「私は、聖女じゃありません」
「だから、あなたに聖性は使いません」
「使わない……使えないのです」
何も言葉が出ず、体も動かせない。身も心も固まってしまったレーベンに、シスネはただ言葉を続ける。外套も何も身に着けていない彼女は頭から雨に濡れ、その顔の雨を、あるいは別の何かを手で拭うと細い腰を深々と折り曲げた。
「ごめんなさい」
「ずっと嘘をついていました。あなたを騙していました」
「あなたを私の私情に巻き込んだのも……その傷も、ぜんぶ私のせいです」
「どんなに謝っても意味なんてありませんが」
「本当に……ごめんなさい」
並べられる謝罪の言葉は、片方だけになったレーベンの耳にもよく聞こえていた。聞こえていたが、何も頭には入ってこない。もう、何の反応も返せなかった。
出来の悪い石像のようになったレーベンに対し、シスネは装束の襟元を広げて聖女証を取り出す。細い鎖を几帳面に外し、それをレーベンの左手に握らせた。
「私は、あの魔女をできるだけ遠くにつれていきます」
「あなたは、村の人たちを避難させてください」
「最後まで、面倒を押し付けてしまいますね……」
彼女の胸元に入っていた聖女証はまだ温かく、だがすぐ冷たい雨に冷やされてしまった。聖女証には騎士証と同じく、表には教会の紋章が、裏には持ち主の名前だけが刻まれている。誰かも分からなくなった死体の身元を判別する為の、死体の回収が叶わない際に持ち帰る為の認識証。
それを渡すということは、彼女にもう生きて帰るつもりが無いということを示している。
「……では、後はお願いします」
そう言って、彼女はレーベンに背を向けた。
聖性を使えないと明かし、聖女証を手放し、聖女の装束すら自ら襤褸布にしてしまった彼女はもう、本当に聖女でなくなってしまったように見えた。いま目の前にいるのは、ただの、シスネレインという名の一人の女なのだ。
ならば、彼女はもう共に戦う仲間ではない。
「――――え」
何もかもを置いて死に向かおうとしていたであろう彼女は隙だらけで、無防備に向けられた背に近付くことは笑えるほど簡単だった。その首筋に、手にした物を突き刺すことも。
「まっ……て、レ――」
糸が切れたようにシスネが倒れこみ、それを抱きとめたレーベンも支えきれず木に凭れかかる。ずるずると、彼女のか細い体を抱いたまま座り込んだ。地面に落ちた左手から、中和剤の容器が転がって水溜まりに浮かぶ。
中和剤にこんな使い方があるということも、彼女に教えてもらったのだ。片手で数える程しかない彼女との魔女狩りは、細部に到るまでレーベンの記憶に刻まれている。一人で魔女を狩っていた時などよりも、よっぽど。
一度だけ、彼女の体を抱きしめる。
すぐに手を放し、名残を覚える前に木陰に寝かせた。
立ち上がり、散乱した荷物の中から必要な物だけを拾い上げて機械剣に手をかける。すべてを振り切るように、黒鉄の刀身を引き抜いた。
シスネはもう聖女ではなく、共に戦う仲間ではない。ただの教国の民であり、ならばレーベンには彼女を魔女から守る義務があるのだ。だから、その為ならば……。
すべて言い訳だ。
ただ、レーベンが死なせたくないだけだ。ただ、シスネを死なせたくない、死ぬのを見たくない。
ただ、それだけだった。
止まない雨の中を、振り返らずにレーベンは歩く。
木陰で眠る女の手には、聖女証と騎士証が、ひとつずつ握られていた。
◆
『見ろ、私を』
魔女はすぐに見つかった。相手もレーベン達を探していたのだ。すこし目立つ場所を歩いてやるだけで、向こうから近付いてきた。一本足で飛び跳ねながら、街道の上を一直線に迫ってくる。
レーベンも機械剣を構える。柄に縛り付けた右手を左手で支え、切っ先を魔女に向けた突きの構え。そのまま、魔女に向けて一直線に駆け出した。
それは完全な自殺行為に等しい。完全な破戒魔女と化した相手の腕は長く伸び、目で捉えることなど不可能な速さで剣を振るう。その剣は絶えず聖性を漲らせ、常に完璧な斬れ味を保ち続ける。変異前の魔女の剣が刃の竜巻であったならば、今の魔女の剣は刃の雷光。間合いに入った瞬間に首を刎ねられる、絶対必殺の一撃だ。
