――どうして、あんなこと言っちゃったんだろう
寝台ぐらいしか置かれていない狭い独房。その寝台の上でシスネはさっそく後悔していた。上位職員たちの前で、よりにもよってヴュルガ騎士長の目の前で、本音をぶちまけてしまったのだ。
「魔女狩りで重傷を負った騎士に対して、聖性の使用を私情で拒んだ」
どう考えても弁明の余地なんてない、完全な規律違反だ。それなり以上の懲罰は覚悟しなければならない。
言い訳ならある。あの時のシスネは半ば正気ではなかった。あの悪夢のような魔女狩りからポエニスに戻ってすぐに捕縛され、この狭くて暗い独房の中で自責と後悔ばかりを繰り返すこと三日。シスネの精神が最高に最悪の状態へと仕上がった末での尋問だった。要するに自棄になっていたのだ。
――でも、これで隠せた
だがあの場を切り抜けるにはもう聖性を使えないことを白状するか、ああするしか無かった。シスネも無意識にそれを考えたのか、嘘を見破られないよう「別の本音」を口にすることを選んだのだ。
「……嫌い」
シスネはあの男が、レーベンが嫌いだ。親愛の裏返しなどではなく、きっと本当の意味で。シスネはそう思っている。
あの目が嫌いだ。あの何もかもを諦めたようで諦め切れていないような灰色の目が。見るなと何度も言っているのにシスネを追ってくるあの視線が。あの目を見ていると、あの目に見られていると、シスネはどうしようもなく苛ついてくる。
でも、その目はもう片方しかない。彼の右目は、シスネのせいで永遠に失われてしまった。
「……くっ、ふふ」
あれだけ見るなと言ったのに。あれだけ嫌いだと言ってやったのに、シスネに近付いたりするから。他の騎士たちみたいにさっさと離れていけば良いものを、この“騎士殺し”なんかに執着するから、あんな目に遭うのだ。
いい気味だ。肚の底から這いあがってきた情念にシスネは口許を歪ませた。そのどす黒い情念はドロリとして、温かくて、まるで魔女の泥のような――。
我に返ったシスネは唇を噛みしめた。痛みと血の味で自分を戒めるように。
レーベンが嫌いだ。悪くは思っている。彼をあんな目に遭わせたのはシスネの責任で、自分はそれを償わなければならない。そう思っているはずなのに、その裏で、その奥で、まるで別の情念を抱いているシスネがいるのだ。
レーベンが嫌いだ。彼が近くにいると、シスネはいつもこの泥のような情念を自覚する。近くにいなくても考えるだけで自覚してしまう。近くにいてもいなくても、あの男はシスネを苛立たせる。自分をこんなに苛むあの男が、シスネは誰よりも嫌いだ。
「穢い……っ」
そして、そんな穢い情念を抱くこの女が、彼と同じぐらい嫌いだった。
◆
半分になった視界の中で、カーリヤがニコニコと笑っている。
「利き腕が無いんだから、やっぱり力仕事は危ないわよね」
「そうなると頭を使う仕事ってことになるけど、ほらレイって馬鹿じゃない?」
「だからほんと苦労したわよ」
「感謝しなさいよね!」とカーリヤが何枚かの紙を広げてくる。その隣でライアーは何ともいえない表情でこちらを見ていた。
「まずはこれね。私がよく行く酒場の下働き」
「
「あんたでも銀貨の枚数ぐらいは数えられるし、腐っても元騎士なんだから、片腕でもそこらの酔っ払いに舐められたりはしないでしょう?」
元騎士という言葉でようやくレーベンは彼女の目的を察したが、口を挟む前にカーリヤは次の紙を手に取った。その顔は相変わらずニコニコと笑っている。
「次はこれね。聖都の大書庫の司書」
「蔵書の管理が主な仕事なんだけど、本を棚に出し入れするぐらいなら片腕でも出来るんじゃない?」
「それにほら、司書って女の仕事だから。あんたも誰か良い
ニコニコと笑うカーリヤが威圧するように顔を近付けてくる。漂ってくる化粧と香水の匂いは普段以上に強く、近くで見れば化粧でも隠しきれない隈が目許に浮かんでいた。レーベンがこの姿を初めて見せたのはつい昨日のことであり、これらの仕事を彼女は徹夜で探してきてくれたのかもしれない。
レーベンが口を開く前に、カーリヤは三枚目を手に取った。
「あと、代筆屋って仕事もあるらしいのよ。田舎になると読み書きができない人もいるから、そういう人たち相手の商売なんだけど」
「貴公」
「あんた字は書けるでしょう? 左手で書くのも練習すれば何とかなりそうだし」
「貴公、なあカーリヤ」
「あんまり儲けは無いみたいだけど、この際もう贅沢は――」
「カーリヤ!」
レーベンの声も無視して話を進めるカーリヤの手から紙を抜き取る。思いのほか大きな声を出してしまい、カーリヤはびくりと肩を震わせる。どこか怯えたような顔に居たたまれなさを感じつつ、レーベンは努めて静かな声で言った。
