8月の終わりごろ、私・黒鉄武蔵は同僚の足柄に誘われて、合コンというものに参加した。
(何故私を誘ったのかはわからない。)
会場はN駅近くの居酒屋、その座敷。
参加者は男女それぞれ六名ずつ。
男性は六人とも大学生。女性は三人が人間の、やはり大学生で、後の三人は艦娘…私と同僚の足柄、そして海上防衛隊S港基地所属の足柄だ。
うちの足柄が、あるいは防衛隊の足柄が三人の女子学生とどういう繋がりを持っているのか、私は知らない。
参加者は自己紹介を済ませた後、供された酒や食事を口にし、会話を始めた。
女性側の参加者に、見た目がほぼ同じ
見ればうちの足柄にも防衛隊の足柄にも、誰かが付いていた。
そして、私にも男が一人近づいてきた。
白いTシャツの上にゴチャゴチャした柄の(明るく鮮やかな青を基調とした)シャツ。青の迷彩カーゴパンツ(ハーフ)。
見かける度に、こういう男は冬場どうしているのだろうと思うような…言っては悪いが、軽そうな男だった。
「ねぇねぇ、自己紹介のとき、武蔵さんって言ってたよね。…やっぱアレ?戦艦武蔵ってヤツ?」
…まあ、今のところ艦娘で武蔵と言えば戦艦武蔵に決まっているのだが…。
「さっきから一人で飲んでるみたいだけど、モッタイナイなぁ?」
「ちょっとボクとお話ししない?そんで、合コンが終わった後、さ…。」
文章の初めで「合コンというもの」という書き方をしたことからわかるかもしれないが、実は私はこういう場が不得手だ。
その所為なのか、私はこの男への対応で失策をしでかしてしまった。
「セックスのお誘いか?」
「え?あ…うん、そ、そうなるかな…。」
「それなら受けよう。私もセックスは大好きだ。」
「え、え?そう、そうなんだ…。」
「とは言え、さすがに夜通し、というわけにはいかない。90分でいいな?それで、ホテルはどこにしようか?」
…こう言ってから男の様子を見ると、男はどうも狼狽しているように見えた。
「あ、えーと…な、何つーか、ま、まだ合コンも始まったばかりだし、ボクも武蔵さんも、そんな結果を急がなくても良いんじゃないか、な?お、お互い何つーか、飲んだり食ったりダベったりしてから、さ。」
「…それもそうだな。」
それで男は引き下がった。
とんとん拍子に進んだ話に、何か危険を感じたようだ。
…体よく追い払った、というわけではない。
セックスが大好きだ、というのも本当だ。と言うより、私は自分が好色淫乱な艦娘だと自ら認めている。
だから男の誘いには、本当に応ずるつもりであったのだが…。
どうもがっつき過ぎたようだ。
失策の後、暫く私は一人で酒をやり、料理を味わっていた。
酒も料理も文句なしに美味かったが…どうにも物足りない気がした。
そうしていると…。
「お前の気遣いはありがたいと思うが、俺には征くべき道がある。宴に寄り道している暇はない。」
「…二言目には道だ、真理だって…重要だってことはわかるが、そのために人生の喜びとか楽しみとかを全部切り捨てるってのは人間らしい生き方じゃないぜ。」
大人しく酒と料理をやっていたところ、「静かに」言い争っている二人の男が私の目についた。
二人とも合コンの参加者で、一人は男性側の幹事だった。
「お前は『人間らしい生き方』と言うが、俺は『人間らしく生きること』を寄り道をするための言い訳にはしたくない。だいたいお前の言う『人間らしい』という言葉は一体何を指しているんだ。お前から見て俺はそんなに『人間らしくない』のか?」
「そうじゃない、そういうわけじゃない…たぶんお前は誰よりも『人間らしい』んだろうが、道だか真理だかのためにお前が自分の『人間らしさ』を切り捨て、削ぎ落していくところを、俺は見ていられないんだ…。」
私から見ても合コンという場には相応しくない、重たく堅苦しい言葉の応酬だった。
だが内容はと言えば、幹事の男がもう一人の男に「せっかくの宴席なんだから、もっと楽しんだらどうなんだ」と言っていただけのようだ。
少し酔いが回ったのだろうか、私は二人の会話に口を挿んでしまった。
まず幹事の男に話しかけた。
「どうされたのかな?何やら深刻なお話をしているようだが…。」
「あ…武蔵さん。」
「お見受けしたところ、こちらの方はこの宴席を楽しめていないようだが…。」
「そ、そうなんです…こいつ…いつもこんな感じで…。」
幹事が「こいつ」と呼んだ男は、名を啓太郎と言った。(自己紹介のとき、そう名乗っていた。)
啓太郎の格好は、草臥れたTシャツと黒のズボンといったもの。
…学生服(夏)か?
