元旦。
新たな年の初めの日。
高校二年生の少年は、来年に控えた受験に少し憂鬱な気分でありながら、やはり新年の空気には少し浮かれていた。
ふらりと家から出ると、冷たい空気が顔を撫でる。たまらず身震いした彼は、紺色のマフラーに顔をうずめる。よく晴れた元旦の空は、優しい風が吹いていた。
特に行く当てもなかったので、せっかくならばと神社の方へと足を向ける。
同じく初詣にでも行くのだろうか、神社へ向かう道はだんだんとにぎやかになっていく。町には新しい年の訪れに、浮ついた雰囲気が漂っていた。そして、鳥居が見える場所に着いた頃には人に紛れて地面など見えないほどになっていた。
何の気なしに初詣に出かけて、しかし人混みに巻き込まれて、浮かれた気分はどこかへ行ってしまった。
(そりゃ、混むよな)
地元で有名な神社となれば少し足を伸ばしてでも参拝客は来るものだ。その喧騒があまり好きではない彼は、サコッシュからイヤホンを取り出して耳に収めた。
完全なワイヤレスのそれから流す音楽をセレクト。少年は、音楽を聴くのが好きだった。聴いている間は周囲の喧騒など気にならない。自分だけの世界に浸れるからだ。
(来年はもう大学受験か……)
自分だけの世界に落ちて、思考の海に沈めば、そんなことが顔を出してきた。漠然とした人生設計にはやりたいことなど見つからず、だからと言って卒業してすぐに社会に出る決心も無い。
立脚点も無くふらりふらりとモラトリアムを過ごしている間に、そんな期間は終わろうとしていた。
小さな悩みをくどくど考えているうちに、拝殿のすぐそばまで列が進んでいた。
参拝で何を願おうか、そんなものすら用意せずにたどり着いてしまった。何かないかと頭を悩ませていると、一つ、浮かんだ。
(そういえば、先輩はそろそろセンターだっけ)
であればと、特段自分に使う願いもないので、高校の先輩のための願いにすることに決める。
(いや、別に他意はないって。他に無かっただけ……)
自分の心中で、自分への言い訳をする。
次の四月にはもう、同じ学舎にはいない女性のために願掛けをするのは『他に願い事が無かっただけ』と。
その願い事が真っ先に、何よりも早く思い浮かんでいることに気づかないまま。
自分の寂しさに気づかないふりをしながら。
そうして浮かんできた『隣にいたい』なんて願い事を振り払う。
勝手に自分が想っているだけの、独りよがりの片想い。
一年生の時に学園祭の実行委員で関わってから、二年間の間燻っている想い。
(ほんと、臆病だったというか、なんというか)
イヤホンから流れる音楽のようには、自分の想いは伝えられなかった。
煌びやかな世界を歌う音楽は、最後は二人が結ばれるのだ。
そんな音楽を聴いているのは、そこに自分の願いが隠れているから。
本当は伝えたい想いが、恥だとか、恐怖だとか、そうしたものに阻まれて伝えられないから。
結局、恋は恋のまま終わってしまうから。
(まぁ、だからせめて)
だからせめて、願い事くらいはしようと思った。
一歩一歩、列に合わせて歩みを進める。
そうして、自分の番が回ってきた少年は願うのだ。
(どうか──)
──
きっとそれは、誰にでもあるようなありきたりな願い。
大切に想える人の幸せを願うのは、特別なことではなくて。けれども願う本人にとっては一等特別で。
しかし、生真面目にそんなことを願ってみたら、急な気恥ずかしさが少年を襲う。
そそくさとその場を後にしようとした彼の目に入ったものがあった。
(折角だし、引いてみようかな)
おみくじ。正月の風物詩に何とはなしに挑戦してみる。
財布から取り出した百円玉をおみくじと交換する。
人通りの少ない、腰の降ろせるベンチを見つけて、そこへ座った。
ヒヤリとした感触がジーンズ越しに伝わって、少しだけ身震いした。
震える手でおみくじを開ける。
結果は──
(お、大吉)
最上の結果に少し気分が良くなる。元旦の日にそれが多く用意されていることを少年は知っていたが、それでも良いものは良いのだから素直に喜ぶことにした。
その内容の隅から隅まで読むわけではなかったが、気になる内容を斜め読みしてみる。
──願望 早く叶いて喜びあり
──待人 たよりなし 来る
──学問 時期はいま全力を尽くせ
──恋愛 思うだけでは駄目
一つの文に、目が留まる。想うことしかできなかった彼のことを的確に表したかのようなその文に。
言われなくてもわかってる、なんて心の中で反論しようとする。
けれど、その通りだということは当の本人が一番よくわかっていた。
二年間、なんの進展もさせることのできなかったのだから。
「はぁ……」
何気なくついた息が、白い霧となって消えていく。
その様子がまるで、自分の恋心のように見えて。きっとこのまま思い出になって、胸を焦がす感覚すらも薄れていきそうな気がして。それがたまらなく悔しくて。
