か細い体が、ふらりと傾いだ。
「シスネ!」
「シスネっ!」
最も近くにいたライアーが素早く体を支え、次に駆け寄ってきたカーリヤがその身をそっと横たえる。最後に、足を引きずりながらレーベンが傍らに座った。
朝日に照らされたシスネの顔は蒼白で、だというのに汗が止まらず呼吸も浅い。血を流しすぎたのだ。
「再生剤を使おう、失血にも効いたはずだ」
「分かった!」
「その前に血を止めないと! 何か紐は!?」
シスネを囲んだ三者が騒ぎながらも、手だけは止めない。ボロボロの装束を引き裂いて右腕を露わにし、肩口をきつく縛る。水筒の水を振りかけて銃創まわりの血を洗い流した。
「良かった、弾は抜けてる」
「――、ぅ……っ」
騒がしい声に目覚めたのか、シスネが呻きながら薄く目を開けた。黒い瞳が、三者の顔を虚ろに映している。
「シスネ!」
「起きた! ねえ、私が分かる!?」
「……大袈裟です、これ、ぐら……うっ」
「大人しくしたまえよ」
起きて早々に強情なことを宣う彼女の右腕に再生剤を打ってやる。恨めしそうな目を向けてくるその顔に、ひらひらと手を振った。多少は元気になって何よりである。
「……ミラは?」
意識もしっかりしてきたらしいシスネが不安げに尋ねる。その言葉にライアーが無言で腰を上げ、彼の体躯で隠れていた視界を開いた。
首を傾け、その先で抱き合う父娘の姿を目に映して、シスネは。
「――――良かったぁ……」
胸の底から吐き出すような安堵の声を漏らして、その身から力を抜く。落ち葉の積もった柔らかい地面に、華奢な体が沈みこむようであった。その飾らない笑みにレーベンは目を奪われる。
肩の荷が下りたシスネは再び意識を手放そうとし、だが包帯を巻き終わったカーリヤの細い指が彼女の額を弾いた。
「いたっ!?」
「シースーネーさぁーん?」
悍ましい猫撫で声をあげながらカーリヤが彼女の顔を覗き込む。鼻が触れるような距離にあるカーリヤの笑顔と地面に挟まれ、シスネが引きつった笑みを浮かべた。
「な、んでしょう」
「ほんっとに、ひどい無茶をしてくれたものよね」
「寿命が縮んだわ」と続けるカーリヤは満面の笑みを崩さず、だがその額にはくっきりと青筋が立っている。
「あんな馬鹿をやらかすのはこの馬鹿一人で充分なのよ、私の心労をこれ以上増やさないでもらえるかしら?」
「で、でも、ほら、上手くいったんだから――」
「言い訳までそこの馬鹿と同じこと言うんじゃないわよ!」
「は、はい!」
笑顔のまま怒鳴るというカーリヤの器用な技にシスネが上擦った声をあげる。ところでレーベンはいったい何回馬鹿と呼ばれるのだろうか。
「……っ、も、ほんとうに馬鹿……」
声をつまらせたカーリヤが立ち上がり、木陰に歩いていく。そちらには何もないが、今の彼女には必要だったのだろう。普段から明け透けな態度の目立つカーリヤだが、あそこまで感情的な姿を見せるのは久しぶりだった。
かすかに聞こえてくる嗚咽のような声を隠すように、ライアーが妙に大きな声で話し始める。
「まあ、でもお手柄だったな! 正直もうダメかと思ったぜ!」
「……私も彼も、殆ど役には立てませんでしたが」
謙遜のついでにレーベンも貶すのはやめてくれないだろうか。これでも死ぬほど頑張ったつもりなのだが。
「そう言うなって、こういう時は自慢げな顔してりゃあいいんだよ」
「はぁ……」
「ふふん」
「やっぱりお前の
自慢げに笑ってみせたつもりのレーベンに対し傷つくようなことを言った後、ライアーはカーリヤの元へと歩いていった。次はあちらの聖女の介抱をしなければならないのだろう。相変わらずの世話焼きである。
その場には横たわったままのシスネと、まだ碌に立てないレーベンだけが取り残される。会話も無いまま、ただレーベンはシスネの顔をぼんやりと眺めていた。
そうしていると、ふいと視線を逸らされる。彼女の黒い瞳は不機嫌そうな光を放ちながら。