他の五人の男の格好と比べると、明らかに調和を欠いていた。
私の目から見ても、この格好が合コンという席に相応しい格好なのか、疑問符を付けざるを得ない。
対して私の装いは、ノースリーブの黒シャツに、袖を捲った灰色のジャケットと、やはり灰色のパンツ。
足柄からは、この装いで合コンに参加するつもりなら、合コンが始まったらすぐにジャケットは脱ぐようにと言われた。
足柄の目から見れば、私の装いはギリギリの線で合コンの席で通用する装いではあったようだ。
…もっともこの時私は足柄の忠告を忘れて、ジャケットを着たままだったのだが。
それはさておいて、続いて私は啓太郎に話しかけた…。
「話が聞こえてしまったが、あなたは中々の求道者のようだな。」
「貴女は…艦娘の武蔵だったな。」
「先ほども名乗ったが、黒鉄武蔵という。よければ憶えておいてくれ。」
「よければ、な。」
「…そういえば、貴方は自己紹介の時、名前とD大哲学科の学生だ、としか言わなかったな。」
「………。」
「それはやはり、自分は常に道を追究しているのだ!楽しんでいる閑など無い!という意思表示だったりするのか?」
「貴女だって、黒鉄武蔵という名前と、海神警備・岩川台営業所に所属している、ということしか言わなかったではないか。貴女こそ、この席を楽しんでいるのか?」
「そうだったな…だが私の特色…アピールポイントというやつは、ちょっと公言し難くてな。」
「というと?」
「私は所謂『誰とでも寝る
「…艦娘の武蔵というものは、もっと剛健質朴な艦娘だと思っていたが。」
「自分で言うのも何だが、私は武蔵の中でも変わり者で通っている。」
「すると、あなたは武蔵にしては珍しく享楽的な生き方をしているということか。」
「まあ、そうなるな。」
剛健質朴、というのはどちらかと言うと長門の性格だろうと思ったが、そこには触れなかった。
啓太郎は言葉を続けた。
「要らぬお世話かもしれないが、一言忠告していいか。」
「何かな。」
「精神的に向上心がないものは馬鹿だ。」
「………。」
「艦娘にも寿命はあると聞く。老いることはないそうだが、だからと言って日々悦楽に溺れて過ごしているとあっという間に寿命を迎えてしまう。知性や精神と言ったものを得ていながら、それを磨き、向上させることもないまま一生を終えるというのは、正に馬鹿と言う他はないぞ。」
面と向かって謗られてしまった。
会話中で私自身が認めた通り、私が享楽的な生き方をしているのは事実だ。
それ故、私から啓太郎の謗りに対して言い返してやろうとは特に思わなかった。
その代わり、幹事の男が啓太郎に注意をし始めた
「お…おい…いくらなんでも、失礼だぞ。」
「俺は人間であれ艦娘であれ、精進を怠る者には苛立ちを感じるんだ。」
「だからと言って、初対面の
「俺の方もいつも言っていることだが、道のためにそれぐらいできなくてどうする。道に、真理に至るためには唯々精進!精進あるのみだ。怠けたり、享楽に現を抜かしている暇など無い。安楽・享楽は、道の妨げでしかない。」
「また、道だ、真理だって…。」
啓太郎は「精神的に向上心のないものは馬鹿だ」と言っていた。
この言葉自体は至極もっともな言葉だと思う。
だが「体を壊すほど精進に明け暮れた」と言うような話を聞くと、この言葉には何も重みが無いように感じた。
「何事も日々精進、と言う訳だな。」
「………。」
「ただ一つ弁解させてもらえれば、日々を楽しむことにも精進は必要だと私は思う。貴方の言う通り、私は享楽的な性格だが、楽しむことが得意というわけでもない。」
「………。」
「だからこうして貴方たちの話に口を挿んでしまったのも、そうした精進の一環だったわけだが…。」
「………。」
「さて、私は私で精進を続けるとするかな。話の邪魔をして済まなかった。」
そして私は二人の傍から離れ、再び酒と料理に手を付け始めた。
酒をやりながら、私は考えた。
この啓太郎という男…道や真理のためにはすべてを―――生きる上での喜びや楽しみといったものも―――犠牲にすべきものだと信じ切っているようだ。
そして幹事の男は、そういう啓太郎の生き方に間違いを感じているらしい。
