柔らかく心地良い、泥のような日常へ。
暖かく優しい、日溜まりのような停滞へ。
何処まで続く、泥濘ぞ。
想いを伝えるのは怖い、でも秘めたままでいるのも辛い。ふとした拍子に気持ちが溢れてしまいそうで、毎日が大変だ。人を好きになるのは、楽しいけど意外と酷しいものだ。日々それを実感しつつ、私は大喜くんと共に過ごしている。
「高一男子と同棲、って……。意識したりしないの?」
花恋にそう聞かれたときは、どう答えるべきか迷った。男の子だなぁとか良い子だなぁとかは普通に思う、でも「その先」を口にして良いのかどうか私には分からなかったから。
夢を掴んで恋もして、いつも全力で生きている花恋。それに比べて私は、全てが半端だ。バスケはお母さんから受け継いだ借り物の夢でしかない、でもそれに由って立たなければ生きられない程に私は弱い。大喜くんと結ばれたなら、きっとベットリと依存しきってしまう。
大喜くんは真っ直ぐに夢を追っている、私なんかがその脚を引っ張るわけにいかない。そう思えど、気持ちは変えられない。変わってほしくない。
私は弱くて醜くて、酷い先輩なんだな。
気が付けば、自然に「ただいま」が言えるようになっている自分に少し驚く。ここは仮の住まいなのに、まるで自宅のように振る舞っている。まったく私は本当にダメなんだな、甘えすぎだ。
「……?」
普段なら玄関口で既に聞こえてくる由紀子さんの声が、今日は無い。よく見れば家のなかは灯りこそ点いているが、すっかり鎮まりかえっている。誰もいないのかな、珍しい。大喜くんはもう帰っている筈だけど、部屋に上がっているんだろうか。
もしかして――二人きり、か。これは、これは。
「……参ったなぁ」
ただでさえ我慢が効かない私なのに、不味いかもしれない。まあ時間的に長く留守にはしないだろう、誰か帰ってくるまで下にいよう。部屋にいると大喜くんが近すぎて気まずい。
そう思いつつ、一先ず水でも取ろうと冷蔵庫に向かう最中。何気なく見たリビングに、視線を奪われてしまった。
そこにいたのは、大喜くん。壁に背を預けたまま、その目は閉じられていて。近付くと聞こえてきたのは、健やかな寝息。どうやら熟睡しているらしいけど、何だろうこの可愛さは。天使のような寝顔から、目を離せない。
普段から可愛いと思ってるけれども、こうしてまじまじと見ると可愛すぎる。なんだこの可愛い生き物。
よほど疲れたんだろう、私が近づいても起きる気配さえ無い。
息がかかるほどに顔を寄せても、微動だにしない。
このまま触れても、きっと――。
「……っ」
頭の奥から染み出してくる欲望を、すんでの所で捩じ伏せて私は距離を取る。
何をしようとした、私。
いや考えるまでもない、私は大喜くんに触れようと――キスしようとしてしまった。こんな無垢な寝顔を、穢そうとした。赦される事じゃない、なのに流されるまま欲望を遂げようとした。最低だ、最低にも程がある。
爆音を奏でる心臓を薄い胸の上から全力で押さえ付けて、そのまま二階へと駆け上がりベッドへと倒れ込む。
ダメだ、これはあまりにもダメ過ぎる。何処まで欲求不満なんだ、自分が嫌になる。それは私だって人間だ、そういう感情はある。いつかそういう事もするんだろうな、とも思わなくはない。とは言え、まさか眠っている後輩相手にこんなことをしようとするとは。
過ちを犯す前に、この家を出るべきだろうか。でも生活力の無い私に独り暮らしなんか出来る訳がないし、金銭的にも辛い。
「どうしよう、かな……」
それに私は、大喜くんと離れたくない。それは身勝手ではあるけれど、本心だから。
いっそ大喜くんが、もっと強く来てくれれば。拒めない程に激しい感情をぶつけてくれたなら。そんなろくでもない事を考えてしまう自分が、心底恥ずかしい。あんな純粋で可愛い子に、そんな生臭さがあるものか。ああ、嫌だ嫌だ。
でももし本当にそうなったなら、多分私は日和ってしまう。こういうのは良くないから、と体よく拒絶して大喜くんを傷つけるんだろう。
何処までも私は身勝手でどうしようもない、見下げ果てた先輩だ。
だから今は、この気持ちを胸の奥に沈めよう。大喜くんの前では、立派なセンパイを装おう。形だけでも。
そしていつか、相応しい人間になれたなら。その時は、胸を張って想いを伝えよう。
それまでは凍りついていて、私の恋。溶けるには早すぎるから、もう少しだけそのままでいて。
いつか必ず。きっと、いつか。
その日は来るはずだから。