その約束された死に向かって、レーベンは走る。もう間合いを計ることもしない。ただただ一直線に、全力で走り続ける。魔女の胸に剣を突き立てる、ただそれだけを考えて。
『見ろ!』
放たれる魔女の一撃。
音すら置き去りにした必殺の刃が、レーベンの首を両断した。
※
それは、初めてこの剣を手にした日のことだ。
『良い仕事だ、アルバット』
『そうだろう、そうだろう、分かってくれるのは君だけだよ、友よぅ』
「馬鹿じゃないの……」と再び呟くカーリヤの目はレーベンにも向けられていたが、冷たい視線などもう慣れたものである。だが改めて機械剣の出来を検めていると、あることに気付いた。
『アルバット、この穴なんだが』
柄の穴に炸裂弾か焼夷弾を装填し、引き金を弾くことで強力無比な一撃を放つ、それは既に説明されていた。
『一つでも充分だが、二つ装填できると言ったな』
『そうだとも。ここ一番で決めたいという時におススメさ』
一つでも充分な威力があるが、二つ装填することで威力は倍化する。更に炸裂弾と焼夷弾を組み合わせることで攻撃の性質を変えることも可能だと。それも既に聞いていた。ならば。
『じゃあ、この
チュイイィィと、アルバットの眼が縮む。そのまま、腹が立つほど達者な口笛を吹きながら散乱した図面を片付け始めた。
『おい、説明はどうした。こっちを向きたまえよ貴公』
『うるさいなあ、腕の二本や三本が吹き飛ぶぐらいでガタガタ言いなさんなよ』
『くたばってしまえ』
◆
『み、ぼおぉっ!』
魔女の躰に機械剣の刃が深々と突き刺さる。黒い泥で支えられた、元は聖女マリナの心臓があったであろう場所に黒鉄の刀身を深く、深く突き刺す。柄まで通さんと。
その柄には焼夷弾が二個と、三つ目の穴に炸裂弾が装填されていた。
『わ、だじ……』
もし魔女が正気を失っていなければ、自我を持ったままであれば疑問に思っただろうか。確かに首を刎ねたはずの騎士が、何故止まらなかったのか。何故いま、灰色の目でこちらを見ているのか。
カチリ、と。機械剣の引き金に指をかける。それが出来るだけの指が残っていたのは、名の無い女神の慈悲だっただろうか。だがレーベンが今まだ生きていることは、決して女神の加護などではない。
じゅうじゅうと肉の焼ける臭いが立ち込める。その異臭はレーベンの首から発せられており、首を一周する赤い直線は、魔女の刃が確かに通り抜けた跡に他ならない。
答え合わせをするように、レーベンが立っていた地面には再生剤の容器が二本転がっていた。
魔女の刃は恐るべき鋭さだった。剣の達人は対手に斬られたことすら気付かせないというが、魔女の刃はそれの遥か上を行く。人体の限界を無視し、聖性で強化され、聖銀の完璧な刃を以て放たれた一撃は、痛みすら感じさせないままに相手を斬殺してしまう。
魔女の刃は鋭すぎた。それこそ、予め打っていた再生剤が、
「――」
魔女の眼前で、レーベンの口が
もし魔女に唇を読むことが出来たならば、その言葉が
く た ば れ
レーベンは、最後の引き金を弾いた。
※
ノール村の住民たちにとって、その日は何でもない一日であった。
ただ、昼頃から本降りとなった雨に男たちは仕事を中断し、子供たちは昨晩から帰ってこない聖女を待ち遠しく思い、怖い目をしている騎士のことも少しだけ心配していた。
雨は止まないまま日は沈み始め、何でもない一日はいつも通りに終わろうとしていた。そう、誰もが思っていた時だった。
雷鳴とは異なる音が遠くから響き、幾分か遅れてかすかに地面が揺れた。男たちは家を飛び出し、雨に混じった煙の匂いを敏感に感じ取る。
「山火事やぁ!」
「雷が落ちたぞ!」
「斧や! 斧を持ってこい!」
斧を、水桶を持った男たちが街道を走り、すぐにその出所を見つける。だがそこにあったのは、落雷の跡などではなかった。
そこにあったのは、燃え上がる異形の死骸と、砕け散った剣のような何かと、
「しっかりせえ! 聞こえるか!」
「無理や、無理やろこれ……」
「おい! こっちに聖女さんが!」
傷だらけの女と、焼死体にしか見えないような、右腕のない男だけだった。