幹事の男は、この合コンという場を利用して啓太郎に「人生にはこんなに楽しい事物があるのだ」ということを示そうとしていたのだろう。
あるいはこの合コン自体、そのために企画されたものだったのかもしれない。
…だとしても…あまり効果のある方法だとも思えない。
人間の子供は「社会科見学」という学校行事に参加して、工場やら浄水場、塵芥処理施設などを「見学」することもあると聞く。
だが、子供たちは「見学」と言って工場や浄水場の設備などを見たところで、産業の重要性とか、公共施設の意義やそのあり方といったものを「学べる」ものなのだろうか。
稼働している機械や設備の動きを見て「すごい」「おもしろい」「かっこいい」とでも思ってくれれば、それで上々なのではないだろうか。
風体からして「道のためには楽しみなど無用!」と強く強く主張している啓太郎のような男に、合コンという「楽しいこと」を「見学」させたところで、「教育上の成果」を上げられるとはとても思えない。
幹事の男は啓太郎を説き伏せるために「お前の生き方は人間らしくない」とか言っていた。
だが頭から、「外側」からそんなことを言っても啓太郎は頑なになるだけだと思う。
言葉を以て啓太郎のような男を説き伏せようとするなら、何と言うか「内側」を衝かなくてはならないだろう。
もう少し具体的に言うなら…。
啓太郎がこの先も「道のためにはすべてを犠牲にする」生き方を続けるなら、必ずパラドックスやジレンマに直面することになるだろう。
(私も啓太郎の生き方は間違っていると思っている。)
私なら、啓太郎がパラドックスやジレンマに直面して動揺したところを狙う。
そしてパラドックスやジレンマに直面しているという事実を突きつけて、「道のためにはすべてを犠牲にする」という生き方を支える論理を崩壊させる方法を取る。
…だが生き方を支える論理を崩壊させる、ということは生き方自体を崩壊させるということにも繋がる。
だから実際にこの方法を取るとなれば、慎重にならざるを得ないが…。
…と、本格的に酔いが回ってしまったようだ。
合コンが終わったらおそらく二度と会うことはないような男の生き方を気にしても仕方がない。
益体もない思案を振り払い、私はまた「奮闘する」足柄たちを横目にしながら、酒と料理に向かった。
そして私からは特に語るべきところもなく、その日の合コンは終わった。
合コンというものは成功したと言われることも、失敗したと言われることもあるようだが、私にはこの合コンが合コンとして成功だったのか失敗だったのかはわからない。
だが私としては特に不満はなかった。
うちの足柄も、防衛隊の足柄もそれなりに「戦果」を上げることはできたようだ。
この合コンは、合コンとしては「失敗ではなかった」とは言えただろう。
11月の終わりごろ。
私はN駅地下街の書店で、啓太郎の姿を見かけた。
面と向かって人から謗られるということは、珍しくないようで意外と珍しい。
8月終わりごろの合コンの席で面と向かって私を謗ったこの男のことは、印象に残っていた。
たがこの時書店で見かけた啓太郎の雰囲気は、合コンの時の雰囲気とはまるで違っていた。
絶対の自信を以て享楽的な私の生き方を難じた啓太郎の姿は、そこにはなかった。
一言で言えば、悄然としていた。
一体どうしたのか…私はつい、本当につい、啓太郎に声をかけてしまった。
「失礼、貴方はD大の啓太郎さん…ではないか?」
「貴女は…黒鉄武蔵、だったか…。」
「覚えていてくれたか。」
「…享楽的な武蔵、というのは珍しいと思ったからな…。」
「そうか…。」
「俺に何か用があるのか。」
「いや、別に…ただ私の方でも、貴方のことは印象に残っていたのでな。」
「…それで、貴方はあれから相変わらず精進、精進の日々、か。」
「…当然だろう。」
「だろうな…見ればわかる。」
「…見ればわかる…か。」
「………。」
「貴女には今の俺がどう見えていると言うのだ。」
「…そうだな…悄然としているように見える。」
「!…そうか、悄然としている、か…。」
「貴女は今の俺をどう思う?…悄然としている今の俺を。」
何故私にそんな質問をしたのか?8月終りごろに一度会っただけの私に?