自分の息を追いかけて見上げた先の空は、抜けるような晴天。こんな空の下、自分は
身体が震えているのは、寒さに負けているから。手が震えているのも、きっとそう。
何かと理由を付けて、実行委員の委員会室で参考書と顔を突き合わせていたあの人とはもう──
「やっほ、こーはい君」
「──っ!?」
もう、会えないはずだった。会わないはずだった。会えば会うだけ、迫りくる別れのその日が苦しくなるから。
だからこそ、イヤホン越しに声をかけられて、驚いた。外の音を遮っているはずなのに、その声だけは正確に聞き取れた自分にも。
──待人 たよりなし 来る
少し色の抜けたこげ茶色の髪が、マフラーに乗ってふわりと丸まっている。偶然の出会いに柔らかく微笑んでいる彼女に、胸が高鳴る。否応なしに、この人のことが好きなのだと自覚させられる。
唐突に現れたその人は、彼が自分のことで悩んでいるなどとは露ほども考えていない。もっとも、好きだと宣言しているわけでもないのだから、彼の懸想などわかるわけでもないのだけれど。
「ね、何聴いてるの?」
「あ、ちょっと──」
片耳のイヤホンを取り上げられて、それがそのまま彼女の片耳に取り付けられる。
流行からは外れた曲が二人だけの間に流れていく。明るい曲調に乗った、しかし後悔と想いの積層を綴った曲。届かない想いを抱きながら、その相手幸せを願っている、そんな曲。
前向きに後ろ向きな曲が選ばれていたのは、せめてそうありたいと思う彼自身の心理の表れ。
「意外と可愛い曲聴いてるね」
「なんですか、それ」
視線が逸れる。揶揄うように半開きになった目に見つめられて。
「照れてる?」
「……」
彼がダンマリを決めているのは、その行為自体が答えだから。自分の心を、音楽を通して見透かされたようで、恥ずかしさが込み上げていた。なんとなくその空気に耐えられなくて、誤魔化すように曲を変える。
「あ、コレ知ってる」
それもそのはず、変えた曲は、委員会室で勉強している彼女の口から漏れていた曲の一つだったから。曲の歌詞に倣って、少し視線を上に向けてみる。神社の外に見える電線が五線譜のように。その上の小鳥が音符のように。そのまま音楽はサビの盛り上がりへと駆けていく。
すると──
「ね、スマホで百万枚写真とったら、どれくらいになるんだろ」
「どれくらいって、データがですか?」
「そうそう」
どれくらいと聞かれると気になるのが人の性というもので、自分のスマートフォンの写真からサイズを探ってみる。
友人と遊びに行った先の風景の写真があったので、それで調べてみる。
「大体、2TBってところですね」
「へぇ、なんか最近て感じの単位だね」
「あー、なんかわかります、それ」
同じ音楽を聴きながら、他愛のない会話。同じ時間を過ごせている事実に、先ほどまでの沈んでいた気分が嘘のように晴れていく。
自分の心のことながら、あまりの単純さに彼自身呆れてしまう。それでも、この感情に満足してしまって、ずっとこうしていたいなんて烏滸がましい想いが顔を出す。
今だけは、この人の隣に自分が立てている。安っぽい独占欲と羨望が満ちていく。しかし、それが恋心だということを彼は知っていたのだろうか。ぬるま湯のように優しくて、それでいてその先へと進むことを拒ませる。想いが強ければ強いほど、それを失いたくなくて、失うのが怖くて、少年を臆病にさせる。それが、彼自身の恋心だと。
だから、この時間が終わるのを、少しだけ怖いと、寂しいと感じた。
「あ、これ返すね」
流れている曲が終わって、奪われていたイヤホンが持ち主に返される。今の今まで、想い人の体温に包まれていたそれを受け取り、彼はそのままケースへと戻した。
「そういうことするから、男子に勘違いされるんですよ」
「ん? あーそうかも?」
「間違いなく」
目の前の彼女の、男女を問わない距離の詰め方に、何人の男子生徒が篭絡されたことか。事実、彼女に告白して、そして玉砕していった人の噂は後を絶たなかった。
そしてそれが事実だから、彼の指摘を否定しきれなかったのだ。
「じゃあ、キミも勘違いしてたりして」
どきり、と心臓が跳ねた。自分の想いを見透かされたようで。覗き込むようにこちらを見つめてくるこの年上の女性は、自分の想いに気づいていて、それでもこのように接していてくれているのではないかと。そうやって、勘違いさせられる。なら、そうでなかったとしたら? この人が自然に、ただこの人であるが故の距離の詰め方で、特別な想いなんて向けられていないとわかっていたら、この女性に恋をしなかっただろうか。
(そんなわけない)
そんなわけがなかった。現に彼は、そんな勘違いとは関係なく、彼女に恋をしたのだ。
「勘違いなんかしてないですよ」
「ふーん?」
今抱くこの想いだけは、絶対に勘違いなんかではないと。勘違いなんて言葉で、はぐらかしたくないと。ただ、それを認めるのはやはり少し恥ずかしくて、話題を他のものにすり替える。
