自身の脚で、ウマ娘の可能性の"果て"を目指していた彼女の取った選択とは──
グツグツ、グツグツと、今日も頭の中で考えが煮詰まる。
頭のどこからか湧き上がってくるアイデアは、ほとんどは可能性を潰され、その度にまた新しく考えて……この繰り返しを、何年も何年も行ってきた。
ウマ娘の”果て”。それに到達するための策である理論に薬品、トレーニングや、自身の脚の脆さを考慮したプランAにプランB。さらにその詳細と考えなくてはいけないことは無数に存在し、かつどれもが前代未聞で一筋縄ではいかないようなことばかり。
研究も実験も、上手くいくことなんてごく僅かだ。それは熟知しているし、覚悟もしている。ただ、今回はその期間があまりに長く、どうも苛つきと息苦しさを感じずにはいられない。
──ボコ、ボコ。
「……は?」
突如、目の前のビーカーに入っている液体から、いくつもの泡が音を立て、浮かんでは弾けてを繰り返し始めた。
「……くっ、また駄目か……!」
まただ。また、失敗した。
思わず机に両の手のひらをついて、うなだれる。今回おこなった配合では、液体がこんな短時間で沸点を迎えることはありえないはずなのだから。
「……こんなところで、躓いている時間はないのだがね」
そう。本質は、この薬品を完成させることではない。
薬品を摂取した上で、身体にどう影響を与えるのか。端的に言えば、私の脆い脚を補強するための一助となり得るのか。それを確かめるための実験。
この研究が最後で、私の厄介な脚をどうにかしてくれることが確定しているのならば、ゆったりと失敗をも楽しめるのだが、そういうわけではない。残念なことに、その可能性は低い。失敗すればすぐに、次の研究に着手しなければいけないのだ。なぜなら時間は有限なのだから。
思考が泥沼にハマりかけたところで、部屋の外側から、不意にノックの音が響く。
「む……? どうぞ」
ひとこと入室を促すと、よく見知った黒髪のウマ娘が、扉を開けて中へと入ってきた。
「失礼します……うわっ、なんですか、この臭い……」
「やあカフェ。入ってくるなりご挨拶じゃないか」
実験室に入ってきたのは、トレーニングを終えたばかりであろう、数少ない友人であるマンハッタンカフェだった。
「……誰でも、同じことを言うでしょう……それくらい、酷い臭いです……」
「ふぅン......? そういえば、この薬品は若干の刺激臭を発するものだったね。籠もりきりだったから、嗅覚が麻痺してしまったのかな?」
「……換気くらい……しましょうよ……いつからここに……?」
「そうだね。約5時間と言ったところかな」
「ごっ……!?」
カフェはもともと丸みを帯びた目を、さらに大きな丸にして驚く。あまり感情を発露させない彼女の驚嘆する顔は、なかなか新鮮だ。
「……大げさじゃないか? 私が研究に没頭するなんて、珍しいことでもないだろう?」
「そうですけど、こんな空気の中で……いえ、なんでもないです……でも、タキオンさん……」
「ん?」
何かを諦めたかのように言葉を切ったかと思えば、彼女は先程よりも一層顔を険しくしてこちらに向き直る。
「……最近、研究に費やす時間が……どんどん増えていませんか……?」
「……ほう?」
「アナタが研究熱心なのは……前から知っていましたが……最近は少々、その熱量が度を過ぎたものになっている気がします……睡眠時間も、だいぶ削っているでしょう……」
「……よくご存知で」
ご指摘の通り、近頃の私はらしくないことに、遅寝早起きの規則正しい生活を送っている。以前から似たような生活リズムで過ごしていた彼女だからこそ、どこかで気づいたのだろうか。
「……タキオンさん、何か焦っているんですか……?」
「え?」
思わぬ問いかけに、つい間抜けな声を出してしまう。
「……勘違いだったら、すみません……でも、今のタキオンさんは、まるで何かに取り憑かれたように……狂気の一歩手前と呼べるほど、のめり込んでいるように思えます……」
「……取り憑かれたように、か。君が言うと説得力があるねぇ」
「……茶化さないでください……」
「おおっと、すまない。悪気はないんだ」
ムッとした顔で睨む彼女を両手で制し、詫びを入れる。
「しかしまぁ……心配には及ばないよ、カフェ。日々の活動に十分な睡眠時間は確保してあるし、研究についても至って順調さ。こう見えて、私は結構タフなのでね」
「……そうですか……なら、これ以上は何も言いません……では」
「ああ……ありがとう」
そう言うとカフェは、少し不満げな表情を残しながら、入り口のドアを閉めてどこかへと歩いて行った。
ひらひらと右手を振りながらそれを見送ったあと、私は実験用の簡素な木の椅子に腰掛けて、深くため息をついた。
(順調、タフ……私には、全く無縁の言葉だな)
ウマ娘の可能性の”果て”なんて影すら見せやせず、おまけに私の脚はエンジンばかりが立派で、常人よりもよっぽど繊細で壊れやすいのだから。
先程からカフェを苦しめていた刺激臭も、今思えばあの実験の失敗を告げるビープ音のようなものだった。よくもまあ、順調などと言えたものだ。
部屋の隅に置いてあった全身鏡に目をやると、そこには目に隈を作り、髪も無造作にボサボサな、過労死寸前にも見えるウマ娘が映っていた。
「……はは、随分とやつれている」
思わず乾いた笑いが溢れる。この風体を見れば、彼女が怪訝そうな顔をしたのも無理はない。我ながら下手な嘘をついたものだと思う。
実際は、彼女の言う通りだ。
私は焦っている。残された時間の少なさ、己の無能さ、いつまで身体が持つか分からないという恐怖……と、不安要素を上げていけばキリがないのだから。
「……どうすれば、いいんだろうか」
換気のため、両手で窓を開きながら呟く。
らしくない弱音は、蒸発して気化した薬品とともに、風に流されてターフのほうへと散っていった。
◇◆◇
──5月・中山競馬場にて。
『ゴール! 実力を見せつけました、アグネスタキオン!』
「……はあっ、はあ……」
時は過ぎ、私は日本ダービーに出走した。
一着でのゴールと同時に、アナウンサーの実況と、観客たちの咆哮が場内に響き渡る。
が、私がまっさきに考えたことは、勝利の喜びでも、ましてや周囲の反応でもなく──
(ダービーとはいえ、レース一戦でこれか……!)
