「殉教者」キノノス。その名は畏敬と慈悲を以て付けられた。
名の無い女神の存在と加護を誰よりも信じた、敬虔なる信徒。
そして誰よりも早く聖性の存在を証明し、それを操る術を見出した「はじまりの聖女」
その誉れ高い名を、彼女自身が誰よりも誇っていたという。自他に厳しく、欲という欲を、我という我を制しながら生きていた彼女が、自身に許した唯一の褒美だったのだと。
だが彼女は、最悪の形でその命を散らすこととなる。
いったい誰が思っただろう、誰よりも女神を信じた彼女が、女神の敵になるなどと。
いったい誰が思っただろう、多くの騎士を救い罰してきた彼女が、騎士に討たれるなどと。
いったい誰が思っただろう、彼女が、はじまりの聖女が――魔女に、なるなどと。
それは比類なき強力な魔女を生み出す、語ることすら禁忌とされた災いそのものであった。
事実、魔女キノノスの力は凄まじく、幾人もの聖女と騎士の屍を積み上げた末、大騎士コルネイユとの激闘の末に討たれたのだという。
いったい何が彼女を魔女へと堕としたのだろうか。彼女を討ったコルネイユが語るように、絶望が魔女を生み出すというのならば、彼女はいったい何に絶望したのだろうか。多くの人々がその謎を想い、だが答えは永遠に分からないまま。
誰かは言った。
「彼女は最期まで教えを捨てなかった。故に教えに殉じ、魔女となった」
別の誰かは言った。
「彼女は最期に戒律を破ってしまった。故に己に絶望し、魔女となった」
全ては謎のまま、ただその忌み名だけが遺された。
「殉教者」キノノス。それは最初の聖女にして、最初の破戒魔女の名だ。
◆
『ねえ、見てよ、見て』
雨に濡れた双眸から黒い涙が流れ続ける。時と共に濃度を増していくそれは泥のような粘質を帯び、やがては全身を覆ってしまうのだ。
ズルズルと、まだ形を成していない泥の躰が地面を這ってくる。それらに混ぜこまれるようにして、しなやかな両脚と、装束を纏ったままの矮躯と、そして幼さを残した相貌が顔を覗かせていた。
「マリナ……」
シスネが震える声でその名を呼ぶ。
聖女マリナ。ポエニスでもっとも若い聖女であり、同時にもっとも新参者でもあった。聖都から新たにやって来たシスネにとっては先輩であり後輩でもある。それ故に通ずるところもあったのだろうか。だが彼女はもう魔女となってしまった。それも、もっとも恐ろしい魔女――破戒魔女に。
シスネは迷わなかった。背から長銃を抜き、レバーを引いて装填。その銃口を魔女に向ける。アレはもうマリナではない。ミラのような「なりかけ」でもなく、完全な魔女と化している。聖女マリナは、彼女の友人はもう死んだのだ。ならば、シスネにしてやれることは一つしかない。
シスネは正しかっただろう。アレが、ただの魔女であったならば。
「よせ!」
レーベンの警告は銃声にかき消された。近くも遠くもない最適な距離から放たれた散弾は魔女の躰に対しても一定の効果を発揮する。そのはずだった。
「な……っ」
金属音。
『見て』
無傷の魔女。
今目にした光景を否定するかのようにシスネが長銃を連射する。銃声が立て続けに響き、ほぼ同時に金属音が重なる。だが魔女の躰には傷ひとつ付かないまま、ただその周囲の木々や草花に無残な弾痕が刻まれていく。
カチリと、弾の切れた長銃から虚しい音が鳴る。諦めず腰のベルトから弾薬を掴み取る手を、レーベンが掴んだ。
「なにを、」
「無駄だ、逃げるぞ」
「……は!?」
魔女の動きは、その歩みだけならばごく鈍い。あの不定形の躰からも見て取れるように、まだ魔女化からそれほど時間が経ってはいない。だがこれからどうなるのかは分からない。ならば、早く逃げなければならないのだ。
「何を言っているのですか! 今ここで狩らないと……!」