「……そうやって見ないでほしいと言いましたよね」
忘れてはいない。カクトの共同墓地で、あまり凝視するなとそんな旨のことを言われたのだ。あれから丸一日と経ってはいないというのに、もう随分と前のことのように思える。確かに、
「これでも結構、見ないように苦労しているんだが」
「何か言いましたか?」
「誠に申し訳ない」
口答えすれば低い声が返ってくる。再生剤が効いてきたのか顔色も多少は良くなり、声もしっかりとしてきた。その分、レーベンに対する険も元通りである。
「ところで」と、視界の端のシスネがレーベンからまた顔を背けた。
「服を着てくれませんかっ」
「着替えの持ち合わせが無くてな」
魔女にこっぴどくやられたレーベンの防具はとっくに砕け散り、下に着こんでいた騎士装束も襤褸同然の有様だった。それも応急処置の際に取り払われ、今は上半身が裸の状態である。ズボンが無事だったのは奇跡だ。
「そういえば、貴公と初めてあった時も森の中だったな。あの時も半裸だった」
「忘れました」
「そういえば、先日の謝罪がまだだったな。服が破れていることを伝えなくて誠に申し訳なかった」
「忘れてください」
話していると徐々にシスネの顔が赤くなってきており、もしやまた怒らせたのかと内心で冷や汗を流す。彼女と話すといつもこうであった。
「そういえば、」
もう黙っていようかと考え始めた矢先、珍しくシスネから話を振ってきた。目線は合わさないまま、沈黙で先を促す。
「腕の調子はどうですか」
まるで医療者そのものの口調だった。言われてからまた傷のことを思い出し、右手を動かしてみる。もう殆ど痛みも無かった。先ほど打った再生剤も効いたのだろうが、その前の処置が良かったのだろう。薬だけではこうはいかない。
「問題ない。やはり良い腕をしているな」
「それはどう致しまして」
レーベンは素直に賞賛したつもりだったが、シスネはまた皮肉と受け取ったらしい。吐き捨てるような返事にレーベンとしても不満を禁じ得ない。この聖女、照れ隠しなのかどうか知らないが、少し捻くれすぎではなかろうか?
「貴公こそ腕はどうなんだ。切らなくて良かったのか」
だから、続く言葉にも若干の険が混じってしまったのだろう。当然、それに黙っているシスネでもない。
「問題ありませんよ、弾は抜けましたから。仕返しできなくて残念でしたね?」
この
そうこうしている内に、ライアー達が戻ってくる。それと入れ替わるように立ち上がりながら、レーベンは細やかな報復を行うことにした。
「カーリヤ、そろそろ何か着せてやってくれ。彼女が風邪をひいてしまう」
「え……っ」
レーベンの言葉にようやく、シスネは己の装束がほぼ破かれていることに気付いたようだった。元々、戦いの中で既にボロボロになっていたのだ。それを治療の際に取り去っただけであって、疚しいことなど何ひとつとして無い。
「な、あ、」
「あぁ、それとな、彼女は脇腹を触られるのが苦手らしいぞ」
「へぇ……?」
「あ、ばか!」
とっておきの切り札を暴露してやると、カーリヤは赤い唇を吊り上げた。彼女もまだシスネの無茶を許しきれてはいないのだろう。レーベンに制裁を加える際の笑みそのものであった。シスネも少しはあの恐怖を味わえば良いのだ。
「あ、あなたと言う人は! ……ちょっと、何ですかその手は!」
「別にぃ? 騎士レーベンの情報の精度を確認するだけでしてよ」
「違いますから! 平気ですから!」
「じゃあ触っても良いわよね?」
「平気ですけど駄目ですっ!」
ぎゃあぎゃあと姦しい声を背後に聞きながら、レーベンは肩を揺らす。薬も無しに声を出して笑うのは久しぶりな気がした。
「笑ってやがる……」と、すれ違ったライアーが初めて見たかのような言葉を漏らし、向こうではユアンとミラが何事かとこちらを窺っている。
すっかり明るくなった森の中に、シスネの甲高い悲鳴が木霊した。