ズキズキと痛みを訴える脚が、あとどれくらい使えるのかについての憂慮だった。
疲弊した身体にムチを打ちながら、なんとか控室へと足を動かす。
「…………」
やや荒れているターフの上を歩いていると、ふと直感が告げる。
全力で走れるのは、これが最後だと。
あと一回レースで全力を出せば、私のガラスの脚は、いともたやすく砕け散ってしまうと。
走りきれれば御の字。もしかしたらレース半ばで故障してしまうかもしれない、と。
「……潮時、なのかもねぇ」
……悲観することはない。
二冠ウマ娘……世間的にも、十分に偉業の部類に入るだろう。それはどうでもいいとしても、私の身体を使った可能性の”果て”への研究は、ここまでのトレーニングとレースを通じて大きな進捗を得たはずだ。
あとは事前に検討した通り、プランBへの移行により私のライバルに想いを託し、彼女のサポートに回る。手段こそ変われど、身体面の心配が激減する分、より効率的と言えるかもしれない。ああ、それでいい。
それでいいんだ。
いい、はずなのに──
「ぐぅ……!? ぅ、うぅ……ひぐっ……うあぁ……」
──なぜ、涙が溢れて止まらないのだろうか。
近くの、観客席からの話し声が耳に入る。
「おい、アグネスタキオンが泣いてるぜ……」
「みたいだな。クールで飄々としているけど、やっぱり嬉しかったんだな……!」
違う、違う違う違う違う。
私を、ターフに立つウマ娘の感情を、そんな単一的な視点だけで判断するな。
わからないだろう。わかるわけがないだろう。私が今、どんな思いで涙を流しているかなんて。この私でさえもわからないのに!
(……冷静になれ。やるべきことは、もう決めたじゃないか)
勝負服の袖で強引に目元を拭い、背筋を伸ばしながら深呼吸をして、まっすぐ前だけを向いて歩みを再開する。
「……タキオン、さん……」
──同じく観客席からこちらを見つめていた、黒髪のウマ娘の存在には気がつかぬまま。
◇◆◇
──8月・トレセン学園にて。
「…………」
「……あの……」
「…………」
「あの、タキオンさん……」
「……え、あ、どうしたカフェ?」
「……お茶菓子いりますか、と、何度も尋ねているのですが……」
「あ、ああ、すまない……そうだな、ありったけ頼むよ」
「……そんなにたくさんはありませんよ……」
こちらに背を向け、茶菓子がしまってある棚に向かって行ったカフェをぼうっと見つめながら、私は悶々としていた。
ここは私の実験室のひとつであり、カフェと共用で使っている特殊な部屋。
私は先程、彼女をこの部屋に呼び出し、プランB──つまり、私の夢を彼女に託すことについて相談しようとしていた。
……なのにどういうわけか、一向に話を切り出せない。
シミュレーションでは、彼女が部屋に入ると同時にプランBの話を持ち出し、今頃はその具体案を説いているか、嫌がる彼女との交渉をしていたはずであった。
しかし現実は、部屋に入ってきた彼女と目を合わせた途端、漠然とした言語化できないモヤモヤが私の頭を支配しており。
それが気になりすぎるあまり、本題どころではなくなってしまっている。
時間は有限。私にとっても、当然カフェにとってもそうだ。彼女のためにもここでうだうだしているわけにはいかないのだが……ううむ、どうしたものか。
「……はい、どうぞ……コーヒーも、入れておきました……」
「えー!? 君、私がコーヒーが苦手なことは知っているだろう!?」
「……よく、見てください」
「んん……? おや、これはカフェオレかい?」
カフェに促されてテーブルの上を見ると、そこには彼女が好んでいるブラックコーヒーではなく、コーヒーと牛乳を2:8くらいの比率で配合したであろうカフェオレが、ほんのりと白い息を吐いていた。
「はい……それも、ミルクと砂糖がたっぷりの……」
「ほう、君にしては珍しいな。私は嬉しいが、甘い茶菓子を食べるには、いささか不向きだろう……なにか心変わりでも?」
「……気まぐれですよ……アナタもそうでしょう……?」
「……私も?」
言葉の意味がわからず、首を傾げてしまう。
するとカフェは、以前、実験による無理を指摘したときのような真剣な目つきで私を捉え、口を開く。
「……私に、アナタの全てを託すなんて……いっときの気まぐれ……冗談、なのでしょう……?」
「……!?」
不意の衝撃に、驚きを隠せず固まってしまう。
なぜ、彼女が知っているんだ。
その案は、カフェ本人はおろか、トレーナーくんにすら相談していないことだったのに。
私の疑問を察したのか、カフェは言葉を続ける。
「……アナタを見てれば、おのずと察しはつきますよ……練習中の私を見る目だったり、最近のトレーニングの様子……それに……明らかに私について書かれている、育成プランと思われるメモ」
