「初めまして。古馬駁くん」
「初めまして。オールマイト」
震える唇をこじ開けて、俺は挨拶を交わした。俺が、あのオールマイトとだ。時代を創った超人。ヒーロー社会の番人。俺の憧れのひと。どれだけ追い求めても会えなかった男が今、俺の目の前にいた。
俺は猛烈に感動していた。心臓は爆発寸前で、瞳は溢れんばかりの涙で窒息していた。極度の興奮と緊張で体は熱を帯び始めたが、脳みそは氷水を浴びたかのように冴えわたっていた。
分厚い強化アクリルを挟んで俺たちはようやく出会った。俺と彼の社会的立場はそれよりも離れていた。物理的隔たりも社会的隔たりも決して埋まることはないだろうが、俺と彼が目と目を合わせている事実に比べれば些細なことに思えた。
先程からオールマイトは俺のことをじっと見つめている。口を開く気配はない。俺が話し出すのを待ってくれている。
――待たせたくない。待たせられない。
静寂を嫌った俺はとにかく何か言おうとするが、こういうときに限って何も言葉が出てこない。喉に躊躇がへばりついている。どうでもいい奴らとは、あれだけ流暢に話していたのに!
「急ぐ必要はないよ」
軽いパニックになった俺が声を出しあぐねていると、それまで静観していたオールマイトが突如沈黙を破った。その声は静粛で、けれど優しさを含んでいた。彼は落ち着いた声音を保って続けた。
「無理を言って、面会時間を長く取ってもらった。ゆっくり話せばいい」
オールマイトは慌てる俺を気遣い、剰え面会の時間を延ばしてくれていた。
俺は烈火の如く自分を恥じた。今までの行動はすべて、この瞬間のためだけにあったというのに。何一つまともにこなせないとは。どおりで誰もついてこないはずだ。
――落ち着け。いつものルーティーンだ。
俺は深呼吸をした。肺を限界まで膨らませて、少しずつ吐き出す。二酸化炭素と懊悩を出し切れば、そこには一片の逡巡も残らない。
横隔膜が肺を縮めるのを感じる。曇っていた目が晴れてゆくのがわかる。
眼を見開いて最初に映ったのは、瞳に信念を宿したひとりの男。それ以外の何者でもないし、他には誰もいらない。死角の窓から看守たちが俺を見張っているが、彼らは眼中になかった。傍観者は必要ない。これは最初で最後の、俺と彼の物語なのだから。
「来てくれてありがとう」
嗄れた声が出た。長らく話していなかったせいだ。
「本当に嬉しいよ。嘘じゃない。心から感謝してる」
「ハハッ。ありがたいな。それなら私もここに来た甲斐がある」
オールマイトは小さく笑った。その笑顔は当惑と喜びが入り混じった複雑なものだったが、本心から出たもののように見えた。それを見て俺も嬉しくなった。
「それだけは言っておきたくて。これから、少し喧嘩するだろうから」
俺がそう口にすると、一瞬で彼との間にピリついた空気が流れた。張り詰めた空間を切り裂くように俺は言葉を紡ぐ。
「戦うって意味じゃないよ。討論したいだけさ。お互いの目指した理想とか、いろいろ」
「ン……そうか」
争いの意思がないことを示すと、オールマイトは警戒を緩めた。完全にではないけれど。
「安心して。憧れの人に嘘は吐かない」
「エッジショットは君に騙されたと言っていたが……」
「別にエッジショットには憧れてないもん」
フン、余計な告げ口しやがって。非常に不愉快だったのでエッジショットは次に会ったら釣り糸にすると決めた。不在の部外者に水をさされ内心毒づいていると、オールマイトは神妙な面持ちで質問してきた。
「それ以外に私を呼んだ理由はないのかい?」
「……? ないよ」
「なら、本当に話がしたいだけなのか」
「そうだって」
彼は怪訝な表情を浮かべた。事が事だから仕方ないけど、オールマイトもなかなか疑り深い。尊敬する人と語り合いたいって考えるは、ごく普通のことだと思うのだが。もしかしたら昼休みのOLくらいの気軽さでヒーローとおしゃべりしたがる囚人は俺だけなのかもしれない。