警告を無視し、シスネが腰の短銃を抜く。両手で構え、二発ずつ連射する基本的な射撃。その攻撃はやはり魔女に届かず、だが弾丸の密度が減っただけにその種がよく見て取れた。
シスネの指が引き金を弾き、同時に魔女の腕――断ち切られたマリナの脚に握られた聖銀の剣が振るわれる。金属音が響き、弾丸は明後日の方向へと飛んで行った。種は単純、魔女は剣で銃弾を弾いたのだ。ただ、散弾すらも弾き落とすその精度と速度が常軌を逸しているというだけで。
「……っ! この!」
なおも諦めないシスネが切り札を抜く。脇のホルスターから引き抜かれた大短銃を構え、腰を落としながら引き金に指をかける。
魔女の全身が青白く燃え上がった。
『わたしを、見て』
雷鳴のような轟音と、耳を
反動でシスネが水を撥ねながら倒れ込み、すぐに体を起こす。雨水に濡れた白髪を振り払いながら、魔女に視線を向けた。
「やった……!」
魔女の躰に傷は無く、だがその剣は刀身の半ばで砕けていた。流石はアルバットの作った銃、機械剣と同じく馬鹿げた威力である。あの魔女であっても、あの剣ならばこれまでのように銃弾を防ぎ切ることは難しいだろう。
シスネの表情に希望が浮かんだ。
だが彼女は忘れている。あれは聖銀の剣であり、そしてアレは破戒魔女なのだ。
『ねえ、見てったら』
青白い炎――聖性の光が魔女の躰から溢れ出し、握った剣に流し込まれる。呼応した剣が輝き、メキメキと音を立てながらその刀身が伸びていった。あれこそ聖銀――聖性形状記憶銀の力。魔女に対する為に生み出された不朽不滅の刃。なんという皮肉だろうか、それが今や聖女であるシスネに向けられているのだから。
「そん、な」
放心したような声を漏らすシスネ。重みを支えきれないかのように、大短銃を手にした右手が水溜まりに落ちた。
魔女が元の形に戻った剣を掲げる。その脚からは、まだ鮮やかな赤い血が流れ出ていた。
「伏せろ!」
背負っていた盾を魔女に投げつけ、同時にシスネの体を押し倒す。そしてレーベンの目が、刃の輝きに焼かれた。
消えない火花。止まない刃音。細切れになっていく聖銀の盾。目で見て捉えるなど限りなく不可能に近い。不可視の速度で縦横無尽に振るわれるそれは、まさしく刃の竜巻だった。あんなものに巻き込まれれば、人など一瞬で赤い霞になってしまう。立ち向かうことなど出来ないのだ。
降り注ぐ雨と聖銀の破片の中を転がり、シスネを引きずるように立ち上がる。そうして魔女に背を向け、レーベン達は走り去った。
◆
止まない雨の中をただ走る。ノール村へと続く道を逆方向に、村から離れていく。
「待って、待ってください!」
引いていた手を振り払われ、シスネが立ち止まった。荒い息も抑えないまま、黒い瞳がレーベンを睨む。
「本当に逃げる気ですか! このままじゃ……」
遠くに目をやれば、木々の向こうに青白い光が見え隠れする。魔女はレーベン達を追ってきているようだが、今のところはこちらの逃げ足の方が速い。逃げるだけならば簡単だ。だがレーベン達を見失えば、あの魔女は別の獲物に向かうだろう。つまりは、ノール村に。
「……貴公は、破戒魔女と戦ったことが無いだろう」
シスネは答えず、それは肯定の沈黙だった。レーベンにも答えは分かっていた。もし戦ったことがあるのなら、アレに戦いなど挑むはずがないのだから。
「俺はある。なあ、よく聞け」
シスネの細い両肩を掴み、反射的に振り払おうと動いた体を強く押さえる。灰色の目と黒い瞳が交差した。
「破戒魔女とは、戦うべきではないんだ」
「ば……」
思っていた通り、青白かった顔がカッと赤く染まる。見慣れた怒りの表情。
「馬鹿なことを言わないでっ! そんな――」
「聞けと言っているだろうがっ!」
シスネに負けじと大声で返し、一瞬怯んだ隙を逃さずに語って聞かせる。
「アレは破戒魔女だ。つまり元は聖女だ。だから聖性を使える」
「だがな、知っているだろう?