…この男…やはりジレンマにぶつかったのか、パラドックスにでくわしたのか…。
いずれにせよ、徒ならぬ状態に陥っていることが見て取れた。
「何かあったのか。」
「…迷っている、とだけ言っておこう。」
「迷っている?」
「進んでいいか退いていいか、それに迷っている。」
どこに進もうと言うのか、どこに退こうと言うのか…とは訊ねなかった。
おそらく訊ねたところで、啓太郎は回答しなかっただろう。それでは話が進まない。
話が進まない?
気付けば、私は啓太郎との対話に応ずる気になっていた。
面倒なことになったと思った。
だが、打ち棄てるわけにはいかないとも思ってしまった。
そして、下手なことを言うわけにはいかないとも思ってしまった。
「そうだな…ちょっと長い話をすることになるかもしれん。どこか座れるところに場所を移そうか…。」
私と啓太郎はN駅を出たところにある喫茶店に入った。
(そういえば、この喫茶店は前にも一度入ったことがある。)
私も啓太郎も、取り敢えずコーヒーを注文した。
注文したコーヒーが運ばれると、私の方から口火を切った。
「私が、今の貴方をどう思うか、ということだったな。」
「…合コンのときもそう思っていたのだが…軽薄な奴だ、と思っている。」
私がこう言うと、啓太郎は少し間をおいて、言葉を返した。
「…自分は誰とでも寝る
声に力はなかったが、取り敢えず言い返してはきた。
実のところ、このとき私は肝を冷やしていたのだが、なんとかそれを気取られないように努め、啓太郎の次なる反応を待った。
「貴女は自分が享楽的な艦娘だと認めていたのだったな…そんな貴女に、どうして軽薄な奴だなどと言われなければならないのだ。」
…啓太郎は話に乗ってきた。私はそう判断して、話を続けた。
「答えよう。その代わり、貴方もいくつか質問に答えてくれ。」
「貴方は安楽・享楽は道の妨げでしかない、と言っていた。どんな理由があって、貴方はそう断じたのか。」
「何を言う。古今東西、安楽・享楽というやつは道や真理から人の目を逸らせ、人を堕落させてきたではないか。」
「だが艱難・辛苦は多くの人々を滅ぼしてきた。…滅ぼされた人々が道や真理に至ることはできない。艱難・辛苦だって道の妨げになっているではないか。」
「だ、だが、艱難汝を玉にす、とも言う…道のためには、真摯に自らの生に臨むためには、安楽・享楽ではなく、艱難・辛苦に向かわなければならないだろう。」
「艱難・辛苦というものは、人の心身を損ねる害毒でしかない。自ら進んで求めて良いものなどではない。」
「それは違う!艱難・辛苦は…精進・努力することは…!」
私はここで啓太郎を手で制し、続けた。
「虎が…。」
「?」
「虎が出る、と言われたとき、人が努めなければならないことは、虎が出る場所を避けることであり、弓矢なり鉄砲なりを調達することだ。(ハンターを雇うことだ、と言った方が良かったかもしれない。)」
「徒手空拳で、虎に仕掛けなくていい喧嘩を仕掛けることではない。それは安っぽい英雄主義にすぎない、質の悪い自己陶酔にすぎない。」
「俺が自分に酔っているだけだというのか!」
「…私は虎の譬え話をしただけだが…自覚はあったのだな。」
「ぐ…っ!」
「私が貴方を軽薄だと思ったのは、まあそういうわけだ。艱難・辛苦に立ち向かいさえすれば道や真理に至ることができる、などと言う料簡は…そうだな…見た目が良ければ…イケメンなら女にモテるとか、カネを持っていれば女は靡くとかいう料簡と、大した違いはない。全く安易で軽薄な料簡だ。道や真理への冒涜だといってもいいだろう。」
「何だと…!」
「心身を損ねるほどの苦行によって、仏陀は悟りを開いたか?悟りを開くことができたか?」
「うっ…。」
「あなたは安楽・享楽は道の妨げ…道や真理から人の目を逸らせ、惑わすもの…実体のない幻だと断じている。」
「そして、艱難・辛苦こそが人を道や真理に導くもの、確かな実体を伴う存在だとも断じている。」
「だが貴方は常に道や真理を追求している。少なくともそう自負している。」
「ということは、貴方はまだ道や真理には至っていないということだ。」
「道や真理に至ってもいない貴方が一体何の資格を以て、それは道に通じているとか、これは真理に通じていないとか断ずることができるのか。」