「俺は……ずっとこの時を待っていた。ずっとあなたと話がしたかった。それに、世界を変えるためにいろいろやってきたけど、結局はあなたと話すのが一番の近道だし」
「どうして私と話すのが近道なんだい?」
「あなたは暴力で世界を変えた典型的な成功例だ。見習うところが多い」
再び沈黙が訪れる。彼の無言の反論を感じる。口にこそ出していないが、俺の言ったことに納得していないのは瞭然だった。少しの時間が経ち、彼は短く息を吐いたあと、何かを決心したかのような顔つきで話し出した。
「先に言っておこう。君の考えのほとんどには賛成できないだろう。私の話から学べることも多くないと思う。
――だからといって、君との会話を拒むなんてことは決してない」
オールマイトは力強く断言した。俺は疾しさを見つけようと彼の目の奥を覗き込んだが、あったのは誠意だけだった。
お決まりの展開。いつだって正義の味方は悪に手を差し伸べる。たとえ相手が俺でなくとも、彼は等しく期待に応えただろう。オールマイトは、そういうヒーローだから。
彼の行動に得心するが、同時に黒い感情も覚える。そんな俺の想いも知らず、彼は滔々と諭す。
「私でよければいくらでも付き合うよ。君が満足するまで」
オールマイトは俺をまっすぐに見つめる。一点の曇りなく、ひたすら真摯に。
思わず口角が上がる。湧き上がる感喜を抑えられない。胸の内から溢れ出す希望を今だけは許してやる。自分に甘い思考だが、今回ばかりは仕方ない。それに、シケた顔してたらオールマイトに失礼だ。
さあ、オールマイト。準備はいいかい?
俺は出来てるよ。なんせ、この時を一〇年以上待ってたんだ。これ以上は待てない。
「始めよう。今日は長い一日になる」
俺の気概が伝わったのか、彼の目に宿る光が一層輝きを増した。ああ、それだよ。俺はその瞳の輝きに魅せられたんだ。
邪魔者はいない。心ゆくまで語り合おう。死がふたりを分かつまで。
「そうだな。スケールの大きなことから話そう。
――『世界はどうあるべきか』。教えてよ、オールマイト。無敵のヒーローが望む世界を」
聞かせてくれ。あんたのすべてを知りたいんだ。
俺の質問を聞き終わるとオールマイトは体を前に倒し、祈るように手を組んだ。その後彼は一切の澱みなく、即答に近い形で答えた。
「私は、皆が笑って暮らせる世の中であるべきだと思う」
――そう言うと思った。
予想と違わぬ、あまりにも彼らしい答えが返ってきたので俺は笑いそうになった。あんたのすべては自分以外の誰かに捧げるためのもの。そう思ってるんだろ? あんたの人生は、あんただけのものだというのに。
それなのに、あんたは人生を自分以外の皆のために使うことを選んだ。
俺の瞋恚に気付くことなく彼は語り続ける。
「その為には象徴が必要だった。心の拠り所さえあれば犯罪は減少する。だから私は、この国の“柱”になろうとした。長い時間と多くの経験を経て、私は“平和の象徴”になった」
彼の視線は遠くに向けられていた。今や現実となったその理想は、かつて誰かに語ったものなのかもしれない。
「ありし日の灯火が絶えようと私の想いは変わっていない。私が望むのはいつだって、皆が笑って暮らせる世界だ」
彼の言葉は純白の誠実さで充ち満ちていた。彼の理想には衒いも、嘘も、虚勢も、大義を傘に着た利己もなかった。
「オールマイトは夢を叶えたんだね」
できるだけ羨望が滲まないように言った。実際はバレバレだったかもしれないけれど。
「組織犯罪を壊滅させ、悠久を生きる巨悪も討ち取った。かつて夢に描いたとおり、“平和の象徴”となって世界を変えたわけだ」
「そんなことはない。どれだけ犯罪を取り締まろうと、どれだけ早く被災地に着こうと……救えなかった人の方が多かった。私のしてきたことは、ほんの僅かな規模の活動に過ぎない」
俺は彼の偉業を褒め称えたが、オールマイトの顔には後悔がありありと浮かんでおり、組んだ手は力を込めすぎて白んでいた。古傷だらけの手は守ってきたものの多さを如実に表していた。
掴んだものより零れ落ちたものに目が行くのは人間の悪い癖だが、俺も人のことは言えない。