「それを無理に使えばどうなると思う?」
聖性とは誰の中にもあり、だがそれを体外に放出できるのは聖女の素質を持つ女だけ。その聖性を受け取ることは誰にでもできるが、聖女だけは別だ。
言い換えれば、聖性を「与える素質」か「与えられる素質」か、そのどちらかしか人は持てないのだ。故に聖女は常に生身で魔女と対峙し、それを守る騎士が必要となる。
だが破戒魔女は自身に聖性を使っている。あの桁外れの強さは聖性による身体強化によるものだが、それには大きな代償が必要だ。
「俺には分からんが、相当な苦痛だと聞いた。それこそ体中から血が噴き出るような」
「そしてそれはあの魔女だって同じだ。例外じゃないんだ」
「アレが聖性を使えば使うほど、アレは自分の首を絞めていくんだ」
シスネの銃はあの魔女に一切の傷を付けてはいない。だというのに、剣を握る脚からは血を流していた。あれこそが「自壊現象」、破戒魔女の唯一にして最大の弱点だ。
「だから、戦うべきじゃない。戦う必要なんて無いんだ」
魔女化した女は正気を失い、正常な判断などできなくなる。故にあの魔女は自身の苦痛も理解せずに聖性を使い、自分から死に近付いていく。放っておけば数日ともたずに自滅するだろう。
「……あの人たちは、どうなるのですか」
黙ってレーベンの話を聞いていたシスネが顔を上げる。雨で貼りついた前髪から覗く瞳は睨むような、縋るような視線を向けてくる。
「あなたの話は、分かりました」
「たしかに、あの魔女は強すぎる。私では勝てない」
「放っておけば勝手に死ぬ。だから戦う必要は無い」
「でも」そう言って、レーベンの胸倉を掴んでくる。あるいは、縋りついてきた。
「でも、ノール村はどうなるのですか!?」
「あの魔女が死ぬのはいつ!? 明日ですか! 明後日ですかっ!」
「それまでにみんな殺されてしまう!」
シスネの叫びにレーベンは返す言葉を持たない。
破戒魔女はたしかに自滅する。だがそれがいつになるのかは分からず、そして今すぐではないことは確かだろう。彼女の言う通り、あの魔女がノール村に向かい村民を鏖殺するには充分な時間がある。
村に先回りして村民を避難させる方法もあるだろうか。だが村から続く唯一の道にはあの魔女がいるのだ。小さな村とはいえ百人以上を、それも女子供や年寄りまで含めた全員を魔女から守りながら避難させるなど、言葉にするほど容易ではない。その最中にレーベンもシスネも死ぬかもしれない。
「あなたは、みんなを見捨てる気ですか!」
「……」
温かい人たちだった。レーベンは家族というものを知らないが、もし家族を失くしていなかったら、もし再び家族を得たならば、あのような生活を送ることになっていたのかもしれないと、そう思えた。あの平穏から早く抜け出したいとも思っていたのは、それを失くすことが怖かったからかもしれない。
レーベンとて、見捨てたくはないのだ。
もしも、あの魔女を狩る為に屍の山が必要だというのならば、己の身を差し出すことに迷いは無い。己は騎士で、いつか魔女狩りの中で死ぬ運命なのだから。
だがここに騎士はレーベンしかいない。レーベンの命一個では足りない。それだけでは、あの魔女は狩れないのだ。
戦えば確実に負ける。レーベン達は死に、村人たちもみんな死ぬ。その後に魔女も死ぬ。
今なら確実に逃げられる。レーベン達は生き残り、村人たちと魔女は、やはり死ぬ。
天秤の傾きは明白だ。あの魔女が現れた時点で、マリナが魔女となった時点で、ノール村の運命は決まっていた。戦う理由など何ひとつ無い。
それが分からないシスネではないはずだ。レーベンとて、分かっているはずなのだ。
そう、なのに。
「…………勝算は、あるのか」
気が付けば口走っていた。薬も使っていないはずなのに感情の揺れを自覚する。やめろと、お前に何が出来ると、まだ冷静な己が警告してくる。だが口は己の物でないかのように言葉を吐いた。
「俺にはなにも見えない、俺にはなにも」
「ひとつだけ」
いつの間にか座り込んでいたレーベンは顔を上げる。見上げたシスネの顔には自信に溢れた、だが明らかに引きつった作り笑いが浮かんでいた。
「ひとつだけ……でもすこし、いえだいぶ危険な、その……」
「おい」
この期に及んで腰の引けた答えしか返してこない聖女に思わず抗議してしまった。それでもシスネは黒い瞳を泳がせながらごにょごにょと何かを呟いている。
そんな不確かな勝算しか無いまま、あの恐ろしい魔女と戦う気でいたのだ、この聖女は。
だが勝算が無い訳ではないというのであれば――。
溜息をひとつつき、苦笑したつもりでレーベンは立ち上がった。
「聞かせてくれたまえよ」