「先輩、受験生なのに初詣なんて余裕ですね」
「……」
覗き込むような姿勢で、彼女の動きが止まった。
「ご、合格祈願って大事だと思うんだよねー」
「困ったときのなんとやらって言いますもんね」
「困ってないし……」
少し弱ったような彼女を見るのは珍しくて。そんな彼女も好きだと感じて。しかしそのままにしておくのも気が引けて。
「先輩、もう少しでセンターでしたっけ」
「今の受験生に一番言っちゃいけない言葉だよ?それ」
じっと、恨みがこもっていそうな視線が、彼を打ち据える。
「あと、今年から統一テストに名前変わったんだよ?」
「そういえば、今年からでしたっけ」
「名前が変わっても、楽になるわけでもないんだけどね……」
「そりゃあそうでしょう」
「楽にしてくれてもいいのにさー」
「確かに、そうですね」
彼女にしては珍しく、弱音と愚痴が止まらない。なんでもないようにふるまっているけれど、どうやら本当に参っているようで、それをどうにかしたくなる。しかし、一つ年下の彼が勉強を教えられるわけでもなく、できることと言えば応援してやることくらい。
――恋愛 思うだけでは駄目
思うだけでは、彼女に何をしてやることもできやしない。できるのは自分の利己的な自己満足に浸ることくらい。
(あ――)
所詮、想う事しかできないけれど、それを伝えることは、できる。
直接自分の想いを伝えるのはとてもできたものではないけれど、小さな勇気をもって、励ますくらいのことはできる。
頑張れだとか、何とかなるなんておためごかしは、聞き飽きているだろうから、自分なりの励ましで。
「先輩」
「ん?」
「楽になるかどうかはわからないですけど、これあげます」
「えっと、おみくじ?」
一番上に、大吉と書かれたおみくじ。その内容の一つに――
――学問 時期はいま全力をつくせ
彼なりの励ましなのだろうかと、おみくじから目線を上げると、本来の持ち主だった少年は彼女ではなく、どこか違うところに視線を向けていた。
その表情は見えなかったけれど、マフラーと髪の間から覗く耳が赤く染まっていたから、彼の感情は隠れてはいなかった。その感情の意味が分からない年齢ではなかった彼女は、体の中からぽかぽかと暖かいものがこみあげてくるのを感じる。
同時に、こんなにも簡単に、人は恋に落ちるのかなんて思ってしまう。二年と少し関わっていた後輩に、不器用な想いの渡し方をされて。今までされてきた告白はどれも真摯なモノだったけれど、自分の中に響かなくて。そのくせ好きとすら言わない、告白とすらいえないいじらしい告白が、こんなにも心に響くなんて。知らなかった。
「こーはい君のくせに、生意気だなぁ」
「生意気って――」
「罰としてこの大吉は没収です」
「え、いやもともと――」
抗議の声を遮って、訂正の声も聴かずに彼女は機関銃のようにまくしたてる。今冷静になったらきっとものすごく恥ずかしいと思ったから。いつも通りにマイペースな先輩を演じて、演じ切って、この場を去らなければならない。
それに、今ならきっと勉強を頑張れる。こんな応援をされて、頑張れないわけなんてなかった。だから、この想いに応えるのは、伝えるのは、全部終わってから。合格したと伝えるときに、一緒に想いも伝えてやろうと決めた。自分のことを恋に落としたのだから、絶対に驚かせてやろうと、心に決めた。
「じゃね! 受験生の私は忙しいので」
「あ、ちょっと――」
彼女はくるりと踵を返して、神社の敷地の外へ向かっていく。
悩んでいた姿が嘘のように、元気を取り戻した彼女に安心と少しの困惑を覚えていた彼は、大切なことを伝えていないことに気づく。元気を取り戻したなら、伝えても差し支えなさそうな言葉を。
スマートフォンから、メッセージアプリを起動して、ついさっきまで会話をしていた彼女の名前に指が触れる。
『頑張ってください』
歩いている彼女の足が止まる。同じようにアプリを起動したのだろう、送った言葉に既読が付く。
『頑張る。ありがと』
返ってきた言葉は当たり障りのない感謝の言葉。励ましの言葉を直接伝えられなかった自分を少しだけ情けなく思う。けれど、そんなにすぐに自分を変えられないから。きっと、この想いを伝えることはないのだろうけれど、少しだけ勇気を出したから。だから満足することにした。いつかきっと美しいと思える思い出になるからと。この想いを忘れるまでは、あの人のことを好きでいようと、心に決めた。
一人になるとまた、彼の身に冬の寒さが襲い掛かる。体を震わせながら、春に想いを馳せる。次に伝える言葉は、きっと『おめでとう』にしたいと。それを彼から伝える最後の言葉にしようと。
しかし、桜の咲く季節のことを、彼はまだ知らない。同じように想いを馳せる少女の恋を、まだ知らない。春の訪れは少しだけ、遠くに。
──願望 早く叶いて喜びあり