俺の
話が一区切りついたところでオールマイトは口を閉ざし、自嘲した。
「こんなところかな。あまり役には立たなかっただろう」
「そんなことないよ。貴重な話が聞けた」
「それなら良かった」
オールマイトはどこか寂しそうに笑った。どうしてそんなに悲しそうに笑うんだ。俺は彼の佇まいに悲哀を感じたが、あえて指摘することもないと思い黙っていた。
「少し喋りすぎてしまったな。そろそろ交代しよう。次は君だ」
「俺の話を聞いてくれるの?」
「聞いてほしくないのかい?」
「ハハハッ、いじわる」
ユーモアのある発言が飛び出した。そういうお茶目なところも大好き。
意図せず会話の主導権を握った。折角なので思う存分持論を展開させてもらおう。滑らかに高らかに、俺は理想の世界を語る。
「俺が目指すのは真の自由だ。法益も立憲主義も存在しない、力と正義が本来あるべき場所――人々の手に戻った世界。俺は国家による暴力の独占を禁止する」
この考えに名前はまだないが、いつの日か名が付くだろう。レンブラントの『夜警』にも初めは名前がなかったんだ。
「俺はあなたのようには思えなかった。みんなにどうあってほしいかなんて考えたことなかったし、俺のやり方で世界はひとつになるって確信してた。だから世界を意のままに変えようとした。
オールマイトもだけど、みんな欲望の叶え方が間接的すぎるよ。俺はもっと直接的にやる」
「間接的、か」
「そうさ。卵を割らなきゃオムレツは作れない。いつまでも割れた卵を気にかけちゃいられない。たとえそれが有精卵だったとしても」
「命を奪うことに躊躇いは?」
「
「そのやり方で皆がついてくると、本当に思っていたのかい?」
思ってたさ。力さえあれば、みんな俺と同じことをすると……本気でそう思っていた。今の世界に満足してるはずがないって。きっかけさえあれば、必ず拳を振り上げるって。
なーんて言いたかったけど、何もかもが失敗に終わっている現実を前にして格好つけるのは憚られた。代わりに答えにもならない負け惜しみを吐く。
「生きていればうまくいかないときもある。革命は失敗し、判決は下され、待っているのは断頭台。ありきたりな結末さ」
奔放の代償として自由を失う。よくあることだ。これで一息ついたかと思いきや、オールマイトは追随してきた。
「いいや、まだだ。まだ終わっていない。君は自ら警察に姿を晒して、囚われの身を選んだ。計画的な行動だ。すべてを諦めた人間のすることではない。
君の物語には、ギロチンのその先があるのだろう?」
「あるよ」
明け透けな俺の返答にオールマイトは面食らったようだった。何もかも話す訳にはいかないが、嘘を吐く気もない。俺に残された僅かばかりの良心に従って、訊かれたことは答えられる範囲で答える。
「何をするつもりなんだ?」
「なに? オールマイトは俺を取り調べに来たの?」
「いや、そんなつもりでは……」
「じゃあ言わない。別に、世間に迷惑かけるようなことじゃないから心配しなくていいよ」
俺が強い口調で反発すると、彼はひどく狼狽した。その様はとても銃弾より速く動いていた男には見えなかった。なんであんたが弱腰なんだよ、と元“平和の象徴”とは思えない気の弱さに落胆する反面、遠い存在だと思っていた彼の意外な一面に親しみやすさを感じた。
「話題を変えよう」
反抗期の娘に戸惑う父親のようになってしまったオールマイトを元の調子に戻すため、違う話題について話すことにした。彼も反対しなかった。
「そうだな……『暴力』について話すのはどう?」
「構わない。好きなことを話してくれ」
娘にどの服が似合うか訊かれたけどよくわからないから有耶無耶にする父親みたいな反応をされた。もっとガンガン意見してもらっていいのに。
「あなたたちは、暴力に関して俺を勘違いしている部分があると思う」
「それは?」
「俺が好きなのは『主観的暴力』。『象徴的暴力』や『システム的暴力』はむしろ嫌いな部類だ」
「知らない分類だな」
おかしいな。知らないの?
