったよ、もうあいつのところには戻らないから。ほら、泣かないで?」
「なんで先輩が謝ってるんですかぁ……!」
「うん、そうだね」
「やっぱりそれ、ください」
「えっ、どうして。今までそんな素振り欠片も見せなかったのに」
「もっと先輩に近づきたいんです」
先輩がひっこめた煙草を私は求める。
今の先輩は黒髪に戻り、傷も一見しただけでは気づかない程度には薄くなった。
私が煙草を嫌いになったのは、その匂いが以前の先輩を思いださせるから。先輩を傷つけた誰かの影を、その煙の向こうに見てしまうから。
でも、昔を思い出していたら、なんとなく先輩と同じ味を感じたくなった。
吸ったことなんてないけれど。
「ふふふ……うん、いい機会だものね」
「先輩?」
そう言った私を見た先輩は、ベランダを出ていく。
どこか楽しそうに、小さく鼻歌混じりに。
その突飛な行動に、私は思わず先輩に声をかけていた。
先輩は、ゴミ箱に煙草を突っ込んだ。
いつか「貰い物なんだ」と寂しげに教えてくれた古いライターと一緒に。
「いつまでも未練がましく続けてたけどさ。いい加減もういいよ。それに、キミにあんなのは似合わない。でしょ?」
小さく舌を出しながら、先輩は心底楽しそうに笑っていた。
ああ、思い出した。私が先輩への想いを打ち明けた、あの春の夜の先輩の顔。
「私もキミを愛してるよ。これからも、ずっと」
とてもきれいな、満月みたいな笑顔だったんだ。