「カーリヤ、俺は騎士をやめるつもりは無いぞ」
それは強がりでもなんでもない、レーベンの本心であり意思だ。
右目は潰れた、右腕も失った。だが己はまだ死んでいない。まだ左目がある、左腕で武器も握られる、耳だって聞こえている、両足に至っては怪我もほぼ完治している。まだ生きている、まだ戦える。ならば魔女を狩らなければならないのだ、
レーベンの言葉にライアーは目を閉じ、カーリヤは一度俯いた後、また貼りつけたような笑みで顔を上げる。
「無理に決まってるでしょ、強がってないでどれか選びなさいよ」
「貴公の気持ちは嬉しいのだがな、こればかりは譲れない」
「だから無理だって、今度こそ死んじゃうわよ?」
「騎士だからな。それも仕方な――」
パンッ! と。衝撃と共に、狭い視界の中で白い紙が舞い散った。
暗闇に塗りつぶされた右の視界は、振りぬかれたカーリヤの手にまるで反応できなかった。成程これは思っていた以上に深刻だ、訓練が必要だなと、ぐらつく頭で呑気なことを考える。カーリヤの平手にはまるで加減された気配が無く、それは彼女の怒りの程を充分に示していた。
「馬鹿なこと言わないでよ! この馬鹿っ!」
怒りか、興奮か、あるいは別の何かか。カーリヤの碧眼からボロボロと流される涙を見ても、レーベンは何も返すことができない。決壊したように溢れる涙を手で拭い、拭って。再び上げられたカーリヤの顔からは化粧が落ちており、泣き顔と相まってひどく幼く見えた。
「弱いくせに! 聖女もいないくせに! 英雄にでもなったつもり!?」
「運が良かっただけよ! ただの偶然よ! 今度は本当に死んじゃうじゃない!」
「あんた最初から向いてないのよ! 騎士なんてっ!」
叫び散らす彼女は本当に少女のようで、だがそれだけに純粋な言葉であった。彼女は本当に心の底からレーベンの身を案じ、だからこそこれだけ怒りを露わにしているのだろう。本当に己などには勿体ない友人なのだ、彼女は。
涙に濡れた青い目を見返していると、カーリヤはまた手を振り上げる。だがそれをライアーが止めた。
「放してよっ」
「もうやめろよ、怪我人なんだぞ」
ごく冷静な彼の言葉にカーリヤは歯噛みし、黙ったままのレーベンを見、また大粒の涙を流した。
「……っもう、勝手にしなさい馬鹿っ!」
昨日と同じように病室を飛び出していくカーリヤを、ライアーも今度は追わなかった。ただ、大きな体を折り曲げながら床に散乱した紙を拾い集める。
「……行ってやりたまえよ」
「後でな」
「すぐ行くと俺が殴られるんだよ」とひどく理不尽な愚痴を苦笑いしながら零す。相変わらず苦労しているようだ。一枚残らず集めた紙を几帳面に束ねながら、ライアーは言葉を続ける。
「でもな、俺も気持ちは同じなんだぜ」
「貴公に殴られれば本当に死ぬが」
「まあ、あいつがやらなきゃ俺が殴ってたかもな?」
そう言って朗らかに笑うが、聖性が無くとも彼の剛腕にかかれば冗談抜きで顎が無くなりかねない。思わぬところで命拾いした。魔女狩り以外で死ぬのは御免である。
内心で冷や汗を流していると、哀しげに笑ったライアーが紙束を差し出してきた。
「ちゃんと見てやってくれよ。決めるのは、それからでも遅くねえだろ」
左手だけで受け取ったそれはただの紙だというのに、ひどく重く感じた。今度カーリヤに会った時は謝らなければなるまい。……まずまた殴られるだろうが。
会話も途切れたところでライアーが立ち去ろうとし、そこでようやくレーベンはあの問いを口にすることができた。
「……彼女は。シスネは、どうしている?」
カーリヤが開けたままだった扉に手をかけていたライアーが、動きを止める。そのままこちらに背を向けたまま沈黙し、振り返った彼はひどく暗い顔をしていた。
「それなんだけど、よ」
※
その日の朝、ポエニスは珍しく晴天であった。ここ最近は雨が降ったり止んだりと憂鬱な天気が続いていたのだ。久しぶりに見られた晴れやかな空に人々は外へと足を運び、それらの客を逃すまいと店々が声を張りあげる。長い雨季が終わり、恵みのような青空に旧聖都は活気づいていた。ある一か所を除いて。
教会の本棟の裏手。中庭とは逆の、ひどく日当たりの悪い場所にその広場はある。最低限の手入れしかされていない殺風景な地面に生えるのは雑草ばかりで、花の一つも咲いてはいない。
