ミラは覚えている。
ミラは母の顔を朧気にしか覚えていない。ミラが言葉を覚え、自分の名前を言えるようになった頃にはもう、母はいなくなっていた。
顔はよく覚えていないけど、その温かさはよく覚えている。
そして、何かすごく怖いモノに襲われたことも、鮮明に覚えていた。
それが母だったと知ったのは、姉が魔女になってから。
ミラは覚えている。
母がいなくなって、父が部屋から出てこなくなってからは、姉が母の代わりになった。
ミラよりもだいぶ早く生まれていた姉は朝早くから働いて、ミラの世話をして、父にもいつも声をかけて、そしてミラと遊んでもくれた。
ミラの記憶の中の姉は、いつも笑っていた。
それがどれだけ無理をしていたのか知ったのは、姉が魔女になってから。
ミラは覚えている。
久しぶりに見た父の顔は、元の優しい顔に少しは似ていた。
父はまた働きだして、姉がそれを手伝って、背の伸びてきたミラもたまに手伝った。
その頃が、ミラの短い生の中で、いちばん輝いていた時。
その頃だけ、父も、姉も、ミラも笑っていた。
でも、そこに母はいなかった。
何をどう頑張っても、母は戻ってこないんだと、もう元には戻れないんだと気付いてしまった。
姉もそう思っていたことを知ったのは、姉が魔女になってから。
ミラは覚えている。
ミラは知っている。
人は魔女になる時、目から黒い涙を流す。
透明じゃない、赤でもない、真っ黒な涙を。
それは悪い魔女の証なんだと、大人たちは言っていた。
『どうして』と、姉は言った。
両目から、真っ黒な涙を流しながら。
優しかった姉は、悪い魔女になってしまった。
ミラは覚えている。
ミラが覚えているこの世界は、いつもいつもミラをいじめてきた。
ミラをいじめて、いじめて、たまに優しくして、またいじめてきた。
今までもずっと。これからもずっと。
この世界はきっと、ミラのことをいじめ続けるのだ。
母みたいに、姉みたいに、ミラも魔女になってしまうまで、ずっと。
だから、だから。
そんな世界は、こんな世界は。
「もうやだ』と、ミラは言った。
右目から、真っ黒な涙を流しながら。
心が黒く染まっていく。何もかもが真っ黒に塗りつぶされていく。
心が痛くて、冷たくて、すごく、すごく苦しくて。
それを「絶望」と呼ぶのだと、ミラは知った。
だからミラも、悪い魔女になるのだ。
◆
「おい、まずいぞ……っ」
異変に最初に気付いたのはライアーだった。彼の震えた声に、皆が目を向け、そしてそこに最悪の光景を見た。
「あ、あぁ、あ、あ』
地面に座り込んだミラが歪んだ声を漏らす。小さな手で小さな頭を抱え、伸びっ放しの亜麻色の髪を振り乱しながら。姉の血に塗れた顔を、姉の血に塗れた手で拭い、そこに現れた瞳には、黒い涙。
それが魔女化の兆しであることは、この場にいる誰もが知っていた。
「……ミラ? ミラ、だめだミラ! だめだいかないでくれぇっ!」
もっとも近くにいたユアンが、半狂乱でその体を揺さぶる。だがミラはかくかくと頭を揺らすばかりで、もう父親の声も聞こえてはいないようだった。
いったい彼が何をしたというのか。一度ならず二度までも、二度ならず三度までも、魔女禍の呪いは彼から全てを奪おうとしていた。それに誰が耐えられると言うのか。
誰もが動けなかった。一度魔女になってしまえば、もう二度と人には戻れない。出来ることなど何も無いのだから。
否、出来ることはあるのだ。一つだけ。一つしか。それがユアンに出来るわけもない。他の皆にも任せたくはない。
だからレーベンがやるのだ。
近くにいたカーリヤの脚を見る。そこに括られていた短銃を、無言で掴んだ。
「……」
だがその手を、他ならぬカーリヤの手が掴んでいた。悲痛そうに顔を歪めて、少女のように唇を噛んだままで。
「放したまえよ」
「……」
「放してくれカーリヤ、手遅れになる」
「……」
「あの子を撃つのは貴公じゃない、俺だ。俺が撃つんだ」
「……、……っ」
レーベンは早く撃ちたかった。決心が鈍らない内に撃ってしまいたかったのに。だがカーリヤは手を放してくれず、だが何も言わず、ただ泣きだしそうな顔でレーベンの手を掴んで放さない。
