この世界では不思議なことがよくおこる。三度脚を折り、復帰は困難と言われ引退を決めた少女が、まわりのライバルやファンにこころを燃やされ、ふたたび不死鳥のようにレースに舞い戻り勝利を掴む。期待を背負う少女が、期待を力に変えて有終の美を飾る。そして何より不思議なのは、彼女らのこころだ。
彼女らはただの人に見えるが、その本質は人とは程遠い。勝負の世界に身を埋め、ただ一番を得て、走るために存在する。彼女らの勝負に掛ける想いは、人とは比べ物にならず、また彼女らの中でもその想いは並大抵のものではない。私も勝負に対しては人一倍に向き合っているが、彼女らよりはと毎度比べてしまう。
そんな彼女らの勝負の世界に没頭し始めたのは、おそらく小学生の頃の話だろう。
小学生の私は、ほかの子らと同じように、無鉄砲で、好奇心が強く、また恐れ知らずであった。そんな私は、その持ち前の無鉄砲と好奇心でひとつ迷子になったことがあった。スーパーの中やショッピングモールのどこかに迷ったわけでは無い。その恐れ知らずな性格から、森へと突撃していたのだ。私の叔父が言っていた、
「なにかに突撃する時は、叫ぶんだ。自分はお前らなんかに負けるほど、弱っちく脆弱な存在じゃあないと」
という言葉を無垢に信じ、猿のような鳴き声を辺り一帯に喚き散らしながら、森の深奥へと向かった結果だ。
今に思えば、その叔父の言葉がなければ、私はただの子供であったかもしれない。
私は、森の深奥に脚を踏み入れたおかげか、見事なほど迷子になっていた。こわかった。恐ろしかった。だが、それよりも、なにか神秘にまみえることが出来るのでは、と私の好奇心が燃えた。私は恐れ知らずから脱却した。しかし、完全というわけでもなかった。余談だが、私にとって勇気という言葉は、少々議論が必要な言葉であった。勇気というのは、一体何が伴って完成しているのだろうか。勇気とはなんのためにあるのか。私はひねくれた少年であったらしい。そんなことを考えていると、なぜだか、私は勇気という言葉を毛嫌いするようになった。今では意味もわからない、陳腐なことだが、当時のひねくれた少年にとっては毛嫌いするのに必要な理由は揃っていたらしい。
話が脱線してしまった。森の深奥は不思議な場所であった。しばしば森というのは神聖な存在として描かれることが多かった。少年は疑問に思っていたが、初めて森を観て、そして知ることで、「なるほど、これは確かに神聖な存在だ」と、森は半ば信仰の対象となった。そしてその信仰の対象の真ん中に、今後私の女神となる人がいた。彼女には耳があった。ヒトのものとは思えない、アタマの上に生えている耳が。そして、煌びやかな艶に、さらりとのびた美しい尾があった。私は彼女のこころに熱いものが宿っていることに気がついた。そのこころは、まるで彼女を燃やし尽くすようで、彼女を支えるようで、彼女の一生涯の友のようだった。私は彼女に尋ねた。
「ここは、どこですか」
なんとも酷い会話の始まりだと思った。もっといい言葉があったろうと私は思うが、少年にとって話を繋げるだけでも精一杯であったのだ。彼女は答えた。
「ここは、どこなんだろうね」
変な子だと思った。彼女はここを知らなかったのか。私は少し落胆した。このままだと親に心配をかけてしまう。彼女に対する感情も湧いた。彼女は大丈夫なのか。彼女はどうしてここにいるのか。彼女の名前は一体何なのか。すぺてが気になった。その時の彼女に対する感情はなんだったのだろうか。いわゆる恋だろうか。だとしたら初恋であった。それとも、女神だろうか。それだと少し感情が離れすぎている。
あの気持ちには名前がつけられなかった。
私はなんとかして森から脱出しようとした。そうしようとした理由には、親の心配も入っていただろうが、彼女に見栄を張りたいという気持ちもあっただろう。というより、三割ほどその気持ちが占めていただろう。
「ここは危ないね。はやく森から抜けよう」
彼女に私は言った。彼女はその縦長な耳を此方に傾けてわたしの言葉を聞いた。彼女はそれに同意した。不思議な子ではあるが、意外と元気な子なのだろうか、と私は思っていた。随分と陽気な返事をくれたからだ。
「たしかにそうだね。あんまり遅いとお母さんたちを困らせちゃうね。ここ、とてもきれいだからまた来たいな」
彼女は美しかった。一つ一つの動きが私の眼を虜にした。
確かに迷子になったものの、どうやらそこまで入り組んだ森ではなかったようで、彼女と情報を擦り合わせながら道を歩いていくと、見慣れた街に出ることができた。これでひとつ安心を得られた。しかし、もうひとつやるべきことがあった。
「ねえ。君の名前を教えてくれないかな」
私は、彼女の名前をまだ知らなかった。同時に彼女も私の名前を知らなかった。お互いに知らないままであった。
「じゃあ、君の名前も教えてよ」
拒むはずがなかった。もう私は目の前の少女の虜であった。
「わかった。もちろん教えるよ」
そう答え、私たちは名前を教えあった。