この世界で生きている以上絶対に知っているはずだが、前提知識に差異があると後々噛み合わなくなってくるので、一から解説していく。
「『主観的暴力』は、俺たちが普段暴力と呼んでいる物理的な暴力。目につきやすく、誰がやったか明確」
A5ランクの暴力。俺の一番のお気に入り。
「対して『象徴的暴力』は、恣意の正当化、言葉の意味や価値観を押し付ける暴力だ。男らしさ、女らしさ、上流階級らしい言葉遣い。誰かが決めた常識をすり込むこと」
ブルデューはこれを文化的再生産と呼んだ。俺はあまり好きじゃない。というか嫌い。
「最後に、『システム的暴力』。これは今の経済、政治的システムがそれ自体に内包している暴力。ホームレスや失業者のような、除外された不必要な個人を自動的に生み出す」
俺の大っ嫌いな暴力。責任の所在を曖昧に、暴力の結果を不透明に、夢をあおって俺たちを盲目に。資本主義のグローバル化のために死んだ数百万の人々に俺たちは気付かない。
「『象徴的暴力』と『システム的暴力』、このふたつの暴力は『客観的暴力』に位置する。『客観的暴力』は近代に入って資本主義と結びつき新たな姿を纏った。俺は自分の手を汚さない暴力が嫌いだからそれを解体しようとしてる」
際限なく増殖を繰り返すそれは、まさしく社会の癌。経済は俺たちの手を離れ、実体のない幽霊になった。システムに暴力を任せてしまったせいで、俺たちの手元には暴力のカケラも残っていない。許せないことだ。
「大体わかった?」
「ああ。大体わかった」
本当かよ。
経験則だが、質問にオウム返しするやつは大体わかってない。疑惑を覚えはするものの、オールマイトを信頼してツッコまずに話を進める。
「それじゃあ改めて言おう。俺が好きなのは『主観的暴力』。そしてそれは自由意思に基づいて行使されるべきだ」
自信満々に提言すると、オールマイトは不満の籠もった眼差しを向けた。
「君の言うとおり、私たちの住む世界には欠陥がある。社会は不平等で不完全だ。だが、無闇に暴力を解き放てば人々は不幸になる」
「だから俺の考えは間違ってるって?」
「君の言う理想は文明を放棄することと同義だ」
「安いもんだろ。文明のひとつやふたつ」
少なくとも、ずっと忘れていた本当に大切なことを思い出せる。貨幣によって繋がれていた信用は、真の愛によって繋がれる信頼に変わる。
「私たちは未だ成長の最中にいる。確かに今の社会は最善ではないが、最悪でもないはずだ。一人ひとりが諦めず努力し続ければ、いつか最善を手に入れられる時が来る」
「無理だね。俺たちは根底に暴力を宿してる。十字軍はイスラム教徒の腹を裂き、死体に火をつけ灰の中から金貨を探した。アメリカ軍はベトナムに枯葉剤を撒き、農作物を汚染し大量の奇形児を生んだ。今人々が残虐性を抑えられているのは、たまたま豊かな時代に生まれたから。疑念という潤滑油で止まっていた歯車はすぐに動き出す」
冷酷で、残忍で、純粋。それが俺たちの本質。
潮に生まれし俺たちは、地に満ち世界を滅ぼした。智を知り、個を捨て、遍く全てを支配した。けれど忘れたものもある。それが何かを知るために、獲物を探して狩りに出る。飽くなき飢えに誘われて、無辜の他人を手に掛ける。骨を砕き、血を啜り、ぶちまけられた脳漿に喰らいつく。己の内なる残虐性を解放して、俺たちはようやく自分の美しさを思い出す。
俺たちは人間。世界一暴力的な生き物。
「そもそも暴力を悪いものとして扱うのがおかしいのさ。生きること――存在することは荒れ狂うこと。忘我するほどの暴走こそが生命の実存。暴れ馬のよだれを垂らしながら嘶く姿には、ひたすら無為なエネルギーの放出には、神秘性がある。暴力こそが人間存在の本質なんだ」