「……! あれを見たのか……!」
なるほど。了承を得次第、プランBにスムーズに移行できるよう準備に取り掛かっていたことがバレてしまったらしい。
どうせ誰も立ち入らないだろうと、デスクの上に断片的な情報を散らしていたが……この部屋には、他でもない本人が立ち入るじゃないか。何を考えているんだ私は。
「……タキオンさん……それも、いつものような戯れですよね......? 今日ここに呼び出したのも、その冗談だけではないんですよね......?」
「…………」
カフェが淡々と、しかし不安そうな表情で私に問いかける。
「……私の知っているタキオンさんは、どんなに可能性が低くても、決して諦めたりするような人じゃない……そうですよね……? タキオンさ──」
「いいや」
「……え?」
「私はもう、カフェの認識しているようなウマ娘ではない。今日、私は君に願いを継いでもらうために、この部屋に呼び出したんだ」
「……なん、で……」
まさか、とでも言いたげな表情で、カフェは俯く。
それに気づかないふりをして、形式的に説明を始める。
「うすうす気づいていたかもしれないが……私の脚はもはや、本気のレースに耐えられうるだけの強度を持ち合わせていないのだよ。しかし、速度の限界を、すなわちウマ娘の可能性の果てを追求すること自体を諦めたくはない。そこで私と同等……いや、それ以上の潜在能力を持ちうる君に白羽の矢が立ったと言うわけさ! どうだい、光栄だろう?」
「……っ、ふざけないでください……!」
「……私は至って真剣さ。口調はともかくね」
カフェがこちらを睨み、彼女にしては珍しく大きな声を出す。
「だって、アナタは……誰よりも真剣に……目標のため、理想のために、努力してきて……なのに、それを誰かに託すだなんて……っ!」
気づけばカフェは、軋む音が聞こえるほどに強く歯を噛み締め、両手には、出血が心配になるほどの力で握りこぶしを作っていた。
感情を押し殺し、説明を続ける。
「それが怒りか、悲しみか、同情なのかはわかりかねるが、私に悔いや後悔といったものは無いさ……ああもちろん、君のトレーニングや私生活を邪魔するつもりは毛頭ないよ? トレーニングメニューに多少口を挟ませてもらうことはあっても、無茶苦茶なことをしたいわけではないし、君への薬品投与も、せいぜい週一くらいだろう。最大限のサポートはするから、受けてくれると非常に助かる──」
「……嘘、ですよね……」
「……何がだい?」
淡々と事を進めようと早口で捲し立てる私だったが、カフェの聞き捨てならない呟きに思わず反応してしまう。
「アナタは、その選択を取ったら、間違いなく悔いも後悔も残る……本当は、気づいているんでしょう......?」
やめろ。
「……そんなわけないだろう。選択肢が、これしかないのだから」
「……嘘です……」
それ以上、言わないでくれ。
「嘘じゃない」
「……嘘──」
「嘘じゃないと言っているっ!!」
刹那、激情に駆られて椅子から勢いよく立ち上がり、テーブルを挟んだ向かい側に立っている彼女の胸ぐらを右手でつかみ取り、乱暴に自分の目の前へと引き寄せた。
「ぐ……っ!」
強く引っ張られたカフェが少し苦しげに、うめき声を上げる。
同時に、テーブルに乗っていたコーヒーと茶菓子が、カフェの身体が当たった衝撃でふっとばされて辺りに散乱した。
「嘘では……ええい、この際、嘘でもいい! でも仕方ないだろう!? 私はもう、自分の足で走れないのだから! “私の感情”なんて些細なノイズを優先して目標を狂わせてしまうほど、私は研究者として鈍っちゃいない!」
「……アナタは……っ!」
「うっ……!?」
突如、カフェが同様に、右手で私の襟首を掴んで引き寄せる。
「研究者である前に、レースから、走りへの渇望から逃れられない、一人のウマ娘という種族でしょう……! いくら理論で武装したとしても、その本能までもは掻き消せない……だからアナタは、ダービーで勝ったとき、嬉し涙ではない涙を流し……今だって、こんなに怒っているんじゃないんですか……っ!」
「それは……」
呆気にとられ、思わず手を放す。それに呼応するように、カフェも私から手を放した。
たしかに、そうだ。
あのときの私は、なぜ泣いていたのだろう。
今の私は、なぜ本気で怒っているのだろう。
怒り、悲しみなんて非生産的なもので、ましてや説得、仮説や実験にはマイナスにしか働かない不要な産物。幼少期からそう自分に言い聞かせてきたし、実践もしてきたつもりだったのに。
不意に途方に暮れた私は、目の前のカフェに尋ねる。
「……私の怒りの沸点は、こんなに低かったかな」
「……違うと思います……それだけ、熱を持っていた……大切なものだったのでしょう……」
「大切なもの、ねぇ……なら、私はどうすればいいんだ……」