その広場に、数十人の聖女と騎士が整列していた。ポエニスの教会に属する者たちの内、魔女の捜索に参加しなかった、あるいは捜索を終えて戻ってきていた不運な者たちが、皆ここに並ばされている。彼らの前には上位職員たちが幽鬼のような無表情で並び、更にその後ろに、その「台」があった。
ただ頑丈なだけの骨組み。装飾も何も無いその台からは二本の鎖と枷が垂れ下がっており、それが人を拘束し、晒すための物であることは明らかであった。
職員も、聖女も、騎士も、誰一人が言葉を発さず、直立不動でその台を見ていた。彼らも彼女らも暗い顔と暗い目で台を眺め続け、それはひどく異様な光景だっただろう。
青空から切り離されたような暗がり。陰鬱とした沈黙に支配されていたその場所に、やがて「主役」が現れる。それと同時に、沈黙は更に重苦しいものとなった。
最初に現れたのは、人の身を超えたような巨躯の男。それでいて足音のひとつも立てないまま歩く様は亡霊か何かを思わせるが、一度でもその姿を近くから見ればそんな優しげな存在ではないと分からされるだろう。髪を剃り落とされた禿頭、巌のような強面、そして一切の感情を感じさせない眼光。ヴュルガ騎士長。ポエニスの教会に属する者すべての恐怖の象徴だ。
次に現れたのは、二人の警備職員に脇を固められた一人の女。清貧を現す灰色の装束に包まれた体はひどく華奢で、その細腕に嵌められた枷が尚のこと重々しく見える。何よりも目を惹く真っ白な髪は腰まで伸ばされ、暗がりの中でも浮かびあがるようだった。俯き加減の顔の中でも更に伏目がちな瞳は黒く、暗がりの中でもなお暗い光を放っている。
「懲罰を始める」
何の前置きもなく、何の感情もない声で騎士長が告げる。主役の女――シスネは台の上へと登らされ、皆が見ている前で徐に装束の上衣を脱ぎ落した。一瞬、並ぶ者たちの間でどよめきが走る。だがそれは衆目に晒された柔肌に対する色めいた声などではない。
その白い肌には、無残な傷痕が刻まれていたのだ。嫋やかな双丘の間を斜めに走る、切り裂かれたような傷。それは長々と伸び、くびれた曲線を描く右脇腹にまで続いていた。
肌と傷を晒しながらも表情を変えないシスネの両手を警備職員が枷に繋いでいく。ガラガラと鎖が巻き上げられ、両腕を吊り上げられる形でシスネの拘束が完了した。
「罪状――」
上位職員が罪人の罪を読み上げる。曰く、彼女は聖女でありながら私情により己の騎士を危険にさらし、更に聖性の使用をも拒んだ。結果として騎士は重傷を負い、それに対する反省の色すら無い。教国の要である聖女にあるまじき醜態、誠に度し難し。よって――。
「鞭打ち、十回」
淡々と述べられた罰の内容に、並んでいた騎士の一人が前に出る。職員から革の鞭を受け取り、まるで己が罰を受けるかのような足取りで台へと登った。
この公開懲罰では、騎士の一人が執行人として選ばれる習わしだ。ただ見ているだけでは生温い、己の手で罰してこそ恐怖はその心に沁みわたる。そうして、罪人のみならず他の者にまで規律を刻み込むのだ。故に、騎士たちは皆が揃いの覆面で顔を隠している。執行人を特定させない為の、ささやかな慈悲として。
不運にも外れ
本来の懲罰には含まれていないその道具を怪訝な目で見る者はいたが、誰も声はあげなかった。騎士長ですら黙認している。あるいは、懲罰の重さに変わりはないと判断したのか。当のシスネだけが、困惑したように騎士を見上げた。
「噛んどけ」
覆面ごしの声は低く、シスネにしか聞こえなかっただろう。だがその声を聞いたシスネは黒い瞳をわずかに見開いてから、その棒を噛み咥える。
そして騎士は何歩か離れた後、シスネの背に向かって鞭を振り下ろした。
シスネは二回目までは声をあげなかった。騎士から与えられた猿轡を噛みしめて耐えていた。三回目からは耐えかねたようにくぐもった悲鳴をあげ、六回目で遂に気絶し、項垂れた顔から猿轡が地に落ちた。だが懲罰はまだ終わっていない。気絶したまま振るわれた七回目で覚醒させられ、遮るものの無くなった悲鳴が広場に響く。
聖女たちも騎士たちも徐々に顔を俯かせ、中には震えだす者もいた。その中で、最前列に立っていた金髪の聖女だけが目を逸らさずにシスネを見ている。その碧眼は様々な感情が混ぜこまれたような光を放ち、強く握りしめた拳からは一筋の血が流れ落ちていた。
懲罰は続く。八回目でまた気絶し、九回目で悲鳴をあげる。そして十回目で気絶したシスネを拘束から解き、職員たちが医療棟へと運んだ後で、騎士長が公開懲罰の終了を告げた。
そうして長い悪夢のような時間はようやく終わり、開放された聖女と騎士たちが亡者のような足取りで散っていく。
場違いな青空だけが、最後までポエニスを照らしていた。