随分と話していなかったというのに、自分でも驚くほど口が回る。
「俺たちはみな、尊い貴い考える葦。だけど尊いのは考えているからじゃない。生きているからだ。生は思想に優越する。未来のために己の生を延期するな。有用性という秩序に縛られるな。暴力性という太陽を直視することを恐れるな」
口が回る。
「確かに暴力は人間の主体性を失わせる。人間に我を失わせ、熱狂へと誘う。しかし、自他の区別が曖昧になった精神だけが真に他人と交流することができる。それは究極の他者理解じゃないのか?」
回り続ける。
「善も悪もくだらねぇ。あんたたちの従う道徳は可変なものだ。戦争になったら、道徳に従って人殺しをするつもりか? 暴力は道徳規範を超越した、対立的要素を内包した聖なるものだ。俺はその素晴らしさを広めようとしているだけだ!
オールマイト、あんたは力で世界を変えた人間だろ!? わかるはずだ、俺の理想が!」
激情に任せて捲し立てたせいで息切れを起こす。俺は何をムキになっているんだ。考えを理解されないくらい、今までいくらでもあっただろうに。
オールマイトは一言も口を挟まず俺の言葉を受け止めると、朴訥にこう返した。
「君はピストルを持った赤ん坊だな」
奇妙な比喩だが、違和感はなかった。それが彼の心の底から出た、正直な感想に聞こえたから。
「オールマイトは……俺をどうしたいんだ? 非難したいのか? 否定したいのか? あんたはなぜここに来たんだ?」
「私を呼んだのは君だろう」
「ああそうだ。だから教えてくれ。あんたが俺の呼びかけに応じてくれたというなら」
あんたが何をしたいのか、全然わからない。憧れの人と過ごす蜜月の時は、針の筵に変わっていた。
俺の逡巡する姿を写したオールマイトの瞳が揺らぐ。先程から、いや、ここに来た時から彼は俺を憐れんでいる。そのことに気づいてはいたが、理由がわからない。
「私が悪と切り捨てた
「……それが?」
「それまでの私は、変わる余地のない人間もいると考えていた。わかり合えない人種もいる、と。しかし、彼らから変わる機会を奪っているのが我々だったとしたら? 一方的に決めつけ、救う努力を怠り、助けを求める手を払い除けてきていたとしたら?」
いまいち何を意図したいのかわからない。婉曲な言い回しが、俺を傷つけないための配慮がむず痒い。
「君は悪人ではない。純粋なだけだ。その力を、自分ではない誰かのために使ってほしい。
君は――ヒーローになれる」
オールマイトにそう言われた瞬間、カチッと頭の中で何かが噛み合う音がした。
「ああ、そうか。オールマイトは」
――俺をスカウトしに来たのか。
合点がいった。冷静に考えればわかることだ。彼ほどのヒーローが何の社会的意義もなしにこんなところに来るはずがない。純粋な厚意だけで来てもらったと勘違いしていた自分がバカみたいだ。
ここに入る理由が「ファンサービスのため」であっていいはずがないんだ。彼は“平和の象徴”だったのだから。雄英高校やら警察やらの許可も必要なはずだし。
思考で失意を掻き消そうとするが、無意味だった。俺は眼前に突きつけられた事実に絶望してしまった。虚脱感が全身を襲う。気分が悪い。
「ガッカリさせてすまない。だが、君の期待に応えようとしたのは本当だ」
目に見えて気落ちした俺を察してか、優しい彼は理由を付け加えた。いいよ。何年も見てきたから知ってる。あんたはそういう人だ。落胆を振り払いながら明るく取り繕う。