カフェに、そして自分に、縋るように問う。
譲れない想いを自覚できたところで、その解決法がポンと出てくるわけではなかった。
「……タキオンさんがわからないのに、私にわかるわけがないじゃないですか」
「ちょっ……カフェ、あれだけ情熱的に説得しておきながら、淡白すぎやしないかい!?」
「……すみません……でも、それだけタキオンさんを信頼している、ということかもしれません……」
「カ、カフェ……!」
「……冗談です」
「ええーっ!? ひどくないかい!?」
「……アナタも、ひどい”冗談”を言ったじゃないですか」
「……はは、冗談、ね」
そういう捉え方もできるのかと、言葉遊びに思わず感心する。
冗談……そういえば、私の理想もその研究も、いつだって「冗談だろう」と笑い飛ばされてきたっけ。
とある著名な学者が定義した、考えられうるウマ娘の最高速度。
人々はそれを鵜呑みにし、「あの人がそう決めたのなら、間違いはないだろう」などと吐き気を催すほど粗末な根拠のもと、私の唱える、ウマ娘の”果て”についての可能性を否定した。
他人からの評価をさして気にしない私でも、こればかりは見過ごせなかった。
私の人生を賭して成し遂げようとしている目標を、つまり私という存在のすべてを否定されているようなものだから。それを覆して見せるべく、私は初めて、自身の脚で可能性の”果て”を立証しようと誓ったのだった。
とはいえ、闇雲にトレーニングを繰り返すだけでは、当然”果て”にはたどり着けない。そこで、理論的な側面からの追求を主とするべく、並行して研究者の道を歩むことを決めた。
初めは純粋に楽しかった。知らないことを知ったときの喜び。教科書や論文に載っている実験を再現できたときの、えも言われぬ興奮。研究の過程で得た副産物が、巡り巡って誰かの役に立ったときの満足感。そのすべてが理想の実現への足取りとなっていると思うと、脚がウズウズしてきたものだった。
だが、行き詰まれば詰まるほど、私の思考は次第に歪んでいった。
理論さえ証明できればいい。そこにいるのは私でなくてもいい。当初の”自分の脚で”というフレーズは気づけば抜け落ち、そこから巡り巡って今の状況があるわけだ。
──しかし、非科学的な話ではあるが、私の”魂”までは原初の目的を忘れてはいなかったらしい。彼女の言うとおり、やはり私の根底は、走ることに狂わされたひとりのウマ娘だ。利口ぶった研究者というのは、その本質ではなかった。
意を決したようにカフェの目を見つめ、高らかに宣言する。
「……違いない! 君のおかげで目が覚めたよ。やはり野望というのは、この手で……この脚で実現してこそ格別というものさ」
「……それでこそ、いつものタキオンさんですよ……できれば普段はもう少しだけ……落ち着いてほしいんですけどね……」
「カフェ、さっきから上げて落とすね!?」
「……ふふっ、すみません……」
「……クククッ、君は本当、面白い友人だねぇ……!」
さっきまでの喧騒が嘘のように、二人で笑い合う。
ああ、やはり私も、一介の学生にすぎないようだ。こんなにも幼稚で、ひとりでは何もできなくて──こんなにも、青春を謳歌しているのだから。
ひとしきり言葉をかわした後、クローゼットからハンガーに掛けてあった白衣を取り出して、やや大げさに羽織る。
「さてと……そうと決まれば、早速研究に取り掛かろう。プランを急変更したせいで、これから更に忙しくなるからね」
「……何か、当てがあるんですか......?」
「ない」
「……!?」
キッパリとそう断言すると、カフェはこの世の終わり……いや、こいつはここまでバカだったのかと訴えるような目で私を見てくる。彼女はここまで表情豊かだっただろうか。
「そんな顔をしないでおくれよ。第一、私を誰だと思っているんだい?」
「……アナタは……アグネスタキオンでしょう……?」
「そう、アグネスタキオン! タキオンとは、光をも上回る超高速の粒子! つまり、全てが常識の外にある存在なのさ。まあ……楽しみにしていてくれたまえ。近いうちにわかるさ」
「楽しみに……ということは、菊花賞に......?」
「さあね。では、これで失礼するよ……ありがとう、カフェ」
「あ……」
カフェに礼を言い、部屋を後にする。
もう、頭の中のモヤは晴れた。
プランAは破綻したし、Bの道はさっき閉ざした。だがそんなことは関係ない。納得がいくまで、何回でも練り直すまでだ。
新たなプランを立てるため、堂々たる足取りで自室へと向かった。
「……こぼしたコーヒーとお菓子、掃除してくださいよ……」
……背後から聞こえる小言からは、耳をそむけながら。
◇◆◇
──菊花賞
コツ、コツ。
クラシックレースの最終戦、入場口に向かう二つの足音が、静寂の空間にこだましていた。