それを見ていたライアーが兜の面頬を下ろした。そうしてしまえばもう彼の表情は見えず、それは彼なりの自己暗示なのかもしれない。何も言わずに剣を抜いて、ミラの元へと歩いていく。
「放せ、カーリヤ!」
「いやよっ! 待って! ライアー待ってったら!」
ライアーとカーリヤは同郷の出身で、そして共に家族を魔女禍で失くしている。二人は家族を失くす苦しみを知っているのだ。
だからこそ、ミラを殺すのはレーベンでなければならない。家族を知らず、きっとこれからも家族を得ることなどない己でなければならないのだ。きっとそれが、己の役目に違いないというのに。
カーリヤは手を放さず、ライアーは止まらず、そして、もう時間切れだった。
「――――もう、やだあぁぁっ!』
ミラが絶叫し、右目から黒い涙を噴き出す。それを顔に浴びたユアンが仰向けに倒れ、その彼に、ミラは腰帯から短銃を抜いた。
それは狂乱した少女の凶行だったのか。それとも鬱屈しきった感情の発露だったのか。あるいは哀れな父親に対する娘の慈悲だったのか。なんであろうとミラは己の父親に銃を向け、そしてその引き金を止められる者は誰もいない。
夜明け前の、もっとも昏い空の下で、一発の銃声が木霊した。
赤い血と黒い涙で汚れたミラの顔を、更に鮮やかな赤が彩る。
その鮮血は、彼女自身の白い顔と、何よりも白い髪をも彩っていた。
「もう、や……』
呆然と、ミラが歪みかけた声で呟く。黒い涙を流し続ける右目とは逆の、大きな左目はまだ動揺の色を宿していた。
ユアンを突き飛ばしたシスネの灰色の装束が赤く染まっていく。撃ち抜かれた右腕をだらりと下げ、未だ動かせないのであろう左腕も垂らしたまま、ミラの前に膝をついた。
「シ――」
「来ないでっ!」
誰かが漏らした声を遮り、シスネの鋭い声が響く。その声にライアーが剣を下げ、レーベンとカーリヤも互いに手を放した。ユアンですら動かない。
それらを流し見たシスネは、改めてミラと対峙する。
「ミラ、聞こえる?」
「……』
ミラは答えず、ただ銃をシスネに向けた。何もかもを拒絶するかのように。
シスネはただ、笑ってみせた。
「いいよ、撃っても」
「……っ』
今度は、銃口がわずかに震えた。それはミラに彼女の声が届いている証左であり、まだ人と魔女の危うい境目に立っていることを示していた。
「あと五回撃てるよ、手でも足でも、お腹でも頭でもいいよ。私だけじゃ足りないなら、そこの騎士さんも撃っていいから」
「おい」
騎士とはライアーのことだろうか。いやきっとレーベンのことだろう。こんな状況にも関わらず、思わず小声で抗議してしまった。
「ミラは、すごく辛いんだよね。今日だけじゃない、もうずっと前から、ずっと辛かったんだよね」
「辛くて、辛くて、ずっと我慢して。でももう、無理なんだよね」
「だからミラは……魔女に、なるんだよね」
もうミラは動かなかった。もう声も届いていないのか。だが引き金は弾かれなかった。
「魔女になっても、いいんだよ?」
ミラは動かず、だが他の皆は弾かれるようにシスネを見た。今、彼女はなんと言ったのか。
「いいんだよ、ミラの好きにすれば」
「今までずっと我慢してきたんだから、もう何も我慢しなくていいんだよ」
「私を撃ちたいなら、魔女になりたいなら、死んじゃいたいなら……それでもいいんだよ」
シスネは何も否定しなかった。
「私を撃ちたいなら、どこでも撃っていいよ」
「魔女になりたいなら、私がミラを止めるから」
「死んじゃいたいなら……私は哀しいけど、ミラがそうしたいなら、止めないよ」
何も否定せず、ただ受け止めると、そうミラに伝えていた。
「でもその前に、私の話も聞いて?」
「……、……ん』
ミラが答えた。魔女ならば会話など決して成立しないというのに。
その反応にシスネの瞳が輝き、だがすぐ苦痛に呻いた。彼女の右腕はもう真っ赤に染まっている。それでも、痛みを噛み殺すようにシスネは続けた。
「魔女はね、……心が綺麗な人しか、なれないんだよ?」