「いいんだ。それより、どうして俺は悪人じゃないなんて思ったの? そっちの方が気になる」
「君が世界を壊さなかったからだ。そうすることもできたのに」
彼の声は悲哀に濡れていた。哀れな少年を慈しむかのように。
「人は一生で四〇億回以上脈を打つ。そして君の“個性”は心臓の鼓動と同時にエネルギーを生成する。一度に生み出せる力の量はわからないが、いま現在君の体内には、とてつもないエネルギーが蓄えられているはずだ」
「かもね」
彼の言う通り、俺の体内には莫大なエネルギーが貯蓄されている。その総量はツァーリ・ボンバにも負けないはずだ。
「世界を滅ぼす力を持ちながら、それを使うことはなかった。その姿が私には……」
彼は漏れ出た息を飲み込んだ。息を吸い直して、言いかけた言葉をはっきりと口にする。
「君が助けを求めているように見えた」
俺は応えなかった。彼も俺が何かを言うのを待った。辺りはしんと静まり返って、監視カメラの駆動する音だけが響いた。
目と目が合う。お互いに逸らさない。しばらくそんな時間が続いたが、彼があまりに真剣な顔で見つめてくるので、俺は堪えきれずに笑ってしまった。
「フフッ、ハハッ、ハハハハハッ。そんなに見ないでよ。笑っちゃう」
俺は場を明るくしようとしたが、オールマイトは変わらず悲しそうな目で俺を見つめていた。笑ってよ、オールマイト。あなたに憐れまれると、さすがの俺も涙が出てくる。
「世界を壊す? 何の為に?」
涙声で言った。本当にそんなことを訊く理由がわからなかったから。俺は心底疑問だった。どうしてそんなことをする必要があるのだろう。
「確かに今の社会は嫌いだけど、壊そうなんて思わない」
涙を湛えた瞳で、オールマイトをじっと見つめ返す。
「だって、世界は
この世のどこかで今も紛争やテロは起こっている。それが俺たちの近くにはなかったってだけ。だからこそ――
「俺は走った。西に東に、世界を変えようとして。こんなにも世界に暴力が溢れているのに、俺が認められないのが、俺がおかしいと思われるのが悔しかった。何より、世界を良くしたかった」
世界を壊すのではなく、変えようとしたんだ。世界が俺を変えるなら、俺も世界を変えられるはずだ。みんなと俺自身のために、世界をより良い方向に導いてやろうとしたのさ。
「何の為にそんなことを――」
「愛だよ」
即答する。有無を言わせぬ反駁にオールマイトは目を丸くしていた。
「バカらしいと思うかもしれないけれど、俺のすべての試行は愛によって導かれた。人々への愛、世界への愛、暴力への愛。貨幣愛はないけどね」
「本当に
「そうだよ」
なんで皆いちいち聞き返してくるんだ? 嘘じゃないことくらい、俺の行動からわかるだろ。俺ほど暴力を愛した人間はいない。
俺が世界一好きなものは暴力だった。必然的に相手に愛を捧ぐ方法も暴力になった。俺にとって暴力は、愛を感じるための手段なのだ。ふたつでひとつの切っても切れないものなのだ。
故に、俺は傷つけたり傷つけられることでしか愛を認識できない。だからこそ。誰に受け入れられずとも、
「慎ましい方だろ? 俺は自分が異常だってわかってる。身の丈に合わない幸福を追い求めるくらい、許してくれよ」
「君は愛を、暴力の免罪符として使っているのではないかい?」
「違うよ。俺は暴力が好きなんだ」
何度も言わせないでくれ。俺はこういう形で生まれてきたんだ。
「何度でも言うよ。俺は暴力が好きなんだ。本質を変えることはできない」
「それでもいい。それも君の個性だ。暴力性を制御できるようにすればいいだけさ。力は使い方次第でいくらでも――」