白と黒、科学と怪奇……こうも対極的な私たちが、今の今まで肩を並べて共に歩んできた。事実は小説よりも奇なりとはよく言ったものだと、思い出に浸る。
「タキオンさん……本当に、走るんですね……」
「ああ。トレーナーくんもなんとか説得したよ。彼にはいつも迷惑をかけて、本当に申し訳ないと……」
「……嘘ばっかり……」
「ほ、本当さ……今回ばかりはね」
「…………」
「まあ、その話は後だ。君はこれから、私のプランの完成形であるレースを一緒に走るという、ある意味で歴史の第一人者になるんだからねぇ。心の準備はいいかい?」
「……随分と余裕ですね……油断して、噛みつかれても知りませんよ……?」
「まさか。油断なんてできるはずもないさ。ただね、いついかなる状況でも、遊び心を忘れてはいけない……そう思えるようになっただけだよ」
「……そうですか……なら、これ以上は何も言いません……」
「前も聞いたね、そのセリフ」
「……あのときとは、意味が違いますけどね……」
「ふふ。ほんとうに、言葉とは面白いねぇ……さあ、ターフに立とうか」
おしゃべりを終えた私たちは、割れんばかりの歓声に包まれながら、ゲートへと歩いていった。
◇◆◇
ガコンッと音を立ててゲートが開き、闘いの火蓋が切って落とされた。
「ふっ……!」
「……今日こそ、追いつく……!」
それに合わせて、皆一斉にスタートをする。
先頭から3~4番手、内ラチ走行……いつもと変わらない、私の脚を最大限活かせる位置取り。
菊花賞は、最も強いウマ娘が勝つ、と言われている。皐月賞は最も速いウマ娘、ダービーは最も運の良いウマ娘が勝つと言われているが、私は今までこれらの称号に懐疑的だった。
なぜなら、通説どおりだと最も運がいいはずの私が、こんなか弱い脚を生まれ持っているのだから。とんだ迷信だとときには笑い、機嫌が悪いときには憎んだりもしたものだ。
だが今となっては、この噂もあながち間違いではないかもしれないと思えるようになってきた。
だって、そうだろう。私は今、素晴らしいライバルにトレーナー、そして大いなる野望を持って、このターフに立ち、走っている! なんと素晴らしいことか! 今の私は、全ウマ娘で最も早く、最も幸運で──最も強いウマ娘であることを証明してみせよう!
その後、第一コーナー、第二コーナーと好位置をキープしたまま走りつづける。ここまでは寸分違わず予定通り。
──しかし、勝利の女神は、そう簡単には微笑んでくれやしない。
突然、ズキンッ。と脚が悲鳴を訴える。
(──来たかっ!)
一周目の第三コーナー手前、想定より少し早めに、懸念していた脚の痛みが襲ってきた。
痛みの度合いは、走れば走るほど、言い換えれば、地面を強く踏み抜く度に、その衝撃が痛みに変換される。
今はまだ軽微なものだが、コーナーの遠心力に耐え抜くために一層強くなる踏み込みと、最後の直線の末脚勝負。この二つを通じて痛みがどれほど増幅されるかは、ついに計算し切ることはできなかった。
「う……ぐっ……!」
歯を食いしばり、第三コーナーを曲がり切る。減速も、位置取りの変化もない。まだ耐えられる。もとよりここで押し負けてしまう程度では、脚が全快だったとしても勝てやしないだろう。
しかし、倒れまいと息を止め、強く地面を踏み抜く分、当然ながら気力と体力を激しく消耗する。故にスタミナ勝負となると私が不利だ。それについては、後方に控えているカフェの独壇場だろう。いわば今の私は、カフェに対して、こちらが不利なハンデ戦を挑んでいるようなものだ。実に非合理的、そして不条理極まりない。
(だけど、これでいい。これしか道を見つけられなかった。なら、甘んじて受け入れよう……!)
そのまま第四コーナーも曲がり切って、短い直線を経て、二週目へと突入した
呼吸を意図的に深くして、痛みを吐き出すイメージで呼吸をする。浅い呼吸のほうが自然体で楽ではあるが、酸素の吸入を阻害し、脚の痛みと合わさることで、思考に大きなノイズがかかってしまう可能性が高いと判断した。
頭が働かなければ、仕掛けどころを間違う。怪我をする、また、させるリスクが高まる。消費した体力は……研究者らしくはないが、根性でカバーするとしよう。
二周目第一コーナーを曲がる。ここはゆったりとしたカーブなので、さほど踏み込みを、痛みによる消耗を気にする必要はない。脚を溜め、最後のコーナーに備える。
──が、そう思ったもつかの間、二周目第一コーナーと第二コーナーの半分を過ぎたあたりで、背後から一人のウマ娘の足音が徐々に速く、そして強く響き、先団に近づいてくるのがわかった。
『おおっと、マンハッタンカフェ! マンハッタンカフェが、いち早くスパートを掛け始めた! これは予想外。スタミナ勝負に持ち込むつもりか!?』
「……今……!」
(な……!?)