◆
黄昏の街道を、ゴトゴトと馬車は進んでいく。
森の入り口で待っていた馬車に乗り込んでからおよそ半日、ほぼ休憩もない強行軍の甲斐あって、日が沈む前にはポエニスに着きそうであった。
「貴公、そろそろ機嫌を直してくれないか」
「……」
馬車の中は
ユアンとミラの二人は名目上、ポエニスまで連行していることになっている。腰縄を打っただけの軽い拘束だが、逃げ出す気力もないのだろう。今もまた、二人とも死んだように眠っている。
揃って大柄なライアー達は正面の席を二人で占拠しているが、遠慮も無く体を伸ばして眠るカーリヤに圧し掛かられ、悪夢でも見ているのかライアーは
そしてユアンの隣に座ったレーベンは、反対側のシスネから延々と脇腹を小突かれていた。半日の間ずっとである。レーベンは特に弱いわけでもないが、普通に痛い。しかも眠れない。
「痛いんだが」
「……だから何ですか」
「誠に申し訳なかった」
もう何度目かのやり取りと謝罪だが、未だシスネは憎々しげにレーベンを睨んでくる。
装束を失った彼女にカーリヤは自身の着替えを気前よく貸していたが、カーリヤの着替えとはつまり例の改造装束であった。胸元と脚を無意味に露出させるそれをシスネが大人しく着るわけもなく、だからといって半裸でも過ごせず、結局はカーリヤの装束の上から元の装束を重ね着するという、よく分からない恰好になっていた。一見すれば襤褸を纏っているようで、汚れた白髪といい、怨念じみた眼差しといい、まるで幽霊のようである。
ちなみに、レーベンはライアーの着替えを借りた。彼の服では大きすぎるが贅沢は言うまい。
「幽霊、か」
幌ごしにも分かる橙色の光を見ながら思い出す。元はと言えば、昨日の夕方にミルスと似た姿をした何かと遭遇したことが始まりだったのだ。結局、アレは――。
「アレは、何だったのでしょうか」
同じことを考えていたらしいシスネがぽつりと漏らす。レーベンを小突く手は止めてくれなかったが。
アレの姿はミルスとほぼ同じだったように思うが、よくよく考えれば違った気もする。アレの顔は泥に覆われており、顔の作りまでは見ていないのだ。髪の長い娘などいくらでもいる。ミルスに似た別の何かであったと考えた方が自然だろう。
仮にアレがミルスだったとして、どうやって洞窟から抜け出したのか。そもそも何故そのようなことをしたのか。まるで幻のように虚ろな存在であったことも説明はつかない。
あるいは……。
「幽霊、だったんじゃないか」
シスネがやっと手を止め、レーベンはぽつぽつと語った。
アレは魔女となったミルスの幽霊であり、肉体から抜け出して
「――という英雄譚なら、売れるかもしれないな」
「真面目に聞いた私が馬鹿でした」
シスネがまた脇腹を小突き、それを最後に壁に凭れた。物憂げな溜息を一つついてから、
「そうだと、いいのです……けど」
言い切る前に目を閉じていた。よほど疲れていたのだろう。……ならさっさと寝てほしかった。
「そうだと、いいな」
レーベンもまた目を閉じる。
アレが何だったのかなど、もう分かりようもない。ただそういった正体不明の何かがいたと、報告書の片隅にでも書かれるだけだ。わざわざ聖女と騎士を派遣することもないだろう。レーベンとシスネも、その内に忘れてしまうに違いない。
永遠の謎をひとつだけ残して、長い一夜の魔女狩りは遂に終わったのだった。
※
森の奥の山小屋。ある父娘が暮らしていたそこは静寂に包まれていた。
昨夜の、嵐の如き喧噪の残滓もなく、まるで何事も無かったかのように。
小屋の傍らには、簡素な墓が立っている。
一つは古び、だが手入れは行き届いた墓。
一つは新しく、つい先刻にでも立てられたような墓。
そのどちらにも、細やかな花が供えられている。白く小さな花を、墓前に植え直して。
その花は夜風に吹かれて可憐に揺れ、だがその様を見る者は誰もいない。
誰一人として、いない。