「そんなことしても俺はヒーローにはなれないよ」
力強く断定する。オールマイトはとっさに口を開いたが、その口から言葉は出てこなかった。噛み合わなかったパズルのピースは排除される。これが社会のルール。俺も彼も、口に出さずともその法則を理解していた。
俺もあんたみたいになりたかったけど、何度やってもダメなのさ。俺は、あんたにはなれない。暴力があんたたちにとって悪である限り。
「なぜ、そう言い切れるんだ」
オールマイトはやっとのことでそう言い返した。
「俺は
これ以上ないくらい簡潔な理由。俺の牙は血で汚れてる。鮮肉の味を知ってからじゃあ、やり直すには遅すぎる。
「……なら、君はどうなる」
「え?」
「君は誰に愛されればいい?」
完全に意表を突かれた。柄にもなく戸惑ってしまった。
彼に教えてもらわずとも、俺はその答えを知っている。あの日、父さんと母さんと別れた日から。
「君は、暴力が君の愛だと言った。それは本当なのだろう。だったら」
オールマイトはいつしか涙を流していた。
「だったら、君を愛してくれるのは誰なんだ」
俺は俯いた。不細工な泣きっ面を見られたくなかったから。
知ってたさ。俺は誰からも愛されない。暴力と愛は本来反発するものだから。俺が誰かを
「誰が……」
オールマイトは目頭を押さえた。手の隙間から、光を反射する水の筋が見えた。それを見て俺は、とても悲しい気持ちになった。
「俺は大丈夫だよ」
笑って嘘を吐いた。全く本心ではなかった。
誰にも愛されずに生きていくのは悲しい。でも、それは俺の問題だ。この人にまで抱えてほしくない。
「俺はひとりで生きていける。もともとそういう人間なんだ」
本当は言いたかった。俺はあなたたちと同じ人間だって。ただ、そんなことを言っても何の解決にもならないし、オールマイトの負担になるだけだ。俺にできる唯一の恩返しは、笑ってさよならを言うことだけ。
「オールマイト」
未練を断ち切るように、世界を愛するように微笑む。
「誰にも愛されなくても、俺は幸せだよ。ひとりぼっちでも胸を張って生きていけるよ」
俺は嘘をつく。あなたを安心させたいから。あなたには笑顔でいてほしいから。
「そう、か。そうか……」
彼は俯いた。大粒の涙がぼろぼろと零れ落ちた。涙は止まることなく落ち続けた。
俺は、落ちてゆく雫を目で追った。水滴の滴る音を聞きながら、長いことそうしていた。
「落ち着いた?」
「ああ……すまない。取り乱してしまった」
オールマイトは落ち着きを取り戻した。かなり時間がかかったけれど。
『オールマイト。時間です。退出を』
看守たちがタイミングを見計らって退出を促してきた。案外粋な奴らだ。
「もう行かなくては」
「うん」
まもなく惜別が訪れる。今生の別れに胸が締め付けられる。
「さようなら。オールマイト」
「さようなら。古馬駁くん」
彼は席を立った。背を向けて、ゆっくりと扉へ歩いていく。行かないでくれ、とは口にしない。どんなことにも終わりはあるから。
愛しい人が去る。初めてではないが、いつまで経っても慣れない。そして彼が戻ることはない。
出口の目の前で彼は立ち止まった。すると、彼は振り返って、俺を正面から見据えて友達に話しかけるような気軽さで言った。
「また来るよ」
その言葉を聞いてしまった瞬間、我慢していた涙が溢れ出した。とめどなく押し寄せる感涙に抵抗できなくなった。
「ありがとう……」
嗚咽を抑えてその一言を捻り出す。涙は止まらないが、今この瞬間だけは泣くよりもすることがある。伝えなければいけないことがある。