カフェは長距離に、すなわちスタミナ勝負に自信があるウマ娘だということは重々承知していた。故に、警戒していたのは最後の末脚。3000mにもかかわらず、中距離顔負けの速度で捲られるのが恐ろしかったのだが、まさかこう来るとは。となると、展開はおそらく……。
『それに負けじと、他のウマ娘たちも徐々に速度を上げていく! 独走させてなるものかと、全体のペースが上がっているように感じます!』
(やはりか、まずいな……)
そう。怪物じみたスタミナから繰り出すロングスパートは、上手くハマれば最後の直線で他を置き去りにできる。それを回避するために、他のウマ娘もスパートを早め、気力の勝負へと移り変わる。これは、痛みのせいで他より体力の消耗が著しい私にとって相性最悪だ。
カフェは私の脚の状態や、それがレース中にどのような影響を受けるかなどは把握していない。つまり、私への狙い撃ちではなく単に坂での減速を考えて、末脚勝負よりもこのほうが良いと踏んだのだろう。どのみち大正解だ。
「はぁ……はぁ……!」
一歩一歩、痛みが増していく。
このままバ群に飲まれれば、差しウマのごとく、力強い走行で波をかき分けるような走りをしなければいけない。そうとなったら、パワーとスタミナが削られている私では勝ち目が無くなる。
釣られるようで癪だが、私もペースを早める。逃げ馬の背中に触れんばかりの位置まで押し上げたところで、ついに第四コーナーへと差し掛かった。
──ここで私の脚に、さらなる異変が起きる。
ズキンッ、ズキンッ、ズキンッ。
「がぁあ……っ!?」
突如、痛みの強さが、間隔が、ともに今までの三倍ほどまで加速度的に上昇した。
ここまでの痛みは、あくまで体力の消耗が一番の厄介で速度の維持についてはさほど問題なかった。
しかしこの痛みの強さは、もはや意思の問題でどうにかなるレベルを超えたのか、確実に私の速度を落とし、ほとんど空のスタミナを徹底的に搾り取ろうとしている。
“故障”
ふと脳裏に、この二文字が浮かぶ。
覚悟はしていた。アスリートとしての未来も、被検体としての自分も、ここに全て捨て置くつもりだった。
なのに、いざ眼前に迫ると、言いようもない怖さに支配される。
今すぐ足を止めて治療を受ければ、最悪は回避できるのではないか。
いつか私自身か、他の優秀な人たちによる医療技術の進歩で、この脚を何とかすることができるようになるのではないかと、甘い誘惑に誘われてしまいそうになる。
(苦しい……辛い……怖い……痛い……痛い……痛い……!)
必死に隠してきた負の感情が、とめどなく溢れ出る。偉そうに振る舞っていても、所詮私は一人の女学生。できたウマ娘というにはあまりに幼すぎる。ここで逃げても、理由が理由だし、誰も私を責めることはないだろう。
だけど、だからこそ。
グッッ。
「私は、諦めが悪いんでね……っ!」
「……っ、タキオンさん……!?」
レース終盤、本日一番の力を出して踏み込み、先頭を目指して加速する。
大外から、バ群に飲み込まれる寸前の私を見ていたカフェが、驚きの表情を見せる。どうしたんだい、カフェ。この程度の無茶は、君にしてきた実験とさして変わらないというのに。
(……ああ、言いたいことは伝わっているさ。今にも死にそうな顔を、いつ転倒してもおかしくないくらいにヨロケた足取りをしていた私の、どこにそんな力強く走る気力と体力が残っているか、だろう?)
──ははっ、わからないだろう。わかるわけがないだろう。この私でさえも、わからないのに!
「さあ、最後の勝負といこうか、マンハッタンカフェ!!」
「受けて立ちますよ、アグネスタキオン……っ!!」
気づけば私たちは、先団からも突き抜け、直線の半ばに差し掛かるころには、すっかり二人だけの世界へと突入していった。
痛みは抜けない。肺が軋む音がする。骨も筋肉も悲鳴を上げ、またしても泣いてしまいそうだ。
それでも、脚を回せ。命ある限り、脚を回せ。
ウマ娘としての本能が、そう告げているのがわかった。
「ふっ……ふっ……っ!」
「はぁ……はぁっ……!」
私が、カフェが、荒い息を立て、がむしゃらに走る。
カフェがスパートを掛けたあたりから、徐々に盛り上がっていった観客のボルテージは、直に最高潮に達しようとしていた。
「いけっ! アグネスタキオン!」
「マンハッタンカフェー! 差し返せーっ!!」
グツグツ、グツグツと音を立て、会場全体が煮詰まっていく。
観客の応援が、私たちの意地が、緊張が、興奮が熱を帯びて、今まさに沸騰しそうなほどに、高まっていく。
「はあああああっ!!」
カフェは叫ぶと同時に、再び加速をする。
どこにそんな力が残っているのか、こちらこそ問うてみたいものだ。”お友だち”の件といい、つくづく君は、常識の外側にあると実感させられる。
でも、私だって──
「私は!! “超高速の粒子”! アグネスタキオンだああああああああああっ!!!」
恥も外聞もかなぐり捨て、叫び、走る。
もう私の目は、頭は、目の前をろくに認識してくれちゃいない。ゴールの位置もよくわからない。
だから、とにかく走った。真っ白に近い世界を、掻き分けるようにがむしゃらに走り続けた。ライバルに勝つために。この酷く辛い、しかしなぜだか心地の良いこの瞬間を、骨の髄まで味わうために。
そのまま私たちは、差されては差し返しを繰り返して──
──二人同時に、倒れ込むようにゴールラインへと飛び込んだ。
『……二人がもつれ込むようにゴーールインっ! ほぼ同着に見えましたが……アグネスタキオン! 大接戦を制し、アグネスタキオンがハナ差で一着ですっ! 今、ここに、新たな三冠馬が誕生しましたっ!!』
ウオオオオオオオオオオオオオオオオオオオッッッッ!!!!!