そんな話は、レーベンも初めて聞いた。ライアーもカーリヤも、騎士長もアルバットも、最初の騎士たちと聖女たちですら、そんなことは誰一人として言わなかった。
子供だましの口から出まかせ。そう思われても仕方のない暴論。だがシスネの声からそのような軽さは微塵も感じられず、むしろ血を吐くような重苦しさすら感じ取れた。
「ミラのお姉さんも、お母さんも、すごく辛くて、哀しいことがあったから、魔女になったんだよ」
「でもね、哀しいことを哀しいって、そう心から思えるのは、とてもすごいことだと思わない?」
「……どんなに哀しいことがあっても、平気な人だって、いるんだよ」
そう言って、シスネはその目をレーベンに向けてきた。黒い瞳が真正面からレーベンを貫く。
「お……」
その瞳のあまりの強さに、レーベンは一歩後退る。見つめるというには剣呑すぎる。睨みつけるというには悲痛すぎる。そんな、様々な感情が綯い交ぜになったかのような視線であった。
シスネの言う、哀しみを感じない人間とはレーベンのことを指しているのだろうか。確かに己は色々なものが欠落しているのかもしれないが、どうもシスネの言葉はそれだけではないように思えた。レーベンを通して別の誰かも見ているのか、あるいは。
シスネは視線を戻した。
「そんな、心が穢い人は魔女にはならない……なれないんだよ」
「ミラのお姉さんは、ものすごく強かったよ。私なんかじゃ手も足も出なかった」
「彼女の哀しみはそれだけ強くて、そして純粋だった」
「だからね」そう続けて。
「ミラのお姉さんとお母さんは、悪い魔女なんかじゃない」
「――――っ!』
今度こそミラがはっきりと反応を示した。まだ少女のままの左目を見開き、まっすぐシスネを見つめる。
その目をまっすぐ見返しながら、シスネが声を張りあげた。
「二人は、とても綺麗な心の持ち主だった。だから魔女になった!」
「本当だよ! これだけは、絶対に!」
「それに、それは、ミラだって分かってるでしょう!」
「――ぅ、あ』
カチャカチャと、ミラの手の中で短銃が震える。そのまま、両手を祈るように胸に当てた。
だが銃を握ったままのそれは、ちょうどミラの顎を撃ち抜く角度で。
だがシスネは言葉を翻さない。止めようとは、しなかった。
「もう一回、聞くよ」
「ミラはどうしたい?」
「
その沈黙は、レーベンにはひどく長く感じた。もう誰一人として言葉を発さず、身じろぎもしない。ただ白み始めた空だけが、何も変わらない時の流れを示していた。
沈黙は続き、太陽だけが動き続ける。朝日が顔を出し、鬱蒼とした森の中までをも照らし出すまで。
朝日を背にしたシスネの影は、正面に立つミラの姿を覆い隠している。沈黙は更に続き、太陽が上り始め、影が短くなってきた頃。
「ぅぐ、あ、あ」
朝日に照らされたミラの顔は。
「あ、あ、あぁ、あああ……っ」
鼻水と、
「あ……あ、あああぁぁぁ――――っ!」
かしゃりと、ミラの手から短銃が落ちる。少女の両手はその涙を拭うことに必死で、もうそんな物を握っていることはできなかった。
「お、どうざん、おどうざん!」
「ミラ……、ミラ!」
やがて、ふらふらと父を探し始めた娘を、ユアンはひしとその腕に抱いた。それでもミラの涙は止まらない。
「おとうさん、おねえちゃん、しんじゃった……」
「うん……ミルスは、死んでしまった」
「おがあざんも、しんじゃった……」
「うん……、うん……っ」
ミラの涙も慟哭も、ユアンのそれらも、止まることはない。
何故なら、二人はとっくの昔に大切なものを失い、それが戻ってくることは二度と無い。
何ひとつとしてその手には返らないまま、ただ現実を直視しただけに過ぎないのだから。
「おねえぢゃん――――っ!」
夜が明ける。
朝日に照らされた森の中で、無力で、平凡な父娘の慟哭が響き渡っていた。
朝日の中で、慟哭の中で、レーベンはシスネを見ていた。
久しぶりに日の光の中で見る彼女は傷だらけで、その髪も装束も血と泥に塗れている。
それでもなお、レーベンにはそれが美しく見えていたのだ。