「救われた」
それは誰にも理解されないけれど。救済とは言えない愚かな思い上がりだったけれど。あなたのおかげで俺は、俺は――
「救われたんだ……」
あなたは、遠い昔に誰にも理解されなかった少年を救ってくれた。
オールマイトは、窪んだ眼窩を腫らして、かぶりを振った。
「すまない……」
彼の声は悲痛に塗れていた。ここには悲しみしかないかのように。自分には何もできなかったかのように。
でも違うんだ。俺は幸せを見つけたんだよ。ずっとそこにあったのに、近すぎて見えなかったんだ。今ならわかる。
俺は愛されていたんだ。両親に、世界に、あなたに……
それだけで俺は生きていける。永遠の孤独にも耐えられる。ありし日の思い出が、あなたの優しさが、あたたかい幸福となって胸を満たす。溢れた幸福が眼から零れ落ちる。
幸福はここに。この心に。
●
自分の房に帰ってベッドに座ると、不思議と心が穏やかになった。白塗りの無機質な監房でも、一〇日もいれば慣れるものだな。こんな硬い寝具にも愛着が湧く訳だ。ベッドの感触を尻で感じながらそんなことを考える。
泣いたお陰かよく頭が回る。ベッドに腰掛けたまま、つらつらと栓なきことに思いを巡らす。
オール・フォー・ワンも死柄木弔も、なんだかどうでもよくなってきた。けどそう思えるのはきっと一瞬で、すぐに戦いたいって思うようになるんだろうな。まあ、いいか。そうなったらそうなったで仕方ない。
そういえば、俺は、どうして生き方を変えなかったのだろうか。両親と別れたときに、オールマイトの言ったとおりヒーローでも志せばよかったのに。どうしてだろう。
信念のため? 社会のため? それとも、遠い昔に誰にも理解されなかった少年を守るため? 言い訳はいくらでも見つかったが、否定しようのない真実もあった。結局のところ、俺は悪人だったのだ。自分のために他人を犠牲にできる人間だったのだ。
吐き気がするくらい退屈な幸福を手に入れてハッピーエンド。いつまでも幸せに暮らしましたとさ。そんな幻想が、手に入れた幸福が一生続くものならどれほどよかっただろう。
幸せを失っても人生は続く。余生が完全なクソになって、可能性が何一つなくなって、生きる意味なんてかけらも見出せなくなっても。それだけは耐えられなかった。
俺は自分らしく生きた。幸福を永遠のものにするために。それが答えだ。
その日を摘んで生きていこう。いつまでも、これからも。
座ったまま考えるのは疲れた。少し横になりたい。けれど、なんとなくベッドには寝そべりたくなかった。視線を落とすと、埃のない床が目につき、すぐさま寝転ぼうと思いついた。体を床に放り出して白い天井を見上げる。汚れひとつない本当に真っ白な天井だ。
目を瞑ると仄かな闇が訪れる。闇の中は考え事に向いている。
両親、平和、ヒーロー、秩序、安寧、友情、家庭、栄誉、名声、法律、道徳、尊敬、規範、隣人、助け合い、自己実現、たくさんの余暇、平穏な日々……愛される未来。
瞳を閉じて浮かんできたのは、手に入ったかもしれないもの。一つひとつ追慕するかのように思い返す。友との別れを惜しむような、過ぎ去った日々を慈しむような、切ない気持ちが去就する。
涙が頬をつたう。冷たい床が心地よい。悪くない気分だ。
きっと俺は大丈夫だ。さよならを言うのは悲しいけれど、失うばかりが全てじゃないから。同じ道を歩むことはできなくても、未来は、人生は続いていくから。だから――
拳を握りしめて、誰でもない自分自身に誓った。
俺はこれからも戦い続けるさ。いつか死ぬその時まで、胸いっぱいの愛と暴力を込めて。