轟音。そう呼ぶに相応しい、スタンドからの祝福の歓声。
呆けた頭がそれを聴いてようやく、私が勝利したこと。そして三冠馬という、私にはさして重要ではないが、なかなかの快挙を成し遂げたことを理解した。
「はは……は……最後に少し、”果て”に近づけたかな……?」
ターフの上に大の字になり、徐々に戻ってきた視界に、広がっていく青空を睨みつけながら、絞り出すようにそう呟く。
こうして、未だ鳴り止まぬ賛美の雄叫びをBGMに、私の脚は、私という一ウマ娘は、今、一つの泡として蒸発し……弾けて消えた。
◇◆◇
「……暇だ」
とある市営病院の一角で、見慣れぬ天井を眺めながら、嘆きに近い言葉を吐いた。
レースを終えた後、私の視界はいつの間にか暗転し、気がついたときには今と同じ姿勢、同じ景色を体感していた。
どうやら私の脚は、わざわざ個室を賜るほどの大怪我をしていたらしい。状態そのものは予測できていたが、訪れる感情までは予測できなかった。
医者の丁寧な説明を受け、ようやく完璧に自分の状態を把握できたときの私は、理知的に振る舞おうと必死だったが、動揺と不安が隠しきれていなかった。付添のトレーナーくんには、恥ずかしい姿を見せてしまったものだ。
とはいえ、もともと想定していたこともあって、受け入れることは容易かった。それでも数日は掛かったが、今となっては一日のほとんどをヒマ娘としてダラダラするだけの毎日だ。
「んー……っ、ふぅ。寝転がっているだけというのも、なかなか退屈なものだねぇ」
固まった上半身をほぐすべく、ベッドから胴体を起こし、頭上で両手を組みながら伸びをする。
気持ちよさの余韻が引くと、また暇が戻ってくる。そんなときにはふと、もう何度目かもわからないほどのレースの回顧をしてしまう。
内容はもちろん、先日の菊花賞。激痛に耐えた先に待っていた、焼け付くような一騎打ちは今思い出しても身震いしてしまう。
あのときの私は、暴力的ともいえる狂気を帯びていて……そう、楽しかった。これ以上無いほどに。
あれは作戦でも、検証でもなんでもない。そんな高尚なものは思いつかなかった。それで良かった。他の選択肢を取っていれば、残ったのは一生モノの後悔だけだっただろう。
……などと考えていると、突如ドアから、コンコンコンと小気味よいノックの音が聞こえた。
「どうぞ」
「……失礼します……」
「やあ、カフェじゃないか! お見舞いに来てくれたのかい?」
全面が白で覆われた病室に、私にとっての黒の象徴が姿を表した。
一五時過ぎという時間と、制服を身にまとっていることから、授業が終わってまっすぐここに来てくれたのだろうか。話し相手ができるだけでも気分が高揚するため、この訪問は大変ありがたい。
「……はい。流石に、来ないわけにはいかないでしょう……私とレースをした後に、救急車で運び込まれたわけですし……」
「だから、気にする必要は無いとチャットでも言ったろう? あれは百パーセント私の問題さ。仮に君が出場していなかったとしても、もっと言えば誰に勝っても負けても、私の脚はあのレースを走りきった時点で崩壊していたのだから」
「……はい……」
どうやらカフェは、自分との競り合いで無茶をさせてしまったせいで、私の脚が完全に破壊されたと考えているみたいだ。勘違いも甚だしい。あの場で手を抜かれることのほうが、絶交にもなり得る無礼だったというのに。
「……まったく、どうして病人の私よりも辛気臭くなるかなぁ。それよりほら、何か差し入れとかないのかい? 病院食はあまり美味しくなくってね……」
「……ありますよ、差し入れ……」
「本当かい? 助かるよ……って、これ……」
カフェがバッグから取り出した物を手に取ると、それは見覚えのある缶コーヒーだった。
「……カフェオレ?」
「はい……巷で話題の、とっても甘いらしいカフェオレです……」
「カ、カフェ? いやその、甘さというところに君なりの配慮があるのだろうけど、何故私にコーヒーを……?」
「……だってタキオンさん、あのとき飲まなかったでしょう……」
「あのときって……あっ、君をプランBに誘ったときか……! まだ根に持っていたのかい!? あれは仕方なかったというか……も、もう許しておくれよ……」
「……ふふっ……べつに怒っていませんよ……」
「なんなんだい! まったく!」
いつものテンポの、いつもの会話。この日常が愛おしいと感じられるようになったのも、入院を機に離れてみてようやく……といった具合だ。この入院も、悪いことばかりではないらしい。
「……ところで、脚の具合は……」
カフェはちらりと、ベッドの掛け布団に隠れた私の脚を、心配そうに見る。