「艱難・辛苦も、安楽・享楽も、全て等しく我々がこの世で出遭う事柄であり、一切の例外なく何らかの真理を我々に示している。」
「困窮に悩むことも、病に苦しむことも、富貴を楽しむことも、健やかに過ごすことも、我々がこの世で出遭う事柄は全て何らかの真理を示しているし、意味を持っている。」
「互いに情欲を満たし合うことも、誰かを好いたり、誰かに好かれたりすることも、だ。」
私が「誰かを好いたり、誰かに好かれたり…」と言ったところで、啓太郎は少し私から目を逸らせた。
啓太郎の直面していた迷い…ジレンマが何なのか、それで大体の察しはついた。
「進んでいいか退いていいか、それに迷うと言ったな。」
「それは『新たな道』に進んでいいか、『今までの道』に退いていいか迷う、ということか。」
「正直、先だって貴方に面と向かって謗られた身としては、貴方が進もうが退こうがどうでもいいことだが。」
「退いたところで貴方は、道や真理に至ることはできない。」
「退けば、貴方は必ず身を滅ぼす。」
「…貴方は安楽・享楽を道や真理から人の目を逸らせ、惑わすもの…実体のない幻だと断じた。」
「そして艱難・辛苦こそが人を道や真理に導くもの、確かな実体を伴う存在だとも断じた。」
「だが艱難・辛苦は人の心身を損なう害毒でしかない。害毒であるからこそ、艱難・辛苦は艱難・辛苦なのだ。」
「精進・努力と言って、これからも自ら進んで艱難・辛苦を求め続けるというのなら、貴方は早晩滅びるしかない。」
「艱難・辛苦だけが真実であるような場所で、一体何者が生命を保つことができよう。」
「貴方が今まで辿ってきた道は、滅びに至る道だったのだ。」
「あ…貴女は俺の精進を!俺を愚弄するのか!俺の今までが…無駄だったと…!無意味だったと…!」
「アルバイトに明け暮れて体を壊すような男が何を言うのか。」
「体を壊したのは、精進が足りなかったからか?」
「そしてそこからまた精進を重ねるというのか?」
「馬鹿馬鹿しい。心身を損ねるような精進は、どこまでも心身を損ねるような精進でしかない。」
「朝に道を聞かば、夕に死すとも可なり…とも言うが。」
「道を聞くその時には、生きていなければならない。」
「道を聞く前に死ぬような真似をして、何が精進か、何が努力か。」
「敢えて言おう、貴方が言う精進など、全くの無意味であると。」
「無意味…。」
「あ…貴女は俺に、まだ真理に至ってもいない身で艱難・辛苦を是とし、安楽・享楽を非とする資格はないと言ったが…。」
「貴女には…俺の、俺の『今まで』を無意味と断ずる資格はあるのか…。」
「資格はない。だが、根拠はある。」
「根拠…だと…。」
「貴方は私に、今の自分をどう思うかと問うた。この事実そのものが根拠だ。」
「自分の『今まで』に確かな意味があると確信しているのなら、貴方とは違う道を行く私に、享楽的で堕落した道を行く私にこんなことを問うたりはするまい。」
「だが貴方はこんな私に、自分をどう思うかと問うた。それはつまり…。」
私はここで言葉を止めたが、啓太郎が続く言葉を求めることはなかった。
私がこのあと何と言おうとしたのか、察したようだ。
「斬り結ぶ太刀の下こそ地獄なれ 身を捨ててこそ浮かぶ瀬もあれ。」
「…何が言いたい。」
「別に…ところで、貴方は『覚悟』という言葉をどう思う。」
「どう…とは…。」
「『覚悟する』とか『覚悟を決める』とか言うが、この『覚悟』というやつは、何のためにすることなのだろうな、何のために決めることなのだろうな。」
対話中、私も啓太郎もコーヒーに手を付けていなかった。
私は自分のコーヒーにフレッシュを注ぎ、口にした。
(私は普段、コーヒーには何も入れない。)
…啓太郎も少し間を置いてから、フレッシュを注いでコーヒーを口にした。
コーヒーを飲み干すと、啓太郎は席を立った。
「…参考になった。」
「そうか…それで、この後どうする?」
「とりあえず…帰って休む。」
レジに向かう啓太郎に、私はもう一度声をかけた。
「先へ進んでも艱難・辛苦は真実のままだろう。だが癒しや救いも、また間違いなく真実だぞ。」
啓太郎は一礼すると、支払いを済ませて店を出た。