「あー、これかい? 案の定だが、二度と走ることはできないらしいね。レースで無茶をしまくったおかげで、年単位で車椅子生活かもしれないとさ。ははは、ギブスが取れる頃にはヨボヨボの脚になってるかもねぇ」
「……あの、全然笑えないんですけど……」
非常に複雑そうな表情を浮かべながら、カフェが私を睨む。
「ふむ、自虐ネタはウケると聞いたのだが……言われてみれば、ソースが不明瞭だったね。それはそれとして、笑いはせずとも憐れむ必要もないよ。私の選択に、後悔は無いのだから」
「……そう、ですか……でもこれで、タキオンさんの望みだったプランAは……」
「心配ご無用さ。菊花賞までの期間に、それについても再考しておいた」
「……?」
そう。実は菊花賞への出走を決意した日からこっそり育んでいて、入院中にようやくまとまった、私の人生における新しいプラン。
これを話すのは君が初めてだと、軽く前置きを入れてから話し始める。
「”プランR”……このRは、resurrectionなりrevengeなり、いろいろな解釈はできるが……要するに、再生医療を発展させて私の脚を治してしまおう!という寸法さ。やはり可能性の果てには、私の脚で辿り着くのが一番だからねぇ」
「……再生、医療……?」
よくわからない、といった顔をするカフェに対し、補足を挟む。
「難しかったかい? そんな複雑な話ではないよ。私はこの先医学の道に進み、再生医療……この場合は、治療不可能とされている怪我を治せるようにする細胞や技術なんかを開発するつもりさ。もちろん、並行してこれまで通りの研究も行うつもりだから、実質プランBも同時進行ということになる」
「……すごい……そんなことを考えていたんですね……」
「まあ、まだ漠然としたものだけどね。それに間接的にだが、成功した暁には、私のような生まれつき脚の強くない人たちも救えるだろう。クククッ……特許と治療費で大儲けできそうだ!」
「……そんなこと、考えてもいないくせに……」
「むっ……君、たまに妙に鋭いときがあるよなぁ」
クスクスと笑うカフェ。今更だが、彼女相手だと、どうもペースを崩されることが多い。
……しかも悔しいことに、その通りだ。
私が再生医療の道に進むことへの最後の後押しとなったのは、車椅子で院内を徘徊しているときに目にした、私のように身体の不自由なものたちが、彼ら彼女らなりに必死でもがき、リハビリする姿を目にしたからだ。
そんな人たちから金銭を頂戴する気はさらさらない。私たちはある意味、似た宿命を背負った仲間なのだから。理論の完成の際には、できることなら無償で提供さえしてもいいと考えている。
「……それより、こんなところで油を売っていていいのかい? 君、有馬に出るつもりなんだろう?」
「まあ、そうですが……」
これ以上ボロがでることを避けるため、はぐらかすように話題を変える。
「だったらほら、さっさとトレーニングに行きたまえ! 寂しくなったら、電話してくれればいつでも出るから!」
「……いつでも、って……タキオンさんのほうが寂しがっているのでは……」
「そ、そういう意味じゃない! いいから! 有馬で勝つことが、私への最大の差し入れだよ!」
「……わかりましたよ……でも、もう誰にも負ける気がしませんので……」
「ほう......? カフェにしては珍しい物言いじゃないか、何故?」
自信満々にそう言い切る彼女に疑問を覚え、思わず尋ねる。
すると彼女の黄金色をした瞳が、頭上の光に照らされてキラリと光り、その両の目にハッキリと私を映してこう答えた。
「……後にも先にも、”あの”アグネスタキオン以上の相手は、現れない気がしますから……それでは、お大事に……」
カフェはドアを締め、学園に向かって帰っていった。
「……まったく、たまに恥ずかしいこと言うなぁ、彼女は」
想定外の褒め言葉に、思わず頬を少し赤らめてしまう。
そして、カフェから手渡された缶コーヒーを眺めて、ひとり呟く。
「さっきは、プランRのRはなんでもいいと言ったが……実はこっそり、決めていた単語があったのさ」
指で宙に空文字を描き、決意を込めて読み上げる。
「”Retry”……何年後、下手したら何十年後でもいい。もう一度、君とまた、焼き付くような勝負をしたい……なんて言ったら、らしくないと笑われてしまうかな?」
……蒸発した泡は、気化して空気中に溶け込んでいくが、決して消えて無くなるわけではない。
巡り巡って再び水となり、新しい泡になるかもしれない。
だとしたら、その可能性に賭けてみよう。
そのときはまた、煮えたぎるような勝負を……。